250
広々としたカフェテラス。昨シーズンの試合映像を眺めながらコーヒーを飲んでいると、向かいの椅子がカタッと引かれた。顔を上げて、頬が緩む。
「久しぶりだな。」
そこに座った人物に、俺も微笑を返した。
「お久しぶりです。クリス先輩」
クリス先輩は既にメジャーで活躍する選手だ。来シーズンからは実際に試合で当たることになる。
「メジャーデビュー、おめでとう。」
「はは…、まだ、スタート地点ですよ。試合で会うのが楽しみです。」
「俺もだ。」
この人に勝てたら…自分の中で、ものすごい自信につながる。それ以前に、戦えると思っただけで…今から武者震いがしてくるほどだ。
しばらく野球の話で盛り上がったあと、クリス先輩は2杯目のコーヒーを飲みながら言った。
「嫁さんもすごいな。ハリウッドだろ?」
「あ…、はい。俺より忙しそうですよ。」
「そうか。2人で過ごせる時間はちゃんとあるのか?」
「まあ…、なんとか、やってます。」
苦笑を浮かべると、クリス先輩に心の中を見透かされた気分になった。
「そうか…。」
「はい。」
「……。」
「……?」
…なんだか気まずそうに目を伏せるクリス先輩。
「…なんすか?」
「いや…、…すまないが、頼みがあって」
「頼み?」
クリス先輩が、俺に?
「何ですか?」
「これなんだが…」
持っていた紙袋を、どさっ、とテーブルに置くクリス先輩。促されて中を見ると、クリス先輩のチームのユニフォームが何着も入っている。
「え?…何ですかコレ?」
3回目の質問。クリス先輩は済まなさそうに頬を掻いて苦笑した。
「俺のチームメイトがな…。御幸光のサインが欲しいと、頼まれてしまって。迷惑じゃなければ…」
…御幸光。その名前はなんだか聞き慣れない。日本にいた頃、芸名は玉城のままだったからだ。だけどハリウッドをきっかけに、御幸性にすると言っていたっけ。そのおかげでこっちでは、御幸光という名前の方が知られているらしい。
「わ、わかりました。聞いてみます。」
「すまないな。」
それからクリス先輩は時計を見て、そろそろ行くよ、と立ち上がった。俺もそろそろ行かなければ。
「今日はありがとう。じゃあ、またな。」
「はい。また。」
握手をして別れた。次に会うのが楽しみだ。
***
夜マンションに帰ると、いつも通りエレナが夕食を作っていた。
「おかえりなさいませ!」
「ただいま。」
光は…やっぱりまだ帰ってないみたいだな。少し残念に思いながら、わかっていたことだろ、と自分に言い聞かせる。着替えてリビングに戻ると、エレナが食卓に食事を用意していた。
「いただきます。」
席につき、いつも通りひとりの食事をする。エレナはキッチンを片付け始める。
すると俺のスマホに着信があり、俺はポケットからそれを取り出した。画面に映る名前は『周防』。…この名前を見ると反射的に気分が沈む。
「はい、御幸」
『周防です。』
愛想はないが礼儀正しい声が返ってくる。
『今日も撮影が長引き、今から打ち合わせが始まるので、帰宅は昨日と同じくらいになるかと思われます。』
「…わかった。食事は?とれてるのか?」
『打ち合わせをしながらの食事になります。』
「そうか…」
『何か伝えましょうか。』
「いや…大丈夫。連絡ありがとう。」
『恐れ入ります。それでは、失礼します。』
電話が切れると、エレナがこちらを窺うように見つめていることに気付いた。
「奥様…今日も遅くなりそうですか?」
「ああ。」
短く答えて、食事を続ける。今頃、光も食事か…。仕事をしながらだから、ゆっくりとはいかないだろうな。
無理してなきゃいいけど…。…いや、よくはない。忙しくなるのは覚悟してた。今まで通りにはいかなくなる事も。だけど…こんなに会えないなんて。
「奥様のお食事…どうしましょうか?」
「片づけていいよ。食べてくるみたいだから」
