224
「玉城光です。」
て…天使だ…。
檀上でお辞儀をする楚々とした少女に、クラス中が息をのんで言葉を失った。
今日から転入生が来るらしい、という噂は、朝には学年中に広がっていて、教室はいつもより落ち着きがなかった。しかも、始業式の今日、黒板に張り出されていた座席表には、俺の名前の前の席に、『玉城光』という知らない名前があって。
「東条お前、前の席転入生じゃん。」
「可愛い子だったらどうする?」
クラスメイトにからかわれながら、実はちょっと期待していた。だけど…。
び…、美人過ぎて、直視できないレベルなんだけど…。
期待を大きく上回った美貌の持ち主である転入生は、ろくに自己紹介もせずに、俺の前の席へとやってくる。そわそわしながらHRが終わると、いち早く、玉城の隣の席の女子が声をかけた。
「玉城さん!私、牧瀬司っていいまーす。隣の席、よろしくね!」
「…よろしく…。」
テンションの高い牧瀬にちょっと気後れしながら頷いた玉城。
「牧瀬ー、転入生ビビらせんなよ!」
「はー!?自己紹介しただけじゃん!」
「お前声デカすぎなんだよ。」
牧瀬をからかいながらちらちらと玉城を気にする男子たち。うまく声をかけられず、そんなアプローチしかできない。
それからしばらくは、牧瀬が玉城につきまとって、他のクラスメイト達は遠巻きに彼女を見ているしかなくて。始業式から1週間、俺は、玉城になかなか声をかけることもできずにいた。
「東条、お前、あの転入生と同じクラスなんだろ?」
「めちゃくちゃ可愛いんだって?」
部活に行けばそんなことばかり聞かれて。
「俺休み時間に見に行ったぜ。」
「マジ!?教室まで?」
「結構野次馬いるよ。しかもめちゃ美人だった。芸能人みたい。」
…ここのところ毎日こんな話題だ。しかも…
「東条!お前後ろの席なんだろ?何か話した?」
「メアド聞いた?」
「彼氏いるの?」
「…し、知らないよ。」
話したこと、ないし…。
後ろの席だって…。スッと伸びた背筋を、金に近い亜麻色の、柔らかそうな髪がさらさらと流れていて…時々髪を耳にかけて、白魚のような手が肩口にのぞくのを、こっそりと盗み見て…。…昨日は少し暑かったから、休み時間に突然、髪を纏めはじめて、あの白い、滑らかなうなじが見えた時の緊張と言ったら。毎日、心臓に悪い…。
部員達の玉城の話題から逃げるように、財布を持って部屋を出る。信二…、は、沢村の宿題を手伝ってるのか。じゃあ、誘えないな。一人でコンビニへ向かう事にして、財布と携帯をポケットに突っこんで、寮を出た。
ちらほらと部員とすれ違いながら、学校の近くのコンビニに入る。店内には制服姿の青道生もいた。ちょっと雑誌を眺めて、お菓子を眺めて、飲み物コーナーに移る。
…って、あの後ろ姿…。
…た、玉城?
冷蔵ケースの前に立つ、細身で、すらりと足の長い、色白の女子生徒。このコンビニ来るんだ…。まぁ、学校の近くだしな。…ひとりかな。
玉城はケースの前でしばらく立っていて、真剣に飲み物を選んでいるようだった。…何をあんなに迷ってるんだろう?何買うのかな。
…と思ったら、じっと上の方を見つめて、悩んだように腕を組み始めた。…そ、相当迷ってるな。…あ、ケースを開けた。
玉城は背伸びをして、一番上の段に手を伸ばす。だけど…、あ、そうか。あそこの列だけ…ペットボトルが奥に詰まってる。
……。
…いや、行くしかないだろ、俺!これ、すごいチャンスじゃん…!
