195
「光。」
日が差し込む明るい病室。窓辺には、大きなバッグを足元に置いて、光が立っている。俺が呼ぶと光はゆっくりと振り返り、その顔を見ただけで俺の胸は暖かくなる。
「手続き終わったよ、行こう。」
「うん…」
今日は光の退院の日。容態が安定し、俺もオフに入って家に居られるという事で、退院することになった。手を差し出すと、光は俺の手に掴まる。手を繋いで少し肌寒いリノリウムの廊下を歩いていくと、静かな病院内に硬い革靴の音が響いて、しかも慌ただしくこちらに近づいてきたことに気付いた。何だろうと思っていると、すぐ目の前の角から、スーツ姿の光臣が飛び出してきた。
うわ、と立ち止まり、光臣もたたらを踏んで俺たちを見て、立ち止まる。
「よかった、まだ中にいたか。」
「ああ、今帰るところだけど…」
「ちょっと待ってくれ。」
光臣は辺りを見渡し、俺の腕を掴む。
「いったん病室に戻ろう。」
「え?なんで?」
「病院前にマスコミがいる。」
はぁ?マジかよ…。俺は光と顔を見合わせ、光臣に従った。光臣はからっぽの病室に入るなり、俺たちを振り返って話し始めた。
「看護師に頼んで、裏口から出させてもらえることになってる。」
「なんだ、じゃあ俺車回してくるよ。どこ?」
「いや、もう屋敷の車を回してある。」
「…でも俺、車で来てるんだけど」
「鍵を貸してくれ。マンションに届けておく。」
「…は?いやいや、俺たちも帰るし…」
「それはやめたほうがいい。」
光臣は淡々と言いながら、スーツの内ポケットから薄い革のケースを取り出した。
「マンション前もマスコミが張ってるからな。」
「…マジかよ。じゃあ…一旦別宅に行ってもいいか?」
「いや、それよりも…」
光臣は革のケースを俺に差し出した。
「しばらく羽を伸ばしてこい。」
「…え?なにコレ…」
「君たちのパスポートだ。自家用機を用意してあるから、空港まで送る。」
「…いやいやいや、何言ってんだよいきなり。」
「?君はもうオフだし、問題ないだろう?」
「そういうことを言ってるんじゃねーっての。」
「いいから、何も気にせず2〜3週間行ってこい。しばらく国外に行った方がいい。君たちが思っている以上に、世間は君たちに興味があるんだよ。牧瀬司もそうしたほうがいいと賛同してくれた。」
「…司が?」
牧瀬の名前で光が意外そうに顔を上げた。
「ああ。事務所は大混乱で、君に連絡することもままならないそうだぞ。」
「…そういや最近姿見てねーな…」
「マスコミや野次馬の対応に追われているんだ。マスコミと言えば…うちにも来たしな。」
「え…光臣のところまで…?」
光はすまなそうに俯いた。
「ごめん…迷惑かけて…」
「いいや。こういう時のために警備員を雇っているんだ。たまにはこんなことでもないと、雇い損だからな。ちょうどいいよ」
「……。」
相変わらず読めないヤツ…。
「そうと決まれば早く行くぞ。裏口はこっちだ。」
「ちょ、ちょっと待てよ。イタリアに行ったところで、ホテルもとってねーし…」
「ああ、そうだ。忘れるところだった」
光臣は内ポケットからもう一つ、小さな何かを取り出した。差し出されたそれは、古ぼけた鍵の束だった。
「うちの別荘を使ってくれ。」
「…別荘って…もしかして」
「ああ。あそこだ。…これが門の鍵、これが裏門の鍵で、屋敷の玄関のカギはこの丸いやつだ。裏の鍵はこれで、庭の用具倉庫の鍵はこれ…、地下室のは…どれだったかな。まあ、あとは適当に試してくれ。」
「……。」
「生活に必要なものも、ある程度揃っているし…使用人も3人、料理人もいる。足りるか?何人か同行させようか。」
「い、いや、いい。」
「そうか。じゃあ行くぞ。」
軽やかに踵を返して歩いていく光臣についていきながら、俺と光はあっけにとられたまま顔を見合わせた。
***
空港へ着くと、光臣に案内されて、よくわからない通路を通り、滑走路へと出た。は〜…まだまだ驚かせてくれるぜ。
「あれがうちの飛行機だ。」
「すげーセリフ」
「小型だがな。」
十分だよ…。返す言葉もなく自家用機に乗り込む。そしてまだ驚いた。…さすがにさほど広くはないが、どこの高級ホテルだよ、というような空間。座り心地のよさそうなレザーのシート、ふかふかの絨毯、テーブルにテレビに…使用人のような出で立ちの客室乗務員。
「すぐに離陸できるから、席についていてくれ。」
「ああ…」
「それから、光。」
「…なに?」
光臣は飛行機に乗り込もうとする光を呼び止める。
「…気の利く言葉ひとつかけられなくて済まない。でも…元気になってほしい。」
「……。」
「難しいことはわかってる。ただ…、…えっと」
「……。」
「…俺に何かできることがあったら」
「…じゅうぶん、してもらってるよ。」
光は消え入りそうな声で、呟いた。
「…ありがとう。」
「あ…、ああ…。」
光臣が気遣うようにうなずいて、光は階段に向かう。
「大丈夫か?」
「…うん」
手を差し出すと、光は捕まって階段を上った。その手は…やっぱりまだ、弱弱しい。心ここにあらずと言った感じだ。
「気を付けて。」
光臣はそう言って、機体から離れた。
席に着き、シートベルトをしてまもなくすると、自家用機は離陸した。空気が燃え上がるような轟音に耳をふさがれながら、俺は、隣の席の光ばかりが気になっていた。
