229
ひょい、と白魚のような手が、紺地のブレザーの肩口に着いている糸くずを摘み上げた。
その微かな衝撃に気が付いた男子生徒が振り向くと、そこにいた美しい少女に息を詰めた。
「ついてたよ。」
「……っあ、あり…がとう…」
べつにいらないのに糸くずを律儀に受け取って、男子生徒は挙動不審に、さらりと踵を返した少女の背中を見つめる。少女が立ち去ると、周りの男子たちは糸くずを受け取った男子を囃し立ててからかった。
「…私って怖いのかな。」
「え?」
玉城が大真面目に悩みながらそう呟くものだから、俺は言葉を失った。
「…何でそう思うんだよ?」
「だって…」
「……。」
「……。」
「…何?なんかあったの?」
あまりにも玉城が深刻に悩んでいるから、俺も真面目に聞く姿勢になって尋ねる。
「…皆、目合わせてくれないんだもん。」
「……。」
それは…照れているだけでは…。
「光が可愛いからだよ〜!照れてるの!」
牧瀬が玉城の頬をちょっとつっついて言った。よ、よく言った…。俺が言うのは照れ臭い。ありがとう牧瀬。
「…そういうのはいいから。」
…全然信じてない。本当の事なんだけどなー…。
「も〜光ってば…」
「……。」
「膨れっ面も可愛いんだから〜!」
「……。」
牧瀬を呆れたように見る玉城。だ…だめだこりゃ。牧瀬、顔が緩みきってる。
「私ならいくらでも見つめ合ってあげるのに〜。」
「司はいい。」
「えーん冷たい…でもそんなところも好き…」
「司、暑い…くっつかないで。」
「やーだー」
女子って何でこう、べたべたくっつけるんだろう…。目のやりどころに困る俺の身にもなってほしいな…。
「お前ら何イチャついてんだよ。」
けらけら笑いながら通りすがる御幸先輩…と、倉持先輩。物理の教科書を持っている。次の授業は別教室らしい。
「いや〜それほどでも〜」
「褒めてねーよ。」
「またまた〜先輩羨ましいくせに」
「おーおー羨ましくて涙が出るぜ。牧瀬そこ代わってくれ〜」
「やだーセクハラですよ〜!」
きゃっきゃと笑って盛り上がる牧瀬と御幸先輩。
「でも〜光がいいっていうなら譲ってあげても…」
「絶対イヤ」
「…だそうで〜す」
残念でした〜!と笑う牧瀬。苦笑いをする御幸先輩。
「お前せっかくそんな美人なんだから、もうちっと愛想よくしろって。」
「はぁ…?」
御幸先輩がさらりと美人だなんて言うから、玉城はちょっと顔を赤くして御幸先輩を睨んだ。
「先輩以外には普通です」
「えーじゃあ何で俺にだけそんな辛辣なんだよ」
「うざいからです」
「ひで〜傷ついた〜えーん」
「キモいです」
あ…この二人…。ふざけ合ってても、ちゃんと、目が合ってる。
「あれ、ちょっと待て」
「な…、何…」
突然、がし、と御幸先輩が玉城の肩を掴んで窓際に連れて行く。
「ちょ…ちょっと、何なんですか?」
「ちょっとそっち向いて。もうちょいこっち。」
「…もう、なんなの…」
「お前…」
御幸先輩は真面目な顔で、まじまじと玉城の顔を覗き込んだ。
「目の色すっげえ綺麗だな!」
「…はぁ…!?」
玉城の顔が赤くなる。牧瀬が俺をちょっと小突いてニヤニヤする。
「な、何言って…」
「ほら!倉持も見てみろよ、すげぇ綺麗だから」
「お、俺はいいって…」
顔を赤くして尻込みする倉持先輩。普通はそうだろう。俺もきっとそうなる…。
「何色って言うんだこれ。薄い青…ちょっと緑入ってる?」
「……み、見すぎ!」
御幸先輩を押しのけた玉城の顔は真っ赤で。御幸先輩はようやく、自分がしたことを自覚したように、急に言葉に詰まって顔を赤くした。
「ご、ごめん」
「…べ…別に、怒ってないし…」
玉城は呟いて、牧瀬の腕を掴んで、チャイム鳴るから行こ、と呟いて歩き出した。
「御幸行くぞ。」
「お…おー」
倉持先輩に声をかけられ、歩き出す御幸先輩。しばらく歩いたところで、倉持先輩からキックされていた。
***
「光に殴られたらしいな。」
帰ってきた光臣が、開口一番そう言って、俺は身が縮みあがった。
「えっ……」
「使用人から聞いた。」
「……っ」
あ…謝るべき?従弟だし…。でもそれも変な感じだよな…ど、どうすればいいんだ、これ…。
「仲間だな。」
「……はい??」
「俺も昔、殴られたからな。」
な…何言ってるんだ?
