172
気が付くと、真っ白な天井が目に入った。
「…倉持さん?」
すぐ隣から、柔らかな甘い声がする。
その声の主は、俺の思い違いでなかったら――。
「…光。」
枕元の椅子には光が座っていて、俺と目が合うと、ふわりとほほ笑んだ。
「なんで…」
呆然とする俺に、光は微笑みを絶やさない。
「一也さんの所に連絡が来たので…。一也さんと一緒に来たんですけど、一也さんは…その、今日は…試合があるから」
「……。」
…今日。俺、どのくらい眠ってたんだ?
「試合…。」
呆然と呟くと、光は悲しげに息をのんだ。
「…ご家族の方は、明日来られるって連絡がありました。それまでは私がいるので…何でも言ってくださいね。」
「……。」
言うべき言葉が見つからず、俺は戸惑いを隠せずに視線を彷徨わせる。試合は…どうなったんだ?球団への連絡は?俺の…怪我は?
「…お医者さん、呼んできますね。」
俺が黙り込んでいるからか、光はそう言い残して部屋を出て行った。しばしの静寂の中、頭の中はめちゃくちゃで、俺は何度もため息を吐いた。窓の外は皮肉なほどに晴れ渡っている。陽がさんさんと差し込むこの病室に、俺は取り残された気分だった。今頃御幸は…試合の真っ最中。俺はいつまでここにいなきゃならねえんだ?
「失礼します。」
淡々とした声のあと、ドアが開いて、医師と光が入ってきた。医師はベッドの傍に立つと、カルテと俺を見比べて、深刻そうに口を開いた。
「倉持さん。落ち着いて聞いてくださいね。」
「……え?」
「大きい事故だった割には…奇跡的な怪我で済みました。ですが…足の損傷が激しく、以前のように歩くためには手術が必要です。」
歩く…?何を言ってるんだ?
「右手首の骨折、左腕の捻挫、そして切り傷の縫合の処置を昨夜緊急手術で終えました。問題は、右足の靱帯断裂。手術により人体を縫合し、リハビリすることをお勧めします。以前どおりの動きができるほどの回復は…難しいかもしれませんが、望みはあります。」
医者の言葉が頭に入ってこない。待てよ…俺、今、歩けないのか?俺の体…どうなってるんだ?リハビリって…いつまで?どれくらいやったら、歩けるようになる?走れるようになる?試合に…出られるようになる?
俺は…野球を続けられるのか?
「では…もう少ししたら、食事の時間ですから、それまで休んでいてください。それと…着替えなどはありますか?」
「いや…」
「私、取ってきます。」
俺の言葉を遮るように光が言うと、医師は頷いた。
「手術についてはそのあと、詳しいお話をさせていただきますので。まだ麻酔が抜けていないでしょうから、しっかりと休んでいてくださいね。」
それでは、と医師はきっちりと一礼し、部屋を出て行った。
光は俺に語りかけるような微笑を向け、サイドボードの下に置かれた俺の荷物に歩み寄る。
「着替え、取りに行ってきます。バッグ、開けてもいいですか?」
「あ…ああ、だけど…」
「失礼します。」
光はベッドの上の俺の目の前でスポーツバッグを開け、マンションの鍵を取りだした。
「確か…406号室でしたよね。」
「ああ…うん」
「それじゃあ、ちょっとお邪魔しちゃいますけど…すみません。すぐ戻ってきますから。」
「…ごめん。いろいろ…」
「気にしないでください。」
光は優しく微笑んで、部屋を出て行った。…御幸はどういうつもりなんだ?光に俺の看病を任せるなんて…。いや、おかげで助かったけどよ…。
…それにしても。こんなことになるなんて。脚の怪我の事を考えると絶望的な気分だ。だけど…諦めちゃだめだ。医者も言ってただろ、リハビリで…どうにかなる。そうだろ…。