沈んだ気持ちのまま答えて、しまった、と思った。エレナからしたら、せっかく作ったのにと思うだろう。
「では…」
「あ…待って。エレナは?夕食、どうしてるんだ?」
「私ですか?病院のストアーで…」
「なら、ここで食べていけよ。」
「ええ!?そ、そういうわけには!」
「いいから、ほら。一人で食べんのも味気ないし、捨てるのも勿体ないだろ。」
「……。」
既に光の為に盛り付けてあった食事をテーブルに移し、席に促すと、エレナは恐縮しきりに席に着いた。
「な、なんだか…申し訳ないです」
「気にするなよ。エレナが作ったんだからさ。美味いぞ。って、俺が言うのも変だけど。」
「…ふふっ」
エレナが少し笑って、俺は安堵した。そしてフォークを持ち、いただきます、と彼女は食事に手を伸ばした。
***
翌朝目が覚めて、隣を見て、ついため息を吐いた。そこに光がいなかったからだ。
「奥様、昨日急に撮りなおしが必要になって、今日からまたお出かけが早くなるそうです。」
「そうなんだ。」
ニュース誌をチェックしながら朝食を食べつつ相槌を打つ。エレナは俺の機嫌を窺うように心配そうな表情でコーヒーを置きに来たが、俺は気にしていないフリに努めた。
誌面には光と映画監督のツーショット写真が大きく載っていた。記事のタイトルは、『ハリウッドに新たなプリンセス誕生・ステイワーク監督もその魅力に夢中』
――ハリウッド界に新たなプリンセスが誕生するようだ。彼女は日本から来た、その名は光・御幸。(ファーストネームは光)キュートさとセクシーさを兼ね備えた容姿に、小柄ながら完璧なスタイル。そのため既に国内では第2のアメンダ・セーフライトとの呼び声も高い。しかしステーワーク監督が惚れ込んだのは、それに加えた彼女の聡明さだ。映画では主演を務める彼女だが、スタッフ陣は人生の半分を日本で過ごしている彼女の為に英語のレッスンを予定していた。しかし彼女の英語力は既にネイティブと遜色ないレベルであり、英語の講師を務めるはずだったビル・ブラウン氏は彼女に会えなかったことを嘆いている。なんと彼女は英語だけでなく、イタリア語やロシア語にも造詣が深いと言うから驚きだ。彼女の驚くべきエピソードはまだある。彼女は誰よりもセリフを覚えるのが早く、アドリブにも完璧に応じるのだという。また、今作はアクションも見どころとなっていて、彼女はただひとつのシーンを除いてほぼすべてのアクションをスタントなしで挑むのだと言う。
日本人らしく慎ましく奥ゆかしい印象の彼女だが、その瞳には見る者を魅了する凛とした力強さがある。監督は彼女を起用するに当って、彼女が所属する日本の芸能プロダクションにこれまで10回以上のラブコールを送ったという。彼女は既に母国で揺るぎない人気と地位を確立しており、その若さからは想像もできないほど洗練されている。…
英語はまだ慣れていないから、長文を読むと疲れる。とにかく、光を絶賛している記事だというのはわかった。
「旦那様。今日お買い物をするんですけど、何か必要なものはございますか?」
エレナが明るい声で切り出した。母親のことで大変な時なのに、気丈な子だ。
「…そうだな…あ、ケーブル」
「あ…、それは、奥様から伺ってます。」
「…じゃあ…湿布。いつものやつ」
「それも、伺ってます。」
「…じゃあ…特にないわ」
「そうですか。」
エレナは可笑しそうに笑って、メモを閉じてポケットに入れた。
「買い物って、どこ行くの?」
「マーケットです。駅からシャトルバスが出ています。食材に、えーと、ドラッグストア、ウエア、ホームストア…なんでもあります。」
「へー…」
そういや…インナーのスペア買い足したいな。
「それ、俺も行っていい?車出すからさ。」
「え?そんな、私一人で大丈夫です。」
「いや、インナー欲しいんだ。店の場所も知りたいし…車なら荷物運ぶのも楽だろ?」
