192
鳴り響くサイレンと電子音、忙しい足音。待合室の椅子で、泣き出しそうな牧瀬の顔。
俺は今どんな顔をしているんだろう。
祈るように手を組んで蹲るように座る牧瀬を、どこか別の世界を見ているような気持で眺めながら、俺は思い出したように息を吐いた。
…何が、起こったんだっけ。
俺は…森田の嫌味から光を逃そうと、無視して帰りを急かして…。森田はそんな俺たちの態度に腹を立てて、光の腕を引っ張って、それで…。
……光が倒れた。
血が…たくさん出ていた。精神的にも酷くダメージを受けていた。あんな光の顔…、初めて見た。
俺はどうすればいいんだろう…何ができる?今、ここに立っているだけで…。だけど、そうだ、今は手術中で…待っているしかないんだ。俺は、ここに立っていることしか…できないんだ。
時間が過ぎるのが異様に遅く感じた。だけど、牧瀬とは一言も話さなかった。話すこともなかった。今、何を言っても言葉は重く、どんな言葉も聞きたくなかった。もしそれが励ましや、根拠のない希望だったら、相手を酷く恨んでしまうような気がした。
「御幸さん。お話が…。」
どのくらい時間が経ったのか。…あまり経っていない気がする。医者が慌てた様子でやってきて、俺を診察室に呼んだ。
「母子ともに非常に危険な状態です。」
言葉を失ったままの俺に、医者は構わず要件を続けた。
「どちらかを選ばなければなりません。」
「…選ぶ?」
「母体を優先すれば、赤ん坊の命は確実に助からないでしょう。反対に、赤ん坊を優先すれば…御幸光さんの命は…」
「……そんな…」
「どういたしますか?」
不躾に、ガラリ、と背後のドアが開いた。そこには光の叔母がスーツ姿で立っていて、髪は振り乱され、息は上がっていて、目には涙が滲んでいた。
「光ちゃんは!?無事なんですか!!」
「ご家族の方ですか?」
「先生、叔母という方で…」
あとから入ってきた看護士がそっと近づき、医者に耳打ちする。
「叔母?」
「父親は来られないそうで…」
「…この人は、母親代わりです」
俺がぽつりとつぶやくと、尾者は納得したように頷いて、同じ話を叔母さんにもした。叔母さんははっと息をのんで口元を覆い、嗚咽を漏らした。
「どうしてそんな…。」
「……。」
「どうして…。あんなに、優しい子が…。どうしてこんな、辛い目に遭わなきゃいけないの…。」
叔母さんのすすり泣く声を背中に聞きながら、俺はまた医者に問われる。
「御幸さん、難しい選択だとはわかっています。ですが、もう時間の猶予も…」
ごくり、と喉が鳴った。組んだまま膝の上に置かれた手の感覚はない。頭の中は真っ白で、ただただこの理不尽な現実への恨みばかりが募る。きっと…母体を優先したら、光は怒る。あんなに、子供が生まれるのを楽しみにしていた…。子供が生まれたら、いつかイタリアの母親の家に行こうって話していて、名前も考えてた。女の子の名前をいくつか。念のために、男の子の名前も。
「それに…どちらを優先しても、残念な結果になる可能性もあります。ご承知おきください。」
「……。」
どうして…。
光が、何をしたって言うんだよ。
どちらも失うなんて…俺は…。だけど、光だけが助かったとしても…きっと、ひどく傷つける。光が目覚めたとき、現実を知って、傷つく姿が目に浮かぶ。子供だけを助けたら…傷を抱えていくのは、俺だけ。俺だけで済む…。
だけど…。…だけど……。
「……光」
手の感覚を取り戻すように、俺は強く握りしめて言った。
「光を…優先してください」
***
淡い昼日が差し込む病室。光の寝顔を眺めて、ただただ静寂を耳の奥に聞いていた。光の頬は白く、少しやつれている。点滴の針が刺さった白く細い腕が布団の上に伸びている。俺はその手を撫で、指を絡ませた。その小さな手に力はなく、されるがままにぐにゃりと指が曲がる。…人形みたいだ。…早く、目を覚ましてくれ。このまま戻ってこないなんて…そんなわけ、ないよな?
