翌朝早く起き、俺たちは空港へ向かう。
長い空の旅を経て、ようやく目的地に着くと、光は静かに町を見渡した。

「懐かしい?」

そう尋ねると、光は少し困ったように笑みを浮かべた。

「住んでたのは、すごく小さい頃だったから…」

そう言いながらも街を見渡す眼には懐かしむような色が滲んでいる。

「とりあえずホテルに荷物置いてこようか。」
「そうですね。」

光が頷いた時、後ろから近付いてきた男が何か光に声をかけた。光はちょっと驚いて、だけどすぐに一言返して男に手を振る。男は楽しげに笑って手を振り返し、去って行った。

「…知り合い?」

あまりに自然な二人の様子を見て尋ねると、光は笑いながら首を振る。

「知らない人です。」
「え?でも今…」
「一緒にランチしませんかって。」

え…それって、つまり、ナンパ…。

「新婚旅行中だって言ったら、それに勝るデートは無理だから諦めるって。面白い人ですよね」

だけどそう言って笑う光を見ていると、俺も思わず頬が緩んだ。

「…ほんとお前、どこ行ってもモテるよな」

ホテルの方に歩き出しながら呟くように言う。確かに美人だけど、それだけじゃない。一目で人を惹きつける何かが彼女にはある。

「…嫌ですか?」

嫌じゃない…と言えばうそになる。だけど、俺もそんな彼女に惹かれた一人だから…

「時々不安になる…かな。お前、すげーキレイだし」
「……。」

光は顔を赤くして、恥ずかしそうに目を逸らす。

「じゃあ…キスして?」
「…え!?」

い…いきなりなんだ?

「…今?」
「今。…ここで。」
「どうしたんだよ急に」

動揺しながら立ち止まると、光はいたって真剣に俺を見上げている。その彼女に向かってくる、先ほどとは別の若い男。ようやく言葉の意図がわかって、俺は一瞬の迷いを振り払い、思い切って光に歩み寄った。
肩に腕を回し、軽いキスをする。それを見た若い男は落胆したように立ち止まって、踵を返して去って行った。
去っていく男を見て、光は俺に寄り添って歩き出す。人前でこんなことすんの、恥ずかしいけど…悪くないかも…。

「…恥ずかしい?」

顔が赤いのがばれただろうか。そう尋ねられて、俺は曖昧に苦笑する。

「イタリアでは普通ですよ、道端でキスするくらい。ほら」

光が指差す先には、確かに挨拶のようにキスをする恋人たちがいた。趣のある街並みに若く美しいカップルたち。絵になるような気がする。

「むしろそのくらいしてないと恋人同士だと思われないから、ナンパも多いんですよ。」
「え…」
「だから…いっぱいしてね」

えっ…。
急に甘えるような言葉づかいになる光にドキリとする。それからやっぱり胸がいっぱいになって、俺はまた彼女の唇を奪った。


***


綺麗な街並みを光と歩く。こんなふうにのんびりと二人でデートするのなんて、いつぶりだろう。学生の頃だってこんなふうにデートできたのは数えるほどだったし…大人になってからはお互い顔が知られているからなおさらだ。

「一也さん!」

光がはしゃいだ笑顔で俺を振り返る。

「あのお店、チョコラータがすごい美味しいんですよ。」
「チョコラータ?すげー甘そうな名前…」
「普通のエスプレッソとかもありますよ。入りましょ!」

俺に腕を絡めて歩き出す光。あ…柔らかいものが…。…じゃなくて。

「待って光。」

声をかけると、光は不思議そうに俺を見上げて立ち止まる。俺はその隙に絡められた腕を解き、彼女の手と指を絡ませてしっかりと握った。光はちょっと頬を赤くしてはにかむ。

「…高校生の頃みたい。」

そう呟いた彼女に、俺は同意するように微笑み返した。
ふたりで小さなカフェに入り、注文をして飲み物をもらい、席に座ってようやく落ち着く。座った瞬間に思わず息をついて、思ったより歩き疲れていたんだと気付いた。全然疲れなんて感じなかった…ころころと表情を変えて笑う光を見つめていたら、時間が過ぎるのなんてあっという間で。…なんて、こっぱずかしい事を普通に考えてしまう自分に苦笑する。

