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安定剤を処方され、光が眠ってから、御幸は医師と話しに行った。病室には俺と牧瀬と光。普段賑やかな牧瀬も、今ばかりは涙をにじませて黙り込んでいる。
涙と言えば…、初めて御幸の泣き顔を見た。いや、正確には、涙の痕が残る顔。きっと昨夜はあいつにとって人生最悪の日で、それはまだ終わっていないんだ。酷い顔をしている御幸を、普段だったらからかったのだろうが、今は何と声をかけていいのかわからなかった。光の身も心配で、俺にとって特別な女性であるはずなのに、どうしてか…今は自分の不安や悲しみよりも御幸のそれの方が大きいことを実感しているというか、どこか自分が第三者的な立場である気分で、それがしっくりきている。
そのせいだろうか。衰弱しきった光を目の前にしても、俺はどこか冷静だった。
ピリリリリ、と軽い電子音が響いた。
「あ…。」
牧瀬が慌てて音を抑えるように携帯を手で包んで、俺に黙礼して病室を出て行った。
「はい、今病院です。ついさっき、意識が…」
ドアが閉まる直前、かすかにそう言っているのが聞こえた。どうやら、電話の相手は仕事関係の人物らしかった。
俺は少しベッドに近づいて、光の寝顔を見た。長い睫は涙で濡れ、呼吸は浅い。ほんの少し、何かを握るように指が動いている。そこに指先で触れると、光の小さな手が俺の指を弱い力でつかんだ。
「……か……、」
小さな唇が、おそらく、かずやさん、と動いたけど、声になったのはほんの最初の音だけだった。俺は静かにそっと、掴まれた指を引き抜いた。
ガラガラガラ、と病室のドアが静かに開いた。牧瀬が戻って来たのかと思ったけど、そこにいたのは光臣だった。
「……。」
光臣はベッドの光を見て言葉を失って、ゆっくりと俺の隣に歩いてきた。
「…さっき意識が戻った。今は眠ってるだけだ。」
ぽつりとそう呟くと、光臣が小さく息を吐いたのが分かった。
「…お腹の子は?」
ようやく少し冷静になった様子で光臣が尋ねてきた。俺は無言で目を伏せ、首を横に振った。
「……。」
光臣はまた、黙り込んだ。
「…今、御幸が医者と話してる。」
「…そうか。」
「牧瀬は電話中。外で会わなかったか?」
「いや…、…ああ…、廊下で会った。」
「……。」
「……。」
どちらとも黙り込んだ。あまり喋る気にはなれなかった。それは光臣も同じようで、しばらくの間黙っていたが、やがて無意識のように呟いた。
「……つらいな…。」
その言葉に同意することが、俺にはどうしてもできなかった。辛いな、そうだな、なんて、軽い簡単な会話で、この気持ちを片付けたくはなかった。光臣がそんなつもりではないことは、もちろんわかっているけど…俺は今、ただ、この痛みに黙って浸かり続けることが、一番正しいような気がした。
「……。」
「……。」
「…御幸、遅いな。ちょっと行ってくるわ。」
「…ああ。」
光臣を残して、病室を出る。少し歩いたところで、御幸はすぐに見つかった。御幸は誰もいない廊下の椅子にひとり、座っていた。何かを考えるように、どこか怖い顔をして。
「御幸。」
声をかけて近づいたけど、御幸は深く物思いにふけっている様子で、全く反応がなかった。
「…御幸。」
「……。」
「…おい!御幸!」
「…あ、…倉持?」
俺に気付いた瞬間、御幸の顔はふっと影を消した。
「こんなところで何してんだよ。医者は?」
「…話してきた。」
「なんて?」
「…子供は…また望めるって。でも、精神的なショックが大きくて…暫くは不安定だろうって」
「…そっか。」
「……。」
「……。」
黙り込んだ御幸に付き合って、俺も黙ったまま椅子に座った。冷たいリノリウムの床を眺めながら、ただ茫然と過ごす。すると、コツ、と硬い音がして、俺は顔を上げた。また、コツ、と音が近づいた。少し先を見ると、それは廊下の先にいる派手な女のハイヒールの音だとわかった。
ギッ、と座っている長椅子が揺れた。御幸が立ち上がったのだった。
「…御幸?」
立ち上がった御幸が青ざめた顔で呆然としているから、俺は不思議に思って声をかけた。見ると、御幸は手の甲に青酢児が浮き上がるほど強く両手を握りしめていて、その手は震えていた。その顔に浮かんでいるのは…怒り?唇までもを震わせ、御幸は肩で息をして、前を――廊下の先にいる派手な女を見ていた。
コツ…、コツ…、と女が近づいてくる。そしてようやく俺は、その人物に見覚えがあることに気付いた。
…森田桃。昔、散々俺たちを引っ掻き回してくれた厄介な女。気が強くて、なりふり構わず突拍子もない行動をとることもある、天災のような女だ。だけど、今俺たちの方へ歩いてくる彼女は、そのころの面影を感じないほど怯え、涙で顔をめちゃくちゃにしていた。
