197
イタリアへ来て早くも1週間ほどが過ぎた。光は一日のほとんどを部屋の中で過ごし、食欲もない。
「光。散歩でも行くか?何かしてほしいことは?」
何日か前、そう尋ねた俺に、光は呟くように言った。
「…トレーニングしてて。」
…というわけで、イタリアののどかで美しい庭園で、俺は毎日素振りをしている。あれは、自分に気を使わずやるべきことに集中して、という意味なのか、単にうざがられて追い払われたのか…。…いや、きっと前者だ。うん。
「精が出ますね。」
ふと声がかかって、振り返ると、使用人の男が朗らかに笑って立っていた。
「体動かしてないと、落ち着かなくて。」
苦笑いして素振りをやめ、バットを置くと、使用人は屋敷の2階を見上げて言う。
「旦那さまから伺っております。このお屋敷は、光様のお母様が、生前住まわれていたんだとか。」
「…はい。」
「美しい奥さまですね。この屋敷がとてもよく似合う。」
「はは、どうも。」
「…本音を申しますと、笑顔も拝見したいところです。」
ちょっとおどけて言う使用人に、俺はつい、小さく笑った。
「同感です。」
俺が頷くと、使用人は興味深そうにバットを見る。光臣が手配してくれていたらしく、バットやグローブや硬球はもちろん、小さいながらもトレーニングマシーンなどが揃ったトレーニングルームまで完備されていた。抜かりなさ過ぎて怖い。まあでも日本の別宅にもトレーニングルームはあったし、アイツも何かスポーツしてんのかな…。
「振ってみますか?」
バットを差し出すと、使用人は両手を前に出して首を横に振った。
「いえいえ、遠慮しておきます。腰を痛めそうですから。」
たしかに使用人は年齢もかなり高く、少し太っていて、お世辞にもスポーツが得意そうには見えなかった。
「この屋敷に来るまでは日本に住んでいましたから、野球観戦もよくしていました。テレビでですがね。イタリアに来てからはさっぱりで。ここでは野球は日本ほどメジャーではありませんから。」
「そうなんですか。」
「このお屋敷も、旦那様も素晴らしいですが、それだけが少し残念です。」
使用人はそう笑って、俺に優しい微笑みを向けた。
「もう一度振ってみてくださいませんか?」
「いいですけど…」
人が振ってるの見て楽しいのか?…まあ、いいか。
俺はバットを構え、また素振りを始める。このイタリア滞在で体を鈍らせるわけにはいかねーし…次のシーズンまでに調子を取り戻さねーと。倉持の言う通り…俺、光に振り回され過ぎてる。心配なのは当然だけど、俺まで調子悪くなるのはちげぇだろ。しっかりしろ、俺。
「わぁ!」
…?何やら楽しげな声がして、俺は手を止めた。見ると、門の鉄格子から、3人の少年たちがこちらを覗いて、好奇心でキラキラ輝く瞳を丸くしているのだった。地元の子供たちだろうか、10歳に満たないくらいの小さな子供たちだ。
使用人はやんわりとした口調で、イタリア語で子供たちに何かを言った。多分、帰りなさいとか、入ってはいけないとか言ったのだろう。しかし子供たちは元気の有り余る声で言いかえした。
「…なんて言ってるんですか?」
「その、御幸様が何をしてるのかと。」
手に持っているバットを見る。…これのことか?