俺は俯いて、溜飲を飲みこんだ。そうしないと、叫びだしてしまいそうだった。
***
1時間もせずに、光は病院に戻ってきた。袋の中身を棚に仕舞いながら、ちょっとこちらを振り返る。
「タオルはここに入れておきますね。あと、Tシャツとズボンも何着か。下着もとりあえず1週間分あります。」
「あ…ありがとう。」
下着…見られたのか。し、仕方ねぇけど…恥ずかしい。
「あと…これも必要だと思って。」
光が取り出したのは、携帯の充電器、歯ブラシセット、髭剃り…。気が利くな…。
「…ありがとな。」
「いいえ。」
光はそれらもサイドボードに仕舞って、俺を振り返った。
「他に何か必要なものは?」
「いや…平気、だと思う。」
「朝ご飯は食べました?」
「まだ…」
言いかけたところで、看護師が食事を運んできた。白米に味噌汁、サラダ、焼き魚の切り身、漬物、みかん。教科書に載っていそうな、お手本のようなメニュー。見るからに味気ない…光や御幸が作る飯が恋しい。
看護士はベッドに机を取り付け、食事を置いて部屋を出て行った。
「起きられますか?」
「あ…うん」
頷いたものの、両腕が包帯で固定されていて、思うように起き上がれない。すると光が身を屈めて俺の左腕の下に腕を通し、体を支えた。…甘い香り。柔らかな感触。
「掴まってください。…せーの、」
ゆっくりと、体を起こす。ふわりと甘い残り香を残して身を離した光に、俺はかろうじて微笑を向ける。
「悪い…。」
「ふふ、いいえ。」
なんだか嬉しそうな光の微笑みに胸が苦しくなる。そんな風に笑われたら…また、勘違いしちまうだろ。
「どれから食べますか?」
「え…」
「倉持さん、両手使えないでしょ。」
光は箸を持って、にこりと俺に微笑む。
「……。」
「どうしたんですか?」
「……ちょっと、待ってくれ」
落ち着け…落ち着け俺。今から光にあーんしてもらうけど、とにかく冷静になれ。くそ、赤くなるな…!!
「お魚食べますか?」
「…お、おぉ」
「じゃあ…はい。」
光は魚の切り身を一口大だけ箸で切って取り、左手を添えて俺の口元に持ってくる。
「あーん。」
「……ん。」
くそ…恥ずかしい…!!嬉しいけど…やばい、にやける。
口元が緩むのを堪えながら食事を手伝ってもらい、ふと、光がにこにこ嬉しそうに俺を見ていることに気付く。
「…何?」
なんとなく顔を熱くして訊ねると、光は無邪気に答えた。
「倉持さん…なんか可愛いから」
「…は!?」
「あはは、冗談ですよ。」
光は蜜柑の皮を剥いて、身を一つ俺の口元に差し出した。
「はい。デザートですよ」
「…ん。」
小さな身を食むと、それを摘まんでいる光の細い指の先に唇が触れて、俺は慌てた。しかし光は気にしていないのか気付いてもいないのか…表情を変えず次の身を差し出してくる。
光に触れないように身を食む。次も、その次も。やけに緊張した。光はなにも言わない。思えば…唇と指先が触れてから、ずっと黙っているように思う。俺の考えすぎか…?いや、だけど…光の顔が見れない。
カシャン、と音がして、光がトレーを持ち上げたのだと気付いた。気付いた時には、もう食事を完食していた。
「これ…下げてきますね。」
光はそう言って、ちょっと部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。
「身体、拭きますか?」
そう尋ねられて、そういえば昨日の夜はシャワーも浴びていないんだと気付き、途端に体が汗臭い気がしてきた。
「あ、あぁ…」
「じゃ、ちょっと待っててください。」
え?