「……。」
光の名前を呼ぼうとして、乾いた空気だけが唇の間からこぼれた。
「…御幸。」
ドアの音が静かで、俺はその声で倉持が来たことを知った。振り向くと、そこには倉持と…牧瀬も立っていた。ふたりは沈痛な面持ちで、ベッドの光と俺を見た。
「…大丈夫か?」
こんなとき、何を言ったらいいのかわからないのだろう。倉持はそう呟いて、後悔するような顔をした。俺も…何と言ったらいいのかわからない。大丈夫なわけがないし、大丈夫じゃないに決まってるだろと倉持にぶつけたところでどうにもならない。だけどそんなこと、倉持もわかっている。俺が黙っていても、倉持は何も言わなかった。
「…御幸さん、」
「……。」
「……。」
ふたりが俺を気遣うのがわかる。光を心配してくれていることも。だけど、俺はまだ…自分の考えを言葉にできない。まだ、光が助かるかどうかもわからないのに…。
「…悪いけど…医者と話さなきゃならないことがあるから…ふたりとも、俺が戻るまでここにいてくれないか。」
「は…はい。」
「わかった…」
おそらく頷いたふたりの顔も見られないまま、俺はそっと小さな手を離す。…そのときだった。
光が震えるように瞬きし、うっすらと目を開けた。
「…光!」
息をのんで顔を覗き込むと、光はしばらく天井を見つめ、ようやく焦点が定まってきた目で俺の顔を見た。
「……え…?」
一生懸命事態を飲み込もうとするように、光はじっと俺を見つめ、やがてその目に恐怖が蘇るのを、俺は悲しい気持ちで見つめていた。布団を捲り、愕然とする光。俺も…倉持も牧瀬も、何一つ言葉を発することができずに部屋は静まり返り、光の息が震えたのが聞こえた。
「……光……」
辛うじて彼女の名前を呼んで、震える手を掴んだ。俺は……。…非難されてもいい。俺は、光が助かっただけで嬉しかった。子供を失ったことは悲しい、だけど、それよりも…光が無事であることが重要だった。だから俺は…目の前で自己嫌悪と絶望に顔を歪ませる光に、かける言葉が見つからなかった。
「……一也さ……」
「……。」
言葉が見つからないまま、自分の名前に縋るように呟いた彼女を抱きしめる。
「…ごめ…ごめんなさい…」
「…なんでお前が謝るんだよ…」
「…ごめんなさい…。…ごめんなさい…っ」
腕の中で嗚咽を漏らす光を抱きしめながら、理不尽な現実を呪った。また…光が傷ついた。
「うう…っ、う…っ」
「ごめん…俺…一緒にいたのに…」
「…ううっ…、ううぅ…」
「守れなくて…ごめん…。…ごめんな…。…俺のせいだ」
泣き崩れながら、光は首を横に振る。
違う…。本当に…俺のせいだ。どうして…隣にいたのに。彼女の肩を支えていたのに。俺が…悪い。俺が……。
…そして……。……あいつが…やりやがった。
腕の中の光を、存在を確かめるように抱きしめて、俺は、一人の人間を…胸の中で殺した。
俺は今どんな顔をしているんだろう。
祈るように手を組んで蹲るように座る牧瀬を、どこか別の世界を見ているような気持で眺めながら、俺は思い出したように息を吐いた。
…何が、起こったんだっけ。
俺は…森田の嫌味から光を逃そうと、無視して帰りを急かして…。森田はそんな俺たちの態度に腹を立てて、光の腕を引っ張って、それで…。
……光が倒れた。
血が…たくさん出ていた。精神的にも酷くダメージを受けていた。あんな光の顔…、初めて見た。
俺はどうすればいいんだろう…何ができる?今、ここに立っているだけで…。だけど、そうだ、今は手術中で…待っているしかないんだ。俺は、ここに立っていることしか…できないんだ。
時間が過ぎるのが異様に遅く感じた。だけど、牧瀬とは一言も話さなかった。話すこともなかった。今、何を言っても言葉は重く、どんな言葉も聞きたくなかった。もしそれが励ましや、根拠のない希望だったら、相手を酷く恨んでしまうような気がした。
「御幸さん。お話が…。」
どのくらい時間が経ったのか。…あまり経っていない気がする。医者が慌てた様子でやってきて、俺を診察室に呼んだ。
「母子ともに非常に危険な状態です。」
言葉を失ったままの俺に、医者は構わず要件を続けた。
「どちらかを選ばなければなりません。」
「…選ぶ?」
「母体を優先すれば、赤ん坊の命は確実に助からないでしょう。反対に、赤ん坊を優先すれば…御幸光さんの命は…」
「……そんな…」
「どういたしますか?」
不躾に、ガラリ、と背後のドアが開いた。そこには光の叔母がスーツ姿で立っていて、髪は振り乱され、息は上がっていて、目には涙が滲んでいた。
「光ちゃんは!?無事なんですか!!」
「ご家族の方ですか?」
「先生、叔母という方で…」
あとから入ってきた看護士がそっと近づき、医者に耳打ちする。
「叔母?」
「父親は来られないそうで…」