「通訳してもらってもいいですか?」
「え?は、はい。もちろんです。」
使用人が頷いたので、俺は門の方へ歩いて行って、彼らの前にしゃがんだ。
「お前ら、野球知らねーの?」
日本語で話しかけると、きょとんとしていた子供たちに、使用人が通訳する。すると少年たちが何かを言い、使用人は俺を見た。
「野球って何?と…。」
「ルールの説明とかできます?簡単でいいんで」
「え、ええ。では…。」
使用人が何やら説明すると、少年たちはぽかんとして俺を見た。その顔を見て俺はつい笑いそうになる。
「来いよ、教えてやる。」
門を開けると、少年たちは嬉しそうに笑顔を輝かせ、庭になだれ込んできた。
***
夕方までキャッチボールや軽く打つ練習をして、子供たちは満足げに笑いながら帰って行った。
「すぐに夕食になさいますか?」
傍で見ていた使用人がさっと近づき、そう尋ねてくる。
「はい…あ、いえ、ちょっとシャワー浴びてきます。」
「かしこまりました。では少し後に。整いましたらお呼びします。」
使用人は柔和に頭を下げ、屋敷に入って行った。今日の食事は何だろう。毎日美味いもんばかりだし、栄養のバランスもいいし、食事は少し楽しみだ。ただ、光はあまり食欲が無くて…それが胸に引っ掛かる。
事態が事態だから、立ち直るのにも時間がかかるのは仕方ないことだと思うけど…俺は…光を優先したことに、正直言ってあまり迷いがなかった。後悔もしてない。だから、今の光になんて声をかけて良いのか、わからない。せめて、なにか話してくれたら…。
部屋に戻ると、光はベッドに横になっていた。塞ぎこんでるな…。
「光、起きてる?」
静かに尋ねると、光はちょっと寝返りを打って、俺を見た。
「もうすぐ夕食だって。俺、シャワー浴びてくるな。」
光は黙ったまま頷いた。俺はシャワーを浴び、着替えて、髪を拭きながら部屋に戻る。ベッドにはまだ横たわっている光。俺は傍に歩いて行って、ベッドに腰を下ろした。手を伸ばして柔らかな髪を撫でる。顔を覆っている髪を退かすように撫でていくと、綺麗な横顔が見えた。その目がゆっくりと開き、俺を見る。
「今日の夕食は…」
「……。」
「なんだろうな?」
顔を覗き込んで微笑む。光は黙ったまま俺を見上げている。
「ここの食事、なんでも美味いよな。バランスもとれてるし…」
「……。」
「でもなー。久々に光のご飯が食べたいな。」
「……。」
「あ、あとさ…新婚旅行で行ったあの店も美味かったよな。」
「……。」
「明日、天気が良かったら行ってみるか?」
「……。」
「ま、もしお前が、気がのれば…」
「……。」
俺を見上げている二つの大きな瞳がだんだんうるんできて、それは涙を零す前に白魚のような手で隠された。
「…どした?」
「……っ」
嗚咽を零す光の、顔を隠す手の間に手を絡めて、小さな頬の涙をぬぐう。
「……なんで?」
「え?」
「…私なんかの…どこが好きなの?」
涙に震えるくぐもった声。
「そうだな〜…」
そんなの…
「全部かな。」
決まってる。
「…私」
「ん?」
「…一也さんの為に、何もできないのに」
「なんで?助けられてるよ、たくさん」
「…全然できてない。一也さんは…すごい野球選手で…私なんかより、もっと、しっかりしてて、頼りになる人が…」
「お〜い…怒るよ?」
「……。」
「俺は今のお前が好きだけどな。でも…そうだなー、そんなに気にしてるなら…」
「……。」
「ちょっと笑ってみて。」
「…え?」
「にこって。ほれ」
柔らかい頬を指でつつく。光は困ったように口を引き結んで目を伏せた。
「なんで…そんなこと…」
「可愛い嫁さんの笑顔が見たいんだよ」
「……。」
あ…ちょっと赤くなった。
「なぁ」
「……。」
「しばらく見てねぇなー、光の笑顔。見てぇな〜」
「……。」
光はちょっと、ほんのちょっとだけ口元をほころばせたけど、すぐに堪えるように引き結んで、泣きそうに眉を下げた。
「まだだめ?」
「……。」
「いいよ、待つよ。だからもう泣くな。」
涙を拭ってやると、光は起き上がって、膝を抱えて座った。
「…いけない気がして」
「何が?」
「笑ったり…楽しんだら、いけないことをしてる気がして。」
「…どうして?」