「……。」
森田は数十歩先の所で立ち止まり、御幸を見ようとして、躊躇うように目をさ迷わせた。御幸は両手を握りしめたまま、ずかずか歩き出した。
「お…おい、何するつもりだよ!」
俺は咄嗟にその手を掴んで御幸を止めた。まさかとは思うが、森田を殴る勢いだったのだ。御幸は森田を睨みつけたまま俺の手を振りほどこうとする。
「倉持、離せ…」
「落ち着いたら離す。」
「…それは無理だ」
「は?なんでだよ…」
「こいつのせいなんだよ…」
御幸の声が震えている。
「こいつのせいで光はあんなことに!!」
「っ…、いいから、いったん落ち着けって!!手は出すな!!」
「落ち着けるかよ!!こいつが光の手を引っ張って…!!転ばせたんだ…!!こいつが!!」
え…?息を飲んで森田を見ると、肩で息をしながら歪んだ泣き顔を横に振っている。
「そんな…、そんなつもりじゃ、なかった…!」
「じゃあどういうつもりだよ!!お前のせいで…!!」
「ひっ…、ごめんなさ…っ」
「お前のせいで…!!」
「ごめんなさい…!!ゆ、ゆるして…!」
御幸が拳を振り上げるのを必死で止め、俺は歯ぎしりする。こいつ…怒りのせいかタガが外れてやがる。
「御幸!事情は分かった…けど…、手を出すのはダメだろ…!!」
「何言ってんだよ…なんでお前は平気でいられるんだよ!!俺は…こいつを殺してやりたい…。」
「…わかってるよ!俺だってムカついてる。だけどよ…手を出したら…お前がいなくなったら、誰が光を支えるんだよ!」
「……。」
「俺は…俺じゃ、駄目なんだよ…。光はお前を待ってる…」
「……。」
御幸は唇を噛み、震える拳を下ろした。それから涙を流す森田を睨みつけ、言った。
「…一生…、一生許さねぇ…。」
「ひっ…。うう……。」
すすり泣く森田から必死で目を逸らし、御幸は怒りを堪える。その気持ちは痛いほどわかった。だけど堪えなきゃ…また光が悲しむことになる。俺は御幸の背中に手をやり、森田を睨んだ。
「…何してんだよ。さっさと失せろ!」
びくり、と肩を震わせて、森田は後ずさって踵を返し、帰って行った。まだ御幸の手は震えていて、やり場のない怒りを必死に抑えているんだとわかった。今少しでも触れると、爆発してしまいそうなほどに、御幸は怒りに打ち震えていて…俺は、それを肌に感じながら、御幸が落ち着くのを待った。
涙と言えば…、初めて御幸の泣き顔を見た。いや、正確には、涙の痕が残る顔。きっと昨夜はあいつにとって人生最悪の日で、それはまだ終わっていないんだ。酷い顔をしている御幸を、普段だったらからかったのだろうが、今は何と声をかけていいのかわからなかった。光の身も心配で、俺にとって特別な女性であるはずなのに、どうしてか…今は自分の不安や悲しみよりも御幸のそれの方が大きいことを実感しているというか、どこか自分が第三者的な立場である気分で、それがしっくりきている。
そのせいだろうか。衰弱しきった光を目の前にしても、俺はどこか冷静だった。
ピリリリリ、と軽い電子音が響いた。
「あ…。」
牧瀬が慌てて音を抑えるように携帯を手で包んで、俺に黙礼して病室を出て行った。
「はい、今病院です。ついさっき、意識が…」
ドアが閉まる直前、かすかにそう言っているのが聞こえた。どうやら、電話の相手は仕事関係の人物らしかった。
俺は少しベッドに近づいて、光の寝顔を見た。長い睫は涙で濡れ、呼吸は浅い。ほんの少し、何かを握るように指が動いている。そこに指先で触れると、光の小さな手が俺の指を弱い力でつかんだ。
「……か……、」
小さな唇が、おそらく、かずやさん、と動いたけど、声になったのはほんの最初の音だけだった。俺は静かにそっと、掴まれた指を引き抜いた。
ガラガラガラ、と病室のドアが静かに開いた。牧瀬が戻って来たのかと思ったけど、そこにいたのは光臣だった。
「……。」
光臣はベッドの光を見て言葉を失って、ゆっくりと俺の隣に歩いてきた。
「…さっき意識が戻った。今は眠ってるだけだ。」
ぽつりとそう呟くと、光臣が小さく息を吐いたのが分かった。
「…お腹の子は?」
ようやく少し冷静になった様子で光臣が尋ねてきた。俺は無言で目を伏せ、首を横に振った。
「……。」
光臣はまた、黙り込んだ。
「…今、御幸が医者と話してる。」
「…そうか。」
「牧瀬は電話中。外で会わなかったか?」
「いや…、…ああ…、廊下で会った。」
「……。」
「……。」
どちらとも黙り込んだ。あまり喋る気にはなれなかった。それは光臣も同じようで、しばらくの間黙っていたが、やがて無意識のように呟いた。