目を丸くする俺を置いてまた部屋を出て行く光。…看護士でも呼んできてくれんのかな。
そう思っていると、しばらくして、光は洗面器を持って戻ってきた。サイドボードに置いたそれにはお湯が張られている。ぽかんとする俺を余所に、光はタオルを取り出してきて、ベッドに戻ってきた。
「えっと…」
光は俺に苦笑いのような照れ笑いのような笑みを向けた。
「失礼します…」
「…ちょ、ちょっと待て」
俺のTシャツを捲り上げようとして、俺の抵抗に遭い手を止める光。
「そ…そこまでしてくれなくていいから…。看護士呼んでくれ。」
「それが…こういうことはなるべく、付き添いの人がやってくださいって言われちゃって。」
な…なんだと?
「あの…気にしないでください。私も気にしないので。」
気にしない…ね。だよなぁ…、俺ばっか意識して、バカみたいじゃねーか…。
「…失礼します。」
Tシャツを捲り上げられ、必死に気を紛らわせながらTシャツを脱ぐ。ひやりとした空気を背中に感じる。光花にも言わず、Tシャツを籠に入れ、タオルをお湯で濡らして絞ると、俺に向き直った。
あたたかいタオルで肌が拭われていく。…気持ちいい。うなじ、肩、鎖骨、背中、腕、胸、腹…。上半身を一折拭き終ると、光はタオルを濯いで俺に微笑みかけた。何かと思っていると、光はゆっくりと、俺のズボンに手をかける。慌てて左手で押さえようとして、痛みを感じて呻いた。
「…大丈夫ですから。」
光はそう微笑んで、ズボンを下ろした。下着一枚になって、いよいよ下着に手をかけられると、俺はつい声を上げた。
「や、やっぱりいい!」
「…倉持さん。でも…」
「じ…自分でできる。」
そう言い張ると、光は手を離してベッドから離れた。
「じゃあ…終わったら、声をかけてください。着替え、手伝いますから…」
そう言いのこし、タオルを絞って広げ、俺に手渡して、ベッドの周りのカーテンを閉めた。
た…助かった。危うく反応しちまうところだった。さて…いっそ一旦抜いて冷静になりたいところだが、カーテンの向こうには光がいる…。しかも俺は両手が使えない。くそ…きついぞこれ。
なんとか動く左手で下半身を拭き、布団で下着を隠して、俺は意を決して声を上げた。
「…光。着替え…いいか?」
「あ…はい。」
カーテンが捲られ、パジャマを持った光が顔を出す。せめてもの恥じらいを持って下着一枚の下半身を覆っていた布団を呆気なく捲られ、ズボンに脚を通した。光に手伝ってもらってズボンを履き、必死に気を紛らわせながら、続いてパジャマの上を羽織る。前のボタンを留めてもらってようやく着替えが済むと、光は動揺もなく脱いだズボンと下着を拾い上げ、Tシャツと一緒に籠に入れた。
「…光、昨日から居てくれてんのか?」
「え?あ…はい。夜、一度帰りましたけど…」
なんで…そこまで。ただの親切心なのか?
「いいのか…ここにいて。」
「え?」
「御幸の応援に行くはずだっただろ。」
「倉持さんが心配なんです。私も、一也さんも」
「それにしたって、ここまで…」
ここまで…尽くしてくれなくても。勘違いしてしまう。それはもう、嫌なんだ。
「…私、嬉しいんです。」
「…え?」
「やっと、倉持さんの助けになれて。…って、ごめんなさい。不謹慎ですよね。でも、倉持さんには助けてもらってばかりだったから…。」
光はそう言って、洗面器と籠を持ってはにかんだ。
「だから、私にできることだったら、何でも言ってくださいね。」
「……。」
「これ、片づけて洗濯してきます。ついでに売店で何か買ってきましょうか?雑誌とか…」
「いや……」
「いいんですか?退屈じゃありません?」
「……うん。」
「ふふ。遠慮しないでくださいね。」
優しい笑みに胸を苦しめられながら、かろうじて微笑を浮かべて彼女を見送る。だけど…おかげで、暗い気持ちにならずに済む。一人だったらきっと、まだ怪我のショックから立ち直れていなかったはずだ。
光が整えてくれた枕に背を持たれて、俺は白い天井を見上げた。
「…倉持さん?」
すぐ隣から、柔らかな甘い声がする。
その声の主は、俺の思い違いでなかったら――。
「…光。」
枕元の椅子には光が座っていて、俺と目が合うと、ふわりとほほ笑んだ。
「なんで…」
呆然とする俺に、光は微笑みを絶やさない。
「一也さんの所に連絡が来たので…。一也さんと一緒に来たんですけど、一也さんは…その、今日は…試合があるから」
「……。」
…今日。俺、どのくらい眠ってたんだ?