「だって…。あの子は…死んじゃったのに…。私が、笑うなんて…。」
そう言っているうちに、また涙が溢れてきて、ぽろぽろと柔らかな頬を濡らす。俺はその涙をぬぐいながら、また愛おしい気持ちが溢れてくる。
「…何言ってんだよ。楽しんだらいけないなんて、そんなわけない」
「……。」
「俺の子なんだから。お前が笑ってる方が、良いに決まってる…」
「……。」
光は俯いて、涙を堪えるようにぎゅっと目を瞑った。背中を丸めて何度も目を拭い、その小さくなった華奢な体を俺は抱きしめた。
「すぐには難しいってことはわかってる。俺も、こんなことになって本当に悔しい。」
「……。」
「でもそのせいで、お前が不幸になる必要はない。そうだろ…」
「……。」
「…俺はこう思うんだ。」
「……。」
「あの子は…亡くなったけど、失ったわけじゃない。生まれてこられなかったけど…俺たちの子だよ。だから、大切にしよう。これから先…生まれてくるかもしれない子と同じようにさ。」
「……っ」
光の肩が震えて、ついにこらえきれず泣きだしたのだとわかった。その背中を軽くたたきながら、光が小さく頷いたのを、俺は腕の中で受け止めた。
「光。散歩でも行くか?何かしてほしいことは?」
何日か前、そう尋ねた俺に、光は呟くように言った。
「…トレーニングしてて。」
…というわけで、イタリアののどかで美しい庭園で、俺は毎日素振りをしている。あれは、自分に気を使わずやるべきことに集中して、という意味なのか、単にうざがられて追い払われたのか…。…いや、きっと前者だ。うん。
「精が出ますね。」
ふと声がかかって、振り返ると、使用人の男が朗らかに笑って立っていた。
「体動かしてないと、落ち着かなくて。」
苦笑いして素振りをやめ、バットを置くと、使用人は屋敷の2階を見上げて言う。
「旦那さまから伺っております。このお屋敷は、光様のお母様が、生前住まわれていたんだとか。」
「…はい。」
「美しい奥さまですね。この屋敷がとてもよく似合う。」
「はは、どうも。」
「…本音を申しますと、笑顔も拝見したいところです。」
ちょっとおどけて言う使用人に、俺はつい、小さく笑った。
「同感です。」
俺が頷くと、使用人は興味深そうにバットを見る。光臣が手配してくれていたらしく、バットやグローブや硬球はもちろん、小さいながらもトレーニングマシーンなどが揃ったトレーニングルームまで完備されていた。抜かりなさ過ぎて怖い。まあでも日本の別宅にもトレーニングルームはあったし、アイツも何かスポーツしてんのかな…。
「振ってみますか?」
バットを差し出すと、使用人は両手を前に出して首を横に振った。
「いえいえ、遠慮しておきます。腰を痛めそうですから。」
たしかに使用人は年齢もかなり高く、少し太っていて、お世辞にもスポーツが得意そうには見えなかった。
「この屋敷に来るまでは日本に住んでいましたから、野球観戦もよくしていました。テレビでですがね。イタリアに来てからはさっぱりで。ここでは野球は日本ほどメジャーではありませんから。」
「そうなんですか。」
「このお屋敷も、旦那様も素晴らしいですが、それだけが少し残念です。」
使用人はそう笑って、俺に優しい微笑みを向けた。
「もう一度振ってみてくださいませんか?」
「いいですけど…」
人が振ってるの見て楽しいのか?…まあ、いいか。
俺はバットを構え、また素振りを始める。このイタリア滞在で体を鈍らせるわけにはいかねーし…次のシーズンまでに調子を取り戻さねーと。倉持の言う通り…俺、光に振り回され過ぎてる。心配なのは当然だけど、俺まで調子悪くなるのはちげぇだろ。しっかりしろ、俺。
「わぁ!」
…?何やら楽しげな声がして、俺は手を止めた。見ると、門の鉄格子から、3人の少年たちがこちらを覗いて、好奇心でキラキラ輝く瞳を丸くしているのだった。地元の子供たちだろうか、10歳に満たないくらいの小さな子供たちだ。
使用人はやんわりとした口調で、イタリア語で子供たちに何かを言った。多分、帰りなさいとか、入ってはいけないとか言ったのだろう。しかし子供たちは元気の有り余る声で言いかえした。
「…なんて言ってるんですか?」
「その、御幸様が何をしてるのかと。」
手に持っているバットを見る。…これのことか?
