事件から1週間が経とうとしていた。
客室には光臣、倉持、そして俺がテーブルを囲んで座っていた。テーブルには湯気をあげる紅茶が並んでいる。
特に会話もないその部屋に、静かにドアを開けて牧瀬が入ってきた。

「光は?」

訊ねると、牧瀬は椅子に腰を下ろしながら話し始めた。

「まだ、ちょっと…。今朝もほとんど食べてくれなくて。」
「…そうか」
「夜も、あまり眠れてないみたいです。」
「…そう」
「…っていうか…」

牧瀬は自分の分の紅茶をティーポットから注ぎながら俺を睨んだ。

「毎日毎日、私に様子を訊くくらいなら、自分で顔を見に行ったらどうですか?」
「俺もそう思う。」
「全く同意だ。」

「……。」

倉持と光臣がうんうん頷いて追い打ちをかけてくる。

「それは…お前らだって同じだろ。牧瀬が来ると集合しやがって。」
「でも俺らは所詮…なぁ?」
「ああ、恋人でも夫でもないからな。」
「…なんでそこふたり仲良くなってんだよ」

なぜか肩身が狭く感じ、紅茶を啜る。

「…もしかしてまだ喧嘩してるんですか?こんな時に。」
「そうなんだよ、こんな時に。」
「いつまで意地を張っているつもりだ?こんな時に。」
「…団結すんのやめろよ。」

カップをソーサーに戻し、小さなため息を吐く。

「倉持さんから聞きましたけど、なんで別の部屋で寝てるんですか?マンションにいた頃は毎日一緒に寝てたのに。」
「いやそれは…今は隣で男が寝るのなんて嫌だろ、あいつ。」
「それ本気で言ってます?」

顔をゆがめた牧瀬の肩をつつく倉持。何かと思ったら、俺を指さした人差し指で自分の頭をつつき、困ったようなジェスチャーをして肩を竦めた。「こいつ頭おかしいだろ、マジでバカ」という倉持の声が聞こえてきそうだ…。

「…いろいろ難しいだろ、あいつ。特に今は…あんなことがあったし…」
「だからこそテメーが傍にいてやれって言ってんだよ。」
「だから…今のあいつは…」
「ごちゃごちゃうるっせえな!」

倉持が立ち上がり、俺を睨みつけて踵を返した。

「なら俺が行く」
「…おい!」

咄嗟に肩を掴んだ。すぐに離したのに、倉持は簡単に立ち止まって俺を振り返り、椅子に戻りながら俺の背中にキックを飛ばした。

「チッ…さっさと行けや」
「……。」

最初からそのつもりだったようにあっけなく席に戻る倉持。驚きもせず紅茶を啜る牧瀬。ティーカップを手に、俺を見上げる光臣。

「行かないのか?俺が行ってもいいんだぞ。」

光臣にまでそう言われ、俺は何も言えないまま客室を出た。
階段を上がり、気持ちも定まらないまま光の部屋を目指す。どんな顔をして、どんな言葉をかけてやればいいのか――無事でよかった、あいつに汚されずに済んでよかった、と心から思うけど…結局、心に深い傷を負ったことに変わりはない。
もしも…あいつが、男が怖いと言ったら。俺のことも怖いと言ったら…俺は光を手放さなければならない。…できるだろうか。あいつを一人にして…あいつを失うなんて…俺は、生きていけるんだろうか。