日が差し込む明るい病室。窓辺には、大きなバッグを足元に置いて、光が立っている。俺が呼ぶと光はゆっくりと振り返り、その顔を見ただけで俺の胸は暖かくなる。
「手続き終わったよ、行こう。」
「うん…」
今日は光の退院の日。容態が安定し、俺もオフに入って家に居られるという事で、退院することになった。手を差し出すと、光は俺の手に掴まる。手を繋いで少し肌寒いリノリウムの廊下を歩いていくと、静かな病院内に硬い革靴の音が響いて、しかも慌ただしくこちらに近づいてきたことに気付いた。何だろうと思っていると、すぐ目の前の角から、スーツ姿の光臣が飛び出してきた。
うわ、と立ち止まり、光臣もたたらを踏んで俺たちを見て、立ち止まる。
「よかった、まだ中にいたか。」
「ああ、今帰るところだけど…」
「ちょっと待ってくれ。」
光臣は辺りを見渡し、俺の腕を掴む。
「いったん病室に戻ろう。」
「え?なんで?」
「病院前にマスコミがいる。」
はぁ?マジかよ…。俺は光と顔を見合わせ、光臣に従った。光臣はからっぽの病室に入るなり、俺たちを振り返って話し始めた。
「看護師に頼んで、裏口から出させてもらえることになってる。」
「なんだ、じゃあ俺車回してくるよ。どこ?」
「いや、もう屋敷の車を回してある。」
「…でも俺、車で来てるんだけど」
「鍵を貸してくれ。マンションに届けておく。」
「…は?いやいや、俺たちも帰るし…」
「それはやめたほうがいい。」
光臣は淡々と言いながら、スーツの内ポケットから薄い革のケースを取り出した。
「マンション前もマスコミが張ってるからな。」
「…マジかよ。じゃあ…一旦別宅に行ってもいいか?」
「いや、それよりも…」
光臣は革のケースを俺に差し出した。
「しばらく羽を伸ばしてこい。」
「…え?なにコレ…」
「君たちのパスポートだ。自家用機を用意してあるから、空港まで送る。」
「…いやいやいや、何言ってんだよいきなり。」
「?君はもうオフだし、問題ないだろう?」
「そういうことを言ってるんじゃねーっての。」
「いいから、何も気にせず2〜3週間行ってこい。しばらく国外に行った方がいい。君たちが思っている以上に、世間は君たちに興味があるんだよ。牧瀬司もそうしたほうがいいと賛同してくれた。」
「…司が?」
牧瀬の名前で光が意外そうに顔を上げた。
「ああ。事務所は大混乱で、君に連絡することもままならないそうだぞ。」
「…そういや最近姿見てねーな…」
「マスコミや野次馬の対応に追われているんだ。マスコミと言えば…うちにも来たしな。」
「え…光臣のところまで…?」
光はすまなそうに俯いた。
「ごめん…迷惑かけて…」
「いいや。こういう時のために警備員を雇っているんだ。たまにはこんなことでもないと、雇い損だからな。ちょうどいいよ」
「……。」
相変わらず読めないヤツ…。
「そうと決まれば早く行くぞ。裏口はこっちだ。」
「ちょ、ちょっと待てよ。イタリアに行ったところで、ホテルもとってねーし…」
「ああ、そうだ。忘れるところだった」
光臣は内ポケットからもう一つ、小さな何かを取り出した。差し出されたそれは、古ぼけた鍵の束だった。
「うちの別荘を使ってくれ。」
「…別荘って…もしかして」
「ああ。あそこだ。…これが門の鍵、これが裏門の鍵で、屋敷の玄関のカギはこの丸いやつだ。裏の鍵はこれで、庭の用具倉庫の鍵はこれ…、地下室のは…どれだったかな。まあ、あとは適当に試してくれ。」
「……。」
「生活に必要なものも、ある程度揃っているし…使用人も3人、料理人もいる。足りるか?何人か同行させようか。」
「い、いや、いい。」
「そうか。じゃあ行くぞ。」
軽やかに踵を返して歩いていく光臣についていきながら、俺と光はあっけにとられたまま顔を見合わせた。
***
空港へ着くと、光臣に案内されて、よくわからない通路を通り、滑走路へと出た。は〜…まだまだ驚かせてくれるぜ。
「あれがうちの飛行機だ。」
「すげーセリフ」
「小型だがな。」
十分だよ…。返す言葉もなく自家用機に乗り込む。そしてまだ驚いた。…さすがにさほど広くはないが、どこの高級ホテルだよ、というような空間。座り心地のよさそうなレザーのシート、ふかふかの絨毯、テーブルにテレビに…使用人のような出で立ちの客室乗務員。
「すぐに離陸できるから、席についていてくれ。」
「ああ…」
「それから、光。」
「…なに?」
光臣は飛行機に乗り込もうとする光を呼び止める。
「…気の利く言葉ひとつかけられなくて済まない。でも…元気になってほしい。」
「……。」
「難しいことはわかってる。ただ…、…えっと」
「……。」
「…俺に何かできることがあったら」
「…じゅうぶん、してもらってるよ。」
光は消え入りそうな声で、呟いた。
「…ありがとう。」
「あ…、ああ…。」
光臣が気遣うようにうなずいて、光は階段に向かう。
「大丈夫か?」
「…うん」
手を差し出すと、光は捕まって階段を上った。その手は…やっぱりまだ、弱弱しい。心ここにあらずと言った感じだ。
「気を付けて。」
光臣はそう言って、機体から離れた。
席に着き、シートベルトをしてまもなくすると、自家用機は離陸した。空気が燃え上がるような轟音に耳をふさがれながら、俺は、隣の席の光ばかりが気になっていた。