2週間、光は毎日病院へ来て、献身的に看病してくれた。身の回りの世話の他、リハビリの手伝い、色々な手続き…。まるで恋人か、夫婦みたいに。だからこの2週間は夢のようで、幸せで、少し信じられない。

「倉持さん。」

日当たりのよいベッドに座っていると、光が朗らかな笑顔でやってくる。

「手続き終わりましたよ。もう帰っていいって。」

タクシーも来たので帰りましょうか、と暖かく微笑む光を見て、自然と安堵し笑みがこぼれる。これからも、この子と一緒に居られたら…。
松葉杖で病室を出て、医者と看護士に挨拶をする。いったん退院だが、これからもリハビリのために通院しなければならない。タクシーに乗り、病院を出て、数十分の後、住み慣れたマンションがようやく見えてきて、俺は嬉しくなる。やっと帰ってこれたぜ…。やっぱり家が一番だ。

「大丈夫ですか?気を付けて下さいね。」
「ああ、ありがと…」

光に支えられながら部屋に入る。1ヶ月ぶりの我が家は、なんだか以前よりきれいになっていた。

「…もしかして、掃除してくれた?」

ソファに座ってそう尋ねると、光は持って帰った荷物を片づけながら答えた。

「すみません、勝手に…。ちょっと埃を拭いて、あと冷蔵庫の中身とか…それだけですから。」

そこまでやってくれるなんて。思えば、入院中も郵便物を届けてくれたり、面倒な手続きも気が付いたら全部やってくれていて。朝来るとまず部屋の空気を入れ替えてくれて、髪や身体もよく拭いてくれて、退屈だろうと中庭に散歩に連れ出してくれて…すごく気が利く、相手の事をよく見ている…気遣ってくれる子なんだな。何年も片想いしていたけど、新しい発見だ。昔は、俺のことなんて見向きもしないだろうとか…めちゃくちゃモテるから、男は鬱陶しいんだろうなとか、勝手に思っていた。偏見だったな。こんなに優しい子、俺は知らない。御幸があそこまで惚れたのもよくわかる…そして、俺ももっと、好きになってしまった。

「…光。」

クローゼットに上着を仕舞ったところで、光は俺を振り返る。

「こっち座って少し休めよ。朝から色々してくれてるんだしさ…疲れただろ?」

そんなの、隣に座らせるための言い訳だ。だけど光は素直に頷いて隣に来た。
もう、お互いに分かっている。これから話さなければならないこと…結論を出さなければならないことを。

「…ありがとうな、色々…本当に助かった。」

俺が呟くと、光は嬉しそうに微笑む。

「やっと少しお返しができて、よかったです。倉持さんにしてもらったことを考えれば、まだまだだけど…」
「そんなことねえよ。俺は…少しも貸しがあるなんて思ってない。むしろ…」

むしろ…どんな形でも、傍にいられるだけでうれしかった。時々、御幸の隣で幸せそうな彼女を見て、胸が痛むことはあったけど。

「…嬉しかった。」

俺が呟くと、光は黙り込む。部屋の中は静かで、夏の終わりの夕暮れの、冷たい空気を肌に感じた。

「…光。やっぱり…お前のことが好きだ。」
「……。」
「高校の頃は…俺なんて見向きもされねえと思ってた。だから、今も…こうしてるのが夢みたいなんだ」
「…そんなこと…」
「俺にとってはそうなんだよ。お前は…手の届かない存在だった」

そっと手を取り、少し強引に指を絡めた。

「たとえ二番手でも、お前が振り向いてくれたことが嬉しかった…。」
「……。」
「だけど…ずっとこのままでいるわけにはいかねーよな…」

真っ直ぐに光を見つめる。窓から差し込むオレンジの光が、彼女の薄いブルーの瞳の中で反射して、夕焼けに染まる海のように輝いている。

「ずっと俺と一緒に居てほしい。」
「…倉持さん…。」
「…この脚だから、あいつみたいに跪けねぇけど…本気なんだ。」
「……。」
「俺と…結婚してください。」

頭を下げ、神に祈る気持ちで歯を食いしばる。光の膝の上に置かれた白くて小さな左手の薬指には、結婚指輪と、彼女の瞳と同じ色の宝石が嵌められた指輪が光っている。…御幸からの婚約指輪だ。彼女の口から聞く前に、答えを見てしまった気分だ。俺は噛み締める力が抜け、小さく震える息を吐いた。

「…ごめんなさい。」

その言葉を聞いて、落胆よりも、納得する気持ちの方が大きかったことにショックを覚えた。俺自身、初めから期待なんてしてなかったってことだ。こんなに好きなのに…

「この2週間、倉持さんと過ごして…自分の中で、あなたがどんなに大きい存在か…よくわかったんです。」
「……。」
「だからこそ…やっとわかったんです」
「……。」
「一也さんのこと…何があっても、どんな人と出会っても、忘れられないんだって」
「…そうか。」
「今まで…ごめんなさい。」

どうして謝る?俺は後悔なんて一つもしていないのに。

「いや…わかってたよ。」
「…え?」
「お前らは気付いてないかもしれないけどよ…御幸といるときのお前が、いちばん綺麗なんだよ」
「……。」
「だからよ…安心しな。俺への気持ちは…きっと、ただの気の迷いで…」
「…そんなこと…違います。」

繋いでいた手の上に、光が手を重ねてきて、俺は心臓が跳ねる。

「あなたは優しい人で…強くて、かっこよくて…素敵な人です。」
「……光。」
「私はあなたの事が好きでした。…尊敬してるんです。」
「……。」
「感謝も…。だから…」
「……。」
「…そんなふうに、自分を卑下しないでください。」

