「光?」

夜風呂から上がると、キッチンでカチャカチャと食器のぶつかる音がして、俺は濡れた髪を拭きながらキッチンに向かった。すると案の定、そこで食器を拭いている光の姿があって、俺はその手から布巾とお皿を取り上げた。

「もう休めよ、洗い物はやっとくから」
「…過保護。」
「当たり前だろ。」

光の両肩に手を置き、リビングの方へ向ける。

「もういつ生まれてもおかしくないんだからさ…」

すっかり大きくなったお腹。重たそうにしながらも何かと家事をしたがる光を見るのは心苦しい。

「ちょっとは動いた方が良いのに。」
「ちょっと、な。お前は働き過ぎなの。」
「そんなことないもん…。」

むう、と口を尖らせて、よたよたと寝室に押されて歩く光。華奢で…か弱くて、愛おしい。俺がしっかりしないと…。

「あ…そうだ、明日ちょっと事務所に行かなきゃいけないの。」
「え?なんで?」
「書類に不備があったらしくて…印鑑が必要なんだって。」
「…それどうしても行かなきゃダメ?持って来てもらえねーの?」
「みんな忙しいんだよ。」

だからって、臨月の妊婦を呼びつけるなんて…。俺はちょっと不服に感じ、ため息を吐く。

「…じゃ、送ってく。」
「大丈夫だよ、司が迎えに来てくれるから。」
「いや、俺が送る。牧瀬も拾うから」
「…もー、わかったよ。じゃあ司に言っておく」

呆れながらベッドによいしょと座り、携帯でメールを打ち始める光。その様子を見張るように見つめていると、光はちらりと俺を見上げて、笑った。

「ちゃんと寝るから、見張ってなくていいよ。」
「光がベッドに入ったら行く。」
「もー…」

はいはい、と光は携帯を充電器に戻し、ベッドに横になった。布団をかけるのを手伝って、額、そして髪を撫でる。

「お休み。」
「おやすみなさい…」

微笑む彼女の額にキスをして、手を離すと、その手に光が手を伸ばしてくる。

「なに?」

その手を握り返して尋ねると、光は本当にかわいい笑顔で…呟いた。

「一也さんも、早くベッドに来て。」

胸がくすぐったくなって、口元が緩む。あーもう、本当にかわいい。愛おしい。俺は小さな柔らかい手をぎゅっと握り、布団の中に仕舞わせて、頬を撫でて――わかったよと頷いた。


***


無機質な白いビル。そのロータリーに車で侵入し、警備員に用を告げる。後部座席のドアを開け、牧瀬と光が降りると、俺は窓を開けて声をかけた。

「じゃ、車で待ってるから帰り連絡して。車ここに回す。」
「うん、ありがとう。」

お腹を重たそうに歩く光と、支えるように寄り添って歩く牧瀬。その背中に後ろ髪を引かれながら、俺は車を駐車場の方へ向かわせた。

大きな立体駐車場の一角に車を停め、少し背もたれを倒してくつろぐ。印鑑押すだけって言ってたし…すぐ戻ってくるだろう。ああでも光のことだから、久々に会う仕事関係者とかに挨拶してきそうだな。じゃあそこそこ時間かかるか…。
携帯で特に興味のないSNSを覗く。ニュースカテゴリには、発表からもうずいぶん経っているのに、未だにランキングの上位に光の妊娠報道が載っている。事あるごとに世間が騒いで、もう俺たちはそれが当たり前になってしまっているけど…本当は光、注目浴びるの好きじゃないんだよな。俺は、野球関係でなら注目浴びたいけど。プライベートはやっぱり、いい気分はしない。

ブオン、と車の前の通路を白いワンボックスが通った。何気なく目で追って、誰か芸能人でも降りてくんのかな、なんて考えた。車はここから良く見える斜め前の駐車スペースに駐車し、エンジンを止めた。運転手が降りてきて、後ろのドアを開ける。赤いワンピースの派手な女。…あれって…。

