倉持がいなかったら、あの女を本当に殺していたかもしれない。

いつの間にか皆が帰ったあと、俺が少し正気を取り戻した頃、病室は驚くほど静かになっていた。光は疲れ切った顔で眠っている。起きているとずっと自分を責めているから、薬で無理矢理でも、眠ってくれていた方がまだいい。

コンコン、とドアが控えめにノックされた。振り向くと、引き戸のすりガラスの窓越しに、誰かが立っているのが見えた。背格好から見ると男だ。俺は重たい体を引きずるように立ち上がって、ドアに歩み寄り、ゆっくりと引き開けた。

「…一也。」

それは親父だった。仕事はどうしたんだろうとか、そんなどうでもいいことを考えながら、親父が遠慮がちに病室に2,3歩踏み込むのを見つめる。

「…光さんだけでも、無事でよかった。」

親父は俺を慰めるようにそう言って、肩に手を置いた。いやに重たく感じた。

「お前は大丈夫なのか?」
「…俺がダメになってる場合じゃない。」

あと1ヶ月…。1ヶ月後には、赤ん坊を抱いて、光と笑っているはずだった。

「…俺が守るって言ったのに…」

呟いた声は震えていて、目の前が滲んで親父の顔が見えなかった。親父は俺の肩を抱いて、励ますように軽く叩いた。


***


歓声が遠くに聞こえる。俺はキャッチャーボックスに座っていても、この試合は他人事のように感じた。結果は散々だったのに、チームメイトは俺を一言も責めなかった。

「選手としてじゃなく、一個人の考えだけど…今日、負けてよかったよ。これで明日からお前が、少しでも多く嫁さんに付き添えるし…。」

先輩の言葉に涙が滲んだ。
通用口に出ると、倉持が俺を待っていたように立っていた。目が合うと、倉持は背を起こして俺の隣を歩きはじめる。

「病院行くんだろ?」
「…ああ」
「一緒に行こうぜ」

ああ、とため息のように返事をした。

「…お前、ほんと光がいないとダメダメな」
「…え?」
「前も別れた途端、ポンコツになったし。その後婚約したら呆気なく復活しやがってよ。単純すぎて笑えるわ」
「……。」

全然笑ってねーじゃん…。

「ま、今日の勝ちはノーカンだから。」
「……。」
「へなちょこのお前に勝っても嬉しくねーんだよ。簡単に塁盗られやがって。」
「……。」
「つーか8回から、沢村が勝手し始めやがったし。あんなもんソロプレーじゃねーか。お前と戦った気がしねぇよ」
「…倉持」
「あ?」
「…もしかして、励ましてんの?」
「……。」

倉持は急に口を噤んでムッと目を逸らした。その照れくさそうな横顔を見て、俺はつい、小さく笑いがこぼれた。

「…ふっ…」
「…あ!?テメェ今笑ったな!?」
「いや…。…はは…。…はっはっは」
「しっかり笑ってんじゃねーか!!チッ…心配して損した、もう絶対しねー」
「はは…ごめんごめん。…はぁ…」

とても久しぶりに笑ったような気がした。そして、一気に周りが騒がしくなったような気も。そうだ…笑ったことで少し気持ちが軽くなって、周りの音が耳に届いたんだ。…どんだけ周り見えてなかったんだ、俺。今日の試合の振り返りがコエー…あんま覚えてないし。

「…ありがとな」
「うるせっ、気持ちわりィ」
「だからごめんって。」


***


倉持と病院に着くと、光は起きていて、病室には叔母さんがいた。

「あ…一也君。…と…」

ちらり、と叔母さんの視線が倉持に移る。倉持は速やかにお辞儀をした。

「…倉持っす。」
「こんにちは。…光の叔母です。」
「どうも…。」

挨拶が済むと、叔母さんは俺に向き直る。

「すぐで悪いけど…私はこれで帰るわね。また明日…夜には来られると思うから…」
「…叔母さん…」

光がか細い声をつぶやき、叔母さんは振り向く。

「来なくて…大丈夫。もう大丈夫だから」
「…違うのよ、光ちゃん。私が来たいの。あなたに会いたいのよ」

ふるふる、と光はうつろな目で首を横に振る。

「…来ないで。」

叔母さんは悲し気に息を飲んで、涙の浮かぶ目を細めて微笑みを作った。

「…そうね、一人の時間も欲しいわよね。」
「……。」
「じゃあ…。…話し相手が欲しくなったら、いつでも連絡頂戴ね。」
「…うん…」

光が頷いたのを見て、叔母さんは涙を堪えた笑顔のままで俺たちに微笑みかけ、病室を出て行った。忙しい人だから、ここにも無理をして来ていたんだと思う。入院してから、必ず一日一度は、顔を見に来てくれていた。