やめてくれ…。そんなことを言われたら、ますます離れ難い。

「光…最後に頼みがある。」
「え…?」

透き通るような綺麗な瞳が俺を見上げる…。綺麗な顔。柔らかそうな頬、唇…。ごくり、と俺の喉が鳴る。

「…キス、して。」

光の頬が赤くなり、目を少し伏せ、決意したようにまた俺を見つめた。重ねていた手を伸ばし、俺の頬にゆっくりと添える。温かくてやわらかい感触。甘い香水交じりの光ににおいがして、目の前がくらくらする。
少しずつ顔を傾け、唇が近づいてくる。そして――俺は待ちきれず、身を乗り出して唇を重ねた。光は息をのんで、だけど受け入れるように目を閉じた。…甘い。柔らかい。マシュマロみたいな…。唇を重ねたまま、光を感じる。もっと、もっと欲しくなって、俺はつい身を乗り出す。捻挫が治ったばかりの左手をつき、彼女を押し倒すように、どんどん前のめりに身を乗り出す…。唇は離れない。彼女も拒絶しない。最後だから…。
息苦しそうに、俺の胸を光が軽く押した。つい唇を離すと、すっかり肘掛けに頭をもたれて仰向けに倒れた光が、顔を赤らめ息を荒げて、うるんだ瞳で俺を見上げていた。呼吸に合わせて上下する胸、耳に届く甘い吐息。
だめだ、もう…たまらない。
俺はまた唇を重ねる。んん、と光の吐息に声が混じり、それを飲みこむように唇を塞ぐ。こんなに好きなのに…どうしても、どうしても…俺のモノにはならない。
小さな頬を包み、髪を撫でて耳を撫で、うなじを撫で…くすぐったそうに肩を竦める光の唇を塞いだまま、鎖骨を指先でなぞり、緊張を孕みながら胸に触れる。うわ…柔らけぇ。こんなに柔らかかったっけ…。

「ん…う」

光の苦しげな声を聞き、唇を離す。すると、光は恍惚とした瞳で俺を見つめていた。

「…倉持さん…」

その微笑みに、どうしようもなく甘い背徳感を覚える。

「…あの…、…胸…」
「あ……、わ、悪い…」

その微笑みがはにかみだと気付いて、急に恥ずかしくなってくる。そっと手を離しながら、今更爆発しそうなほど鼓動を速める心臓に息苦しくなって、手のひらに残る感触に戸惑う。
光は起き上がって、俺も身を起こすと、ちょっとからかうような微笑を向けられる。

「…なんだよ?」

気恥ずかしくなって苦笑いすると、光はいたずらを思いついたように唇を舐め、スッと近づいて、一瞬軽く触れるだけのキスをした。唇がそれを自覚する頃には、俺の顔は真っ赤になっていて、彼女の可愛い可愛い、照れ交じりの悪戯が成功したような無邪気な笑顔を、ぽかんと口をあけて見つめた。だって…今のは、初めて光から唇にしてくれたキス…。

「…ありがとう、洋一さん。」

光の甘い声が頭の奥に響く。

「…さよなら。」

光は笑顔のままでそう言って立ち上がり、部屋を出て行った。

「……。」

出てきた溜息は深く、静まり返った部屋の中で嫌に大きく聴こえた。
俺は何度失恋してるんだ?しかも、同じ相手に…。いい加減懲りろっての。だいたい、わかっていたはずだろ。自分が選ばれないことくらい…。何度も、何度もそうだったんだから。
だからいい加減身を引くべきなんだ。何度も引き留めて、困らせたのは俺の方だ。しつこい男は嫌われると何かで読んだ。本当だよ。ダセェ奴…。
光を…本当の意味で救ったのは御幸だ。それも、俺が気持ちを自覚するよりももっと前に。あいつらはとっくに結ばれていて…俺に入る隙なんかないんだ。変な望みは捨てろよ、いい加減…。俺は光の事をまだまだ知らない。あの傷の本当の理由だって…。それなのに、御幸に張り合おうってこと自体、おかしいだろ…。
あー、なんかいっそ、笑えてくるぜ。

空腹を覚え、松葉づえをついて立ち上がる。すっきりした部屋の中を進んでキッチンへ行き、またそこがピカピカになっていて驚く。ほんと、いい奥さん貰ったぜ、御幸の奴。俺もあんな子と結婚してぇなー…。
苦笑いを浮かべながら冷蔵庫の扉に手をかけ、そういえばほとんど中身は賞味期限切れだろうし、光が整理してくれたからすっからかんかなと考えながら扉を開ける。
そして言葉を失った。苦笑いも消え、小さく息を吐いた。
所せましと並ぶ色々なおかずが入った密閉容器。その全てに、何月何日まで、電子レンジで〜分、などとメモが貼ってある。日持ちするもの、栄養満点のもの、俺の大好物…。おい…、これはずりぃだろ、こんなことされたらもう、一生忘れられない…。
松葉杖が倒れ、俺は力が抜けてその場に座り込む。マジかよ…ここまでしてくれる子、他にいるか?俺…一生結婚できねぇんじゃねーの。
変な笑いが込み上げてきたかと思えば、ぼろぼろと涙が溢れだした。いっそ…嫌いになれたら楽なのに。いや…でも、彼女に何をされてもきっと、俺はあの子を嫌いになんかなれない。
これから俺が彼女の為にできるのは…幸せを祈る事だけ。
あとは時が経つのを…少しでもこの気持ちが薄れるのを待つことだけ…。
俺は思い切り、しゃくりをあげて泣いた。そうすることでしか、この気持ちをやり過ごす方法が見つからなかった。

 


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