金と茶の入り混じった、派手に巻かれた長い髪を揺らして、その女はこっちを見た。…目が合った。数年ぶりに見る…森田桃。森田は、俺に気が付いたようにちょっと口元に微笑みを浮かべた。…なんでそんな顔ができるのか。俺は気付かないふりをして視線を携帯に戻す。
コツコツコツ、とうるさい足音が近づいて来て、勘弁してくれと思った。だけど足音は俺のすぐ横まで来るとぴたりと止まり、代わりにコンコンコン、と無遠慮に窓が叩かれた。顔を上げると、やっぱり森田がそこにいて、車内を覗き込むように身を屈めていた。
ぺこ、と素っ気ない会釈をして、あとは無視を決め込む。しかし森田はまた、コンコンコン、と窓を叩いた。それでも無視していると、今度はボンネットを手のひらで叩いた。…警察呼んでやろうか。
俺はエンジンをかけ、ロックは解除しないまま、窓を少しだけ開けた。

「なんすか?」

訊ねると、森田はにっこりとわざとらしく笑みを浮かべた。

「久しぶり。会えて嬉しい。どうしてここにいるんですか?」
「用事で。」
「ふふ…相変わらずつれなぁい。用事って玉城さんの用事でしょ?玉城さん、来てるんだぁ。」
「……。」

こいつ…光に何かしないだろうな。

「ちょうどよかった〜。まだ、妊娠おめでとうって伝えてないもん。」
「……。」
「なんですかその顔。心配しなくても、別に何もしませんよ。」
「…今は…関わらないでくれ。頼むから」
「そういうわけにはいきませんよぉ。同じ事務所の後輩だもん。挨拶しなくちゃ。」
「…頼むから!」

もどかしくて声が少し大きくなった。

「今はほっといてくれ。」
「……。」

森田の顔から作ったような微笑みが消えた。

「幸せなんですね。」
「……。」
「良かった。」

ぽつり、とそう呟いて、森田は踵を返した。去って行くその背中が見えなくなって、俺は胸騒ぎに居てもたってもいられず、エンジンを切って車を降りた。
通用口に向かい、警備員に目礼してロビーに入る。もう森田の姿はなく、どこへ向かえばいいのかわからない俺は、受付に駆け寄った。

「すみません、光はまだ中ですか?玉城光です。」
「え?あ…、確か10分ほど前に入場して…」

受付の女は俺を知っているんだろう、慌ててボードを取出し、何かを確認した。

「そうですね、入場して、まだ中にいらっしゃいます。」
「どこにいるかわかりませんか?」
「…少々お待ちください」

女は受話器を取り上げ、ボタンを三つ押した。

「…お疲れ様です。受付の野中です。そちらに玉城光さんは…、…そうですか。失礼いたします。」

一度電話を切り、また別のボタンを三つ押す。

「お疲れ様です、受付の野中です。玉城光さんはそちらにいらっしゃいますか?…そうですか。失礼いたします。」

また電話を切り、ボタンを三つ…。俺はいてもたってもいられず、そわそわと辺りを見渡す。次の電話でわからなかったら、闇雲にでも探して…。

「お疲れ様です。受付の野中です。そちらに玉城光さんはいらっしゃいますでしょうか。…あ、わかりました。ありがとうございます。失礼いたします。」

女は明るい口調になり、受話器を置いて俺を見上げた。

「玉城さんは今6階の事務室を出たところで、7階の第3会議室に向かわれたそうです。」
「ありがとうございます!」

俺は駆け出し、エレベーターのボタンを押す。だけどエレベーターはなかなか来なくて、もどかしく非常階段を駆け上がった。なんだか嫌な予感がした…あの森田の様子。あいつ、本当に…とんでもない行動に出る女だし…。それに、光を恨んでる。

階段を駆け上がって6階につき、辺りを見渡して人気がないことを見ると、また階段を駆け上がった。7Fと書かれた壁の赤いドアを押しのけ、通路に出る。無機質な白い廊下には、広い感覚を開けていくつもドアが並んでいて、その上のプレートには第1会議室、第2会議室…、と順番に書かれている。
光は第3会議室って言ってたな…。プレートを見上げながら足早に通路を進んでいくと、突然前方のドアが開いた。

「いやぁ、しかし元気そうでよかった。予定日はいつだっけ?」
「まだ少し先ですよ。来月の終わりごろです。」
「楽しみだなぁ、君の子だからきっと、美人だろうし。美男美女夫婦だもんな。芸能界とか、考えてない?今からつばつけとこうかなぁ。」
「気が早いですよ。」