「光。何か欲しいもんある?」

光は黙って首を横に振る。

「…そっか。少し休むか?」

また、黙って首を横に振る。

「…今日、試合だったんでしょ?」

ぽつりと、何を呟いたかと思えば、思いもよらない質問だった。

「え?…ああ、そうだけど…ごめんな、来るの遅くなって。」
「……。ごめんなさい。…何もできなくて」
「…なんだ、そんなこと気にしてたのかよ。そんなのどうでもいいよ…お前がいるだけでいい」
「……。」

光の瞳から、堰を切ったように涙がこぼれ始めた。ぼろぼろと、大粒の涙がいくつも、止まる気配もなく頬を濡らしていく。俺は口元に笑みを浮かべて、できるだけ冷静にと自分に言い聞かせて、タオルで涙を拭った。頬にタオルを押し当てられながら、光は嗚咽と共に言葉を零した。

「…ごめんなさい…」
「…だから、なんで謝るんだよ。お前は何も悪くないだろ。」
「…ごめんなさい…っ」

高く掠れた声。倉持もいるのに、こんなに光が不安定になるなんて。

「私…やっぱり私なんて…っ、…子供、持つ資格、ない…」
「…何言ってるんだよ。なんでそんなこと思うんだよ。」
「私には…お父さんも、お母さんも、いないから…」
「……だからって」
「子供を…っ、持つ資格、ないから…死んじゃったの」
「……。」

パシン、と空気がはじける音がした。あっ、と倉持が驚いて息を飲み込んだ。だけど、もっと驚いていたのは俺だ。俺は、光の柔らかな白い頬を、手のひらで打っていた。
光は驚いた瞳で…涙に塗れた大きな瞳で、ようやく俺を見た。そのか弱い体を、俺は力いっぱい抱きしめた。思いの限りきつく、強く。壊れてしまいそうなほど。それでもやっぱり、この溢れだす感情にはまだまだ足りなかった。

「…バカ!こんなに傷ついてんのに、何言ってんだよ!!」
「……。」
「こんなボロボロになって、それって、赤ん坊が大事だからだろ!まだ生まれてない、俺たちの子が大事だったからだろ!!こんなに悲しんでるのに、なんで子供を持つ資格がないんだよ!!子供を持つ資格なんて…お前ほどあの子のことを大事に想ってた人間以外に、誰が持ってんだよ!!」
「……っ」
「もう自分で自分を傷つけんなよ…。それ以上自分を責めたら…俺の大事な人を傷つけたら、許さないからな!」
「……うっ…、うぅ…」

肩口で泣き声が聞こえて、俺は慌てるよりも安心していた。光が泣いて、安心するなんて。人生わかんねーな…。だけど…よかった。光がようやく、自分の気持ちの終止符に向かって歩き始めたような気がして。
ひとしきり泣いた光は、泣き疲れたように眠った。看護師にそれを伝え、俺と倉持は帰途に就く。

「…倉持。」
「…あ?」

車が見えてきて、俺は駐車場内で立ち止まった。

「子供より、光を優先したこと…光には言わないで。」
「…言われなくても…言わねーよ、そんなこと…」
「…だよな。」

でも、確かにしておきたくて。もう少しでも、光を傷つけたくない。

「知ったらきっと、また自分を責める…」
「……。」

倉持はしばらく沈黙して、何かを考えていたようだけど、不意に車のカギを取り出して踵を返した。

「…俺は間違ってないと思うけどな。」
「…え?」
「お前の判断。」

じゃあな、と素っ気なく背中を向けて車に乗り込む倉持。俺はその厳つい車が狭い駐車場を抜けて出て行くのを、しばらくの間見つめていた。

 


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