「…ど、どういうこと?」
「中学生の頃だったかな。夜、光の部屋へ行ったんだ」
「……へ!?」
そ…それって…そういう意味で!?
「その頃は俺たちは親が決めた婚約相手だったし、光が父親の意向に逆らうはずもないと思っていた」
「……。」
「だが…。」
ふっ、と光臣はどこか嬉しそうに笑った。
「枕元にあった、分厚い辞書で思い切り殴られてな。あんたなんか大嫌い、と言われたっけ。」
「……。」
な…何で笑ってんだろう、光臣…。
「婚約者として会わされたときは、人形みたいに沈黙していたのに…。」
「……。」
「光に初めて言われた言葉がそれだった。当時はわけがわからなかったが、今思えば当然だな。」
「なんで、そんな話…」
そんな、懐かしむみたいに話せるんだ?
「悔やんでいるからだ。」
「……。」
「間違っていたと、今は思えるようになったことが嬉しい。」
「……。」
「だから秀明もそう悲観するな。絶望的に嫌われても、いつかは友人くらいには戻れる日が来るさ。」
…励ましだったのか。
本当に…後悔しても、もう遅い。光は俺を友達だと思ってくれていたのだと思う。それなのに…。俺はその信頼を裏切ったんだ。
「それに、一度きっぱりと嫌われた方が、気分も切り替えられるだろ?光は優しいから、よほどのことがないと人を嫌ったりしないからな。」
「……え、ちょっと待って」
光臣の口ぶりになにか違和感を感じた。なんか、こうなる事をお見通しだったみたいな…。
「もしかして…光臣、何か…」
「俺は何もしてないぞ。」
にやり、と形のいい唇が笑う。
「光を呼んで、わざと遅刻した以外は。」
「…光臣〜…!!」
やられた…仕組まれてたんだ。そりゃ、こうも偶然ばったりと、ふたりっきりで会うなんて…よく考えればおかしいよ。俺だけ誘って、信二に声をかけてないのもおかしいと思った。
だけど…結局、手を出したのは俺だ。
「……はあ…。まぁ確かに…おかげで目が覚めたよ」
俺が呟くと、光臣は、そうだろう、と得意げに頷いた。
***
合同練習のキャンプ地。ロッカールームへ向かう途中、探していた人物を見つけて、俺は足を踏み出した。
「み…御幸先輩!」
チームメイトと話していた御幸先輩は、相手にちょっと断って、ため息交じりに立ち止まる。…まだ怒ってる…よな。当然だ。
「…すみませんでした!」
迷いを断ち切るように深く頭を下げた。
「…もう光さんとは会いません。」
御幸先輩はどんな顔をしているんだろう。…見るのが怖い。
「…失礼します!」
顔を上げ、御幸先輩を見る。俺を見る御幸先輩の目は…真っ直ぐだった。踵を返す。許してもらおうなんて、思っていない。御幸先輩は、俺の顔を見るのも嫌だろうし――。
「また言い逃げかよ。」
「……。」
俺は立ち止って、御幸先輩を振り返る。
「ったくどいつもこいつも…惚れただの諦めらんねーだの…」
「……。」
「どれだけ本気かなんて知らねーけど…こっちはその何百倍もの気持ち乗り越えて来てんだよ」
「……。」
「俺からアイツを奪おうなんて思い上がるな。…二度と」
…肌がピリピリと痛む。俺は呼吸をするのも忘れて立ち竦んだ。御幸先輩が俺の横を通り過ぎ、冷たい風がふいて、俺は目の前が眩んで…気を抜いたら、膝をついてしまいそうだった。
…あんな御幸先輩、初めて見た。
あの二人には、俺の知らない――途方もない絆があるんだ。
俺もいつか…そんな風に誰かを愛せるかな。まっすぐに…迷いなく…。誰もに認められて…いや、認められなくてもいい。この人だ、と俺自身が確信を持って、大切にしていける何かが――。
俺は…今、大きな失恋をしたんだ。ひとつの恋が終わった。俺自身の道も左右するほどの恋だった。それが、あとかたもなく…消えた。
ここからは大きく道が変わる。この先に光と交わることはもう二度となくて、だけど歩いて行かなくちゃならない。
きっと、大丈夫。
その微かな衝撃に気が付いた男子生徒が振り向くと、そこにいた美しい少女に息を詰めた。
「ついてたよ。」
