249
周防からの電話が切れ、俺はスマホをポケットに仕舞った。ベランダで素振りをしていたけど、そのままバットを持って部屋に戻った。キッチンではエレナが夕食を作っている。
「旦那様、もうすぐ食事ができますよ。」
「ああ…うん。」
「今日は、奥様も帰って来られるのですよね。楽しみですね。」
無邪気なエレナの笑顔が、今は虚しい。
「いや…、今マネージャーから連絡があって、今日も遅くなるって」
そう告げると、エレナは自分の事のように悲しい顔をした。
「そうですか…。残念ですね。」
「まあ、仕方ないよ。」
本当は寂しくて仕方がないのに、俺は平気なふりをした。
エレナが食卓に食事を運び、俺は席についた。エレナはすぐに片づけを始めながら、ちらちらと時計を気にするように見上げる。
「どうかした?」
訊ねてみると、エレナは申し訳なさそうに眉を下げた。
「あ、いいえ、なんでもありません。」
「いや…何か用があるなら、今日はもう帰ってもいいけど」
俺は今日は早めに帰れたし、あとのことはできる。軽い気持ちでそう提案したのに、エレナは心からすまなさそうに言った。
「すみません。仕事に集中します。」
「え…いや、責めてるわけじゃないから。何か事情があるのかと思って…」
「……。」
エレナは柄にもなく俯いて、落ち込んだ様子で打ち明けた。
「…実は…昨日、母が倒れて…」
「…え?」
「もともと、心臓が弱い人でしたから。今、入院してるんです。意識はあるけど…私、帰ったら、母の荷物と自分の荷物持って、病院に行きます。しばらく一緒に泊まります。私、仕事があるから、明日からは病院から通います。ご迷惑おかけしたら、すみません。」
「え…いや、大変だな…休んでいいよ、仕事は。落ち着いてからまた…」
「いいえ。仕事…ないと困ります。私、父親がいません。」
「……。」
そんな…重い事情があったとは。いつも明るいから、全然気づかなかった。
「あの…すみません。ご心配をおかけしてしまって。でも、あの、大丈夫です。お気になさらないでください。」
「いや、だけど…とりあえず、今日は帰っていいよ。仕事も全部終わってるし、洗い物くらい俺もできるから。」
「ですが…」
「俺がそうして欲しいんだ。」
エレナの姿が昔の自分と重なった。母親を亡くしたときの自分…。だけど、彼女には父親がいないのだから、もっと心細いはずだ。
「……。…では、今日だけ。お言葉に甘えます…。」
「そんなに気にするなよ。気をつけてな。」
エレナは何度も何度も頭を下げて帰っていった。俺は食事を済ませ、片付け、いつも通り風呂に入ってベッドへ向かう。そして、まだ隣に光のぬくもりを探してしまいながら、眠ろうと努めて夜は更けていった。
***
翌朝目が覚めて、そこに焦がれ続けた彼女の寝顔があって、俺は飛び起きた。
「…光!?」
「…ん…?」
目を擦り、ぼんやりと目覚めた目で俺を見て、また眠そうに身を起こして俺に抱き着いてくる。
「…おはよう」
「いや…寝てるじゃん」
俺の腰に抱き着いたまま突っ伏してうめく光に笑う。つーかそこ、結構きわどいとこなんだけど…。勃っちゃいそう。
「今日はまだ大丈夫なのか?時間…」
「うん…」
光は顔を上げてふにゃりと微笑んだ。
「あとはスタジオでの撮影だから…今日からは10時にスタジオに行けばいいの」
…じゃあ、今日からは…毎朝会えるってことか?込み上げる嬉しさでむずがゆくなる胸元に、光は頬ずりするように顔を埋めた。
「だからあと30分寝る…」
「ははは、そーか。おやすみ」
すう…、と静かな寝息がすぐに聞こえてきた。昨日…いや、今日かな。きっと明け方に帰ってきたんだろう。ゆっくり休んでほしい。たくさん話したいこともあるし、彼女に触れたいけど…今はこうして、寝顔を見られるだけで幸せだ。