「で…でも…そんなご親切…」
「そんな大げさな。今日俺、午後オフだからさ。2時頃帰るから、店の場所教えてよ。」
「わ…わかりました!」
なんだか使命感を宿したエレナの面持ちが可笑しくて、俺は笑いながら立ち上がった。
「じゃ、行ってきます。」
***
午後マンションに帰り、エレナを載せて車でマンションを出た。
「十字路に出たら、左に曲がって、真っ直ぐです。」
「おう」
エレナの案内で、マーケットまで車で15分ほどで着いた。
「近いんだな。駅まで行ってシャトルだと遠回りじゃないか?」
「でも、シャトルは無料なんです。」
「ああ、そうなんだ。」
まあ…車が無いと仕方ないか。
広いマーケット内を回って、必要な物や食料を買って、俺たちは3時ごろマンションに帰ってきた。
エレナは買ってきた食材を早速下処理し始める。筋を取ったり、芽を取ったり、棒を刺したり、茹でたり、調味料を塗したり、液に漬けたりするのだ。
「これなに?」
「これは冷凍して、あとでベーコンに包んで焼くととっても美味しいですよ。」
「へー。こっちは?この野菜見たことないな」
「日本にはありませんでしたか?これは瓜の仲間で…」
ガチャン、と玄関が開いた。俺もエレナも驚いて振り返る。
「足元、気を付けて。掴まってください。」
「う、うん…ごめん」
小声で話しながらリビングへ入ってきたのは、光と周防だった。光は片足首を包帯と添え木で固定され、周防に支えられるようにして立っている。
「光!?その怪我…」
駆け寄って肩を支えようとしたが、すでにしっかりと周防が支えていた。
「アクションシーンの撮影で失敗しちゃって…」
光が苦笑すると、隣の周防が口を開いた。
「足首の骨にヒビが。3週間は安静にしてください。」
「…アクションシーンって…そんなに危険なのか?」
「リハーサルでは成功してたの。本番でちょっとタイミングがずれちゃっただけだよ。」
「今回の怪我は、放り投げられた仮定で飛び込み台から飛び降り、受け身を取るシーンです。」
「飛び降り…って」
そ…そんなことしてたのか!?日本では恋愛ドラマの出演が多かったから、アクションなんてほとんどやったことないくせに…。
「そんな危ないこと…無茶するなよ!」
「無茶ではありません。」
光よりも先に、周防が静かに言い切った。
「光さんは完璧にできます。」
「……。」
な…なんだこいつ…。
唖然とする俺をよそに、周防は光を寝室に連れていった。俺も後を追って寝室へ入る。
「今夜はくれぐれも安静に。」
「うん。」
「明日は10時にお迎えに上がります。」
「そんな怪我で撮影続けるのかよ?」
黙っていられずに口を挟むと、周防がじっと俺を見上げた。
「アクションシーンの撮影は順延します。明日は衣装合わせと打ち合わせがありますので。」
「……。」
忙しいのはわかるけど…。
「それでは、失礼します。」
頷いた光を確認して、周防は帰っていった。光は上着を脱ぎ、シャツのボタンを外し始める。俺はイスにかかっているルームウエアを取って光に渡した。
「痛むか?」
「痛み止め貰ったから、大丈夫。」
そう言いながらシャツを脱いだ光。下着姿の彼女から目を逸らそうとして、留めた。その白い肌にたくさんの痣があったからだ。
「おい…痣だらけじゃねーか!」
両肩を掴んだ俺に、光はびっくりしたように目を丸くした。
「だ…大丈夫だよ。」
「何が大丈夫だよ!どんな撮影してんだよ…」
「見た目ほど痛くないし…このくらい皆怪我してるよ。」
「……。」
もうやめろよ、と、つい言いかけた。光が怪我するなんて…耐えられない。
光は俺の手を離させてスウェットを着た。
「それより…一也さんは今日はどうしたの?」
「俺は今日、午後オフだったから…エレナと買い物に行ってたんだよ。スポーツ用品店の場所も知りたかったし」
「…そう。」
光は呟いて、ベッドに入った。