緊張で胸が締め付けられながら、一歩、踏み出した。なんて声をかけたらいいかわからなくて、彼女の隣に立って、手を伸ばす。突然手元に誰かの手が伸びてきたから、玉城は驚いてこっちを振り返った。俺は顔が熱くなるのを感じながら、奥で引っかかっているペットボトルを引っ張り出し、彼女に差し出した。
「…はい。」
「…あ、ありがとうございます。」
不思議そうに俺を見上げるふたつの目…。う…。そ、そんなに見つめられると、ニヤけそう…。
「あっ…。」
何かに気付いたように呟き、だけどまた首を傾げてまじまじと俺の顔を見る。
「……。」
「……えっと…。」
「……。」
「……。」
「…あの、俺、同じクラスの…。」
「あ…、う、うん、そう…だよね。」
いや…俺が言うまで確信がなかったっぽいな。ま、まぁ、話したことないし。
「…後ろの席の、東条秀明です!」
ぺこり、と畏まってお辞儀をすると、玉城も条件反射のようにお辞儀を返した。
「…玉城光です。」
「いや、知ってるよ。」
「あ…、そっか」
真面目な子なのかな。意外に天然。
「やー、でも…やっぱ俺覚えられてなかったか〜。」
「…ごめん、制服じゃないから…」
「え、あぁ…そっか。俺、寮生だからさ。」
「寮…?」
「そう!野球部なんだ。」
そこまで言うと、玉城は腑に落ちたように、そうなんだ、と頷いた。
「つーか玉城、それ好きなの?」
さっき玉城に手渡したジュースを指して尋ねる。…メロンチーズミルクセーキ。怪しげな黄緑色の飲料だ。
「さあ…、初めて飲む。」
「へ〜、チャレンジャーだな。俺もよくやるけどね。」
「え?」
「チャレンジ。俺は…今日はこれにしよ。」
手に取ったのは、どら焼き風味練乳ラテ。めちゃくちゃ甘そう。玉城はそれを見て、ちょっと頬を緩めた。うわ…可愛い。
「さっき、それと迷ったの。」
「え、マジ?じゃあ明日感想教えるよ。」
「あはは。うん。」
あはは。…あははって。玉城が笑った。あははって…。ころころきらきら笑う彼女は、ちょっと…いや、かなり、びっくりするほど綺麗で、可愛くて…俺は言葉に詰まった。
「…何?」
あ…、やばい、呆気にとられ過ぎた…。
「いや、なんでも…。か、買うか。」
「そうだね。」
それぞれ会計を済ませ、玉城がレジを済ませるのをなんとなく待った。じゃあな、と立ち去るのは、なんだか…もったいない気がして。
「あれ…待ってたの?」
レジを済ませて俺を振り返った玉城が笑う。あ、待ってるの、不自然だったか…?やばい、普通がわからない。
「え…まぁ、なんとなく。」
「ふーん?」
ふたりでコンビニを出て、これ、俺の好意バレバレだよな…、と恥ずかしくなる。
「玉城、家近いの?」
「うん。」
そっか…、と呟いて、他に話題を探す。あー、全然思いつかない。
「…クラスは?慣れた?」
「え…、うーん…」
玉城は首を傾げる。
「まだ…司…しか、話せる人いなくて」
「そっか、まあ、まだ1週間だしな。」
それに…皆、玉城を遠巻きに見てるし…。美人過ぎて、近寄りがたいのだ。だけどもう、牧瀬のこと、呼び捨てにするほど仲良くなったんだ。牧瀬は誰とでもすぐ打ち解けるしなぁ。
「あと…東条君。」
にこ、とほほ笑む玉城…。どっきん、と心臓が跳ねた。やばい…顔が赤く…にやける…。
「そ…、」
そっか…、っていうのはなんかおかしいだろ、えっと、えっと…ああやばい、言葉が全然出てこない。大混乱だ。
「と、東条でいいよ。」
なんて…馴れ馴れしかったか?
