175
「今日は倉持のとこ行かないの?」
キッチンで紅茶を煮出している光に声をかける。いつもならばそろそろ朝食の時間だからと出かける頃だ。
「ん…、うん」
なんだか沈んだ顔で光は頷いた。昨日光臣と帰ってきてからこの調子だ。
「…?なんかあった?」
「何もないよ。」
「じゃあなんで…」
「あんまり行っても迷惑になると思って」
…どういう風の吹き回しだ?昨日まではあんなに倉持の心配してたのに…。まぁ、俺としては安心だけど。
「…倉持に何かされた?」
「…違うよ」
「じゃあ光臣?」
「違うってば…。何でもないよ。」
その割には元気がない。光はあまり自分の事を話してくれないから、こういうときの「何でもない」はあてにならない。こういうときは…
「光。」
彼女の後ろに立ち、背中から細い体を抱きしめる。
「何…?」
「今日仕事は午後からだろ。半日一緒に過ごせるんだからさ…」
言いながら、彼女のうなじにキスをする。細い腰を撫で、だんだんと手を上にずらしていく。
光が素直になるのは…酒を飲んだ時と、セックスをしている時。甘い雰囲気にもっていけばこっちのものだ…
「ちょ…ちょっと、待って…」
「待てない。」
胸を揉みしだき、ブラウスのボタンを手探りで外そうとした時――俺の手を光が掴んだ。
「きょ…今日はダメ…」
俯いてそう言うと、煮出したままの紅茶をそのままに、逃げるように寝室へ行ってしまった。
「え…?」
どういうこと?こんなふうに拒まれんの、初めてなんだけど…。やっぱり倉持と何かあったのか…?
取り残された俺は、ショックと困惑とに苛まれながら立ち尽くしていた。
***
「一人で来るなんて珍しいな。」
別宅の地下のトレーニングルーム。光臣から、好きな時に好きなように使ってもらって構わない、とは言われていたものの、マンションに移ってから実際にお邪魔したのは今日が初めてだ。
筋トレを中断し、入り口の扉に寄りかかっている光臣を見る。汗を拭きながらベンチに座ると、光臣も室内にやって来た。
「悪いな…いきなり来て」
「構わない。いつでも好きなときに来てくれ、義兄上。」
「……お前でも冗談言うんだな」
「ユーモアは大切だろう?」
光臣は飄々と笑ってベンチに腰掛け、足を組む。
「それで、何かあったのか?」
一応年下だというのに、いつも偉そうな奴だ。だが、こいつはこういう態度の方がしっくりくる。
「昨日さ…光に何かあった?」
「なぜそう思う?」
「…元気ないんだよ」
「そうか」
光臣は想定内かのように頷いた。やっぱりこいつ何か知ってんだろ…。
「何か知ってんだろ?教えてくれよ」
「本当に知りたいのか?」
「…?変なこと聞く奴だな、当たり前だろ」
「君にはどうしようもないことだとしても?」
「なんだよそれ?」
「知らない方が良い事もあるという事だ」
「は?」
俺は思い切り顔を顰めた。光臣は憐れむような笑みを浮かべた。
「意味わかんねー。いいから教えろよ」
「そうだな…俺の勘も入っているが、それでもいいか?」
「いいよ。何なの?」
「光は多分、倉持洋一に惹かれている」
「……え?」
「しかし君を裏切りたくない気持ちとの狭間で揺れている…そんなところかな」
「……。」
「あまり驚いていないな。予想していたのか?それとも、気付いていたのか?」
「…いや、驚いてるよ」
嘘だ。驚きはあまりない。ショックは大きいけど…心のどこかで感じていた不安だ。
「不安なのか?」
「……そんなこと…光を信じてるよ」
「その割には自信がなさそうだが。何か心当たりでもあるのか?」
「ねーよ。」
「そうか?一度は寝た二人だぞ。可能性はあるだろ?」
「なっ…何で知ってるんだよ」
「はぁ…本気で訊いているのか?そのくらい見ていればわかるだろう。」
わかんねーよ。やっぱ変だわ、こいつ…
「それに…7年以上、見返りも求めず自分を想い続けてくれた相手だぞ。窮地に面して、少しも揺るがないと思うのか?」
「……。」
確かに…倉持はいつも、光の為にどこでも駆けつけて、何度も救って…傍にいた。光が振り向かなくても、ずっと傍に…。
「まあ…俺は何も心配ないと思うがな。」
「え?」
「どうせ何も起こらないさ。」
「…お前…焦らせたいのか慰めたいのかどっちだよ。それに、なんで言い切れるんだよ。」
光臣はいつものようにふっと微笑んだ。