「私、ちょっと仮眠とる。」
「…夕食前に起こすよ。」
「うん…おやすみ」
なんだか素っ気ない。普段の彼女なら…抱き着いてきたり、キスをねだったり…するのに。光があっけなく布団にもぐってしまって、こちらから触れるタイミングも逃してしまった。胸の奥に靄が広がる。帰ってきたとき、彼女を抱きしめたかった。
リビングに戻ると、エレナが心配そうにこちらを振り向いた。夕食の準備を始めたらしい。
「夕食の時間まで仮眠とるってさ。」
「そうですか…。」
エレナは親身に頷いて、朗らかに笑った。
「だけど、久しぶりに奥様と食事ができますね。」
その言葉で、俺は、そういえばそうだ、と胸の靄が少し晴れた。
俺のスマホが鳴って、料理を始めるエレナを横目にスマホをもってベランダへと出た。着信の相手は…珍しい。光臣だ。
「もしもし?」
『よう。調子はどうだ?』
なんだか機嫌がいい。
「普通だよ。お前は?なんか声が嬉しそうだけど」
『フッ…そうだな、例えるなら…信長を討つ前夜の、秀吉の気分というべきか。』
「はあ…?」
『まあ、調子は最高といったところだ。』
「よくわかんねーけど…その様子じゃ、牧瀬の紹介は上手くいったのか?」
『ああ、あの晩は…最悪だったよ』
「…はあ!?うまくいかなかったってことか?」
『父と祖父の脳みそは超合金製らしいな。打っても打ってもキズひとつつかない。司は電話で光と話したそうだが、聞いてないのか?』
「……。」
光とはほとんど会えてない…とは言いづらいな。
『まさかまた問題発生か?』
「またっていうな。こっちはいろいろ忙しいんだよ。」
『ハリウッド女優とメジャーリーガーだものな。大体想像はつくさ。あんなに嫌っていた使用人も雇ったそうじゃないか?』
「別に嫌ってたわけじゃ…。それに誰か雇わないと家事が回んねーんだよ。お前みたいにおやつタイムの紅茶を入れてもらってるわけじゃねーの。」
『これは心外だな。俺だって身の丈にあった数の使用人を雇っているつもりだが?』
「そーかよ」
『それより。雇ったのは…若い女なんだろう?』
なんだか含みを持った言い方に、俺は顔が引きつった。
「なんか嫌な言い方だな…光のひとつ下の女の子だよ。」
『美人か?』
「なんでそんなこと聞くんだよ。関係ないだろ」
『はぐらかすとかえって怪しいぞ。関係ないなら正直に言えるはずだ』
…ホンット、腹立つくらい口が上手い奴…。
「…まあ、可愛い感じだよ。」
『フッ…そうか。』
「なんだよその含み笑いは。言っとくけど俺はやましいことは何もないからな。エレナは光とも仲良いし…」
『エレナというのか。親しげな呼び方だな。』
「……。」
な、なんで後ろめたくなってんだ、俺。
「…敬称付けるのも変だろ、なんか…」
『別にダメとは言ってないぞ。』
「じゃあ何が言いたいんだよ?」
『そうだな、一つ忠告をしておこう。』
「…なんだよ?」
『メイドに手を出すのは絶対にやめた方がいいぞ。』
「…お前な…。俺の話聞いてた?」
『絶対に後悔するぞ。教師と生徒よりもまずい。主従関係は一生ついて回るからな…どんなに壊れても。』
「…ご忠告どうも。超的外れだけど。」
『そうかな。』
フッ、と小さく笑うような吐息が聞こえる。
『お前は禁止されればされるほど、燃える男だと思うが。』
「…人を何だと思ってんだ」
たしかに、試合で相手の裏をかくのは好きだけど。者には限度ってもんがある。その境界線が分からないくらい愚かではないつもりだし、そもそもエレナをそんな目で見るなんて想像もつかない。俺は光しか考えられないし、今だってこんなに、彼女に触れたくて仕方がないのに。
『おっと…急用だ。それじゃ、またな。』
「…はいはい、じゃな」