「…わかった。」
わかった、って…。な、なんか変な感じ。こんなに意識してんの、俺の方だけかもしれないけど…。
「じゃあね。」
まだ頭が追いつかない俺に、玉城はちょっと手を振って踵を返した。えっ、あ、か、帰るのか…。
「う…うん!また明日!」
手を振り返すと、玉城は薄暗い道の向こうで、ちょっと笑ったように見えた。
***
ざわざわざわ。朝練のあと急いで着替えて、HR前に教室に滑り込む。前の席には玉城がいて、牧瀬と何か喋っている。
「ねぇ光は?彼氏いるの?」
えっ…。あ、朝からなんて興味を引く話題…。ちらりと、近くにいた男子たちが玉城を盗み見て聞き耳を立てている。
「いないよ。」
よ……
「え〜!意外!」
よっしゃあ…っ
牧瀬が驚いたところで鐘が鳴り、担任が入ってくる。HRを終え、1限目の数学の準備をすると、急に、目の前の背中がくるりと回って、玉城がこっちを振り向いていた。うわ、ち、近い。手なんか、触れそうなくらい…。
「おはよう。」
そう言った玉城を、俺だけじゃなく、周りの奴らも驚いたように見ていた。
「あ…おはよ!」
「東条遅かったね。」
「あぁ、朝練があるから」
「あ、そっか…お疲れ」
「ありがとう。」
うわー、俺、玉城と喋ってる。普通に、仲良いっぽい…。クラスの男達、目を丸くして見てるし。優越感…。
「それで?」
「え?」
「感想だよ。」
「あ…あぁ!」
昨日の話か。あー、話しかけてマジでよかった…。
「甘すぎて練乳飲んでるみたいだった。」
「そうなんだ。美味しくなかった?」
「まずくはないけど、もう買わないかな。」
「そっか…」
「えーなになに、なんでふたり仲良くなってるの?」
牧瀬が物珍しそうにやってくる。
「昨日コンビニで会ったんだよ。な?」
「うん。」
「へ〜。」
その日を境に、玉城とよく話すようになって、友達には「付き合ってんの?」なんて聞かれるようにもなった。
休み時間に話すだけじゃなく、移動教室も一緒に行ったり、自販機まで一緒にジュース買いに行ったりもして…。これ…いけるんじゃないか?ってひそかに思っていた。だけど完全に、「友達」っていう雰囲気で…玉城が俺の事をどう思っているのか、よくわからなくて、踏み出せないでいるうちに、いつの間にか…あの人が現れた。
「お、玉城じゃん」
「うわ…」
廊下の向こう側から歩いてきた先輩の男子生徒を見て、玉城はわざと嫌そうな顔をした。
「うわってなんだよ〜先輩に向かって」
「うざい…」
「はっはっはっは!お前顔に似合わず辛辣な!」
廊下で顔を合わせるたびに玉城にちょっかいをかける御幸先輩。お、俺は声をかけるまで1週間もかかったのに…なんで、いつのまにこんなに仲良くなってるんだ。玉城がこんなふうにふざけるのは…御幸先輩だけだ。
「な〜なんで今日その髪型なの?」
「気分です」
「俺ポニテの方が好き〜」
「御幸先輩の好みとかどうでもいいので」
こ…こんなの、もう、カップルにしか見えないじゃん…。俺の方が、学校で会う時間多いのに。なんでだ…。
「先輩…背中にバッタついてますよ」
「えっ!!」
「嘘ですけど」
「…はぁ!?おま…、お前な〜…!!」
慌てて背中に手を回し、からかわれたとわかって脱力する御幸先輩。遠巻きに見ている倉持先輩が笑いを堪えている。
「あっ、本当についてます、カマキリが。冗談で言ったのに…」
「…はいはい、それも嘘だろ」
「今度は本当ですよ。」
「さすがに騙されねーよ」
「…じゃあそう思ってればいいんじゃないですか?」
「……。」
「知らない方が幸せなこともありますよ。」
「…倉持、嘘だよね?ついてないよね?」
「知るか」
…モヤモヤする。
***
「なあ、玉城さんって御幸先輩と付き合ってるらしいよ。」
「え、ただの噂だろ?1年の頃から噂になってるけど、本人たちは付き合ってないって…」
「いやまじで。御幸先輩が2年の教室に来て、付き合ってるって言ったらしいよ。」
「えぇ!?まじかよ…いつからだよ〜…」
クラスメイトの会話が聞こえて、俺は少し迷って、席を立つ。
「あれ、東条君どこ行くの?」
昼休みも始まったばかりのこの時間。いつも教室で昼ごはんを食べる俺を、小湊が不思議そうに見る。
「ちょっと…飲み物。」
そう、と頷いた小湊から逃げるように教室を出た。玉城と御幸先輩の噂を…聞きたくなかった。
いつもの自販機は混んでいて、俺は気分転換がてら、特別教室の棟まで行って、準備室が並ぶ廊下の、ほとんど誰も来ない自販機まで来た。別に飲みたくないお茶を買って、踵を返す。もたもたとあるいて、わざと教室へ向かう足を遅めた。
ぱたぱたぱた、と軽い足音がした。
なんとなく足を止めると、非常階段のドアがギィと悲鳴を上げて開いた。普段、そんなところを通る人はいないんだけど…。しかも、そこから現れたのは…御幸先輩だった。声をかけるべきか一瞬迷った時、御幸先輩の右手が後ろに伸びていて、誰かを引っ張っていることに気付いた。そしてその、手を繋いで後ろを歩いてきたのが女子生徒で、…玉城だという事をすぐに知った。
ぱたぱたぱた。
ふたりはちょっと急ぎ足で、まるで隠れるように俯き加減のまま、一つの準備室の前まで歩いて行った。
「何ですか?ここ…」
「倉庫。ここだけ鍵壊れてんだよ」
「…怒られますよ。」
「バレないバレない。」
ガタン、とドアが鳴り、おっ開いた、と御幸先輩が呟いた。
「行こ。」
「……。」
玉城の手を握って、部屋に連れ込む御幸先輩。ちょっと顔を赤くして、俯いて、手を引かれて部屋に入って行く玉城…。…こんなところで、ふたりきりで。何するつもり…なんだ?
