168
鳴り響いたインターフォンに応答すると、ドアの前のモニターに光臣が映っていた。玄関へ行ってドアを開けると、夏らしい爽やかな白いスーツの光臣が立っていた。すげえスーツ…だけど、ハリウッドスターよろしく着こなしちまうからからかうこともできない。
「光は?」
…まったくどいつもこいつも、光が人妻だと知っているくせに、好意を隠しもしない。にわかに腹を立てながら、俺は憮然と答える。
「まだ支度中だよ。」
20時に迎えに来るといっていたのに、今はまだ19時を少し過ぎたところだ。俺だってまだ着替え終えていない。
「ならちょうどよかった。」
「は…?」
その言葉の意味を理解できずにいると、光が黒いワンピース姿で寝室から現れた。
「あれ?光臣…早いね」
手に持っているネックレスの金具を外しながら光は言って、俺に歩み寄った。
「一也さん、お願い」
「はいよ」
ネックレスを手渡され、後ろを向いて髪を手でまとめてうなじをあらわにする光。その細い首に手を回し、ネックレスをかけようとしたところで、光臣が口を開いた。
「ちょっと待ってくれ。」
「……?」
何を待つんだと疑問符を浮かべながら、光と俺は光臣を振り向く。光臣は持っていた大きな紙袋を持ち上げてみせた。
「光、今日はこれを着てくれないか。」
「え…?何?」
戸惑う俺たちの前で紙袋から箱を4つ取り出す光臣。そのうちのひとつ、一番大きな箱を開けて、レモン色のドレスを取り出して見せた。
「…え?」
思い切り困惑を顔に浮かべる光。しかし光臣は怯まない。
「ピアスにペンダント、靴も揃ってる。」
「…一也さんと揃えてるし、もう着替えちゃったんだけど…」
「頼むよ。先方が光のファンだと言っただろう。先方の好みに合わせてほしいんだ。」
「……。」
光はちょっと困ったように考えて、小さく頷いた。
「…わかった。じゃあ…着替えてくる」
「ありがとう。」
光臣のしてやったりの笑み。むかむかと胸の奥が焦れる。光はドレスをもってまた寝室へ入っていった。
「…俺も着替えてくる。」
「ああ。」
ソファに腰掛ける光臣に言い残して、俺も寝室へ向かう。
寝室へ入ると、ドレスを纏い、鏡の前で困惑している光がいた。光は俺に気が付くと、困ったように背中を見せてきた。
「あっ、一也さん。これ、締められますか?」
そのドレスは背中の部分に大きな切れ込みがあり、リボンで編みこんだレースアップで留める仕様になっていた。
「…やってみる」
…とは言ったものの、こんなものやったことがない。手間取っていると、それを見計らったかのように、コンコン、と寝室のドアがノックされた。
「手伝おうか?」
光臣の声。俺と光は顔を見合わせた。
……仕方ない。
ドアを開けると、にやりと笑う光臣。光の背中に手を伸ばし、慣れた手つきでリボンを絞めていく。
「ここのドレスは全てヴィンテージでな。ファスナー等の金具は使わない主義なんだそうだ。女性からは絶大な人気がある老舗ブランドだが、聊か男からの評判が良くないのは、脱がしにくいからだという話がある。」
得意げに話しながらリボンを編み、綺麗なちょうちょ結びを作る。
「まぁ…俺にとっては、このくらいのほうが、脱がしがいがあると思うけどな。」
「…は?」
「男が女に服を贈るのは、それを脱がしたいという下心がある…という話、知らないのか?」
冗談のつもりなのか本気なのか、気分の良くないことを言いやがる光臣を睨む。こいつ…半分本気だろ。
「光臣は慣れてるもんね。」
ぴしゃり、と光は言って、ストールを羽織った。光臣は閉口する。ぷ…反撃されてやんの。
「光臣、できた?」
「あ…あぁ」
「じゃ、支度が終わるまで出てって。」
光に追い出されるようにして光臣が部屋を出て行き、寝室には俺と光のふたりだけになる。急いで俺も着替え始めると、光が近づいて来て、ネクタイに手を伸ばした。されるがままにネクタイを結んでもらう。この綺麗な子を…独り占めしたいと思うのは、贅沢なんだろうか。結婚して、本当の意味で結ばれた気がした。だけど…今も光は、いろんな奴に求められてる。光は俺だけを見てくれているけど、ふとしたきっかけでもし離れてしまいそうになったら、もう…取り戻せないような途方もない気持ちになる。