「……っあ、あり…がとう…」
べつにいらないのに糸くずを律儀に受け取って、男子生徒は挙動不審に、さらりと踵を返した少女の背中を見つめる。少女が立ち去ると、周りの男子たちは糸くずを受け取った男子を囃し立ててからかった。
「…私って怖いのかな。」
「え?」
玉城が大真面目に悩みながらそう呟くものだから、俺は言葉を失った。
「…何でそう思うんだよ?」
「だって…」
「……。」
「……。」
「…何?なんかあったの?」
あまりにも玉城が深刻に悩んでいるから、俺も真面目に聞く姿勢になって尋ねる。
「…皆、目合わせてくれないんだもん。」
「……。」
それは…照れているだけでは…。
「光が可愛いからだよ〜!照れてるの!」
牧瀬が玉城の頬をちょっとつっついて言った。よ、よく言った…。俺が言うのは照れ臭い。ありがとう牧瀬。
「…そういうのはいいから。」
…全然信じてない。本当の事なんだけどなー…。
「も〜光ってば…」
「……。」
「膨れっ面も可愛いんだから〜!」
「……。」
牧瀬を呆れたように見る玉城。だ…だめだこりゃ。牧瀬、顔が緩みきってる。
「私ならいくらでも見つめ合ってあげるのに〜。」
「司はいい。」
「えーん冷たい…でもそんなところも好き…」
「司、暑い…くっつかないで。」
「やーだー」
女子って何でこう、べたべたくっつけるんだろう…。目のやりどころに困る俺の身にもなってほしいな…。
「お前ら何イチャついてんだよ。」
けらけら笑いながら通りすがる御幸先輩…と、倉持先輩。物理の教科書を持っている。次の授業は別教室らしい。
「いや〜それほどでも〜」
「褒めてねーよ。」
「またまた〜先輩羨ましいくせに」
「おーおー羨ましくて涙が出るぜ。牧瀬そこ代わってくれ〜」
「やだーセクハラですよ〜!」
きゃっきゃと笑って盛り上がる牧瀬と御幸先輩。
「でも〜光がいいっていうなら譲ってあげても…」
「絶対イヤ」
「…だそうで〜す」
残念でした〜!と笑う牧瀬。苦笑いをする御幸先輩。
「お前せっかくそんな美人なんだから、もうちっと愛想よくしろって。」
「はぁ…?」
御幸先輩がさらりと美人だなんて言うから、玉城はちょっと顔を赤くして御幸先輩を睨んだ。
「先輩以外には普通です」
「えーじゃあ何で俺にだけそんな辛辣なんだよ」
「うざいからです」
「ひで〜傷ついた〜えーん」
「キモいです」
あ…この二人…。ふざけ合ってても、ちゃんと、目が合ってる。
「あれ、ちょっと待て」
「な…、何…」
突然、がし、と御幸先輩が玉城の肩を掴んで窓際に連れて行く。
「ちょ…ちょっと、何なんですか?」
「ちょっとそっち向いて。もうちょいこっち。」
「…もう、なんなの…」
「お前…」
御幸先輩は真面目な顔で、まじまじと玉城の顔を覗き込んだ。
「目の色すっげえ綺麗だな!」
「…はぁ…!?」
玉城の顔が赤くなる。牧瀬が俺をちょっと小突いてニヤニヤする。
「な、何言って…」
「ほら!倉持も見てみろよ、すげぇ綺麗だから」
「お、俺はいいって…」
顔を赤くして尻込みする倉持先輩。普通はそうだろう。俺もきっとそうなる…。
「何色って言うんだこれ。薄い青…ちょっと緑入ってる?」
「……み、見すぎ!」
御幸先輩を押しのけた玉城の顔は真っ赤で。御幸先輩はようやく、自分がしたことを自覚したように、急に言葉に詰まって顔を赤くした。
「ご、ごめん」
「…べ…別に、怒ってないし…」
玉城は呟いて、牧瀬の腕を掴んで、チャイム鳴るから行こ、と呟いて歩き出した。
「御幸行くぞ。」
「お…おー」
倉持先輩に声をかけられ、歩き出す御幸先輩。しばらく歩いたところで、倉持先輩からキックされていた。
***
「光に殴られたらしいな。」
帰ってきた光臣が、開口一番そう言って、俺は身が縮みあがった。
「えっ……」
「使用人から聞いた。」
「……っ」
あ…謝るべき?従弟だし…。でもそれも変な感じだよな…ど、どうすればいいんだ、これ…。
「仲間だな。」
「……はい??」
「俺も昔、殴られたからな。」
な…何言ってるんだ?