緊張に縮む体を引きずって、ドアの前まで歩いて行った。ガタン、と小さなもの音が響いてくる。ぼそぼそとした話し声も。そして。それから……部屋は、静かになった。
俺はその場から駆け出した。込み上げる妄想を振り払って。
***
そして、現在。
「すげー、こんな設備あんのか…」
「スポーツジム並みだね。」
信二とふたり、部屋の中を見渡して感嘆する。光臣が自由に使っていいと言ってくれた、光臣の家のトレーニングルーム。室内には一通りのトレーニングマシーンが揃い、素振りもできる十分なスペースもあり、軽く走れるランニングコースも併設されている。
「俺今行ってるジムやめてここ通うかな…」
「ははは、それもありだね。」
時々、高校時代の事を思い出す日がある。ここ最近は特に…毎日のように思い出す。
間違いなく楽しかった思い出。だけど…後悔にも似た切なさと、悔しさも同時に感じる。
あの日、あの部屋に入って…光と御幸先輩は、ふたりきりで……何をしたんだろう。
「ねー、ぶっちゃけ何が決め手だったの?」
部屋の壁の向こうから声が響いてきた。よく見ると…ここは地下室だから、換気口が上部に空いていて、隣の部屋と繋がっているらしい。
「…牧瀬の声だな」
信二がなんとなく声を潜めて言った。
「御幸さんを選んだ理由だよ〜!」
「……。」
「えーだって他にもイケメンはいるじゃん!あの頃成宮さんとか真田さんとかにも告られてたんでしょ?」
「……。」
「え、それで?」
「……。」
「あ〜なるほどね、それは確かに。」
「…あいつ声デカイな。」
「はは…。」
話の内容的に、相手は光っぽいけど…。牧瀬の声しか聞こえなくて、なにがなんだか。…き、気になる。
「ねぇ、じゃあさあ、いつ初エッチしたの?」
「……。」
「……。」
信二と顔を見合わせ、息をのんで、俺は…
「お…おい、東条!」
壁際に向かう俺を、信二が小声で咎めながらやってくる。
「信二も来てるじゃん…」
「いや、だって…」
「…内緒。」
「えぇ〜いいじゃん教えてよ〜!卒業してから?」
「……。」
息をひそめた。脳裏に浮かぶ、あの日の…御幸先輩に手を引かれて、準備室に入って行く光の姿。
「……高1の…冬休み。」
え……。
「えぇ!そんな早かったの!?まだ付き合って…1ヶ月とか、そのくらいだよね!?」
「う…うん」
「うわぁ〜〜…御幸さん手ぇはやっ!」
…あの頃の…あの、なにも知らなそうな光が…。
もう、そういうことを…していた…なんて…。
俺が、あの綺麗な手に触れたいとか…髪に触れたいとか…振り返って、俺を見てほしいと…そんなふうに思っていた頃に、光は…。光と御幸先輩は…とっくに、大人の階段を…。
「お…おい、東条?」
大丈夫か?と信二が訊くくらいだから、きっと俺は酷い顔をしているんだろう。その証拠に…もう、牧瀬の声すら耳に入ってこない…。
「俺…、今日は帰るね…」
「お…、おう」
ふらふらとトレーニングルームを出た。
そんな…。あの、天使のような光が…。あの頃の、あの光が…とっくに御幸先輩に…。
…ショックだ…ものすごく。
俺は真っ白になった頭のまま、帰路を歩いた。
て…天使だ…。
檀上でお辞儀をする楚々とした少女に、クラス中が息をのんで言葉を失った。
