「え?」

嬉しそうな、それでいて誇らしそうな監督の顔。いつもしかめっ面のくせに…。立ち尽くす俺に、監督は言う。

「先方はこれだけの契約金を提示してきている。それだけお前に期待してるんだ。わかるな?」
「……。」
「もちろん挑戦するだろ、お前なら。」

…そうだよ。俺なら。…昔の俺なら、間違いなく即答していた。もちろんですと。だけど…今の俺には大切な人がいる。

「どうした?お前も野球選手なら、一度は夢見たことがあったはずだろ。」
「…はい。」
「絶好のチャンスだぞ。持ち帰って、考えてみろ。」
「はい。」

少し放心しながら頷いて、俯いた。…光。

「誇らしいよ御幸。いい返事を期待してるぞ。」



***



「ただいまー」

玄関に入ると、いつも通りぱたぱたと駆け寄ってくる小さな足音が聞こえる。

「…お帰りなさい。」

だけど、現れた光はなぜか、いつもより少し落ち込んでいるように見えた。どうしたのかと聞くより前に、光は俺に抱き着いてくる。

「…何かあった?」

細い体を抱きかえして尋ねると、胸元で小さな頭が振る振ると小さく動いた。

「…なんでもない」

そう言って、光はキッチンへ行ってしまった。…話し辛くなったな。でも、今日中に結論を出さなきゃいけないし。…何も事情を考慮しなければ…行きたい。挑戦したい。だけど…。やっぱり光を置いていくなんて無理だ。でも光はここでのキャリアがあるし、友人もいて、光臣や奥村もいて…なにより、俺の都合で連れ出して、家に閉じ込めておいていい奴じゃない。彼女にそんな人生は歩ませたくない。歩ませちゃだめだ。

「ご飯、もうできてるけど…先にお風呂にする?」
「あ…いや、先に食べる。」

答えると、光は頷いて食事をテーブルに並べ始めた。バランスのとれた、俺の好物が必ず一つはある、美味しい食事。昔はこんなに得意じゃなかったのに、いつのまにか俺よりも上手くなった料理。俺の為に練習して、勉強して、上達させていったのを知っている。
きっと、俺がついて来てほしいと頼んだら、光はそうしてくれる…と思う。でも…彼女に自分の全てをサポートさせる生活は、嫌だ、と思う。今のように、互いに助け合っている生活が性に合っているし、互いに高め合える。このままでいたい。このまま…。でもそのためには、ここに留まらなくちゃいけない。もうこれ以上、成長できないまま。

「…あのさ」

重い口を開くと、光が箸を止めて俺を見た。

「話が、あるんだけど…」
「…何?」

箸を置くと、光も箸を置いて背筋を伸ばした。

「今日、監督から言われたんだ」
「……?」
「…メジャーから声がかかってるって」

光はじっと俺を見つめている。

「…じゃあ…」

静かな声。…引き留められる?それとも…一人でも行けと言われるんだろうか。一緒に行くと言われたら…俺はどうすればいい?

「アメリカに…行くの?」
「…話を受けるなら、そうなる。」
「……。」
「……。」
「…すごい…」

光が息をのんで、呟いた。…その言葉は、素直にうれしい。だけど…。現実的な問題を考えると、どうしても素直に喜べない。

「…すごい!よかった…。本当によかった」
「光…」

そんなに喜んでくれるなんて…。

「良かった…」
「お…おい、何でお前が泣くんだよ」

ぽろぽろと涙を零し始める光に戸惑う。そんな風に喜ばれたら…俺一人でも、行くしかなくなる。

「一緒に居られる…」
「……。」
「……。」
「……ん?え、どういう事?」

一緒に居られる…って?何だか話がつながらない。何で俺がアメリカに行くことで一緒に居られる…ってことになるんだ?逆じゃないか?

「私…、私も今日、社長から言われたんですけど…」
「え…何を?」
「…ハリウッドから、声がかかってるから…挑戦してみないかって」
「は…」

…はりうっどぉ!?

「え…ちょ、どういうこと?ちょっと…頭が追いつかねえ」
「私の主演映画の…風の中の声、ってあったでしょ?あれをハリウッドの映画監督が見て、今度の映画にぜひ出演してくれないかって、オファーが来たんだって。」
「…え!?」
「もう女優はやらないつもりだったけど…社長が絶対チャンスだからやってこいって、もうほとんど引き受けちゃってて…」
「……。」
「シリーズ化予定で今3まで構想が練られてるから、アメリカに行ったら4年は戻って来られないって言われたの。」
「……。」
「でも、よかった…これで一緒にアメリカに行けるね。」

いや、行けるね、って…そんな軽い笑顔で…。すごすぎて言葉が出てこないんだけど、こいつ、自覚してんのかな…。つーか、良かったって…そういう意味かよ。

「いや〜…はっはっは…やっぱすごいねお前」
「え…一也さんでしょ、すごいのは」
「いやお前の方が奇特な人生歩んでるよ」
「なにそれ…」

むっと口を尖らせる光。

「意味わかんない…」

拗ねたようにそう言うけど、さっきよりあきらかに上機嫌で、こっちまで頬が緩んでくる。

「じゃあ牧瀬は?一緒に行くの?」
「それなんだよね…。」

光は頬杖をついて、ふう、とため息を吐いた。

「光臣は仕事があるから日本から離れられないし…。でも、婚約者と4年も離れるなんてダメだと思うから…」
「まぁ…そうだなー、ただでさえあいつら忙しいし」
「司には日本にいてもらおうと思ってる。問題は…本人が納得するかどうかだけど…。」
「まー、お前のマネージャーやりたくて芸能界引退するくらいだもんなぁ。」

う…、とばつが悪そうに言葉に詰まる光。

「…今回の話、司は乗り気で…もう、一緒にアメリカに行く気満々なんだよね。」
「光臣が不憫だなぁ」
「二人で話してればいいけど…。」

心配そうにそう呟く光はそれでもさっきまでの落ち込みは消えていて。そんなに俺と離れるのが彼女にとって辛いことだったのか、と思うと、不謹慎だとわかっていても、嬉しくなってしまうのだった。



***



次の日の夜、光は少し遅い帰宅だった。

「おかえり。遅かったな、大丈夫か?」

何かあったのかと思ってそう訊くと、光は荷物を置いて髪を解きながら答えた。

「うん、ごめん…。ちょっと光臣と話をしてきたの。」
「光臣と?」

何の話だろう?

「司のこと…多分、私が司に日本にいるように言っても、着いてくって言うと思うから、光臣に頼んできたの」
「光臣が言っても聞くかな〜…」
「ふふ、それがね。」
「?」

なんだか嬉しそうな光。

「来週、司の誕生日でしょ?光臣、そのときにプロポーズするつもりでいたんだって。」
「え…!?」
「あの光臣がプロポーズだよ?ほんとに、変わったんだなって思って…」

それでこんなに嬉しそうなのか。光が笑顔だと、こっちまで嬉しくなってくる。

「そうか。うまくいくといいな」
「そうじゃなきゃ困るよ。」

頬を膨らませた光に、それもそうだな、と笑った。

「でも…あの家に入ったら、司は大変だと思うから…」

…確かに。苦労は多いだろうな。

「司のことちゃんと守るように、また光臣に釘さしておいた。」
「…そ、そう」

にっこり、無邪気な微笑みでそう言った光に、きっと今俺は、その時の光臣と同じような顔をしているんだろう、と思った。

 


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