スマホをポケットに突っ込んだ。相変わらず何か含みを残す言い方をする…。何もかも俺はわかっているぞとでもいうような。だけど…牧瀬を父親と祖父母に紹介して、うまくいかなかったような口ぶりだったのに…あいつ、なんか楽しそうだったな。どうしてだ…?牧瀬が大変な状況なら、それを聞いた光が黙っているとも思えないし、俺は何も聞いてないから、牧瀬は落ち着いている状況なんだろうけど…。わけがわからない。
すっきりしないままリビングに戻ると、エレナはまだ夕食を作っていた。時間も早いし、少し素振りでもしようと考えて、着替えを取りに寝室へ向かう。ドアをあけて中に入ると、ベッドにはすやすやと眠る光。胸がギュッと苦しくなる。本当は脆いところもあるのに…外ではあんな痣だらけになって頑張っていたのかと思うと胸が痛い。雑誌では何でもできる完璧超人かのように書かれ、周防のような奴には期待を抱かれ…。また、無理をしてるんじゃないだろうか。辛い、って言ってくれたら…俺にだけでも言ってくれたら、もうこんな無茶なことはやめろと言えるのに。こんなに綺麗な彼女を、ずっと安全な場所で、いっそ閉じ込めてしまいたい…なんて思ってるのは…きっと世界中で俺だけだ。
じっと見ていると、手が吸い寄せられるように頬を撫でたくなってしまう。なあ…、めちゃくちゃな我儘を言ってくれよ。俺に抱き着いて、傍に居てって…ずっと抱きしめてって、強請ってくれよ。そうしたら俺、なんだってできる気がするんだよ…。
…お前じゃなきゃ、駄目なんだ。なんて…我儘なのは俺の方だな。
ぐっとこらえて、Tシャツを引っ掴んで部屋を出た。光が遠く感じた。
「久しぶりだな。」
そこに座った人物に、俺も微笑を返した。
「お久しぶりです。クリス先輩」
クリス先輩は既にメジャーで活躍する選手だ。来シーズンからは実際に試合で当たることになる。
「メジャーデビュー、おめでとう。」
「はは…、まだ、スタート地点ですよ。試合で会うのが楽しみです。」
「俺もだ。」
この人に勝てたら…自分の中で、ものすごい自信につながる。それ以前に、戦えると思っただけで…今から武者震いがしてくるほどだ。
しばらく野球の話で盛り上がったあと、クリス先輩は2杯目のコーヒーを飲みながら言った。
「嫁さんもすごいな。ハリウッドだろ?」
「あ…、はい。俺より忙しそうですよ。」
「そうか。2人で過ごせる時間はちゃんとあるのか?」
「まあ…、なんとか、やってます。」
苦笑を浮かべると、クリス先輩に心の中を見透かされた気分になった。
「そうか…。」
「はい。」
「……。」
「……?」
…なんだか気まずそうに目を伏せるクリス先輩。
「…なんすか?」
「いや…、…すまないが、頼みがあって」
「頼み?」
クリス先輩が、俺に?
「何ですか?」
「これなんだが…」
持っていた紙袋を、どさっ、とテーブルに置くクリス先輩。促されて中を見ると、クリス先輩のチームのユニフォームが何着も入っている。
「え?…何ですかコレ?」
3回目の質問。クリス先輩は済まなさそうに頬を掻いて苦笑した。
「俺のチームメイトがな…。御幸光のサインが欲しいと、頼まれてしまって。迷惑じゃなければ…」
…御幸光。その名前はなんだか聞き慣れない。日本にいた頃、芸名は玉城のままだったからだ。だけどハリウッドをきっかけに、御幸性にすると言っていたっけ。そのおかげでこっちでは、御幸光という名前の方が知られているらしい。
「わ、わかりました。聞いてみます。」
「すまないな。」
それからクリス先輩は時計を見て、そろそろ行くよ、と立ち上がった。俺もそろそろ行かなければ。
「今日はありがとう。じゃあ、またな。」
「はい。また。」
握手をして別れた。次に会うのが楽しみだ。
***
夜マンションに帰ると、いつも通りエレナが夕食を作っていた。
「おかえりなさいませ!」
「ただいま。」
光は…やっぱりまだ帰ってないみたいだな。少し残念に思いながら、わかっていたことだろ、と自分に言い聞かせる。着替えてリビングに戻ると、エレナが食卓に食事を用意していた。
