151
「…違った?」
御幸は、おう、と頷いてビールを飲む。
「ふーん、良かったな」
「いや…もちろんできたら嬉しいよ俺は。」
「その割には焦ってたじゃん」
「そりゃ、突然だったから驚いただけで…」
口ごもる御幸に、あっそ、と無愛想を投げつける。
どっちにしても、赤ん坊ができてもおかしくないことを、光と御幸はしているわけで…夫婦なんだから当たり前だ。当たり前だけど、その意識が最近は薄れていた。昔と変わらず4人で過ごす中で…ずっとこの時が続くような気がしていた。だから…光が妊娠したのかもしれない、と思ったあの日、俺は頭が真っ白で…そしてそんな自分にも戸惑った。わかってたはずだろ、って。祝福してやらなきゃって…
なのに…拍子抜けだ。
「倉持?」
「あ?」
やべ、ぼーっとしてた。なんでもないふうを装って返事をすると、御幸はどうでも良さそうに呟く。
「なんか固まってたから」
「別に…」
俺はビールを開け、よく冷えた缶に口をつける。
「つか…焦るくらいならナマでなんかやるんじゃねーよ。」
「……。」
御幸は返す言葉もなく頭を抱えて俯いた。
「…あ〜〜〜〜、だってさ…ほんとにもう…」
髪をぐしゃぐしゃに掻き乱し、呻いたかと思うと、開き直るように頭を上げた。その顔はほんのりと紅く染まっている。俺は呆れてため息交じりに叱責じみた言葉をこぼした。
「んだよ。我慢できなかったとでも言うつもりか?ガキじゃあるまいし…」
「……じゃあ倉持、想像してみ?」
「…は?」
「あの光が…」
「……。」
「甘えて上目づかいで…」
「……。」
「ゴムなんていいから、早く挿れて…って」
「…待て、タイム」
やべ…ちょっと勃ちそうになった…
つーか…御幸とヤるときの光はそんな風なのかよ…信じがたいような、羨まし…いや、恨めしいような。
「な!?誰でも我慢できねーだろそんなの!」
「開き直ってんじゃねーよ」
「別にそんなんじゃねーけどさ、もう結婚してるし、デキたらデキたでいいって思ったんだよ、その時は。でもいざほんとにデキたかもしれないって思ったら…もちろんうれしかったけど、戸惑いの方が大きかったっつーか…」
「まあわかるけどよ。まだガキを持つには若いしな。お前は結婚も早かったけど」
「それもあるけど…それより」
「……?」
「まだ…しばらくは二人で過ごしたいって思ったから…」
「……。」
手の中の缶ビールがパキッと短い悲鳴を上げた。無意識に握りしめていたらしい。つか…なんだこいつ。いつから俺にこんなに惚気るようになったんだ?わざとか?相変わらずムカつく野郎だ…。
「しかもこの間聞いたんだけどさ」
「…なんだよ」
「光、高校卒業して俺と再会する前に、仕事の飲み会で間違えて酒飲んじゃって…」
「……。」
「案の定酔っぱらって、なんて言ったと思う?」
「知らねーよ」
ニヤニヤと俺を見上げて問う御幸。…何となく想像はつくが、それを口にするのは腹立たしいので睨み返す。
「一也先輩に会いたい〜!って泣いたんだって。」
「…チッ。あっそ」
「もう俺光が可愛すぎて死にそう」
「おう、死ね死ね」
「はっはっはっは。あ〜、幸せだなぁ〜」
「クソうぜえ!さっきから惚気てんじゃねーよ、俺に!わざとかよ!」
「あ、バレた?」
「バッ…」
バレた…だと?つーことはこいつ、やっぱりわざと惚気てやがったのか…
「ぶっ殺す」
「倉持クンこわーい。惚気ならいくらでも聞いてやるって言ったじゃん」
「前言撤回だ」
「なんでだよ〜もっと聞いてくれよ〜」
「ぜってえ嫌だね」
「光の可愛いところは何と言ってもさあ、朝起きるとまず部屋ん中見回して、俺を探すトコが…」
「この性悪クソメガネ…」
全く悪気のない顔でわざと惚気やがるから腹立たしい。
だけど…まあ、そうだな。前みたいにうじうじ愚痴られるよりはマシだ。俺はそう思いながら、御幸の脳天目掛けてチョップを振り下ろした。
***
夕方ごろ、玄関が開錠する音がして、御幸が立ち上がった。光が帰ってきたのだろう。未だに羨ましく思う。部屋に光が当たり前に帰ってくること。自分が帰ると光が出迎えてくれること。御幸もどこかそわそわと玄関の方を見ている。その姿を見ていると、まあいいか、という気持ちにもなる。
ドアが開いて、小さな足音がして、リビングのドアが開く。部屋に入ってきた光はちょっと疲れた顔をしている。昨日の夜から一晩中仕事だったらしいから、無理もない。それでも御幸を目にすると、光は嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、荷物を床に下ろしながら御幸に駆け寄って、思い切り抱き着いた。
「お…おかえり。」
御幸は俺の存在を気にするように、まだ俺の存在に丸で気づいていない光を遠慮がちに押し返そうとする。しかし光は御幸に抱き着いたままうっとりと御幸を見上げた。
「かずくん…」
…か……かずくん!!?