「試合…。」
呆然と呟くと、光は悲しげに息をのんだ。
「…ご家族の方は、明日来られるって連絡がありました。それまでは私がいるので…何でも言ってくださいね。」
「……。」
言うべき言葉が見つからず、俺は戸惑いを隠せずに視線を彷徨わせる。試合は…どうなったんだ?球団への連絡は?俺の…怪我は?
「…お医者さん、呼んできますね。」
俺が黙り込んでいるからか、光はそう言い残して部屋を出て行った。しばしの静寂の中、頭の中はめちゃくちゃで、俺は何度もため息を吐いた。窓の外は皮肉なほどに晴れ渡っている。陽がさんさんと差し込むこの病室に、俺は取り残された気分だった。今頃御幸は…試合の真っ最中。俺はいつまでここにいなきゃならねえんだ?
「失礼します。」
淡々とした声のあと、ドアが開いて、医師と光が入ってきた。医師はベッドの傍に立つと、カルテと俺を見比べて、深刻そうに口を開いた。
「倉持さん。落ち着いて聞いてくださいね。」
「……え?」
「大きい事故だった割には…奇跡的な怪我で済みました。ですが…足の損傷が激しく、以前のように歩くためには手術が必要です。」
歩く…?何を言ってるんだ?
「右手首の骨折、左腕の捻挫、そして切り傷の縫合の処置を昨夜緊急手術で終えました。問題は、右足の靱帯断裂。手術により人体を縫合し、リハビリすることをお勧めします。以前どおりの動きができるほどの回復は…難しいかもしれませんが、望みはあります。」
医者の言葉が頭に入ってこない。待てよ…俺、今、歩けないのか?俺の体…どうなってるんだ?リハビリって…いつまで?どれくらいやったら、歩けるようになる?走れるようになる?試合に…出られるようになる?
俺は…野球を続けられるのか?
「では…もう少ししたら、食事の時間ですから、それまで休んでいてください。それと…着替えなどはありますか?」
「いや…」
「私、取ってきます。」
俺の言葉を遮るように光が言うと、医師は頷いた。
「手術についてはそのあと、詳しいお話をさせていただきますので。まだ麻酔が抜けていないでしょうから、しっかりと休んでいてくださいね。」
それでは、と医師はきっちりと一礼し、部屋を出て行った。
光は俺に語りかけるような微笑を向け、サイドボードの下に置かれた俺の荷物に歩み寄る。
「着替え、取りに行ってきます。バッグ、開けてもいいですか?」
「あ…ああ、だけど…」
「失礼します。」
光はベッドの上の俺の目の前でスポーツバッグを開け、マンションの鍵を取りだした。
「確か…406号室でしたよね。」
「ああ…うん」
「それじゃあ、ちょっとお邪魔しちゃいますけど…すみません。すぐ戻ってきますから。」
「…ごめん。いろいろ…」
「気にしないでください。」
光は優しく微笑んで、部屋を出て行った。…御幸はどういうつもりなんだ?光に俺の看病を任せるなんて…。いや、おかげで助かったけどよ…。
…それにしても。こんなことになるなんて。脚の怪我の事を考えると絶望的な気分だ。だけど…諦めちゃだめだ。医者も言ってただろ、リハビリで…どうにかなる。そうだろ…。
俺は俯いて、溜飲を飲みこんだ。そうしないと、叫びだしてしまいそうだった。
***
1時間もせずに、光は病院に戻ってきた。袋の中身を棚に仕舞いながら、ちょっとこちらを振り返る。