今日から転入生が来るらしい、という噂は、朝には学年中に広がっていて、教室はいつもより落ち着きがなかった。しかも、始業式の今日、黒板に張り出されていた座席表には、俺の名前の前の席に、『玉城光』という知らない名前があって。
「東条お前、前の席転入生じゃん。」
「可愛い子だったらどうする?」
クラスメイトにからかわれながら、実はちょっと期待していた。だけど…。
び…、美人過ぎて、直視できないレベルなんだけど…。
期待を大きく上回った美貌の持ち主である転入生は、ろくに自己紹介もせずに、俺の前の席へとやってくる。そわそわしながらHRが終わると、いち早く、玉城の隣の席の女子が声をかけた。
「玉城さん!私、牧瀬司っていいまーす。隣の席、よろしくね!」
「…よろしく…。」
テンションの高い牧瀬にちょっと気後れしながら頷いた玉城。
「牧瀬ー、転入生ビビらせんなよ!」
「はー!?自己紹介しただけじゃん!」
「お前声デカすぎなんだよ。」
牧瀬をからかいながらちらちらと玉城を気にする男子たち。うまく声をかけられず、そんなアプローチしかできない。
それからしばらくは、牧瀬が玉城につきまとって、他のクラスメイト達は遠巻きに彼女を見ているしかなくて。始業式から1週間、俺は、玉城になかなか声をかけることもできずにいた。
「東条、お前、あの転入生と同じクラスなんだろ?」
「めちゃくちゃ可愛いんだって?」
部活に行けばそんなことばかり聞かれて。
「俺休み時間に見に行ったぜ。」
「マジ!?教室まで?」
「結構野次馬いるよ。しかもめちゃ美人だった。芸能人みたい。」
…ここのところ毎日こんな話題だ。しかも…
「東条!お前後ろの席なんだろ?何か話した?」
「メアド聞いた?」
「彼氏いるの?」
「…し、知らないよ。」
話したこと、ないし…。
後ろの席だって…。スッと伸びた背筋を、金に近い亜麻色の、柔らかそうな髪がさらさらと流れていて…時々髪を耳にかけて、白魚のような手が肩口にのぞくのを、こっそりと盗み見て…。…昨日は少し暑かったから、休み時間に突然、髪を纏めはじめて、あの白い、滑らかなうなじが見えた時の緊張と言ったら。毎日、心臓に悪い…。
部員達の玉城の話題から逃げるように、財布を持って部屋を出る。信二…、は、沢村の宿題を手伝ってるのか。じゃあ、誘えないな。一人でコンビニへ向かう事にして、財布と携帯をポケットに突っこんで、寮を出た。
ちらほらと部員とすれ違いながら、学校の近くのコンビニに入る。店内には制服姿の青道生もいた。ちょっと雑誌を眺めて、お菓子を眺めて、飲み物コーナーに移る。
…って、あの後ろ姿…。
…た、玉城?
冷蔵ケースの前に立つ、細身で、すらりと足の長い、色白の女子生徒。このコンビニ来るんだ…。まぁ、学校の近くだしな。…ひとりかな。
玉城はケースの前でしばらく立っていて、真剣に飲み物を選んでいるようだった。…何をあんなに迷ってるんだろう?何買うのかな。
…と思ったら、じっと上の方を見つめて、悩んだように腕を組み始めた。…そ、相当迷ってるな。…あ、ケースを開けた。
玉城は背伸びをして、一番上の段に手を伸ばす。だけど…、あ、そうか。あそこの列だけ…ペットボトルが奥に詰まってる。
……。
…いや、行くしかないだろ、俺!これ、すごいチャンスじゃん…!