言葉を失って口をあけたまま立ち尽くす俺。みるみる顔を赤くして俺を見る御幸。幸せそうに御幸を見つめ続ける光。
「チューしたい…」
「ちょ…ちょっと待て光…」
「…やだ。」
ちょっとムッと口を尖らせてキスをねだる光を、御幸は優しく引きはがす。
「光、俺もいるんだけど。」
たまらず横から声をかけると、光は目を丸くして俺を見て、みるみる顔を真っ赤にした。
「あ…やだ私…」
両頬を両手で包んで御幸と距離を置く光。あ〜、いいな〜…俺も光にあんなふうに…いや、考えると虚しくなるからやめよう。
「光、俺のことも洋ちゃんって呼んでいいぜ」
「呼ばねーよ」
「お前に言ってねーよ」
虚しさを紛らわせるように冗談を言いつつ、自分の荷物を拾い上げる。
「さてと…俺は帰るぜ」
「え?もう?」
「この前みたいに目の前でおっぱじめられたら嫌だし」
ニヤリ、と二人に笑みを向けると、御幸は顔をひきつらせ、光は顔を真っ赤にして御幸の背に隠れた。
「お前な…」
「なに?混ぜてくれんの?」
「するかよ!さっさと帰れ」
「ヒャハハ」
御幸に追い出されるように部屋を出る。あ〜、虚しい。所詮俺は、たった1回光に抱かせてもらったときのことを、いつまでも思い起こしては余韻に浸ってるだけの、童貞気分を脱しきれない男…。いや、でもあの夜は本当に…幸せだった…。
御幸達のマンションを出て、駅に向かって歩く。ここはこの辺りでも有名な超高級住宅街。どこもかしこも豪邸や高級マンションばかりで、ときどき走っていく車は高級車ばかり。今もまた、黒いスーパーカーが俺を追い越していく。うおお、あんなの初めて見た…どんな奴が乗ってるんだろう。そう思っていると、その車は俺を追い越したところで速度を落とし、路肩に停車した。つい見つめていると、運転席のドアが開き、スーツの男の足が現れる。そして降り立ったのは…
「…光臣!?」
「よう。」
馴れ馴れしく片手を挙げる光臣に、年下のくせにと怒る気にもなれない。こんな車から降りてこられたら…。
光臣は助手席側に回るとドアを開け、誰かが降りるのをエスコートした。光臣の手に掴まって現れたのは――スタイル抜群のハーフ系黒髪美女。鮮やかなグリーンのワンピースを着こなしている。光臣は美女にイタリア語らしき流暢な言葉で何かを囁き、美女は嬉しそうに笑って、光臣の頬にキスをして、「バイバーイ」と滑らかな発音で言い、すぐ目の前の豪邸の門に入って行った。
その一連の流れを口をあけたまま見ていた俺。光臣がこちらにやってきてやっと我に返った。
「お前…今の女って…」
「友人だが?」
なんてことない様子で答える光臣。俺はつい拍子抜けした。
「ふーん…お前も光のことが好きなのかと思ってたけど…なんだ、彼女いるのかよ」