「ただの勘だ。」
そして立ち上がって、入り口へと踵を返す。
「いっそのこと、光に訊いてみると良い。あいつと自分、どちらを取るのかとな。」
「それは…」
「訊かなければ、一生疑惑を抱えたままだぞ。それは嫌だろう?」
「……。」
俺が口を噤むと、話は終わりだというかのように、光臣はトレーニング室を出て行った。
***
「ただいま。」
玄関から光の声がして、にわかに緊張する。朝言った通り、本当に今日は倉持の所に行かずにまっすぐ帰ってきたようだ。光がリビングに入ってきて、俺は立ち上がった。
「…どうしたの?」
立って出迎えた俺を、光は不思議そうに見た。
「ちょっと…話があるんだけど」
「え…?」
「とりあえず、そこ座って。」
ダイニングテーブルに向かい合って座ると、緊張が増した。こんなふうに面と向かって何かを訊ねたことはなかった。ダイニングテーブルに向かい合って座ると、ふと、高校卒業後に光と再会した翌朝の事を思い出して、目の奥が熱くなった。あのときは、光とまた会えたことが、ただただ嬉しくて…触れ合えることが、笑い合えることが幸せで…こんな不安、予想もしていなかった。
「話って…?」
光の窺うような目。綺麗な淡いブルーの瞳。透き通った、曇りのない、宝石みたいな…。
「あのさ…」
俺はその綺麗な瞳に語りかける。
「昔…光と再会して、俺のマンションに来て…一緒に朝食を食べただろ?」
「…うん」
「今みたいに、向かい合って座って。それで…一緒に住もうって言った時、俺…すごく幸せで。安心できたんだ」
「……。」
「これからずっとお前と一緒に居られるんだと思うと、最高に幸せで…時々、あの頃に戻りたいと思う時がある。」
光はちょっと目を伏せて、決意したように唇を引き結び、俺を見た。
「…倉持さんのことですね。」
ここでその名前を出すという事は、光の中に自覚があるのかもしれない。もしかしたら、もう結論も出ているのかもしれない…。胸が苦しい。
「…好きなのか?」
一息にその質問を絞り出した。心臓が破裂しそうなほど跳ねている。ずっと感じていた不安…。倉持には何度も助けてもらって、命さえ救ってもらった。精神的な部分でも大きな支えになっただろう。だから、いつか俺よりも、倉持への思いが大きくなるんじゃないかと…気が気じゃなかった。
「…好き、というのが…一生連れ添いたい、という意味なら…違います。」
「……。」
「私は一也さんと結婚しました。それは今でも、すごく幸せなことで…何の迷いもありません。」
「…じゃあ…他の意味なら?」
「…思い出すと…あたたかい気持ちになる。信頼しているし……、…触れたいと思う事もあります。」
ごくり、と俺の喉が鳴った。光は少し伏し目がちに話し続ける。
「…ごめんなさい。こんな最低なこと…。一也さんは、誠実でいてくれてるのに」
「……。」
「なんでも…一也さんの言う通りにします。もう会うなというなら、会いません。別れたいなら…」
光は震える声で言った。
「…そうします。」
そして静寂が降りた。俺の左手の薬指には、真新しい結婚指輪が虚しく光っている。俺はそれを抜き取り、テーブルの上に置いた。コツン、という硬い音で、光は顔を上げて指輪を見て、目尻を赤くした。
「離婚はしない。」
俺が言うと、光は息をのんだ。
「だけど…しばらく距離を置こう。」
「…わかりました。」
光は頷いて、俯いた。指輪は外さなかった。
「…俺は、しばらく…沢村に泊めてもらう。ここは光が使ってくれ。」
「私が司の所に…」
「お前はファンやマスコミにばれたらまた危ないだろ。ここにいろよ。」
ここなら光臣が用意したセキュリティがしっかり備わっているし、警備員も駐在している。光はばつが悪そうに俯いた。
「それで…ひとつ頼みがある。」
「…何…?」
「距離を置いている間…、倉持の看病してやって。」
「…え?」
光は不安そうに俺を見た。
「どういうこと…?」
「…それで、気持ちをはっきりさせてほしい。倉持への迷いを持ったまま…一緒には居られない。」
「……。」
「それで…倉持が退院するまでの2週間、お互いに考えよう。その時、また夫婦に戻りたい気持ちがあったら…」
「……。」
「…俺が初めてプロポーズした場所に来てくれ。」
その意味が――場所が、伝わったかどうか。
