179
朝支度をしていると、沢村がランニングから戻ってきた。
「朝飯ソレな。」
「あざっす!」
うまそー!と食卓に飛びつく沢村。手抜きだろうがなんだろうが、何でも美味そうに食うから楽だな。
ちょっと笑いながら支度をしていると、沢村は不思議そうに俺を見た。
「どっか出かけるんすか?」
「ああ…ちょっとな。」
曖昧に答えて財布と携帯をポケットに突っ込む。
「ついに光に謝りに行くんすね!」
「あのな…お前が思ってるようなことはねーから。」
「なんすかそれ!俺の考えも聞かずに!」
「じゃー言ってみろよ、お前の考えとやらを」
「…御幸の悪魔の本性が光にバレて追い出された!」
「はいハズレ〜!全く掠ってない」
つか悪魔だと?と凄むと、沢村は大げさに逃げ惑う。
「…でも光のとこ行くんだろ?」
ソファの影からそう尋ねる沢村。なんだかんだ、こいつも鋭いとこあるよな…。馬鹿だけど。
少し微笑んだ俺を見て、沢村は笑みを浮かべる。
「あーよかった!やっと家に帰るんすね!」
「いやそれはわかんねーけど…」
「え?だって光と会うんだろ?」
「……。」
へへ…、と苦々しく笑うと、沢村は猫の目で俺を睨んできた。
「なんなんすか!ハッキリ言えよ!」
「うるせーなー…ほっとけよ。お前に関係ない」
「大有りだっつの!!これ以上ここにいる気なら訳を話しなさいよ訳を!」
口うるさい母親のような口調になって腕を組む沢村。
「だから飯作ってやっただろ…金も出したし。じゃ、行ってきまーす」
「おい!ちょっ…」
沢村に話した日にゃ野球部OBに知れ渡るっつーの。言うわけねーじゃんか。
車に乗り込み、エンジンをかける。するとちょうど携帯が鳴った。光臣だ。
「もしもし?」
エンジンをかけたまま応答すると、向こうからは低い、落ち着いた声が返ってくる。
『今少しいいか?』
「ああ。どうした?」
『前に話した、イタリアにある、光の母親の生家のことだが』
「…ああ。それが?」
『無事取引が成立したと連絡しておこうと思ってな。やはり光を連れて行って正解だった。かなり同情して、必ずあの地区の保護を優先すると約束してくれたよ。』
「そうか…。」
ひとまず安堵したところで、ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「ところでさ…光の母親のことだけど…」
『なんだ?』
「あいつ自身は、どう思ってるんだ?自分を…刺した相手だろ」
『…光の母親は、非情に愛情深い女性だった。それ故に…父親に縛られ、家名に縛られて生きる光の姿を見ているのが、耐えられなかったんだろう。』
「……。」
『俺の記憶では、光は母親の事を常に気遣っていたし、懐いてもいた。あんなことがあっても、母親の形見を大切そうにしていたし…恨んではいないと思うぞ。』
「…そうか。」
いつか…本人の口からいろいろ聞きたい。幼い頃のこと…幸せだった思い出を。
光のことだったら…何でも知りたい。
『今、光と一緒か?』
「いや、今は…。」
『なら、あとで伝えてやってくれ。来月にはあの地区一帯ごと俺が買い上げて、あの家の権利を得る。そうしたら、自由に使っていいとな。』
「……。」
俺は少し黙ったあと、考えが過ぎって、口を開いた。
「それならさ…」
***
夕方、ゆっくりと畦道に車を走らせて、藪に覆われた山道を眺める。確か、この辺りに…。
おぼろげな記憶を頼りに進んでいくと、辛うじて人ひとり分の隙間を開けるけものみちがあった。…あれだ。
俺は路肩に車を停め、ひとり降りる。…光は来ているだろうか。もしいなかったら…。どうするべきか考えなくてはならない、けど、どうしたらいいのか全く見当がつかなかった。自分がどうなってしまうのかも…。
けものみちを進みながら、色々なことを考えた。ここに初めて来たとき…俺もあいつも、まだ子供だった。だけど、確信していた。お互いに、これ以上ないほど、愛し合っていること…。
古ぼけた境内が見えてきた。寂れた手水の桶の残骸、苔むした木の柱。ここ…こんなに小さかったっけ。少し開けた場所に立ち、辺りを見渡す。人気はない。不安に胸が冷えるのを感じながら、さらに奥に進む。脳裏には誰もいない境内の縁側の光景が浮かび、それを振り払う。境内沿いに進んで行って、裏手に向かう。そこは、初めて光を抱いた場所…。ずっとそばにいてくれと、祈った場所。