「彼女ではない。友人だと言っただろう。」
「…はいはい、でも、良い感じなんだろ?」
「まあ、体の相性はいい。」
「……は?」
ぽかん、と言葉を失って立ち尽くす俺に、光臣はフッとほほ笑む。
「なんだ?」
「…お前それ…まさか…」
「素晴らしい友人の一人だ。」
「セフレじゃねーか!しかも一人じゃねーのかよ!!」
「下品な表現をしないでくれないか?彼女たちの品位が下がる。」
「やってることはそういうことだろが!」
思わず声を荒げると、光臣はあしらうようにため息を吐いた。
「そうだとして、何か問題でも?」
「おま……」
…まさか光臣がこんな女たらしの絶倫ヤローだったとは。
「…光が知ったら軽蔑されるぞ、お前」
「もう知っているが。」
「え!?」
「というか、光とも昔…」
「…え!!?」
「…関係しようとしたが、殴られて拒否された。」
「……。」
俺はぽかん、と口をあけて唖然としたあと、笑いが込み上げてきた。
「ヒャハハハ!ザマァねえな。」
思わず嬉しくなって笑い飛ばすと、光臣はふっと微笑を浮かべた。
「だから好きになったんだ。」
「……。」
言葉を失う。なんだそれ。こいつも不毛な恋してんな…。
「それにしても、随分嬉しそうだな?」
「へ?」
「顔に書いてあるぞ。お前に勝った、と」
「……え…?」
じっ、と光臣の目が俺を射抜くように見つめる。光と同じ、宝石みたいな、透き通った空色の瞳。ああだめだ、俺はこの目に弱い…。じんわりと自分の顔が熱を帯びるのがわかる。変な汗をかきながら、俺は必死に顔が引きつるのを堪えた。
「お前、光と寝たのか?」
「…まっ」
ごくり、と喉が鳴る。
「まさか…。」
「……。」
だめだ。俺…こういうことになると嘘が壊滅的に下手くそだ…。
「……そうなのか。」
「……。」
「ふうん……。」
光臣は意味深に呟いて俯き、しばらく何かを考えた。
「……羨ましい。」
「へ?」
次に光臣の口から出てきたその一言に、俺は変な声をもらした。
「いったいどうやって口説いたんだ?あの頑固で堅物な光を。」
「いや……別に俺は……。っつーか、頑固で堅物って……。」
「殴ってまで俺を拒否した女はあいつしかいない。昔も今も。他の女たちは皆、向こうから誘ってくるのに。」
「……あーそーかよ。」
「それで、どうだった。」
「…は!?」
「だから、どうだったんだ?」
「言うか!なんでんなこと言わなきゃならねーんだよ!」
「御幸一也はあいつ以外ではもう勃たないと言っていた。だから興味がある。」
「…はぁ!?何言ってんだアイツ…!」
「それほど良いのか?光とのセックスは。」
「せ……っ」
光臣からの言葉が暴力的なまでに無遠慮すぎて返答に困る。こいつこんなヤツだったか…?
