朝支度をしていると、沢村がランニングから戻ってきた。

「朝飯ソレな。」
「あざっす!」

うまそー!と食卓に飛びつく沢村。手抜きだろうがなんだろうが、何でも美味そうに食うから楽だな。
ちょっと笑いながら支度をしていると、沢村は不思議そうに俺を見た。

「どっか出かけるんすか?」
「ああ…ちょっとな。」

曖昧に答えて財布と携帯をポケットに突っ込む。

「ついに光に謝りに行くんすね!」
「あのな…お前が思ってるようなことはねーから。」
「なんすかそれ!俺の考えも聞かずに!」
「じゃー言ってみろよ、お前の考えとやらを」
「…御幸の悪魔の本性が光にバレて追い出された!」
「はいハズレ〜!全く掠ってない」

つか悪魔だと?と凄むと、沢村は大げさに逃げ惑う。

「…でも光のとこ行くんだろ?」

ソファの影からそう尋ねる沢村。なんだかんだ、こいつも鋭いとこあるよな…。馬鹿だけど。
少し微笑んだ俺を見て、沢村は笑みを浮かべる。

「あーよかった!やっと家に帰るんすね!」
「いやそれはわかんねーけど…」
「え?だって光と会うんだろ?」
「……。」

へへ…、と苦々しく笑うと、沢村は猫の目で俺を睨んできた。

「なんなんすか!ハッキリ言えよ!」
「うるせーなー…ほっとけよ。お前に関係ない」
「大有りだっつの!!これ以上ここにいる気なら訳を話しなさいよ訳を!」

口うるさい母親のような口調になって腕を組む沢村。

「だから飯作ってやっただろ…金も出したし。じゃ、行ってきまーす」
「おい!ちょっ…」

沢村に話した日にゃ野球部OBに知れ渡るっつーの。言うわけねーじゃんか。
車に乗り込み、エンジンをかける。するとちょうど携帯が鳴った。光臣だ。

「もしもし?」

エンジンをかけたまま応答すると、向こうからは低い、落ち着いた声が返ってくる。

『今少しいいか?』
「ああ。どうした?」
『前に話した、イタリアにある、光の母親の生家のことだが』
「…ああ。それが?」
『無事取引が成立したと連絡しておこうと思ってな。やはり光を連れて行って正解だった。かなり同情して、必ずあの地区の保護を優先すると約束してくれたよ。』
「そうか…。」

ひとまず安堵したところで、ずっと気になっていたことを聞いてみる。

「ところでさ…光の母親のことだけど…」
『なんだ?』
「あいつ自身は、どう思ってるんだ?自分を…刺した相手だろ」
『…光の母親は、非情に愛情深い女性だった。それ故に…父親に縛られ、家名に縛られて生きる光の姿を見ているのが、耐えられなかったんだろう。』
「……。」
『俺の記憶では、光は母親の事を常に気遣っていたし、懐いてもいた。あんなことがあっても、母親の形見を大切そうにしていたし…恨んではいないと思うぞ。』
「…そうか。」

いつか…本人の口からいろいろ聞きたい。幼い頃のこと…幸せだった思い出を。
光のことだったら…何でも知りたい。

『今、光と一緒か?』
「いや、今は…。」
『なら、あとで伝えてやってくれ。来月にはあの地区一帯ごと俺が買い上げて、あの家の権利を得る。そうしたら、自由に使っていいとな。』
「……。」

俺は少し黙ったあと、考えが過ぎって、口を開いた。

「それならさ…」



***


夕方、ゆっくりと畦道に車を走らせて、藪に覆われた山道を眺める。確か、この辺りに…。
おぼろげな記憶を頼りに進んでいくと、辛うじて人ひとり分の隙間を開けるけものみちがあった。…あれだ。
俺は路肩に車を停め、ひとり降りる。…光は来ているだろうか。もしいなかったら…。どうするべきか考えなくてはならない、けど、どうしたらいいのか全く見当がつかなかった。自分がどうなってしまうのかも…。
けものみちを進みながら、色々なことを考えた。ここに初めて来たとき…俺もあいつも、まだ子供だった。だけど、確信していた。お互いに、これ以上ないほど、愛し合っていること…。
古ぼけた境内が見えてきた。寂れた手水の桶の残骸、苔むした木の柱。ここ…こんなに小さかったっけ。少し開けた場所に立ち、辺りを見渡す。人気はない。不安に胸が冷えるのを感じながら、さらに奥に進む。脳裏には誰もいない境内の縁側の光景が浮かび、それを振り払う。境内沿いに進んで行って、裏手に向かう。そこは、初めて光を抱いた場所…。ずっとそばにいてくれと、祈った場所。
そこに、光はひとりで座っていた。祈るように手を組んで、俯いて。

「…光。」

掠れた声で呼ぶと、光は弾かれたように顔を上げ、俺を見た。その頬は涙で濡れていた。

「……来てくれたんですか…?」

震える光の言葉に驚く。

「…来ないわけないだろ。」

むしろ俺は、お前が来るかどうか不安で…。
光は立ち上がり、俺は彼女の傍に歩み寄る。

「…俺を選んでくれたんだよな?」

ここにいるということは。彼女の顔を覗き込むと、光は涙を零しながら俯いた。

「私なんて…愛想尽かされても、仕方ないのに…」
「……。」
「待っててくれるなんて…」

光は震える声で言った。

「やっと…気持ちの整理がつきました」
「…それって」
「もう迷いません。」

光は俺を見上げる。

「傍に居させてください。」
「…光。」

頬に手を添え、涙をぬぐい…何度も何度もぬぐって、それでもしゃくりをあげる光の唇を塞いだ。唇を離すと、うるんでキラキラと輝く瞳と目が合う。

「光…。」

彼女の甘い響きの名前を呟きながら、両手を絡め取ろうとして、右手が何かを握っていることに気付く。

「…?何持って…」

小さな手が開く。そこには、少し古い、見慣れた校章入りのボタンがあった。俺が光にあげた制服の第二ボタンだ。そこで先ほど、手を組んで握りしめ、祈るように座っていた彼女の姿を思い出して、胸の奥が熱くなる。

「あの…これは…。」

光は恥ずかしそうにしどろもどろになった。

「…まだ…持ってたのか…」

俺はついそう呟いた。光も同じように昔の思い出を大切に思っていることが嬉しかった。

「…これも…。」

光はポケットから何かを取り出す。それは、あの日俺が置いて行った、俺の結婚指輪だった。

「…また、つけてくれますか?」

そう、まだ不安そうに揺れる瞳で尋ねる光の前に、左手を差し出す。

「…つけてくれるか?」

そう言うと、光は唇をかみしめて、涙を拭って、慎重に丁寧に、俺の薬指へと指輪を嵌めた。そしてそのまま、抱きしめあう。俺は深く息を吸い、彼女のぬくもりを確かめ、ようやく安堵した。

 


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