緊張で胸が締め付けられながら、一歩、踏み出した。なんて声をかけたらいいかわからなくて、彼女の隣に立って、手を伸ばす。突然手元に誰かの手が伸びてきたから、玉城は驚いてこっちを振り返った。俺は顔が熱くなるのを感じながら、奥で引っかかっているペットボトルを引っ張り出し、彼女に差し出した。
「…はい。」
「…あ、ありがとうございます。」
不思議そうに俺を見上げるふたつの目…。う…。そ、そんなに見つめられると、ニヤけそう…。
「あっ…。」
何かに気付いたように呟き、だけどまた首を傾げてまじまじと俺の顔を見る。
「……。」
「……えっと…。」
「……。」
「……。」
「…あの、俺、同じクラスの…。」
「あ…、う、うん、そう…だよね。」
いや…俺が言うまで確信がなかったっぽいな。ま、まぁ、話したことないし。
「…後ろの席の、東条秀明です!」
ぺこり、と畏まってお辞儀をすると、玉城も条件反射のようにお辞儀を返した。
「…玉城光です。」
「いや、知ってるよ。」
「あ…、そっか」
真面目な子なのかな。意外に天然。
「やー、でも…やっぱ俺覚えられてなかったか〜。」
「…ごめん、制服じゃないから…」
「え、あぁ…そっか。俺、寮生だからさ。」
「寮…?」
「そう!野球部なんだ。」
そこまで言うと、玉城は腑に落ちたように、そうなんだ、と頷いた。
「つーか玉城、それ好きなの?」
さっき玉城に手渡したジュースを指して尋ねる。…メロンチーズミルクセーキ。怪しげな黄緑色の飲料だ。
「さあ…、初めて飲む。」
「へ〜、チャレンジャーだな。俺もよくやるけどね。」
「え?」
「チャレンジ。俺は…今日はこれにしよ。」
手に取ったのは、どら焼き風味練乳ラテ。めちゃくちゃ甘そう。玉城はそれを見て、ちょっと頬を緩めた。うわ…可愛い。
「さっき、それと迷ったの。」
「え、マジ?じゃあ明日感想教えるよ。」
「あはは。うん。」
あはは。…あははって。玉城が笑った。あははって…。ころころきらきら笑う彼女は、ちょっと…いや、かなり、びっくりするほど綺麗で、可愛くて…俺は言葉に詰まった。
「…何?」
あ…、やばい、呆気にとられ過ぎた…。
「いや、なんでも…。か、買うか。」
「そうだね。」
それぞれ会計を済ませ、玉城がレジを済ませるのをなんとなく待った。じゃあな、と立ち去るのは、なんだか…もったいない気がして。
「あれ…待ってたの?」
レジを済ませて俺を振り返った玉城が笑う。あ、待ってるの、不自然だったか…?やばい、普通がわからない。
「え…まぁ、なんとなく。」
「ふーん?」
ふたりでコンビニを出て、これ、俺の好意バレバレだよな…、と恥ずかしくなる。
「玉城、家近いの?」
「うん。」
そっか…、と呟いて、他に話題を探す。あー、全然思いつかない。
「…クラスは?慣れた?」
「え…、うーん…」
玉城は首を傾げる。
「まだ…司…しか、話せる人いなくて」
「そっか、まあ、まだ1週間だしな。」
それに…皆、玉城を遠巻きに見てるし…。美人過ぎて、近寄りがたいのだ。だけどもう、牧瀬のこと、呼び捨てにするほど仲良くなったんだ。牧瀬は誰とでもすぐ打ち解けるしなぁ。
「あと…東条君。」
にこ、とほほ笑む玉城…。どっきん、と心臓が跳ねた。やばい…顔が赤く…にやける…。
「そ…、」
そっか…、っていうのはなんかおかしいだろ、えっと、えっと…ああやばい、言葉が全然出てこない。大混乱だ。
「と、東条でいいよ。」
なんて…馴れ馴れしかったか?