光は泣きそうな顔で、頷いた。
キッチンで紅茶を煮出している光に声をかける。いつもならばそろそろ朝食の時間だからと出かける頃だ。
「ん…、うん」
なんだか沈んだ顔で光は頷いた。昨日光臣と帰ってきてからこの調子だ。
「…?なんかあった?」
「何もないよ。」
「じゃあなんで…」
「あんまり行っても迷惑になると思って」
…どういう風の吹き回しだ?昨日まではあんなに倉持の心配してたのに…。まぁ、俺としては安心だけど。
「…倉持に何かされた?」
「…違うよ」
「じゃあ光臣?」
「違うってば…。何でもないよ。」
その割には元気がない。光はあまり自分の事を話してくれないから、こういうときの「何でもない」はあてにならない。こういうときは…
「光。」
彼女の後ろに立ち、背中から細い体を抱きしめる。
「何…?」
「今日仕事は午後からだろ。半日一緒に過ごせるんだからさ…」
言いながら、彼女のうなじにキスをする。細い腰を撫で、だんだんと手を上にずらしていく。
光が素直になるのは…酒を飲んだ時と、セックスをしている時。甘い雰囲気にもっていけばこっちのものだ…
「ちょ…ちょっと、待って…」
「待てない。」
胸を揉みしだき、ブラウスのボタンを手探りで外そうとした時――俺の手を光が掴んだ。
「きょ…今日はダメ…」
俯いてそう言うと、煮出したままの紅茶をそのままに、逃げるように寝室へ行ってしまった。
「え…?」
どういうこと?こんなふうに拒まれんの、初めてなんだけど…。やっぱり倉持と何かあったのか…?
取り残された俺は、ショックと困惑とに苛まれながら立ち尽くしていた。
***
「一人で来るなんて珍しいな。」
別宅の地下のトレーニングルーム。光臣から、好きな時に好きなように使ってもらって構わない、とは言われていたものの、マンションに移ってから実際にお邪魔したのは今日が初めてだ。
筋トレを中断し、入り口の扉に寄りかかっている光臣を見る。汗を拭きながらベンチに座ると、光臣も室内にやって来た。
「悪いな…いきなり来て」
「構わない。いつでも好きなときに来てくれ、義兄上。」
「……お前でも冗談言うんだな」
「ユーモアは大切だろう?」
光臣は飄々と笑ってベンチに腰掛け、足を組む。
「それで、何かあったのか?」
一応年下だというのに、いつも偉そうな奴だ。だが、こいつはこういう態度の方がしっくりくる。
「昨日さ…光に何かあった?」
「なぜそう思う?」
「…元気ないんだよ」
「そうか」
光臣は想定内かのように頷いた。やっぱりこいつ何か知ってんだろ…。
「何か知ってんだろ?教えてくれよ」
「本当に知りたいのか?」
「…?変なこと聞く奴だな、当たり前だろ」
「君にはどうしようもないことだとしても?」
「なんだよそれ?」
「知らない方が良い事もあるという事だ」
「は?」
俺は思い切り顔を顰めた。光臣は憐れむような笑みを浮かべた。
「意味わかんねー。いいから教えろよ」
「そうだな…俺の勘も入っているが、それでもいいか?」
「いいよ。何なの?」
「光は多分、倉持洋一に惹かれている」
「……え?」
「しかし君を裏切りたくない気持ちとの狭間で揺れている…そんなところかな」
「……。」
「あまり驚いていないな。予想していたのか?それとも、気付いていたのか?」
「…いや、驚いてるよ」
嘘だ。驚きはあまりない。ショックは大きいけど…心のどこかで感じていた不安だ。
「不安なのか?」
「……そんなこと…光を信じてるよ」
「その割には自信がなさそうだが。何か心当たりでもあるのか?」
「ねーよ。」
「そうか?一度は寝た二人だぞ。可能性はあるだろ?」
「なっ…何で知ってるんだよ」
「はぁ…本気で訊いているのか?そのくらい見ていればわかるだろう。」
わかんねーよ。やっぱ変だわ、こいつ…
「それに…7年以上、見返りも求めず自分を想い続けてくれた相手だぞ。窮地に面して、少しも揺るがないと思うのか?」
「……。」
確かに…倉持はいつも、光の為にどこでも駆けつけて、何度も救って…傍にいた。光が振り向かなくても、ずっと傍に…。
「まあ…俺は何も心配ないと思うがな。」
「え?」
「どうせ何も起こらないさ。」
「…お前…焦らせたいのか慰めたいのかどっちだよ。それに、なんで言い切れるんだよ。」
光臣はいつものようにふっと微笑んだ。