「通訳してもらってもいいですか?」
「え?は、はい。もちろんです。」
使用人が頷いたので、俺は門の方へ歩いて行って、彼らの前にしゃがんだ。
「お前ら、野球知らねーの?」
日本語で話しかけると、きょとんとしていた子供たちに、使用人が通訳する。すると少年たちが何かを言い、使用人は俺を見た。
「野球って何?と…。」
「ルールの説明とかできます?簡単でいいんで」
「え、ええ。では…。」
使用人が何やら説明すると、少年たちはぽかんとして俺を見た。その顔を見て俺はつい笑いそうになる。
「来いよ、教えてやる。」
門を開けると、少年たちは嬉しそうに笑顔を輝かせ、庭になだれ込んできた。
***
夕方までキャッチボールや軽く打つ練習をして、子供たちは満足げに笑いながら帰って行った。
「すぐに夕食になさいますか?」
傍で見ていた使用人がさっと近づき、そう尋ねてくる。
「はい…あ、いえ、ちょっとシャワー浴びてきます。」
「かしこまりました。では少し後に。整いましたらお呼びします。」
使用人は柔和に頭を下げ、屋敷に入って行った。今日の食事は何だろう。毎日美味いもんばかりだし、栄養のバランスもいいし、食事は少し楽しみだ。ただ、光はあまり食欲が無くて…それが胸に引っ掛かる。
事態が事態だから、立ち直るのにも時間がかかるのは仕方ないことだと思うけど…俺は…光を優先したことに、正直言ってあまり迷いがなかった。後悔もしてない。だから、今の光になんて声をかけて良いのか、わからない。せめて、なにか話してくれたら…。
部屋に戻ると、光はベッドに横になっていた。塞ぎこんでるな…。
「光、起きてる?」
静かに尋ねると、光はちょっと寝返りを打って、俺を見た。
「もうすぐ夕食だって。俺、シャワー浴びてくるな。」
光は黙ったまま頷いた。俺はシャワーを浴び、着替えて、髪を拭きながら部屋に戻る。ベッドにはまだ横たわっている光。俺は傍に歩いて行って、ベッドに腰を下ろした。手を伸ばして柔らかな髪を撫でる。顔を覆っている髪を退かすように撫でていくと、綺麗な横顔が見えた。その目がゆっくりと開き、俺を見る。
「今日の夕食は…」
「……。」
「なんだろうな?」
顔を覗き込んで微笑む。光は黙ったまま俺を見上げている。
「ここの食事、なんでも美味いよな。バランスもとれてるし…」
「……。」
「でもなー。久々に光のご飯が食べたいな。」
「……。」
「あ、あとさ…新婚旅行で行ったあの店も美味かったよな。」
「……。」
「明日、天気が良かったら行ってみるか?」
「……。」
「ま、もしお前が、気がのれば…」
「……。」
俺を見上げている二つの大きな瞳がだんだんうるんできて、それは涙を零す前に白魚のような手で隠された。
「…どした?」
「……っ」
嗚咽を零す光の、顔を隠す手の間に手を絡めて、小さな頬の涙をぬぐう。
「……なんで?」
「え?」
「…私なんかの…どこが好きなの?」
涙に震えるくぐもった声。
「そうだな〜…」
そんなの…
「全部かな。」
決まってる。
「…私」
「ん?」
「…一也さんの為に、何もできないのに」
「なんで?助けられてるよ、たくさん」
「…全然できてない。一也さんは…すごい野球選手で…私なんかより、もっと、しっかりしてて、頼りになる人が…」
「お〜い…怒るよ?」
「……。」
「俺は今のお前が好きだけどな。でも…そうだなー、そんなに気にしてるなら…」
「……。」
「ちょっと笑ってみて。」
「…え?」
「にこって。ほれ」
柔らかい頬を指でつつく。光は困ったように口を引き結んで目を伏せた。
「なんで…そんなこと…」
「可愛い嫁さんの笑顔が見たいんだよ」
「……。」
あ…ちょっと赤くなった。
「なぁ」
「……。」
「しばらく見てねぇなー、光の笑顔。見てぇな〜」
「……。」
光はちょっと、ほんのちょっとだけ口元をほころばせたけど、すぐに堪えるように引き結んで、泣きそうに眉を下げた。
「まだだめ?」
「……。」
「いいよ、待つよ。だからもう泣くな。」
涙を拭ってやると、光は起き上がって、膝を抱えて座った。
「…いけない気がして」
「何が?」
「笑ったり…楽しんだら、いけないことをしてる気がして。」
「…どうして?」
「だって…。あの子は…死んじゃったのに…。私が、笑うなんて…。」
そう言っているうちに、また涙が溢れてきて、ぽろぽろと柔らかな頬を濡らす。俺はその涙をぬぐいながら、また愛おしい気持ちが溢れてくる。
「…何言ってんだよ。楽しんだらいけないなんて、そんなわけない」
「……。」
「俺の子なんだから。お前が笑ってる方が、良いに決まってる…」
「……。」
光は俯いて、涙を堪えるようにぎゅっと目を瞑った。背中を丸めて何度も目を拭い、その小さくなった華奢な体を俺は抱きしめた。
「すぐには難しいってことはわかってる。俺も、こんなことになって本当に悔しい。」
「……。」
「でもそのせいで、お前が不幸になる必要はない。そうだろ…」
「……。」
「…俺はこう思うんだ。」
「……。」
「あの子は…亡くなったけど、失ったわけじゃない。生まれてこられなかったけど…俺たちの子だよ。だから、大切にしよう。これから先…生まれてくるかもしれない子と同じようにさ。」
「……っ」
光の肩が震えて、ついにこらえきれず泣きだしたのだとわかった。その背中を軽くたたきながら、光が小さく頷いたのを、俺は腕の中で受け止めた。