「あら、御幸様。」

いつの間にか部屋の前まで来ていた。ちょうど部屋から出てきた使用人が、気遣うような笑みを俺に向ける。

「光様はお休みになられていますが、お目覚めですよ。今朝はスープをお召し上がりになられました。」
「…そうですか。」

使用人が押すワゴンには、ほとんど手が付けられていない料理が並んでいる。

「お会いになられますか?」
「…いや、」
「よろしければお声をおかけくださいませ。光様もお喜びになると思います。」

どうぞ、と扉を手で差して、使用人はワゴンを押して忙しそうに去って行った。残された俺は少し迷って、扉をノックした。

「……。」

中から返事はない。使用人は、光は起きていると言ったけど…。
また少し迷ってから、静かにドアノブをひねった。扉は音もなく開く。壁紙やカーテンなど、青を基調とした落ち着いた部屋は、少し冷たい空気が流れていた。カーテンが閉め切られているせいだろう。少し中を見渡すと、ベッドの上に光が体を起こして座っていた。少し俯いて、じっと手元を見つめている。
意を決して、部屋の中に入る。扉を後ろ手に閉めると、光は少し振りむいた。頬には涙の筋がある。光はなにも言わず、また自分の手元に視線を戻す。
俺は部屋の奥に進んで行って、カーテンを全て開けた。薄暗い室内が、一気に眩しいほど明るくなった。

「よう、食欲ないんだって?」

俺は明るく振る舞って、ベッドに腰掛ける。光は魂が抜けて人形になってしまったようにじっと動かず、何も答えない。

「おーい、光。」
「……。」

腫れが引いてうすく赤黒い痣が残る頬を撫でると、そこに涙が流れてきて指を濡らした。胸が痛くなって、そのままその涙を拭う。

「…光。」
「……。」
「…ごめん。怖い目に…遭わせて。」

同じ部屋で過ごしていれば。あの日、一緒に部屋に戻っていれば…。その後悔は尽きない。

「でも…もう安心しろ。あいつのことは考えなくていい。」
「……。」
「何もなかったんだから。な。」

頬の痣を撫で、涙をぬぐう。それでも涙はあとからあとから流れてきて、光は震える吐息をこぼす。

「…指輪」
「え?」

不意に光が口を開いた。

「指輪……捨てられて…」

そうか細い声で呟く光が見つめる先には、美しく小さな白い手。その左手の薬指には、あるはずの指輪が無くなっていた。言葉をこぼした後、光はまたぼろぼろと涙を零す。

「……。」

俺は自分の左手の薬指から指輪を抜き取った。光は悲しそうな顔をしてそれを見つめていた。そして俺がその小さな左手の薬指に自分の指輪を嵌めると、その指輪を不思議そうに眺めた。

「光。」

彼女の両手を握りしめ、涙に塗れる瞳を見つめる。

「俺はここにいる。」
「……。」
「指輪はまた買えばいいよ。」
「……。」
「な?」

頭を撫でて微笑みかけると、光は涙を溢れさせながら頷いた。目の奥が熱くなって、彼女の体を抱きしめる。弱い、脆い、細い、柔らかな体。…守りたい。
体を離して、見つめ合うと…思わずキスをしそうになって、咄嗟に微笑みながら彼女の頬を撫でて涙を拭い、誤魔化した。

「光、昼飯何食いたい?」

ふと思いついた質問。光はぽかんとして顔を上げた。

「何でも作ってやるよ。」

目尻の涙を拭って言う。光はちょっとだけ笑みを浮かべた。

「…ナポリタン。」
「…よし。じゃ、昼飯楽しみにしてろよ。」

髪をくしゃくしゃにして、光のちょっと困ったような笑みに胸の奥の苦しさを感じながら、休んでいるように言い聞かせて部屋を出る。扉を閉めて、前を見て…ぎょっとした。

「お前ら…盗み聞き?」
「まさか。そんなことしてませんよ。ねぇ?」

牧瀬がわざとらしく倉持と光臣に同意を求める。ふたりはこれまたわざとらしく大きく頷く。

「よーし今日の昼飯はナポリタンか〜」
「…おい、しっかり聞いてんじゃねーかよ」

倉持を睨みつけ、光臣に視線を移す。

「光臣、悪いけど…」
「問題ない。厨房は自由に使ってくれ。」
「…あ…ウン」

「何してんですか御幸さん。早く材料買いに行きましょ!」
「…はいはい」

全くこいつらは…。思わず苦笑しながらも、その楽観的な雰囲気が有難いとも感じた。

 


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