「…この店、よく来たの?」

チョコレートをそのまま溶かしたような飲み物を飲んで幸せそうに頬を緩める光に尋ねると、光はその綻んだ表情のまま頷いた。

「はい。このお店は…」

そう言いかけて、ちょっと目を伏せる。

「…母が好きで…よく…」

そのまま口を噤むと、誤魔化すようにティーカップに口をつける。

「仲、良かったんだな。」

様子を窺いながら言うと、光はちょっと顔を上げて答えるように微笑んだ。

「…お母さんは…」

…お、自分からこういうことを話し始めるなんて珍しい。俺はちょっと嬉しくなりながら、水を差さないよう気を付けて耳を傾ける。

「すごく、優しくて…」
「うん」
「…あんなことが、あったけど、でも…優しい人なんです。本当に」
「そっか。」

俺の相槌を聞いて、光はほっとしたようにまた口を噤んだ。

「……。」
「……一也さん?」
「ん?」
「ちょっと疲れました?」

やべ…つい考え込んで黙りこんでた。

「いや、平気。」
「…そうですか?」
「うん。この後どうする?」
「そうですね…ちょっと早いけど、そろそろホテルに戻っても…」
「それならさ、俺、ちょっと行きたいトコあるんだけど」
「…?行きたいとこ?」

うん、と頷く俺を不思議そうに見つめる光。俺はなんでもない風を装いながら、ポケットの中で小さな鍵を弄んでいた。


***


賑やかな観光地を少し外れ、郊外の緑豊かな自然にあふれた地区に入る。美しい緑と建造物。観光地でなくとも十分趣のある町。ここで光が育ったのだと思うと、彼女の美しさはここととても合っているような気がした。
光は歩きながらだんだんと神妙な顔になって、黙り込んで歩いていたが、ついに思い切ったように俺を見上げた。

「一也さん、あの…ここって…」
「…こっち。」

言葉を遮るようにつないでいる手を引き、ずんずん歩いて行く。確かこの辺り…。光臣に訊いたランドマークを頼りに狭い道を進んでいくと、ようやく立派な門が目の前に現れる。

「……。」

光は立ち尽くすようにしてその場に佇んでいる。
その顔を見つめていると、光は戸惑いを露わにして俺の顔と立派な門とを交互に見た。

「…ど、どうして…?」
「うん?」
「…え?」
「どうしたんだよ。」
「…え…?え?だ、だって、ここは…」

光は困惑したように顔を赤くして呟いた。

「…私のお母さんの…家…。」
「うん。」

俺は頷いて、ポケットから小さな鍵を取出し、門に近づく。カチャン、と音を立てて鍵が外れると、少し錆びついた黒鋼の門を、ギギイと引っ張って開いた。

「どうぞ。」
「……。」

光は少し迷って俺の顔を見つめていたが、ようやく足を踏み出して庭に入った。
庭は草木が生い茂り、きっと数年前は美しく手入れされていたのであろう残骸を、蔦や枯草がすっかり覆ってしまっていた。それでもその中を光が歩く姿は、まるで妖精が森の中に迷い込んでしまったように神秘的で、綺麗で…俺は見惚れながら彼女の少し後ろを歩いた。すると、ふっと光が振り返って俺を見た。

「ここ…」
「うん」
「…このあたりに、バラのアーチがあって…」
「うん」
「こっちに、ハーブを植えた花壇があって…。」
「うん…。」
「……。」

光は言葉を詰まらせ、息をのんで、また俺を見上げた。

「…どうして…ここに?鍵は…?」
「…光臣がな。この辺り一帯の地区を、買ったんだって。仕事の都合で。」

俺は光臣にそう言えと言われた通りに話した。光の為だと話したら、光はきっと戸惑うからだ。

「仕事で…?」
「うん。詳しいことはわかんねーけど…この家は手入れして新しく別荘にするから、俺たちも自由に使えって言ってたから…今日、鍵借りてきた。」
「……。」
「まあ、まだ手つかずだから、庭までしか入れないけど…」

光は少し考え込むように黙り込んで、それから呟いた。

「…私の為に?」

その真っ直ぐな瞳に射抜かれたように、俺は口を開くことができなかった。

「…そうなんですね。」

光はまた俯いた。あぁ、やっぱり鋭いな…軽い嘘じゃ騙されてくれない。

「…光臣はさ」
「……?」
「いや…光臣だけじゃねーな。俺も…皆。お前には、幸せでいてほしいんだよ。」
「え…?」
「喜んでほしい。それだけだから…また、変に気負って、責任感じたりするなよ?」

光はきょとんと俺を見て、ちょっと困ったように笑った。

 


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