「…ど、どういうこと?」
「中学生の頃だったかな。夜、光の部屋へ行ったんだ」
「……へ!?」
そ…それって…そういう意味で!?
「その頃は俺たちは親が決めた婚約相手だったし、光が父親の意向に逆らうはずもないと思っていた」
「……。」
「だが…。」
ふっ、と光臣はどこか嬉しそうに笑った。
「枕元にあった、分厚い辞書で思い切り殴られてな。あんたなんか大嫌い、と言われたっけ。」
「……。」
な…何で笑ってんだろう、光臣…。
「婚約者として会わされたときは、人形みたいに沈黙していたのに…。」
「……。」
「光に初めて言われた言葉がそれだった。当時はわけがわからなかったが、今思えば当然だな。」
「なんで、そんな話…」
そんな、懐かしむみたいに話せるんだ?
「悔やんでいるからだ。」
「……。」
「間違っていたと、今は思えるようになったことが嬉しい。」
「……。」
「だから秀明もそう悲観するな。絶望的に嫌われても、いつかは友人くらいには戻れる日が来るさ。」
…励ましだったのか。
本当に…後悔しても、もう遅い。光は俺を友達だと思ってくれていたのだと思う。それなのに…。俺はその信頼を裏切ったんだ。
「それに、一度きっぱりと嫌われた方が、気分も切り替えられるだろ?光は優しいから、よほどのことがないと人を嫌ったりしないからな。」
「……え、ちょっと待って」
光臣の口ぶりになにか違和感を感じた。なんか、こうなる事をお見通しだったみたいな…。
「もしかして…光臣、何か…」
「俺は何もしてないぞ。」
にやり、と形のいい唇が笑う。
「光を呼んで、わざと遅刻した以外は。」
「…光臣〜…!!」
やられた…仕組まれてたんだ。そりゃ、こうも偶然ばったりと、ふたりっきりで会うなんて…よく考えればおかしいよ。俺だけ誘って、信二に声をかけてないのもおかしいと思った。
だけど…結局、手を出したのは俺だ。
「……はあ…。まぁ確かに…おかげで目が覚めたよ」
俺が呟くと、光臣は、そうだろう、と得意げに頷いた。
***
合同練習のキャンプ地。ロッカールームへ向かう途中、探していた人物を見つけて、俺は足を踏み出した。
「み…御幸先輩!」
チームメイトと話していた御幸先輩は、相手にちょっと断って、ため息交じりに立ち止まる。…まだ怒ってる…よな。当然だ。
「…すみませんでした!」
迷いを断ち切るように深く頭を下げた。
「…もう光さんとは会いません。」
御幸先輩はどんな顔をしているんだろう。…見るのが怖い。
「…失礼します!」
顔を上げ、御幸先輩を見る。俺を見る御幸先輩の目は…真っ直ぐだった。踵を返す。許してもらおうなんて、思っていない。御幸先輩は、俺の顔を見るのも嫌だろうし――。
「また言い逃げかよ。」
「……。」
俺は立ち止って、御幸先輩を振り返る。
「ったくどいつもこいつも…惚れただの諦めらんねーだの…」
「……。」
「どれだけ本気かなんて知らねーけど…こっちはその何百倍もの気持ち乗り越えて来てんだよ」
「……。」
「俺からアイツを奪おうなんて思い上がるな。…二度と」
…肌がピリピリと痛む。俺は呼吸をするのも忘れて立ち竦んだ。御幸先輩が俺の横を通り過ぎ、冷たい風がふいて、俺は目の前が眩んで…気を抜いたら、膝をついてしまいそうだった。
…あんな御幸先輩、初めて見た。
あの二人には、俺の知らない――途方もない絆があるんだ。
俺もいつか…そんな風に誰かを愛せるかな。まっすぐに…迷いなく…。誰もに認められて…いや、認められなくてもいい。この人だ、と俺自身が確信を持って、大切にしていける何かが――。
俺は…今、大きな失恋をしたんだ。ひとつの恋が終わった。俺自身の道も左右するほどの恋だった。それが、あとかたもなく…消えた。
ここからは大きく道が変わる。この先に光と交わることはもう二度となくて、だけど歩いて行かなくちゃならない。
きっと、大丈夫。