「……つらいな…。」
その言葉に同意することが、俺にはどうしてもできなかった。辛いな、そうだな、なんて、軽い簡単な会話で、この気持ちを片付けたくはなかった。光臣がそんなつもりではないことは、もちろんわかっているけど…俺は今、ただ、この痛みに黙って浸かり続けることが、一番正しいような気がした。
「……。」
「……。」
「…御幸、遅いな。ちょっと行ってくるわ。」
「…ああ。」
光臣を残して、病室を出る。少し歩いたところで、御幸はすぐに見つかった。御幸は誰もいない廊下の椅子にひとり、座っていた。何かを考えるように、どこか怖い顔をして。
「御幸。」
声をかけて近づいたけど、御幸は深く物思いにふけっている様子で、全く反応がなかった。
「…御幸。」
「……。」
「…おい!御幸!」
「…あ、…倉持?」
俺に気付いた瞬間、御幸の顔はふっと影を消した。
「こんなところで何してんだよ。医者は?」
「…話してきた。」
「なんて?」
「…子供は…また望めるって。でも、精神的なショックが大きくて…暫くは不安定だろうって」
「…そっか。」
「……。」
「……。」
黙り込んだ御幸に付き合って、俺も黙ったまま椅子に座った。冷たいリノリウムの床を眺めながら、ただ茫然と過ごす。すると、コツ、と硬い音がして、俺は顔を上げた。また、コツ、と音が近づいた。少し先を見ると、それは廊下の先にいる派手な女のハイヒールの音だとわかった。
ギッ、と座っている長椅子が揺れた。御幸が立ち上がったのだった。
「…御幸?」
立ち上がった御幸が青ざめた顔で呆然としているから、俺は不思議に思って声をかけた。見ると、御幸は手の甲に青酢児が浮き上がるほど強く両手を握りしめていて、その手は震えていた。その顔に浮かんでいるのは…怒り?唇までもを震わせ、御幸は肩で息をして、前を――廊下の先にいる派手な女を見ていた。
コツ…、コツ…、と女が近づいてくる。そしてようやく俺は、その人物に見覚えがあることに気付いた。
…森田桃。昔、散々俺たちを引っ掻き回してくれた厄介な女。気が強くて、なりふり構わず突拍子もない行動をとることもある、天災のような女だ。だけど、今俺たちの方へ歩いてくる彼女は、そのころの面影を感じないほど怯え、涙で顔をめちゃくちゃにしていた。
「……。」
森田は数十歩先の所で立ち止まり、御幸を見ようとして、躊躇うように目をさ迷わせた。御幸は両手を握りしめたまま、ずかずか歩き出した。
「お…おい、何するつもりだよ!」
俺は咄嗟にその手を掴んで御幸を止めた。まさかとは思うが、森田を殴る勢いだったのだ。御幸は森田を睨みつけたまま俺の手を振りほどこうとする。
「倉持、離せ…」
「落ち着いたら離す。」
「…それは無理だ」
「は?なんでだよ…」
「こいつのせいなんだよ…」
御幸の声が震えている。
「こいつのせいで光はあんなことに!!」
「っ…、いいから、いったん落ち着けって!!手は出すな!!」
「落ち着けるかよ!!こいつが光の手を引っ張って…!!転ばせたんだ…!!こいつが!!」
え…?息を飲んで森田を見ると、肩で息をしながら歪んだ泣き顔を横に振っている。
「そんな…、そんなつもりじゃ、なかった…!」
「じゃあどういうつもりだよ!!お前のせいで…!!」
「ひっ…、ごめんなさ…っ」
「お前のせいで…!!」
「ごめんなさい…!!ゆ、ゆるして…!」
御幸が拳を振り上げるのを必死で止め、俺は歯ぎしりする。こいつ…怒りのせいかタガが外れてやがる。
「御幸!事情は分かった…けど…、手を出すのはダメだろ…!!」
「何言ってんだよ…なんでお前は平気でいられるんだよ!!俺は…こいつを殺してやりたい…。」
「…わかってるよ!俺だってムカついてる。だけどよ…手を出したら…お前がいなくなったら、誰が光を支えるんだよ!」
「……。」
「俺は…俺じゃ、駄目なんだよ…。光はお前を待ってる…」
「……。」
御幸は唇を噛み、震える拳を下ろした。それから涙を流す森田を睨みつけ、言った。
「…一生…、一生許さねぇ…。」
「ひっ…。うう……。」
すすり泣く森田から必死で目を逸らし、御幸は怒りを堪える。その気持ちは痛いほどわかった。だけど堪えなきゃ…また光が悲しむことになる。俺は御幸の背中に手をやり、森田を睨んだ。
「…何してんだよ。さっさと失せろ!」
びくり、と肩を震わせて、森田は後ずさって踵を返し、帰って行った。まだ御幸の手は震えていて、やり場のない怒りを必死に抑えているんだとわかった。今少しでも触れると、爆発してしまいそうなほどに、御幸は怒りに打ち震えていて…俺は、それを肌に感じながら、御幸が落ち着くのを待った。