「一也…」
不意の呼び捨てにどきりとすると、光に唇を奪われた。唇を離した光は、もどかしげに俺を見て、自分の両頬を手で包み、うっとりとした。
「かっこいい…」
「…へ?」
「ユニフォームも、普段着も好きだけど、スーツ姿が…私、好きなんですよね」
「そ…そうなんだ」
知らなかった。
「一也さんは?」
「え?」
「どんな格好が好き?」
い…いきなりそんなマニアックな質問。いや、ここで動じたらまたからかわれて、可愛いとか言われちまうんだ。
「そうだな…どんなカッコでも綺麗だけど」
俺は光の髪に指を通し、撫でながら言った。
「やっぱ…一番はあれだろ」
「…なに?」
「高校ん時の制服。」
光は目を丸くして、笑い出した。
「もう着れないじゃないですか。」
「そうか?まだまだイケるって」
「もう!…そういう問題じゃない。」
光ははにかみながら俺の胸をちょっと叩いて踵を返した。
支度を終えてリビングに戻ると、光臣が退屈そうにソファで待っていた。光臣は光を見て微笑を浮かべ、優雅に立ち上がると、じっと見惚れた。
「良く似合うな。」
「…ありがとう。」
光は光臣を訝しむように儀礼的に礼を言って、俺を振り返る。
「じゃあ行きましょうか。」
「うん。」
頷いて、俺たちは光臣に連れられて、会場へと向かった。
***
会場につき、いつも通り光をエスコートして中に入ったところで、光臣が振り返って俺たちに咳ばらいをした。
「…何?」
光が訊ねると、光臣は俺に掴まっている光の手を見る。
「悪いんだが、今日は先方を立ててほしい。」
光は瞬きし、俺を見上げて、ちょっと不服そうに手を離した。すると光臣は満足そうにして、また踵を返した。
「では、挨拶しに行こう。」
光臣についていくと、会場の中ほどに、ひときわ目を惹く若い男が立っていた。黒々とした短髪にキリッと上がった眉、堀の深い顔。…イタリア人か?
「社長のレオーニ氏だ。」
光臣はそう言うと、流暢なイタリア語で男に話しかけ、その男とハグをした。そして光臣が身を翻して光を指すと、男は感極まったように口元を押さえ、満面の笑みになって早口で何かを言った。
光は短い言葉で何かを言い、男は嬉しそうに光に握手を求め、そのまま手を引き、ハグをする。俺にもちらりと目をやったが、軽い握手をすると、男はまた光に夢中になる。
男が何かを言うと、光は困ったようにはにかみながら相槌を打つ。
「おい…光臣。」
俺はこっそりと光臣に耳打ちした。
「なんて言ってるんだ?」
すると光臣は涼しい顔で二人を眺めながら言った。
「…『君は天から落ちてしまった天使なのか?君ほど美しい人間を作った神に僕は感謝する。この世のすべての美しいものは、君のためにあるのだろう。君の美しさは天命だ。その美しさで人間の愚かさを試すため、天から遣わされたのだろう?きっと君が命を落としたら、美を象徴する星座が生まれるのだろう。』…まだ聞くか?」
「…もういい」
「ふっ。イタリア人は情熱的だからな。」
光臣は給仕からワイングラスを流れるように受け取りながら言った。
「君も飲むか?」
「いや…いい」
それどころじゃない。光が心配だ。
また光に視線を戻すと、男は熱心に光に何かを語りかけている。…口説いてるだろ、どう見ても。何を言ってるかはわからないが、態度を見ていれば明白だ。光は愛想笑いを浮かべ、ちらりと光臣を振り返る。同時に、男も光臣を見た。光臣は二つの視線を一瞥し、イタリア語で何かを言った。男の顔がほころび、光の頬が固まった。そして男は光の肩に手を回し、どこかへ連れて行こうとした。
「あ、おい…!」
踏み出した俺を、光臣が止める。男はふっと俺から逃れるように、光を連れて行ってしまう。
「…おい、何なんだよ。」
「もう少し二人で話してきたらどうか、と言ったんだ。」
「なんでそんなこと…仕事のパーティーだろ?光は関係ないし…あいつ、下心丸出しだったじゃねーか!」
「見くびるな、光はあの程度どうとでもあしらえる。それよりも、今度の商談を逃すわけにはいかないんだ。」
「光を差し出してまでする事かよ?お前…光のこと好きだったはずだろ!」