「…光、俺はもう起きるから…離して」
「ん…、ん〜…」
ぐりぐりと甘えるように頭を擦りつけて、寝ぼけ眼で俺を見上げる。
「じゃあ…チューしてって」
「はっはっは!…はいはい。」
チュ、と軽いキスを額にすると、光はムッと眉を寄せる。
「そんなんじゃだめですうー」
「わかってるって。」
「わ…っ」
彼女を抱きしめるようにして組み敷き、上に跨って、少し強引に唇を塞ぐ。
「ん…っ…んん…」
はあ、と吐息を零して、また塞ぐ。何度も舌を絡ませ、唇を食んで、甘い吐息を飲み込んだ。彼女の柔らかい唇…。それを舐めるたびに、ちゅ、ちゅ、と音がする。
「…っは…」
ようやく唇を離すと、息を荒げ、頬を染めて俺を見つめる光。
「これでどうだ。」
にんまりと笑うと、光ははにかみを堪えるように唇を噛んで、大きな瞳に微笑みをにじませた。
「…目、覚めちゃった」
「わははは。狙い通り。」
「…ほんとかなぁ」
結局二人で起き上がって、リビングへ行った。
「あれ?エレナがいない」
光が部屋の中を見渡し、時計を見上げて首を傾げた。
「何かあったのかな。」
「…あ、もしかしたら」
ふと思いついて、昨日エレナから聞いた彼女の母親のことを話した。
「…そうだったんだ。心配だね…」
光は沈痛な面持ちで呟いた。彼女自身も母親を亡くしている。あの父親じゃ頼りにならなかっただろうし、エレナの姿が自分と重なったのかもしれなかった。
「…じゃあ、私朝ごはん作るよ。」
光は明るく努めるように微笑んでキッチンに入った。久々に彼女の手料理が食べられると思うと、素直に嬉しくなった。
「じゃ、コーヒー淹れるな。」
「うん。」
コーヒー豆を挽いてドリップ機に入れ、野菜を切り始めた光の隣でフライパンの中身を混ぜ始める。隣にやって来た俺に光は微笑んだ。光が隣にいる…。すごく幸せだ。
そのとき、玄関の鍵が開いて、慌てた様子でエレナが駆け込んできた。エレナはキッチンにいる俺たちを見て青ざめた。
「も…申し訳ございません!」
こっちが驚くほど深く頭を下げる彼女に、光が歩み寄った。
「エレナ、大丈夫だよ。事情は聞いたから…。それより、お母さんは大丈夫なの?」
「は、母は無事です。あの、今朝は…病院から出るバスを、乗り違えてしまって…。あの…」
「……。」
ぽかん、と目を瞬いた光は、小さく笑いだした。
「なんだ、そうだったんだ。それならよかった。」
「も…申し訳ございません…」
「そんなに気にしないで。病院から通うなんて大変でしょ?今日から、朝はもう少し遅い時間からにしようか。私も朝は少し余裕ができたから、大丈夫だよ。」
「で…ですが、そんな…。」
光は恐縮しきりのエレナの顔をあげさせて、とにかく落ち着くようにと椅子に座らせる。
そして寄り添うように話しかけ続けて、朝食ができるころには、エレナの顔にも笑顔が戻ったのだった。
***
8時ごろ、周防がマンションにやって来た。
「行ってきます。」
光は笑顔で出かけていく。周防がドアを押さえ、エスコートするように光を連れていく。
「気を付けて。帰りは?」
「ちょっと読めないけど…今日も遅くなると思う。」
眉を下げて言う彼女に寂しさを覚えるけど、でも、朝起きれば隣に彼女がいる。それは確かだ。
「そうか。無理するなよ。」
「うん。一也さんも…」
光がちょっと俺を見つめたけど、じゃあね、と微笑みを浮かべて踵を返した。…周防がいるからキスもできない。なんて…思ってしまうのは俺だけだろうか。
リビングに戻ると、エレナは洗濯を始めていた。てきぱきと動き回る彼女を横目に、俺も出かける準備をする。
「じゃあ、行ってきます」
玄関に向かいながらリビングを振り返った。