「…わかった。」
わかった、って…。な、なんか変な感じ。こんなに意識してんの、俺の方だけかもしれないけど…。
「じゃあね。」
まだ頭が追いつかない俺に、玉城はちょっと手を振って踵を返した。えっ、あ、か、帰るのか…。
「う…うん!また明日!」
手を振り返すと、玉城は薄暗い道の向こうで、ちょっと笑ったように見えた。
***
ざわざわざわ。朝練のあと急いで着替えて、HR前に教室に滑り込む。前の席には玉城がいて、牧瀬と何か喋っている。
「ねぇ光は?彼氏いるの?」
えっ…。あ、朝からなんて興味を引く話題…。ちらりと、近くにいた男子たちが玉城を盗み見て聞き耳を立てている。
「いないよ。」
よ……
「え〜!意外!」
よっしゃあ…っ
牧瀬が驚いたところで鐘が鳴り、担任が入ってくる。HRを終え、1限目の数学の準備をすると、急に、目の前の背中がくるりと回って、玉城がこっちを振り向いていた。うわ、ち、近い。手なんか、触れそうなくらい…。
「おはよう。」
そう言った玉城を、俺だけじゃなく、周りの奴らも驚いたように見ていた。
「あ…おはよ!」
「東条遅かったね。」
「あぁ、朝練があるから」
「あ、そっか…お疲れ」
「ありがとう。」
うわー、俺、玉城と喋ってる。普通に、仲良いっぽい…。クラスの男達、目を丸くして見てるし。優越感…。
「それで?」
「え?」
「感想だよ。」
「あ…あぁ!」
昨日の話か。あー、話しかけてマジでよかった…。
「甘すぎて練乳飲んでるみたいだった。」
「そうなんだ。美味しくなかった?」
「まずくはないけど、もう買わないかな。」
「そっか…」
「えーなになに、なんでふたり仲良くなってるの?」
牧瀬が物珍しそうにやってくる。
「昨日コンビニで会ったんだよ。な?」
「うん。」
「へ〜。」
その日を境に、玉城とよく話すようになって、友達には「付き合ってんの?」なんて聞かれるようにもなった。
休み時間に話すだけじゃなく、移動教室も一緒に行ったり、自販機まで一緒にジュース買いに行ったりもして…。これ…いけるんじゃないか?ってひそかに思っていた。だけど完全に、「友達」っていう雰囲気で…玉城が俺の事をどう思っているのか、よくわからなくて、踏み出せないでいるうちに、いつの間にか…あの人が現れた。
「お、玉城じゃん」
「うわ…」
廊下の向こう側から歩いてきた先輩の男子生徒を見て、玉城はわざと嫌そうな顔をした。
「うわってなんだよ〜先輩に向かって」
「うざい…」
「はっはっはっは!お前顔に似合わず辛辣な!」
廊下で顔を合わせるたびに玉城にちょっかいをかける御幸先輩。お、俺は声をかけるまで1週間もかかったのに…なんで、いつのまにこんなに仲良くなってるんだ。玉城がこんなふうにふざけるのは…御幸先輩だけだ。
「な〜なんで今日その髪型なの?」
「気分です」
「俺ポニテの方が好き〜」
「御幸先輩の好みとかどうでもいいので」
こ…こんなの、もう、カップルにしか見えないじゃん…。俺の方が、学校で会う時間多いのに。なんでだ…。
「先輩…背中にバッタついてますよ」
「えっ!!」
「嘘ですけど」
「…はぁ!?おま…、お前な〜…!!」
慌てて背中に手を回し、からかわれたとわかって脱力する御幸先輩。遠巻きに見ている倉持先輩が笑いを堪えている。
「あっ、本当についてます、カマキリが。冗談で言ったのに…」
「…はいはい、それも嘘だろ」
「今度は本当ですよ。」
「さすがに騙されねーよ」
「…じゃあそう思ってればいいんじゃないですか?」
「……。」
「知らない方が幸せなこともありますよ。」
「…倉持、嘘だよね?ついてないよね?」
「知るか」
…モヤモヤする。
***
「なあ、玉城さんって御幸先輩と付き合ってるらしいよ。」
「え、ただの噂だろ?1年の頃から噂になってるけど、本人たちは付き合ってないって…」
「いやまじで。御幸先輩が2年の教室に来て、付き合ってるって言ったらしいよ。」
「えぇ!?まじかよ…いつからだよ〜…」
クラスメイトの会話が聞こえて、俺は少し迷って、席を立つ。
「あれ、東条君どこ行くの?」
昼休みも始まったばかりのこの時間。いつも教室で昼ごはんを食べる俺を、小湊が不思議そうに見る。
「ちょっと…飲み物。」
そう、と頷いた小湊から逃げるように教室を出た。玉城と御幸先輩の噂を…聞きたくなかった。
いつもの自販機は混んでいて、俺は気分転換がてら、特別教室の棟まで行って、準備室が並ぶ廊下の、ほとんど誰も来ない自販機まで来た。別に飲みたくないお茶を買って、踵を返す。もたもたとあるいて、わざと教室へ向かう足を遅めた。
ぱたぱたぱた、と軽い足音がした。
なんとなく足を止めると、非常階段のドアがギィと悲鳴を上げて開いた。普段、そんなところを通る人はいないんだけど…。しかも、そこから現れたのは…御幸先輩だった。声をかけるべきか一瞬迷った時、御幸先輩の右手が後ろに伸びていて、誰かを引っ張っていることに気付いた。そしてその、手を繋いで後ろを歩いてきたのが女子生徒で、…玉城だという事をすぐに知った。
ぱたぱたぱた。
ふたりはちょっと急ぎ足で、まるで隠れるように俯き加減のまま、一つの準備室の前まで歩いて行った。
「何ですか?ここ…」
「倉庫。ここだけ鍵壊れてんだよ」
「…怒られますよ。」
「バレないバレない。」
ガタン、とドアが鳴り、おっ開いた、と御幸先輩が呟いた。
「行こ。」
「……。」
玉城の手を握って、部屋に連れ込む御幸先輩。ちょっと顔を赤くして、俯いて、手を引かれて部屋に入って行く玉城…。…こんなところで、ふたりきりで。何するつもり…なんだ?