「タオルはここに入れておきますね。あと、Tシャツとズボンも何着か。下着もとりあえず1週間分あります。」
「あ…ありがとう。」
下着…見られたのか。し、仕方ねぇけど…恥ずかしい。
「あと…これも必要だと思って。」
光が取り出したのは、携帯の充電器、歯ブラシセット、髭剃り…。気が利くな…。
「…ありがとな。」
「いいえ。」
光はそれらもサイドボードに仕舞って、俺を振り返った。
「他に何か必要なものは?」
「いや…平気、だと思う。」
「朝ご飯は食べました?」
「まだ…」
言いかけたところで、看護師が食事を運んできた。白米に味噌汁、サラダ、焼き魚の切り身、漬物、みかん。教科書に載っていそうな、お手本のようなメニュー。見るからに味気ない…光や御幸が作る飯が恋しい。
看護士はベッドに机を取り付け、食事を置いて部屋を出て行った。
「起きられますか?」
「あ…うん」
頷いたものの、両腕が包帯で固定されていて、思うように起き上がれない。すると光が身を屈めて俺の左腕の下に腕を通し、体を支えた。…甘い香り。柔らかな感触。
「掴まってください。…せーの、」
ゆっくりと、体を起こす。ふわりと甘い残り香を残して身を離した光に、俺はかろうじて微笑を向ける。
「悪い…。」
「ふふ、いいえ。」
なんだか嬉しそうな光の微笑みに胸が苦しくなる。そんな風に笑われたら…また、勘違いしちまうだろ。
「どれから食べますか?」
「え…」
「倉持さん、両手使えないでしょ。」
光は箸を持って、にこりと俺に微笑む。
「……。」
「どうしたんですか?」
「……ちょっと、待ってくれ」
落ち着け…落ち着け俺。今から光にあーんしてもらうけど、とにかく冷静になれ。くそ、赤くなるな…!!
「お魚食べますか?」
「…お、おぉ」
「じゃあ…はい。」
光は魚の切り身を一口大だけ箸で切って取り、左手を添えて俺の口元に持ってくる。
「あーん。」
「……ん。」
くそ…恥ずかしい…!!嬉しいけど…やばい、にやける。
口元が緩むのを堪えながら食事を手伝ってもらい、ふと、光がにこにこ嬉しそうに俺を見ていることに気付く。
「…何?」
なんとなく顔を熱くして訊ねると、光は無邪気に答えた。
「倉持さん…なんか可愛いから」
「…は!?」
「あはは、冗談ですよ。」
光は蜜柑の皮を剥いて、身を一つ俺の口元に差し出した。
「はい。デザートですよ」
「…ん。」
小さな身を食むと、それを摘まんでいる光の細い指の先に唇が触れて、俺は慌てた。しかし光は気にしていないのか気付いてもいないのか…表情を変えず次の身を差し出してくる。
光に触れないように身を食む。次も、その次も。やけに緊張した。光はなにも言わない。思えば…唇と指先が触れてから、ずっと黙っているように思う。俺の考えすぎか…?いや、だけど…光の顔が見れない。
カシャン、と音がして、光がトレーを持ち上げたのだと気付いた。気付いた時には、もう食事を完食していた。
「これ…下げてきますね。」
光はそう言って、ちょっと部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。
「身体、拭きますか?」
そう尋ねられて、そういえば昨日の夜はシャワーも浴びていないんだと気付き、途端に体が汗臭い気がしてきた。
「あ、あぁ…」
「じゃ、ちょっと待っててください。」
え?