初老の男と楽しそうに談笑しながら、光と牧瀬が部屋から出てきて、俺に気づいて立ち止った。

「あれ…?一也さん、どうして…」
「おっ、旦那さんも一緒に来てたのか。どうも、お世話になってます。」
「あ、どうも…」

取り越し苦労か…?何事もなかった様子の光を見て少し拍子抜けする。だけど…よかった、森田とは会ってないのか。

「…用事は?済んだ?」
「え?…うん。」
「じゃあ、帰ろう。」

少し動揺している光に言うと、戸惑いながら頷いた。いったいどうしたの、と大きな瞳が尋ねている。…早く家に帰って、安心したい。

「帰るのか、気を付けてな。」
「あれ?浅岡さん、エレベーターこっちですよ。」
「いや、いいんだいいんだ、最近運動不足だから。なるべく階段を使うようにしてるんだよ。」
「じゃあ、そこまで見送ります。」
「いいって。早く帰って、大仕事に備えて休みなさい。」
「でも、通り道ですから。」

良く世話になってる人なのだろうか。光は朗らかに笑って、初老の男が階段を下りていくのを見送った。
男の姿が見えなくなると、それまできりっと口を噤んでいた牧瀬の調子がいつものように戻った。

「御幸さん、光が心配で迎えに来たんですか?」
「え…いや、遅いなぁと思って」
「重症だなぁ。愛も度が過ぎると重いですよ。」

何と言われたって構わない。光は心配しすぎるくらいでちょうどいいんだ。

「光、荷物。持つよ」

光の手からトートバッグを取り上げて、踵を返す。

「エレベーター呼んできます。」

牧瀬が駆け出して廊下の奥へ向かう。俺は光が歩き出すのを見守り、すぐそばを歩く。

「ねぇ、帰りにスーパーに寄りたいんだけど…」
「いいけど、俺が買ってくるよ。何買うの?」
「もー、過保護だなぁ。夕ご飯の食材。見ながら考えようと思ってたから、まだ決まってないの。」
「じゃあ一緒に行こう。牧瀬を降ろしてから…」

「玉城さん。」

突然遮るように、高い声が冷たく廊下に響いた。
階段を上がってきた、ひとりの女。赤いワンピースの、派手な…

「…森田先輩。」

光は呟いて、ぎこちない笑みを浮かべた。

「お疲れ様です。」
「お疲れ。今産休中でしょ?どうしたの?」
「事務手続きがあって。」
「へぇー。あっ、そうだ。妊娠おめでと。」
「…ありがとうございます。」

コツコツコツ、と大きな足音を立てて、森田は階段を上がってくると、俺たちの横を通り越して追い抜き、振り向いた。

「お腹、すっごい大きくなったね〜。」
「……。」
「元に戻すの大変そう〜。しかもちょっと太った?」
「光、行くぞ。」

光の肩を抱いて、森田から庇うように連れて行く。やっぱり悪い予感が当たった…森田を放っておくとろくなことが無い。

「無視してんじゃねーよ!!」

森田の怒号が響き、抱いていた光の肩が引っ張られた。

「きゃ…」

ぐらり、とバランスを崩した光の腕を、森田が引っ張っているのが見えた。その直後、光は床に崩れ落ちるように倒れていた。

「なっ…光!!」

荷物を放り出して床に手をつき、光を見ると――

「…いた…」

ゆっくりと起き上がった光の足元から、静かに透明な液体が広がって、光はお腹を押さえ、下腹部を見て…呆然とした。

「…え…?」

その透明な水溜りに、じわりと広がっていく赤い色。光の顔はみるみるうちに蒼白になっていく。

「あ……」
「…光、お…落ち着け。今救急車呼ぶから…!」
「……はっ……、はぁ…、……っ」

光は息を荒くして、だんだんと過呼吸のようになり、俺はとにかく背中をさすって119に電話をする。

「救急車!!救急車お願いします!!妊婦が転んで…、はい、出血があります!」

叫びながら、牧瀬がやって来たのが見えた。

「…えっ!?何、これ…?何があったの!?」
「……。」

目の前の光景を信じられないと言うように立ち尽くす森田の姿も見えた。
だけど俺の頭の中は真っ白で、腕の中の光の感触に縋りながら、必死にオペレーターの無愛想な声に答えていた。

 


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