「行ってらっしゃいませ!」
エレナはいつもと同じ、明るい笑顔で見送った。
「旦那様、もうすぐ食事ができますよ。」
「ああ…うん。」
「今日は、奥様も帰って来られるのですよね。楽しみですね。」
無邪気なエレナの笑顔が、今は虚しい。
「いや…、今マネージャーから連絡があって、今日も遅くなるって」
そう告げると、エレナは自分の事のように悲しい顔をした。
「そうですか…。残念ですね。」
「まあ、仕方ないよ。」
本当は寂しくて仕方がないのに、俺は平気なふりをした。
エレナが食卓に食事を運び、俺は席についた。エレナはすぐに片づけを始めながら、ちらちらと時計を気にするように見上げる。
「どうかした?」
訊ねてみると、エレナは申し訳なさそうに眉を下げた。
「あ、いいえ、なんでもありません。」
「いや…何か用があるなら、今日はもう帰ってもいいけど」
俺は今日は早めに帰れたし、あとのことはできる。軽い気持ちでそう提案したのに、エレナは心からすまなさそうに言った。
「すみません。仕事に集中します。」
「え…いや、責めてるわけじゃないから。何か事情があるのかと思って…」
「……。」
エレナは柄にもなく俯いて、落ち込んだ様子で打ち明けた。
「…実は…昨日、母が倒れて…」
「…え?」
「もともと、心臓が弱い人でしたから。今、入院してるんです。意識はあるけど…私、帰ったら、母の荷物と自分の荷物持って、病院に行きます。しばらく一緒に泊まります。私、仕事があるから、明日からは病院から通います。ご迷惑おかけしたら、すみません。」
「え…いや、大変だな…休んでいいよ、仕事は。落ち着いてからまた…」
「いいえ。仕事…ないと困ります。私、父親がいません。」
「……。」
そんな…重い事情があったとは。いつも明るいから、全然気づかなかった。
「あの…すみません。ご心配をおかけしてしまって。でも、あの、大丈夫です。お気になさらないでください。」
「いや、だけど…とりあえず、今日は帰っていいよ。仕事も全部終わってるし、洗い物くらい俺もできるから。」
「ですが…」
「俺がそうして欲しいんだ。」
エレナの姿が昔の自分と重なった。母親を亡くしたときの自分…。だけど、彼女には父親がいないのだから、もっと心細いはずだ。
「……。…では、今日だけ。お言葉に甘えます…。」
「そんなに気にするなよ。気をつけてな。」
エレナは何度も何度も頭を下げて帰っていった。俺は食事を済ませ、片付け、いつも通り風呂に入ってベッドへ向かう。そして、まだ隣に光のぬくもりを探してしまいながら、眠ろうと努めて夜は更けていった。
***
翌朝目が覚めて、そこに焦がれ続けた彼女の寝顔があって、俺は飛び起きた。
「…光!?」
「…ん…?」
目を擦り、ぼんやりと目覚めた目で俺を見て、また眠そうに身を起こして俺に抱き着いてくる。
「…おはよう」
「いや…寝てるじゃん」
俺の腰に抱き着いたまま突っ伏してうめく光に笑う。つーかそこ、結構きわどいとこなんだけど…。勃っちゃいそう。
「今日はまだ大丈夫なのか?時間…」
「うん…」
光は顔を上げてふにゃりと微笑んだ。
「あとはスタジオでの撮影だから…今日からは10時にスタジオに行けばいいの」
…じゃあ、今日からは…毎朝会えるってことか?込み上げる嬉しさでむずがゆくなる胸元に、光は頬ずりするように顔を埋めた。
「だからあと30分寝る…」
「ははは、そーか。おやすみ」
すう…、と静かな寝息がすぐに聞こえてきた。昨日…いや、今日かな。きっと明け方に帰ってきたんだろう。ゆっくり休んでほしい。たくさん話したいこともあるし、彼女に触れたいけど…今はこうして、寝顔を見られるだけで幸せだ。
「…光、俺はもう起きるから…離して」