「だからこそだ。彼がこちらの条件を飲んでくれなければ…光の母親の生家が取り壊されてしまうのだからな。」
「……は…!?」
あまりにも突然の言葉に、俺は言葉を失って息をのんだ。
「ど…どういうことだよ!?」
「光の母親はイタリアの生まれでな、幼少期を過ごした生家がイタリアにあるんだ。光も幼い頃はよくそこで過ごしていた。あそこには…彼女の数少ない母親との思い出が眠っている。その生家を含む一帯の地域が、今、再開発地区として検討されていてな。彼の会社が主導権を握っているんだ。俺は家を何とか残そうと、折衷案を提示しているところだ。」
「…光はそれ…知ってんのか?」
「知らないに決まっているだろう。教えたら、きっと無茶をする。」
「……。」
「まぁ…彼も、光に会う口実を求めて今回の再開発に踏み切った節がある。光との関係次第では、簡単に意見を翻してくれる可能性もある。」
「…じゃあ、お前…今回のこと、光のために?」
光臣はワインを少し舐めるとグラスをテーブルに置いた。
「光のため…、と言うつもりはないが、もう彼女が、自分の力の及ばぬことで苦しむのは見たくない…。そのためなら、何でもするつもりだ。」
「……。」
ぽかんとする俺を余所に、光臣はちょっと片手を挙げて、失礼する、と立ち去った。そして偉そうなスーツの男たちと歓談を始める。ビジネスライクな微笑を浮かべ、流暢なイタリア語で。
…別世界に迷い込んだ気分だ。俺は部屋の隅の椅子に腰を下ろして、静かにワインを飲み始めた。
***
どのくらい時間が経っただろうか、ふいに甘い香りがして顔を上げると、光が目の前に立っていた。
「一也さん。」
光は頬をほころばせて、立ち上がった俺の腕にそっと掴まった。
「もういいの?」
「うん…あのね、レオーニさんと話してたら、急に泣き出しちゃって…」
「え?」
「光臣が、あとは二人で話すから、私たちはもう帰っていいって…」
「…泣いたって…なんで?」
光はちょっと首を傾げた。
「…私、本当に小さい頃、イタリアに住んでたことがあるんですけど、その頃の話をよく聞かれて。」
「…うん」
「それで…お母さんの話をしてたら…急に。」
「…へぇ」
「…イタリア人って、情熱的ですから。」
光臣と全く同じことを言った光にちょっと笑いそうになって、会場の出口へ向かう。
「そんじゃ…帰るか。疲れただろ?」
「はい。」
光は絡めた腕を胸に抱き寄せてはにかんだ。
「…早く帰りたいな。」
そう呟いた光を抱きしめたくなりながら、俺たちは光臣が用意した車へと乗り込んだ。
「光は?」
…まったくどいつもこいつも、光が人妻だと知っているくせに、好意を隠しもしない。にわかに腹を立てながら、俺は憮然と答える。
「まだ支度中だよ。」
20時に迎えに来るといっていたのに、今はまだ19時を少し過ぎたところだ。俺だってまだ着替え終えていない。
「ならちょうどよかった。」
「は…?」
その言葉の意味を理解できずにいると、光が黒いワンピース姿で寝室から現れた。
「あれ?光臣…早いね」
手に持っているネックレスの金具を外しながら光は言って、俺に歩み寄った。
「一也さん、お願い」
「はいよ」
ネックレスを手渡され、後ろを向いて髪を手でまとめてうなじをあらわにする光。その細い首に手を回し、ネックレスをかけようとしたところで、光臣が口を開いた。
「ちょっと待ってくれ。」
「……?」
何を待つんだと疑問符を浮かべながら、光と俺は光臣を振り向く。光臣は持っていた大きな紙袋を持ち上げてみせた。
「光、今日はこれを着てくれないか。」
「え…?何?」
戸惑う俺たちの前で紙袋から箱を4つ取り出す光臣。そのうちのひとつ、一番大きな箱を開けて、レモン色のドレスを取り出して見せた。
「…え?」
思い切り困惑を顔に浮かべる光。しかし光臣は怯まない。
「ピアスにペンダント、靴も揃ってる。」
「…一也さんと揃えてるし、もう着替えちゃったんだけど…」
「頼むよ。先方が光のファンだと言っただろう。先方の好みに合わせてほしいんだ。」
「……。」
光はちょっと困ったように考えて、小さく頷いた。
「…わかった。じゃあ…着替えてくる」
「ありがとう。」