「ただの勘だ。」
そして立ち上がって、入り口へと踵を返す。
「いっそのこと、光に訊いてみると良い。あいつと自分、どちらを取るのかとな。」
「それは…」
「訊かなければ、一生疑惑を抱えたままだぞ。それは嫌だろう?」
「……。」
俺が口を噤むと、話は終わりだというかのように、光臣はトレーニング室を出て行った。
***
「ただいま。」
玄関から光の声がして、にわかに緊張する。朝言った通り、本当に今日は倉持の所に行かずにまっすぐ帰ってきたようだ。光がリビングに入ってきて、俺は立ち上がった。
「…どうしたの?」
立って出迎えた俺を、光は不思議そうに見た。
「ちょっと…話があるんだけど」
「え…?」
「とりあえず、そこ座って。」
ダイニングテーブルに向かい合って座ると、緊張が増した。こんなふうに面と向かって何かを訊ねたことはなかった。ダイニングテーブルに向かい合って座ると、ふと、高校卒業後に光と再会した翌朝の事を思い出して、目の奥が熱くなった。あのときは、光とまた会えたことが、ただただ嬉しくて…触れ合えることが、笑い合えることが幸せで…こんな不安、予想もしていなかった。
「話って…?」
光の窺うような目。綺麗な淡いブルーの瞳。透き通った、曇りのない、宝石みたいな…。
「あのさ…」
俺はその綺麗な瞳に語りかける。
「昔…光と再会して、俺のマンションに来て…一緒に朝食を食べただろ?」
「…うん」
「今みたいに、向かい合って座って。それで…一緒に住もうって言った時、俺…すごく幸せで。安心できたんだ」
「……。」
「これからずっとお前と一緒に居られるんだと思うと、最高に幸せで…時々、あの頃に戻りたいと思う時がある。」
光はちょっと目を伏せて、決意したように唇を引き結び、俺を見た。
「…倉持さんのことですね。」
ここでその名前を出すという事は、光の中に自覚があるのかもしれない。もしかしたら、もう結論も出ているのかもしれない…。胸が苦しい。
「…好きなのか?」
一息にその質問を絞り出した。心臓が破裂しそうなほど跳ねている。ずっと感じていた不安…。倉持には何度も助けてもらって、命さえ救ってもらった。精神的な部分でも大きな支えになっただろう。だから、いつか俺よりも、倉持への思いが大きくなるんじゃないかと…気が気じゃなかった。
「…好き、というのが…一生連れ添いたい、という意味なら…違います。」
「……。」
「私は一也さんと結婚しました。それは今でも、すごく幸せなことで…何の迷いもありません。」
「…じゃあ…他の意味なら?」
「…思い出すと…あたたかい気持ちになる。信頼しているし……、…触れたいと思う事もあります。」
ごくり、と俺の喉が鳴った。光は少し伏し目がちに話し続ける。
「…ごめんなさい。こんな最低なこと…。一也さんは、誠実でいてくれてるのに」
「……。」
「なんでも…一也さんの言う通りにします。もう会うなというなら、会いません。別れたいなら…」
光は震える声で言った。
「…そうします。」
そして静寂が降りた。俺の左手の薬指には、真新しい結婚指輪が虚しく光っている。俺はそれを抜き取り、テーブルの上に置いた。コツン、という硬い音で、光は顔を上げて指輪を見て、目尻を赤くした。
「離婚はしない。」
俺が言うと、光は息をのんだ。
「だけど…しばらく距離を置こう。」
「…わかりました。」
光は頷いて、俯いた。指輪は外さなかった。
「…俺は、しばらく…沢村に泊めてもらう。ここは光が使ってくれ。」
「私が司の所に…」
「お前はファンやマスコミにばれたらまた危ないだろ。ここにいろよ。」
ここなら光臣が用意したセキュリティがしっかり備わっているし、警備員も駐在している。光はばつが悪そうに俯いた。
「それで…ひとつ頼みがある。」
「…何…?」
「距離を置いている間…、倉持の看病してやって。」
「…え?」
光は不安そうに俺を見た。
「どういうこと…?」
「…それで、気持ちをはっきりさせてほしい。倉持への迷いを持ったまま…一緒には居られない。」
「……。」
「それで…倉持が退院するまでの2週間、お互いに考えよう。その時、また夫婦に戻りたい気持ちがあったら…」
「……。」
「…俺が初めてプロポーズした場所に来てくれ。」
その意味が――場所が、伝わったかどうか。
光は泣きそうな顔で、頷いた。