「ん…、ん〜…」
ぐりぐりと甘えるように頭を擦りつけて、寝ぼけ眼で俺を見上げる。
「じゃあ…チューしてって」
「はっはっは!…はいはい。」
チュ、と軽いキスを額にすると、光はムッと眉を寄せる。
「そんなんじゃだめですうー」
「わかってるって。」
「わ…っ」
彼女を抱きしめるようにして組み敷き、上に跨って、少し強引に唇を塞ぐ。
「ん…っ…んん…」
はあ、と吐息を零して、また塞ぐ。何度も舌を絡ませ、唇を食んで、甘い吐息を飲み込んだ。彼女の柔らかい唇…。それを舐めるたびに、ちゅ、ちゅ、と音がする。
「…っは…」
ようやく唇を離すと、息を荒げ、頬を染めて俺を見つめる光。
「これでどうだ。」
にんまりと笑うと、光ははにかみを堪えるように唇を噛んで、大きな瞳に微笑みをにじませた。
「…目、覚めちゃった」
「わははは。狙い通り。」
「…ほんとかなぁ」
結局二人で起き上がって、リビングへ行った。
「あれ?エレナがいない」
光が部屋の中を見渡し、時計を見上げて首を傾げた。
「何かあったのかな。」
「…あ、もしかしたら」
ふと思いついて、昨日エレナから聞いた彼女の母親のことを話した。
「…そうだったんだ。心配だね…」
光は沈痛な面持ちで呟いた。彼女自身も母親を亡くしている。あの父親じゃ頼りにならなかっただろうし、エレナの姿が自分と重なったのかもしれなかった。
「…じゃあ、私朝ごはん作るよ。」
光は明るく努めるように微笑んでキッチンに入った。久々に彼女の手料理が食べられると思うと、素直に嬉しくなった。
「じゃ、コーヒー淹れるな。」
「うん。」
コーヒー豆を挽いてドリップ機に入れ、野菜を切り始めた光の隣でフライパンの中身を混ぜ始める。隣にやって来た俺に光は微笑んだ。光が隣にいる…。すごく幸せだ。
そのとき、玄関の鍵が開いて、慌てた様子でエレナが駆け込んできた。エレナはキッチンにいる俺たちを見て青ざめた。
「も…申し訳ございません!」
こっちが驚くほど深く頭を下げる彼女に、光が歩み寄った。
「エレナ、大丈夫だよ。事情は聞いたから…。それより、お母さんは大丈夫なの?」
「は、母は無事です。あの、今朝は…病院から出るバスを、乗り違えてしまって…。あの…」
「……。」
ぽかん、と目を瞬いた光は、小さく笑いだした。
「なんだ、そうだったんだ。それならよかった。」
「も…申し訳ございません…」
「そんなに気にしないで。病院から通うなんて大変でしょ?今日から、朝はもう少し遅い時間からにしようか。私も朝は少し余裕ができたから、大丈夫だよ。」
「で…ですが、そんな…。」
光は恐縮しきりのエレナの顔をあげさせて、とにかく落ち着くようにと椅子に座らせる。
そして寄り添うように話しかけ続けて、朝食ができるころには、エレナの顔にも笑顔が戻ったのだった。
***
8時ごろ、周防がマンションにやって来た。
「行ってきます。」
光は笑顔で出かけていく。周防がドアを押さえ、エスコートするように光を連れていく。
「気を付けて。帰りは?」
「ちょっと読めないけど…今日も遅くなると思う。」
眉を下げて言う彼女に寂しさを覚えるけど、でも、朝起きれば隣に彼女がいる。それは確かだ。
「そうか。無理するなよ。」
「うん。一也さんも…」
光がちょっと俺を見つめたけど、じゃあね、と微笑みを浮かべて踵を返した。…周防がいるからキスもできない。なんて…思ってしまうのは俺だけだろうか。
リビングに戻ると、エレナは洗濯を始めていた。てきぱきと動き回る彼女を横目に、俺も出かける準備をする。
「じゃあ、行ってきます」
玄関に向かいながらリビングを振り返った。
「行ってらっしゃいませ!」
エレナはいつもと同じ、明るい笑顔で見送った。