光臣のしてやったりの笑み。むかむかと胸の奥が焦れる。光はドレスをもってまた寝室へ入っていった。
「…俺も着替えてくる。」
「ああ。」
ソファに腰掛ける光臣に言い残して、俺も寝室へ向かう。
寝室へ入ると、ドレスを纏い、鏡の前で困惑している光がいた。光は俺に気が付くと、困ったように背中を見せてきた。
「あっ、一也さん。これ、締められますか?」
そのドレスは背中の部分に大きな切れ込みがあり、リボンで編みこんだレースアップで留める仕様になっていた。
「…やってみる」
…とは言ったものの、こんなものやったことがない。手間取っていると、それを見計らったかのように、コンコン、と寝室のドアがノックされた。
「手伝おうか?」
光臣の声。俺と光は顔を見合わせた。
……仕方ない。
ドアを開けると、にやりと笑う光臣。光の背中に手を伸ばし、慣れた手つきでリボンを絞めていく。
「ここのドレスは全てヴィンテージでな。ファスナー等の金具は使わない主義なんだそうだ。女性からは絶大な人気がある老舗ブランドだが、聊か男からの評判が良くないのは、脱がしにくいからだという話がある。」
得意げに話しながらリボンを編み、綺麗なちょうちょ結びを作る。
「まぁ…俺にとっては、このくらいのほうが、脱がしがいがあると思うけどな。」
「…は?」
「男が女に服を贈るのは、それを脱がしたいという下心がある…という話、知らないのか?」
冗談のつもりなのか本気なのか、気分の良くないことを言いやがる光臣を睨む。こいつ…半分本気だろ。
「光臣は慣れてるもんね。」
ぴしゃり、と光は言って、ストールを羽織った。光臣は閉口する。ぷ…反撃されてやんの。
「光臣、できた?」
「あ…あぁ」
「じゃ、支度が終わるまで出てって。」
光に追い出されるようにして光臣が部屋を出て行き、寝室には俺と光のふたりだけになる。急いで俺も着替え始めると、光が近づいて来て、ネクタイに手を伸ばした。されるがままにネクタイを結んでもらう。この綺麗な子を…独り占めしたいと思うのは、贅沢なんだろうか。結婚して、本当の意味で結ばれた気がした。だけど…今も光は、いろんな奴に求められてる。光は俺だけを見てくれているけど、ふとしたきっかけでもし離れてしまいそうになったら、もう…取り戻せないような途方もない気持ちになる。
「一也…」
不意の呼び捨てにどきりとすると、光に唇を奪われた。唇を離した光は、もどかしげに俺を見て、自分の両頬を手で包み、うっとりとした。
「かっこいい…」
「…へ?」
「ユニフォームも、普段着も好きだけど、スーツ姿が…私、好きなんですよね」
「そ…そうなんだ」
知らなかった。
「一也さんは?」
「え?」
「どんな格好が好き?」
い…いきなりそんなマニアックな質問。いや、ここで動じたらまたからかわれて、可愛いとか言われちまうんだ。
「そうだな…どんなカッコでも綺麗だけど」
俺は光の髪に指を通し、撫でながら言った。
「やっぱ…一番はあれだろ」
「…なに?」
「高校ん時の制服。」
光は目を丸くして、笑い出した。
「もう着れないじゃないですか。」
「そうか?まだまだイケるって」
「もう!…そういう問題じゃない。」
光ははにかみながら俺の胸をちょっと叩いて踵を返した。
支度を終えてリビングに戻ると、光臣が退屈そうにソファで待っていた。光臣は光を見て微笑を浮かべ、優雅に立ち上がると、じっと見惚れた。
「良く似合うな。」
「…ありがとう。」
光は光臣を訝しむように儀礼的に礼を言って、俺を振り返る。
「じゃあ行きましょうか。」
「うん。」
頷いて、俺たちは光臣に連れられて、会場へと向かった。
***
会場につき、いつも通り光をエスコートして中に入ったところで、光臣が振り返って俺たちに咳ばらいをした。
「…何?」
光が訊ねると、光臣は俺に掴まっている光の手を見る。
「悪いんだが、今日は先方を立ててほしい。」
光は瞬きし、俺を見上げて、ちょっと不服そうに手を離した。すると光臣は満足そうにして、また踵を返した。
「では、挨拶しに行こう。」
光臣についていくと、会場の中ほどに、ひときわ目を惹く若い男が立っていた。黒々とした短髪にキリッと上がった眉、堀の深い顔。…イタリア人か?