そこに、光はひとりで座っていた。祈るように手を組んで、俯いて。
「…光。」
掠れた声で呼ぶと、光は弾かれたように顔を上げ、俺を見た。その頬は涙で濡れていた。
「……来てくれたんですか…?」
震える光の言葉に驚く。
「…来ないわけないだろ。」
むしろ俺は、お前が来るかどうか不安で…。
光は立ち上がり、俺は彼女の傍に歩み寄る。
「…俺を選んでくれたんだよな?」
ここにいるということは。彼女の顔を覗き込むと、光は涙を零しながら俯いた。
「私なんて…愛想尽かされても、仕方ないのに…」
「……。」
「待っててくれるなんて…」
光は震える声で言った。
「やっと…気持ちの整理がつきました」
「…それって」
「もう迷いません。」
光は俺を見上げる。
「傍に居させてください。」
「…光。」
頬に手を添え、涙をぬぐい…何度も何度もぬぐって、それでもしゃくりをあげる光の唇を塞いだ。唇を離すと、うるんでキラキラと輝く瞳と目が合う。
「光…。」
彼女の甘い響きの名前を呟きながら、両手を絡め取ろうとして、右手が何かを握っていることに気付く。
「…?何持って…」
小さな手が開く。そこには、少し古い、見慣れた校章入りのボタンがあった。俺が光にあげた制服の第二ボタンだ。そこで先ほど、手を組んで握りしめ、祈るように座っていた彼女の姿を思い出して、胸の奥が熱くなる。
「あの…これは…。」
光は恥ずかしそうにしどろもどろになった。
「…まだ…持ってたのか…」
俺はついそう呟いた。光も同じように昔の思い出を大切に思っていることが嬉しかった。
「…これも…。」
光はポケットから何かを取り出す。それは、あの日俺が置いて行った、俺の結婚指輪だった。
「…また、つけてくれますか?」
そう、まだ不安そうに揺れる瞳で尋ねる光の前に、左手を差し出す。
「…つけてくれるか?」
そう言うと、光は唇をかみしめて、涙を拭って、慎重に丁寧に、俺の薬指へと指輪を嵌めた。そしてそのまま、抱きしめあう。俺は深く息を吸い、彼女のぬくもりを確かめ、ようやく安堵した。
「朝飯ソレな。」
「あざっす!」
うまそー!と食卓に飛びつく沢村。手抜きだろうがなんだろうが、何でも美味そうに食うから楽だな。
ちょっと笑いながら支度をしていると、沢村は不思議そうに俺を見た。
「どっか出かけるんすか?」
「ああ…ちょっとな。」
曖昧に答えて財布と携帯をポケットに突っ込む。
「ついに光に謝りに行くんすね!」
「あのな…お前が思ってるようなことはねーから。」
「なんすかそれ!俺の考えも聞かずに!」
「じゃー言ってみろよ、お前の考えとやらを」
「…御幸の悪魔の本性が光にバレて追い出された!」
「はいハズレ〜!全く掠ってない」
つか悪魔だと?と凄むと、沢村は大げさに逃げ惑う。
「…でも光のとこ行くんだろ?」
ソファの影からそう尋ねる沢村。なんだかんだ、こいつも鋭いとこあるよな…。馬鹿だけど。
少し微笑んだ俺を見て、沢村は笑みを浮かべる。
「あーよかった!やっと家に帰るんすね!」
「いやそれはわかんねーけど…」
「え?だって光と会うんだろ?」
「……。」
へへ…、と苦々しく笑うと、沢村は猫の目で俺を睨んできた。
「なんなんすか!ハッキリ言えよ!」
「うるせーなー…ほっとけよ。お前に関係ない」
「大有りだっつの!!これ以上ここにいる気なら訳を話しなさいよ訳を!」
口うるさい母親のような口調になって腕を組む沢村。
「だから飯作ってやっただろ…金も出したし。じゃ、行ってきまーす」
「おい!ちょっ…」
沢村に話した日にゃ野球部OBに知れ渡るっつーの。言うわけねーじゃんか。
車に乗り込み、エンジンをかける。するとちょうど携帯が鳴った。光臣だ。
「もしもし?」
エンジンをかけたまま応答すると、向こうからは低い、落ち着いた声が返ってくる。
『今少しいいか?』
「ああ。どうした?」
『前に話した、イタリアにある、光の母親の生家のことだが』
「…ああ。それが?」
『無事取引が成立したと連絡しておこうと思ってな。やはり光を連れて行って正解だった。かなり同情して、必ずあの地区の保護を優先すると約束してくれたよ。』
「そうか…。」