「別に恥ずかしがるような齢でもないだろう。」
「……。」
「どうなんだ?スタイルは最高だが…感度や具合は。」
「…生々しいな、オイ」
つーか…俺は光としかしたことねぇから、他と比べてどうかなんてわかんねーけど…まぁ…
「……あー…、うん」
「……。」
「……最高だよ。」
「そうなのか。」
俺の一言で、光臣は納得したらしく、相槌を打った。
「最高だったのに…光はお前を選ばなかったか。」
「…ハアァ!?オイ!これそういう話!?」
「いや、光が体を許すなんてよっぽどだろう。だから、お前に乗り換えてもおかしくないと思ったんだが。やはりセックスで満足できない相手ではな…」
「なんでそうなるんだよ!テメーの頭ん中どうなってんだ!ピンク色か!」
「いや、かなり重要だろうそれは。女を満足させられない男なんて…」
「んだよ、じゃあテメーは満足させられるっつーのか?」
「…いや、どうだろうな。」
「…え?」
てっきり自信満々に頷くかと思えば、光臣は首をひねった。
「アマンダが言ってたんだが」
「誰だよアマンダって」
「さっきの友人だ。彼女が言うには、好きな男とそれ以外の男では、同じところを同じように触ったのでも、全く違うんだそうだ。」
「……はぁ」
「光にとって御幸一也から触れられることはこの上ない快楽をもたらすが、それ以外の男がいくらテクニックを駆使したところで、光は全く感じないかもしれない、ということだ。わかるか?」
「…あー」
「女は男と違って複雑だからな。女は脳で感じるんだ。シチュエーションや自分の感情に大きく左右される。」
「……。」
そういや、御幸も『女の気持ち次第で感度が全然違う』とか言ってたっけ…。
「そういう点で、最上の悦びを知っている光を抱くことは、不毛な挑戦だ。そもそも俺は、他の男を想っている女を抱くのは趣味じゃないんだ。」
「あっそ…」
「だが、俺の興味深いところは…光がお前に体を許したというところだ。」
「それは…お情けみたいなモンだよ。」
「いや、違う。」
「…あぁ?」
「光が好きでもない相手に体を許すわけがない。どんな義理があろうとな。あいつはそういう女だ。少しでもお前に気があったからこそ、体を許したんだ。たった1度だけだとしても。」
「……。」
「お前も身に覚えがあるようじゃないか?…まあ、光もけじめをつけるつもりでお前と寝たのかもしれない。その可能性はある。だが…お前になら抱かれてもいいと…いや、もしかしたら…抱かれてみたいと思ったんだろう。」
「……。」
「ちょっと、こっちへこい。」
ひらりと手を翻して、光臣は俺を車へと促す。助手席に乗り込み、運転席の光臣を見ると、光臣はタブレットを取り出して起動した。
「なんだよ?」
そう尋ねると、光臣はにやりと笑った。
「興味ないか?あの二人が二人きりの時、どんな感じなのか。」
「あの二人って…」
「御幸一也と光。そんなに愛し合っているなんて…どれほどのものなのか、気になるだろう。」
「……。」
だめだ、そんなこと。俺の頭のどこかでそう警鐘が鳴り響くのに、光臣が傾けてくるタブレットの画面に、俺の目は釘付けになるのだった。
御幸は、おう、と頷いてビールを飲む。
「ふーん、良かったな」
「いや…もちろんできたら嬉しいよ俺は。」
「その割には焦ってたじゃん」
「そりゃ、突然だったから驚いただけで…」
口ごもる御幸に、あっそ、と無愛想を投げつける。
どっちにしても、赤ん坊ができてもおかしくないことを、光と御幸はしているわけで…夫婦なんだから当たり前だ。当たり前だけど、その意識が最近は薄れていた。昔と変わらず4人で過ごす中で…ずっとこの時が続くような気がしていた。だから…光が妊娠したのかもしれない、と思ったあの日、俺は頭が真っ白で…そしてそんな自分にも戸惑った。わかってたはずだろ、って。祝福してやらなきゃって…
なのに…拍子抜けだ。
「倉持?」
「あ?」
やべ、ぼーっとしてた。なんでもないふうを装って返事をすると、御幸はどうでも良さそうに呟く。