「社長のレオーニ氏だ。」
光臣はそう言うと、流暢なイタリア語で男に話しかけ、その男とハグをした。そして光臣が身を翻して光を指すと、男は感極まったように口元を押さえ、満面の笑みになって早口で何かを言った。
光は短い言葉で何かを言い、男は嬉しそうに光に握手を求め、そのまま手を引き、ハグをする。俺にもちらりと目をやったが、軽い握手をすると、男はまた光に夢中になる。
男が何かを言うと、光は困ったようにはにかみながら相槌を打つ。
「おい…光臣。」
俺はこっそりと光臣に耳打ちした。
「なんて言ってるんだ?」
すると光臣は涼しい顔で二人を眺めながら言った。
「…『君は天から落ちてしまった天使なのか?君ほど美しい人間を作った神に僕は感謝する。この世のすべての美しいものは、君のためにあるのだろう。君の美しさは天命だ。その美しさで人間の愚かさを試すため、天から遣わされたのだろう?きっと君が命を落としたら、美を象徴する星座が生まれるのだろう。』…まだ聞くか?」
「…もういい」
「ふっ。イタリア人は情熱的だからな。」
光臣は給仕からワイングラスを流れるように受け取りながら言った。
「君も飲むか?」
「いや…いい」
それどころじゃない。光が心配だ。
また光に視線を戻すと、男は熱心に光に何かを語りかけている。…口説いてるだろ、どう見ても。何を言ってるかはわからないが、態度を見ていれば明白だ。光は愛想笑いを浮かべ、ちらりと光臣を振り返る。同時に、男も光臣を見た。光臣は二つの視線を一瞥し、イタリア語で何かを言った。男の顔がほころび、光の頬が固まった。そして男は光の肩に手を回し、どこかへ連れて行こうとした。
「あ、おい…!」
踏み出した俺を、光臣が止める。男はふっと俺から逃れるように、光を連れて行ってしまう。
「…おい、何なんだよ。」
「もう少し二人で話してきたらどうか、と言ったんだ。」
「なんでそんなこと…仕事のパーティーだろ?光は関係ないし…あいつ、下心丸出しだったじゃねーか!」
「見くびるな、光はあの程度どうとでもあしらえる。それよりも、今度の商談を逃すわけにはいかないんだ。」
「光を差し出してまでする事かよ?お前…光のこと好きだったはずだろ!」
「だからこそだ。彼がこちらの条件を飲んでくれなければ…光の母親の生家が取り壊されてしまうのだからな。」
「……は…!?」
あまりにも突然の言葉に、俺は言葉を失って息をのんだ。
「ど…どういうことだよ!?」
「光の母親はイタリアの生まれでな、幼少期を過ごした生家がイタリアにあるんだ。光も幼い頃はよくそこで過ごしていた。あそこには…彼女の数少ない母親との思い出が眠っている。その生家を含む一帯の地域が、今、再開発地区として検討されていてな。彼の会社が主導権を握っているんだ。俺は家を何とか残そうと、折衷案を提示しているところだ。」
「…光はそれ…知ってんのか?」
「知らないに決まっているだろう。教えたら、きっと無茶をする。」
「……。」
「まぁ…彼も、光に会う口実を求めて今回の再開発に踏み切った節がある。光との関係次第では、簡単に意見を翻してくれる可能性もある。」
「…じゃあ、お前…今回のこと、光のために?」
光臣はワインを少し舐めるとグラスをテーブルに置いた。
「光のため…、と言うつもりはないが、もう彼女が、自分の力の及ばぬことで苦しむのは見たくない…。そのためなら、何でもするつもりだ。」
「……。」
ぽかんとする俺を余所に、光臣はちょっと片手を挙げて、失礼する、と立ち去った。そして偉そうなスーツの男たちと歓談を始める。ビジネスライクな微笑を浮かべ、流暢なイタリア語で。
…別世界に迷い込んだ気分だ。俺は部屋の隅の椅子に腰を下ろして、静かにワインを飲み始めた。
***
どのくらい時間が経っただろうか、ふいに甘い香りがして顔を上げると、光が目の前に立っていた。
「一也さん。」
光は頬をほころばせて、立ち上がった俺の腕にそっと掴まった。
「もういいの?」
「うん…あのね、レオーニさんと話してたら、急に泣き出しちゃって…」
「え?」
「光臣が、あとは二人で話すから、私たちはもう帰っていいって…」
「…泣いたって…なんで?」
光はちょっと首を傾げた。
「…私、本当に小さい頃、イタリアに住んでたことがあるんですけど、その頃の話をよく聞かれて。」
「…うん」
「それで…お母さんの話をしてたら…急に。」
「…へぇ」
「…イタリア人って、情熱的ですから。」
光臣と全く同じことを言った光にちょっと笑いそうになって、会場の出口へ向かう。
「そんじゃ…帰るか。疲れただろ?」
「はい。」
光は絡めた腕を胸に抱き寄せてはにかんだ。
「…早く帰りたいな。」
そう呟いた光を抱きしめたくなりながら、俺たちは光臣が用意した車へと乗り込んだ。