ひとまず安堵したところで、ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「ところでさ…光の母親のことだけど…」
『なんだ?』
「あいつ自身は、どう思ってるんだ?自分を…刺した相手だろ」
『…光の母親は、非情に愛情深い女性だった。それ故に…父親に縛られ、家名に縛られて生きる光の姿を見ているのが、耐えられなかったんだろう。』
「……。」
『俺の記憶では、光は母親の事を常に気遣っていたし、懐いてもいた。あんなことがあっても、母親の形見を大切そうにしていたし…恨んではいないと思うぞ。』
「…そうか。」
いつか…本人の口からいろいろ聞きたい。幼い頃のこと…幸せだった思い出を。
光のことだったら…何でも知りたい。
『今、光と一緒か?』
「いや、今は…。」
『なら、あとで伝えてやってくれ。来月にはあの地区一帯ごと俺が買い上げて、あの家の権利を得る。そうしたら、自由に使っていいとな。』
「……。」
俺は少し黙ったあと、考えが過ぎって、口を開いた。
「それならさ…」
***
夕方、ゆっくりと畦道に車を走らせて、藪に覆われた山道を眺める。確か、この辺りに…。
おぼろげな記憶を頼りに進んでいくと、辛うじて人ひとり分の隙間を開けるけものみちがあった。…あれだ。
俺は路肩に車を停め、ひとり降りる。…光は来ているだろうか。もしいなかったら…。どうするべきか考えなくてはならない、けど、どうしたらいいのか全く見当がつかなかった。自分がどうなってしまうのかも…。
けものみちを進みながら、色々なことを考えた。ここに初めて来たとき…俺もあいつも、まだ子供だった。だけど、確信していた。お互いに、これ以上ないほど、愛し合っていること…。
古ぼけた境内が見えてきた。寂れた手水の桶の残骸、苔むした木の柱。ここ…こんなに小さかったっけ。少し開けた場所に立ち、辺りを見渡す。人気はない。不安に胸が冷えるのを感じながら、さらに奥に進む。脳裏には誰もいない境内の縁側の光景が浮かび、それを振り払う。境内沿いに進んで行って、裏手に向かう。そこは、初めて光を抱いた場所…。ずっとそばにいてくれと、祈った場所。
そこに、光はひとりで座っていた。祈るように手を組んで、俯いて。
「…光。」
掠れた声で呼ぶと、光は弾かれたように顔を上げ、俺を見た。その頬は涙で濡れていた。
「……来てくれたんですか…?」
震える光の言葉に驚く。
「…来ないわけないだろ。」
むしろ俺は、お前が来るかどうか不安で…。
光は立ち上がり、俺は彼女の傍に歩み寄る。
「…俺を選んでくれたんだよな?」
ここにいるということは。彼女の顔を覗き込むと、光は涙を零しながら俯いた。
「私なんて…愛想尽かされても、仕方ないのに…」
「……。」
「待っててくれるなんて…」
光は震える声で言った。
「やっと…気持ちの整理がつきました」
「…それって」
「もう迷いません。」
光は俺を見上げる。
「傍に居させてください。」
「…光。」
頬に手を添え、涙をぬぐい…何度も何度もぬぐって、それでもしゃくりをあげる光の唇を塞いだ。唇を離すと、うるんでキラキラと輝く瞳と目が合う。
「光…。」
彼女の甘い響きの名前を呟きながら、両手を絡め取ろうとして、右手が何かを握っていることに気付く。
「…?何持って…」
小さな手が開く。そこには、少し古い、見慣れた校章入りのボタンがあった。俺が光にあげた制服の第二ボタンだ。そこで先ほど、手を組んで握りしめ、祈るように座っていた彼女の姿を思い出して、胸の奥が熱くなる。
「あの…これは…。」
光は恥ずかしそうにしどろもどろになった。
「…まだ…持ってたのか…」
俺はついそう呟いた。光も同じように昔の思い出を大切に思っていることが嬉しかった。
「…これも…。」
光はポケットから何かを取り出す。それは、あの日俺が置いて行った、俺の結婚指輪だった。
「…また、つけてくれますか?」
そう、まだ不安そうに揺れる瞳で尋ねる光の前に、左手を差し出す。
「…つけてくれるか?」
そう言うと、光は唇をかみしめて、涙を拭って、慎重に丁寧に、俺の薬指へと指輪を嵌めた。そしてそのまま、抱きしめあう。俺は深く息を吸い、彼女のぬくもりを確かめ、ようやく安堵した。