目を丸くする俺を置いてまた部屋を出て行く光。…看護士でも呼んできてくれんのかな。
そう思っていると、しばらくして、光は洗面器を持って戻ってきた。サイドボードに置いたそれにはお湯が張られている。ぽかんとする俺を余所に、光はタオルを取り出してきて、ベッドに戻ってきた。
「えっと…」
光は俺に苦笑いのような照れ笑いのような笑みを向けた。
「失礼します…」
「…ちょ、ちょっと待て」
俺のTシャツを捲り上げようとして、俺の抵抗に遭い手を止める光。
「そ…そこまでしてくれなくていいから…。看護士呼んでくれ。」
「それが…こういうことはなるべく、付き添いの人がやってくださいって言われちゃって。」
な…なんだと?
「あの…気にしないでください。私も気にしないので。」
気にしない…ね。だよなぁ…、俺ばっか意識して、バカみたいじゃねーか…。
「…失礼します。」
Tシャツを捲り上げられ、必死に気を紛らわせながらTシャツを脱ぐ。ひやりとした空気を背中に感じる。光花にも言わず、Tシャツを籠に入れ、タオルをお湯で濡らして絞ると、俺に向き直った。
あたたかいタオルで肌が拭われていく。…気持ちいい。うなじ、肩、鎖骨、背中、腕、胸、腹…。上半身を一折拭き終ると、光はタオルを濯いで俺に微笑みかけた。何かと思っていると、光はゆっくりと、俺のズボンに手をかける。慌てて左手で押さえようとして、痛みを感じて呻いた。
「…大丈夫ですから。」
光はそう微笑んで、ズボンを下ろした。下着一枚になって、いよいよ下着に手をかけられると、俺はつい声を上げた。
「や、やっぱりいい!」
「…倉持さん。でも…」
「じ…自分でできる。」
そう言い張ると、光は手を離してベッドから離れた。
「じゃあ…終わったら、声をかけてください。着替え、手伝いますから…」
そう言いのこし、タオルを絞って広げ、俺に手渡して、ベッドの周りのカーテンを閉めた。
た…助かった。危うく反応しちまうところだった。さて…いっそ一旦抜いて冷静になりたいところだが、カーテンの向こうには光がいる…。しかも俺は両手が使えない。くそ…きついぞこれ。
なんとか動く左手で下半身を拭き、布団で下着を隠して、俺は意を決して声を上げた。
「…光。着替え…いいか?」
「あ…はい。」
カーテンが捲られ、パジャマを持った光が顔を出す。せめてもの恥じらいを持って下着一枚の下半身を覆っていた布団を呆気なく捲られ、ズボンに脚を通した。光に手伝ってもらってズボンを履き、必死に気を紛らわせながら、続いてパジャマの上を羽織る。前のボタンを留めてもらってようやく着替えが済むと、光は動揺もなく脱いだズボンと下着を拾い上げ、Tシャツと一緒に籠に入れた。
「…光、昨日から居てくれてんのか?」
「え?あ…はい。夜、一度帰りましたけど…」
なんで…そこまで。ただの親切心なのか?
「いいのか…ここにいて。」
「え?」
「御幸の応援に行くはずだっただろ。」
「倉持さんが心配なんです。私も、一也さんも」
「それにしたって、ここまで…」
ここまで…尽くしてくれなくても。勘違いしてしまう。それはもう、嫌なんだ。
「…私、嬉しいんです。」
「…え?」
「やっと、倉持さんの助けになれて。…って、ごめんなさい。不謹慎ですよね。でも、倉持さんには助けてもらってばかりだったから…。」
光はそう言って、洗面器と籠を持ってはにかんだ。
「だから、私にできることだったら、何でも言ってくださいね。」
「……。」
「これ、片づけて洗濯してきます。ついでに売店で何か買ってきましょうか?雑誌とか…」
「いや……」
「いいんですか?退屈じゃありません?」
「……うん。」
「ふふ。遠慮しないでくださいね。」
優しい笑みに胸を苦しめられながら、かろうじて微笑を浮かべて彼女を見送る。だけど…おかげで、暗い気持ちにならずに済む。一人だったらきっと、まだ怪我のショックから立ち直れていなかったはずだ。
光が整えてくれた枕に背を持たれて、俺は白い天井を見上げた。