「なんか固まってたから」
「別に…」
俺はビールを開け、よく冷えた缶に口をつける。
「つか…焦るくらいならナマでなんかやるんじゃねーよ。」
「……。」
御幸は返す言葉もなく頭を抱えて俯いた。
「…あ〜〜〜〜、だってさ…ほんとにもう…」
髪をぐしゃぐしゃに掻き乱し、呻いたかと思うと、開き直るように頭を上げた。その顔はほんのりと紅く染まっている。俺は呆れてため息交じりに叱責じみた言葉をこぼした。
「んだよ。我慢できなかったとでも言うつもりか?ガキじゃあるまいし…」
「……じゃあ倉持、想像してみ?」
「…は?」
「あの光が…」
「……。」
「甘えて上目づかいで…」
「……。」
「ゴムなんていいから、早く挿れて…って」
「…待て、タイム」
やべ…ちょっと勃ちそうになった…
つーか…御幸とヤるときの光はそんな風なのかよ…信じがたいような、羨まし…いや、恨めしいような。
「な!?誰でも我慢できねーだろそんなの!」
「開き直ってんじゃねーよ」
「別にそんなんじゃねーけどさ、もう結婚してるし、デキたらデキたでいいって思ったんだよ、その時は。でもいざほんとにデキたかもしれないって思ったら…もちろんうれしかったけど、戸惑いの方が大きかったっつーか…」
「まあわかるけどよ。まだガキを持つには若いしな。お前は結婚も早かったけど」
「それもあるけど…それより」
「……?」
「まだ…しばらくは二人で過ごしたいって思ったから…」
「……。」
手の中の缶ビールがパキッと短い悲鳴を上げた。無意識に握りしめていたらしい。つか…なんだこいつ。いつから俺にこんなに惚気るようになったんだ?わざとか?相変わらずムカつく野郎だ…。
「しかもこの間聞いたんだけどさ」
「…なんだよ」
「光、高校卒業して俺と再会する前に、仕事の飲み会で間違えて酒飲んじゃって…」
「……。」
「案の定酔っぱらって、なんて言ったと思う?」
「知らねーよ」
ニヤニヤと俺を見上げて問う御幸。…何となく想像はつくが、それを口にするのは腹立たしいので睨み返す。
「一也先輩に会いたい〜!って泣いたんだって。」
「…チッ。あっそ」
「もう俺光が可愛すぎて死にそう」
「おう、死ね死ね」
「はっはっはっは。あ〜、幸せだなぁ〜」
「クソうぜえ!さっきから惚気てんじゃねーよ、俺に!わざとかよ!」
「あ、バレた?」
「バッ…」
バレた…だと?つーことはこいつ、やっぱりわざと惚気てやがったのか…
「ぶっ殺す」
「倉持クンこわーい。惚気ならいくらでも聞いてやるって言ったじゃん」
「前言撤回だ」
「なんでだよ〜もっと聞いてくれよ〜」
「ぜってえ嫌だね」
「光の可愛いところは何と言ってもさあ、朝起きるとまず部屋ん中見回して、俺を探すトコが…」
「この性悪クソメガネ…」
全く悪気のない顔でわざと惚気やがるから腹立たしい。
だけど…まあ、そうだな。前みたいにうじうじ愚痴られるよりはマシだ。俺はそう思いながら、御幸の脳天目掛けてチョップを振り下ろした。
***
夕方ごろ、玄関が開錠する音がして、御幸が立ち上がった。光が帰ってきたのだろう。未だに羨ましく思う。部屋に光が当たり前に帰ってくること。自分が帰ると光が出迎えてくれること。御幸もどこかそわそわと玄関の方を見ている。その姿を見ていると、まあいいか、という気持ちにもなる。
ドアが開いて、小さな足音がして、リビングのドアが開く。部屋に入ってきた光はちょっと疲れた顔をしている。昨日の夜から一晩中仕事だったらしいから、無理もない。それでも御幸を目にすると、光は嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、荷物を床に下ろしながら御幸に駆け寄って、思い切り抱き着いた。
「お…おかえり。」
御幸は俺の存在を気にするように、まだ俺の存在に丸で気づいていない光を遠慮がちに押し返そうとする。しかし光は御幸に抱き着いたままうっとりと御幸を見上げた。
「かずくん…」
…か……かずくん!!?
