夕暮れの中。ドアを開けて困ったように俺を見上げる光。

「ごめんなさい、まだ一也さん、帰ってなくて…。」

…知ってる。だから来たんだ。

「ちょっと…話せねーか?」
「え…、でも…」
「…そこの、喫茶店ででも」
「……。」

ふたりっきりで、なんて贅沢は言わない。でも…どうしても確かめたい。

「…上着、取ってきます」

光は部屋に戻って、黒いキャップをかぶってパーカーを羽織り、外に出てきた。
ふたりで歩いて、桜木通りに出る。彼女の姿を目の端に感じながら、歩く速度に気を付けながら。やっぱり…光相手だと、どうしてもかっこつけてしまう。
古い喫茶店の、奥の目立たない席に向かい合って座った。光はキャップを取らないまま、店員にブレンドと告げた。同じものを、と俺も呟いて、コーヒーが運ばれるまでの間、二人とも黙っていた。

「ブレンドでございます。」

コーヒーカップを二つ置いて、店員はカウンターに戻っていった。コーヒーにミルクを入れる光の指先を眺めながら、俺は切り出した。

「…光。」
「……。」
「…俺たち…微妙な関係だったよな。」
「……。」
「…俺は何度もフラれたけど…。…でも、俺のこと、好きだって言ってくれただろ。」
「……。」

きゅ、と光の赤い唇が引き結ばれた。キャップのつばで見えないけど、今、彼女がどんな目をしているのか…不安になった。

「…今も、それは変わらないのか?」
「……。」

…彼女が頷いたら。俺は、木崎さんと二度と連絡を取ることはないだろう、と思った。いつか光と特別な関係になれることを夢見て、ではない。だけど…少しでも俺への気持ちが残っているなら、俺はそれを置いて木崎さんを選ぶことは、どうしてもできないと思った。

「…今は…」

赤い唇が動いた。俺はこの唇が、甘く、柔らかく、優しいことを知っている。

「もう、迷ってません。」

その言葉が響いている間、周りの喧騒が一切聞こえなくなった。耳の中に音が戻ってきたころ、俺はようやく、その意味を理解した。もう光は、俺への気持ちを置いて…前に進んでいる。俺だけがずっと、同じ場所に留まったまま…。

「……。」
「……。」
「……そうか。」

声が掠れたのを、コーヒーを飲み込んで誤魔化した。苦手だった苦みも、今は喉の奥の塩辛い味と混ざって、よくわからなかった。

「…御幸には…勝てねーな」

…何もかも。何もかも、あいつは簡単にこなして、どんどん先へ行ってしまう。

「倉持さんのこと…嫌いになったわけじゃないです。」
「……。」
「今も尊敬してます。…でも」
「……。」
「…やっと、心から、倉持さんが誰かと幸せになることを…嬉しく思えるようになったんです。」

だけどそれって、俺への気持ちが一つ、減ったってことだろ。…あの日抱きしめたら、赤くなっていた光は…もういないってことだろ。

「幸せになってください。」
「…木崎さんを…選べってことか?」
「倉持さんが選んだ人なら…私は祝福できます。」
「……。」
「でも…えみちゃんなら、倉持さんだけを見てくれる。」
「……。」
「私なんかより、倉持さんのことを大事にしてくれます。」

俺はお前がいいのに?…そう考えて、牧瀬の言葉を思い出す。
――えみちゃんは倉持さんがいいんですよ!
…その言葉に、俺はなんて答えたっけ。…ああそうだ、今の光と同じようなことを言った。相手の気も知らないで…。だけど、今の俺は…光の気持ちが痛いほどわかる。俺の気持ちを知っていて、それでもそう言う光の気持ちが。

「…ひとつ、教えてくれ。」
「…何ですか?」
「どうして…迷わなくなったんだ?」

俺もいつか…お前への迷いを乗り越えられるのかな。

「…イタリアで過ごした1か月間…一也さんと一緒にいて、改めて思ったんです」
「……?」
「…一也さんと結婚出来て…私はなんて、幸せなんだろうって」
「……。」
「あんなにやさしい人、私にはもったいない。」

光の声に涙が混じった。光は目もとをおさえ、俯く。

「私…一也さんのこと、愛してるんです。死んじゃいそうなくらい」

そんな…。そんなこと、言われたら…。
俺は、身を引くしかない。
だけど俺も…光を愛していた。

「……わかった……。」

俺は呟いて、コーヒーを飲み干した。

「…すみません。」

光は目元を拭って、少し顔を上げた。

「そろそろ、一也さんが帰って来るので…帰ります。」

財布を取り出す光の手から伝票を取り上げる。

「俺が出す。」
「でも…」
「最後くらい、かっこつけさせてくれ。」
「……。」

赤い唇が閉じ、光は立ち上がった。

「…ありがとうございます。」
「…あのさ」
「……?」
「また、飯食いに行ってもいいか?」

つばの下から、ちょっと驚いたような濡れた瞳が覗いた。

「…もちろんです。」

ちょっと微笑んで、光は頷く。

「それじゃ…」
「それからさ、」

先ほどよりも明るい声でそう言って、少し会釈をして立ち去ろうとした光を、また呼び止めた。光は足を止めて、俺を振り返った。

「お前のこと、全部、すげー好きだったよ」

はにかむように赤い唇が緩んだ。

「気を付けて。」

そう言うと、光は頷いて、店を出て行った。



***



「倉持。」

いつもの飲み会で、御幸が珍しく俺に声をかけてきた。

「木崎さんに連絡とった?」
「…お前、そんなお節介焼きだったか?」
「はっはっは!俺ってば優しいだろ?」
「鬱陶しいわ」

はあ、とため息をひとつぶつけ、投げやりに答える。

「…たまにメールしてるよ。」
「おっ、いいじゃん。デートの約束は?」
「…一応、今度…飯食いに」
「お〜!進歩進歩!オメデトウ!」

背中をバシバシ叩いてくる上機嫌な御幸に苛立ちながら、その手を払いのける。こいつもう酔ってんのか?

「おい!今デートがどうとか言わなかったか!?」
「倉持彼女できたの?」

ゲッ…。純さんと亮さんがさっそくかぎつけてきた。

「いやまだ友達以上恋人未満って感じっすね〜!なぁ倉持クン!」
「うぜえ…」
「なんだとォォ!!?倉持お前っ…いつの間に…!!」
「相手は誰なの?俺らも知ってる人?」
「知ってますかね、モデルの木崎えみって子ですよ。」
「木崎えみ!?コラ倉持!!どこで知り合ったんだテメェ!!」
「もしかして光ちゃん繋がり?」
「はっはっはっは!さすが亮さん鋭いっすね!」
「おい御幸!テメーペラペラバラしてんじゃねーよ!!」
「倉持こっちにこいゴルァ!!詳しく聞かせてもらおうじゃねーか!!」

純さんにめちゃくちゃに詰められながら、数年前の御幸を思い出す。光との交際を発表したばかりの頃の御幸…。あの頃はまさか、光のことをこんなに好きになるとは思わなかった。すげえ綺麗な子で、優しくて完璧で、ただ憧れていた。まさか、この手で触れて…こんな特別な存在になるなんて。
だけど…いつか俺も、光への想いを乗り越えられたとしても…きっとあの子は、ずっと、俺の中で特別な存在のままなんだろう。

 


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