「…この人は、母親代わりです」
俺がぽつりとつぶやくと、尾者は納得したように頷いて、同じ話を叔母さんにもした。叔母さんははっと息をのんで口元を覆い、嗚咽を漏らした。
「どうしてそんな…。」
「……。」
「どうして…。あんなに、優しい子が…。どうしてこんな、辛い目に遭わなきゃいけないの…。」
叔母さんのすすり泣く声を背中に聞きながら、俺はまた医者に問われる。
「御幸さん、難しい選択だとはわかっています。ですが、もう時間の猶予も…」
ごくり、と喉が鳴った。組んだまま膝の上に置かれた手の感覚はない。頭の中は真っ白で、ただただこの理不尽な現実への恨みばかりが募る。きっと…母体を優先したら、光は怒る。あんなに、子供が生まれるのを楽しみにしていた…。子供が生まれたら、いつかイタリアの母親の家に行こうって話していて、名前も考えてた。女の子の名前をいくつか。念のために、男の子の名前も。
「それに…どちらを優先しても、残念な結果になる可能性もあります。ご承知おきください。」
「……。」
どうして…。
光が、何をしたって言うんだよ。
どちらも失うなんて…俺は…。だけど、光だけが助かったとしても…きっと、ひどく傷つける。光が目覚めたとき、現実を知って、傷つく姿が目に浮かぶ。子供だけを助けたら…傷を抱えていくのは、俺だけ。俺だけで済む…。
だけど…。…だけど……。
「……光」
手の感覚を取り戻すように、俺は強く握りしめて言った。
「光を…優先してください」
***
淡い昼日が差し込む病室。光の寝顔を眺めて、ただただ静寂を耳の奥に聞いていた。光の頬は白く、少しやつれている。点滴の針が刺さった白く細い腕が布団の上に伸びている。俺はその手を撫で、指を絡ませた。その小さな手に力はなく、されるがままにぐにゃりと指が曲がる。…人形みたいだ。…早く、目を覚ましてくれ。このまま戻ってこないなんて…そんなわけ、ないよな?
「……。」
光の名前を呼ぼうとして、乾いた空気だけが唇の間からこぼれた。
「…御幸。」
ドアの音が静かで、俺はその声で倉持が来たことを知った。振り向くと、そこには倉持と…牧瀬も立っていた。ふたりは沈痛な面持ちで、ベッドの光と俺を見た。
「…大丈夫か?」
こんなとき、何を言ったらいいのかわからないのだろう。倉持はそう呟いて、後悔するような顔をした。俺も…何と言ったらいいのかわからない。大丈夫なわけがないし、大丈夫じゃないに決まってるだろと倉持にぶつけたところでどうにもならない。だけどそんなこと、倉持もわかっている。俺が黙っていても、倉持は何も言わなかった。
「…御幸さん、」
「……。」
「……。」
ふたりが俺を気遣うのがわかる。光を心配してくれていることも。だけど、俺はまだ…自分の考えを言葉にできない。まだ、光が助かるかどうかもわからないのに…。
「…悪いけど…医者と話さなきゃならないことがあるから…ふたりとも、俺が戻るまでここにいてくれないか。」
「は…はい。」
「わかった…」
おそらく頷いたふたりの顔も見られないまま、俺はそっと小さな手を離す。…そのときだった。
光が震えるように瞬きし、うっすらと目を開けた。
「…光!」
息をのんで顔を覗き込むと、光はしばらく天井を見つめ、ようやく焦点が定まってきた目で俺の顔を見た。
「……え…?」
一生懸命事態を飲み込もうとするように、光はじっと俺を見つめ、やがてその目に恐怖が蘇るのを、俺は悲しい気持ちで見つめていた。布団を捲り、愕然とする光。俺も…倉持も牧瀬も、何一つ言葉を発することができずに部屋は静まり返り、光の息が震えたのが聞こえた。
「……光……」
辛うじて彼女の名前を呼んで、震える手を掴んだ。俺は……。…非難されてもいい。俺は、光が助かっただけで嬉しかった。子供を失ったことは悲しい、だけど、それよりも…光が無事であることが重要だった。だから俺は…目の前で自己嫌悪と絶望に顔を歪ませる光に、かける言葉が見つからなかった。
「……一也さ……」
「……。」
言葉が見つからないまま、自分の名前に縋るように呟いた彼女を抱きしめる。
「…ごめ…ごめんなさい…」
「…なんでお前が謝るんだよ…」
「…ごめんなさい…。…ごめんなさい…っ」
腕の中で嗚咽を漏らす光を抱きしめながら、理不尽な現実を呪った。また…光が傷ついた。
「うう…っ、う…っ」
「ごめん…俺…一緒にいたのに…」
「…ううっ…、ううぅ…」
「守れなくて…ごめん…。…ごめんな…。…俺のせいだ」
泣き崩れながら、光は首を横に振る。
違う…。本当に…俺のせいだ。どうして…隣にいたのに。彼女の肩を支えていたのに。俺が…悪い。俺が……。
…そして……。……あいつが…やりやがった。
腕の中の光を、存在を確かめるように抱きしめて、俺は、一人の人間を…胸の中で殺した。