言葉を失って口をあけたまま立ち尽くす俺。みるみる顔を赤くして俺を見る御幸。幸せそうに御幸を見つめ続ける光。
「チューしたい…」
「ちょ…ちょっと待て光…」
「…やだ。」
ちょっとムッと口を尖らせてキスをねだる光を、御幸は優しく引きはがす。
「光、俺もいるんだけど。」
たまらず横から声をかけると、光は目を丸くして俺を見て、みるみる顔を真っ赤にした。
「あ…やだ私…」
両頬を両手で包んで御幸と距離を置く光。あ〜、いいな〜…俺も光にあんなふうに…いや、考えると虚しくなるからやめよう。
「光、俺のことも洋ちゃんって呼んでいいぜ」
「呼ばねーよ」
「お前に言ってねーよ」
虚しさを紛らわせるように冗談を言いつつ、自分の荷物を拾い上げる。
「さてと…俺は帰るぜ」
「え?もう?」
「この前みたいに目の前でおっぱじめられたら嫌だし」
ニヤリ、と二人に笑みを向けると、御幸は顔をひきつらせ、光は顔を真っ赤にして御幸の背に隠れた。
「お前な…」
「なに?混ぜてくれんの?」
「するかよ!さっさと帰れ」
「ヒャハハ」
御幸に追い出されるように部屋を出る。あ〜、虚しい。所詮俺は、たった1回光に抱かせてもらったときのことを、いつまでも思い起こしては余韻に浸ってるだけの、童貞気分を脱しきれない男…。いや、でもあの夜は本当に…幸せだった…。
御幸達のマンションを出て、駅に向かって歩く。ここはこの辺りでも有名な超高級住宅街。どこもかしこも豪邸や高級マンションばかりで、ときどき走っていく車は高級車ばかり。今もまた、黒いスーパーカーが俺を追い越していく。うおお、あんなの初めて見た…どんな奴が乗ってるんだろう。そう思っていると、その車は俺を追い越したところで速度を落とし、路肩に停車した。つい見つめていると、運転席のドアが開き、スーツの男の足が現れる。そして降り立ったのは…
「…光臣!?」
「よう。」
馴れ馴れしく片手を挙げる光臣に、年下のくせにと怒る気にもなれない。こんな車から降りてこられたら…。
光臣は助手席側に回るとドアを開け、誰かが降りるのをエスコートした。光臣の手に掴まって現れたのは――スタイル抜群のハーフ系黒髪美女。鮮やかなグリーンのワンピースを着こなしている。光臣は美女にイタリア語らしき流暢な言葉で何かを囁き、美女は嬉しそうに笑って、光臣の頬にキスをして、「バイバーイ」と滑らかな発音で言い、すぐ目の前の豪邸の門に入って行った。
その一連の流れを口をあけたまま見ていた俺。光臣がこちらにやってきてやっと我に返った。
「お前…今の女って…」
「友人だが?」
なんてことない様子で答える光臣。俺はつい拍子抜けした。
「ふーん…お前も光のことが好きなのかと思ってたけど…なんだ、彼女いるのかよ」
「彼女ではない。友人だと言っただろう。」
「…はいはい、でも、良い感じなんだろ?」
「まあ、体の相性はいい。」
「……は?」
ぽかん、と言葉を失って立ち尽くす俺に、光臣はフッとほほ笑む。
「なんだ?」
「…お前それ…まさか…」
「素晴らしい友人の一人だ。」
「セフレじゃねーか!しかも一人じゃねーのかよ!!」
「下品な表現をしないでくれないか?彼女たちの品位が下がる。」
「やってることはそういうことだろが!」
思わず声を荒げると、光臣はあしらうようにため息を吐いた。
「そうだとして、何か問題でも?」
「おま……」
…まさか光臣がこんな女たらしの絶倫ヤローだったとは。
「…光が知ったら軽蔑されるぞ、お前」
「もう知っているが。」
「え!?」
「というか、光とも昔…」
「…え!!?」
「…関係しようとしたが、殴られて拒否された。」
「……。」
俺はぽかん、と口をあけて唖然としたあと、笑いが込み上げてきた。
「ヒャハハハ!ザマァねえな。」
思わず嬉しくなって笑い飛ばすと、光臣はふっと微笑を浮かべた。
「だから好きになったんだ。」
「……。」
言葉を失う。なんだそれ。こいつも不毛な恋してんな…。
「それにしても、随分嬉しそうだな?」
「へ?」
「顔に書いてあるぞ。お前に勝った、と」
「……え…?」
じっ、と光臣の目が俺を射抜くように見つめる。光と同じ、宝石みたいな、透き通った空色の瞳。ああだめだ、俺はこの目に弱い…。じんわりと自分の顔が熱を帯びるのがわかる。変な汗をかきながら、俺は必死に顔が引きつるのを堪えた。
「お前、光と寝たのか?」
「…まっ」
ごくり、と喉が鳴る。
「まさか…。」
「……。」
だめだ。俺…こういうことになると嘘が壊滅的に下手くそだ…。
「……そうなのか。」
「……。」
「ふうん……。」
光臣は意味深に呟いて俯き、しばらく何かを考えた。
「……羨ましい。」
「へ?」
次に光臣の口から出てきたその一言に、俺は変な声をもらした。
「いったいどうやって口説いたんだ?あの頑固で堅物な光を。」
「いや……別に俺は……。っつーか、頑固で堅物って……。」
「殴ってまで俺を拒否した女はあいつしかいない。昔も今も。他の女たちは皆、向こうから誘ってくるのに。」
「……あーそーかよ。」
「それで、どうだった。」
「…は!?」
「だから、どうだったんだ?」
「言うか!なんでんなこと言わなきゃならねーんだよ!」
「御幸一也はあいつ以外ではもう勃たないと言っていた。だから興味がある。」
「…はぁ!?何言ってんだアイツ…!」
「それほど良いのか?光とのセックスは。」
「せ……っ」
光臣からの言葉が暴力的なまでに無遠慮すぎて返答に困る。こいつこんなヤツだったか…?