緊張に縮む体を引きずって、ドアの前まで歩いて行った。ガタン、と小さなもの音が響いてくる。ぼそぼそとした話し声も。そして。それから……部屋は、静かになった。
俺はその場から駆け出した。込み上げる妄想を振り払って。
***
そして、現在。
「すげー、こんな設備あんのか…」
「スポーツジム並みだね。」
信二とふたり、部屋の中を見渡して感嘆する。光臣が自由に使っていいと言ってくれた、光臣の家のトレーニングルーム。室内には一通りのトレーニングマシーンが揃い、素振りもできる十分なスペースもあり、軽く走れるランニングコースも併設されている。
「俺今行ってるジムやめてここ通うかな…」
「ははは、それもありだね。」
時々、高校時代の事を思い出す日がある。ここ最近は特に…毎日のように思い出す。
間違いなく楽しかった思い出。だけど…後悔にも似た切なさと、悔しさも同時に感じる。
あの日、あの部屋に入って…光と御幸先輩は、ふたりきりで……何をしたんだろう。
「ねー、ぶっちゃけ何が決め手だったの?」
部屋の壁の向こうから声が響いてきた。よく見ると…ここは地下室だから、換気口が上部に空いていて、隣の部屋と繋がっているらしい。
「…牧瀬の声だな」
信二がなんとなく声を潜めて言った。
「御幸さんを選んだ理由だよ〜!」
「……。」
「えーだって他にもイケメンはいるじゃん!あの頃成宮さんとか真田さんとかにも告られてたんでしょ?」
「……。」
「え、それで?」
「……。」
「あ〜なるほどね、それは確かに。」
「…あいつ声デカイな。」
「はは…。」
話の内容的に、相手は光っぽいけど…。牧瀬の声しか聞こえなくて、なにがなんだか。…き、気になる。
「ねぇ、じゃあさあ、いつ初エッチしたの?」
「……。」
「……。」
信二と顔を見合わせ、息をのんで、俺は…
「お…おい、東条!」
壁際に向かう俺を、信二が小声で咎めながらやってくる。
「信二も来てるじゃん…」
「いや、だって…」
「…内緒。」
「えぇ〜いいじゃん教えてよ〜!卒業してから?」
「……。」
息をひそめた。脳裏に浮かぶ、あの日の…御幸先輩に手を引かれて、準備室に入って行く光の姿。
「……高1の…冬休み。」
え……。
「えぇ!そんな早かったの!?まだ付き合って…1ヶ月とか、そのくらいだよね!?」
「う…うん」
「うわぁ〜〜…御幸さん手ぇはやっ!」
…あの頃の…あの、なにも知らなそうな光が…。
もう、そういうことを…していた…なんて…。
俺が、あの綺麗な手に触れたいとか…髪に触れたいとか…振り返って、俺を見てほしいと…そんなふうに思っていた頃に、光は…。光と御幸先輩は…とっくに、大人の階段を…。
「お…おい、東条?」
大丈夫か?と信二が訊くくらいだから、きっと俺は酷い顔をしているんだろう。その証拠に…もう、牧瀬の声すら耳に入ってこない…。
「俺…、今日は帰るね…」
「お…、おう」
ふらふらとトレーニングルームを出た。
そんな…。あの、天使のような光が…。あの頃の、あの光が…とっくに御幸先輩に…。
…ショックだ…ものすごく。
俺は真っ白になった頭のまま、帰路を歩いた。