「別に恥ずかしがるような齢でもないだろう。」
「……。」
「どうなんだ?スタイルは最高だが…感度や具合は。」
「…生々しいな、オイ」
つーか…俺は光としかしたことねぇから、他と比べてどうかなんてわかんねーけど…まぁ…
「……あー…、うん」
「……。」
「……最高だよ。」
「そうなのか。」
俺の一言で、光臣は納得したらしく、相槌を打った。
「最高だったのに…光はお前を選ばなかったか。」
「…ハアァ!?オイ!これそういう話!?」
「いや、光が体を許すなんてよっぽどだろう。だから、お前に乗り換えてもおかしくないと思ったんだが。やはりセックスで満足できない相手ではな…」
「なんでそうなるんだよ!テメーの頭ん中どうなってんだ!ピンク色か!」
「いや、かなり重要だろうそれは。女を満足させられない男なんて…」
「んだよ、じゃあテメーは満足させられるっつーのか?」
「…いや、どうだろうな。」
「…え?」
てっきり自信満々に頷くかと思えば、光臣は首をひねった。
「アマンダが言ってたんだが」
「誰だよアマンダって」
「さっきの友人だ。彼女が言うには、好きな男とそれ以外の男では、同じところを同じように触ったのでも、全く違うんだそうだ。」
「……はぁ」
「光にとって御幸一也から触れられることはこの上ない快楽をもたらすが、それ以外の男がいくらテクニックを駆使したところで、光は全く感じないかもしれない、ということだ。わかるか?」
「…あー」
「女は男と違って複雑だからな。女は脳で感じるんだ。シチュエーションや自分の感情に大きく左右される。」
「……。」
そういや、御幸も『女の気持ち次第で感度が全然違う』とか言ってたっけ…。
「そういう点で、最上の悦びを知っている光を抱くことは、不毛な挑戦だ。そもそも俺は、他の男を想っている女を抱くのは趣味じゃないんだ。」
「あっそ…」
「だが、俺の興味深いところは…光がお前に体を許したというところだ。」
「それは…お情けみたいなモンだよ。」
「いや、違う。」
「…あぁ?」
「光が好きでもない相手に体を許すわけがない。どんな義理があろうとな。あいつはそういう女だ。少しでもお前に気があったからこそ、体を許したんだ。たった1度だけだとしても。」
「……。」
「お前も身に覚えがあるようじゃないか?…まあ、光もけじめをつけるつもりでお前と寝たのかもしれない。その可能性はある。だが…お前になら抱かれてもいいと…いや、もしかしたら…抱かれてみたいと思ったんだろう。」
「……。」
「ちょっと、こっちへこい。」
ひらりと手を翻して、光臣は俺を車へと促す。助手席に乗り込み、運転席の光臣を見ると、光臣はタブレットを取り出して起動した。
「なんだよ?」
そう尋ねると、光臣はにやりと笑った。
「興味ないか?あの二人が二人きりの時、どんな感じなのか。」
「あの二人って…」
「御幸一也と光。そんなに愛し合っているなんて…どれほどのものなのか、気になるだろう。」
「……。」
だめだ、そんなこと。俺の頭のどこかでそう警鐘が鳴り響くのに、光臣が傾けてくるタブレットの画面に、俺の目は釘付けになるのだった。