「いただきます。」
席につき、いつも通りひとりの食事をする。エレナはキッチンを片付け始める。
すると俺のスマホに着信があり、俺はポケットからそれを取り出した。画面に映る名前は『周防』。…この名前を見ると反射的に気分が沈む。
「はい、御幸」
『周防です。』
愛想はないが礼儀正しい声が返ってくる。
『今日も撮影が長引き、今から打ち合わせが始まるので、帰宅は昨日と同じくらいになるかと思われます。』
「…わかった。食事は?とれてるのか?」
『打ち合わせをしながらの食事になります。』
「そうか…」
『何か伝えましょうか。』
「いや…大丈夫。連絡ありがとう。」
『恐れ入ります。それでは、失礼します。』
電話が切れると、エレナがこちらを窺うように見つめていることに気付いた。
「奥様…今日も遅くなりそうですか?」
「ああ。」
短く答えて、食事を続ける。今頃、光も食事か…。仕事をしながらだから、ゆっくりとはいかないだろうな。
無理してなきゃいいけど…。…いや、よくはない。忙しくなるのは覚悟してた。今まで通りにはいかなくなる事も。だけど…こんなに会えないなんて。
「奥様のお食事…どうしましょうか?」
「片づけていいよ。食べてくるみたいだから」
沈んだ気持ちのまま答えて、しまった、と思った。エレナからしたら、せっかく作ったのにと思うだろう。
「では…」
「あ…待って。エレナは?夕食、どうしてるんだ?」
「私ですか?病院のストアーで…」
「なら、ここで食べていけよ。」
「ええ!?そ、そういうわけには!」
「いいから、ほら。一人で食べんのも味気ないし、捨てるのも勿体ないだろ。」
「……。」
既に光の為に盛り付けてあった食事をテーブルに移し、席に促すと、エレナは恐縮しきりに席に着いた。
「な、なんだか…申し訳ないです」
「気にするなよ。エレナが作ったんだからさ。美味いぞ。って、俺が言うのも変だけど。」
「…ふふっ」
エレナが少し笑って、俺は安堵した。そしてフォークを持ち、いただきます、と彼女は食事に手を伸ばした。
***
翌朝目が覚めて、隣を見て、ついため息を吐いた。そこに光がいなかったからだ。
「奥様、昨日急に撮りなおしが必要になって、今日からまたお出かけが早くなるそうです。」
「そうなんだ。」
ニュース誌をチェックしながら朝食を食べつつ相槌を打つ。エレナは俺の機嫌を窺うように心配そうな表情でコーヒーを置きに来たが、俺は気にしていないフリに努めた。
誌面には光と映画監督のツーショット写真が大きく載っていた。記事のタイトルは、『ハリウッドに新たなプリンセス誕生・ステイワーク監督もその魅力に夢中』
――ハリウッド界に新たなプリンセスが誕生するようだ。彼女は日本から来た、その名は光・御幸。(ファーストネームは光)キュートさとセクシーさを兼ね備えた容姿に、小柄ながら完璧なスタイル。そのため既に国内では第2のアメンダ・セーフライトとの呼び声も高い。しかしステーワーク監督が惚れ込んだのは、それに加えた彼女の聡明さだ。映画では主演を務める彼女だが、スタッフ陣は人生の半分を日本で過ごしている彼女の為に英語のレッスンを予定していた。しかし彼女の英語力は既にネイティブと遜色ないレベルであり、英語の講師を務めるはずだったビル・ブラウン氏は彼女に会えなかったことを嘆いている。なんと彼女は英語だけでなく、イタリア語やロシア語にも造詣が深いと言うから驚きだ。彼女の驚くべきエピソードはまだある。彼女は誰よりもセリフを覚えるのが早く、アドリブにも完璧に応じるのだという。また、今作はアクションも見どころとなっていて、彼女はただひとつのシーンを除いてほぼすべてのアクションをスタントなしで挑むのだと言う。
日本人らしく慎ましく奥ゆかしい印象の彼女だが、その瞳には見る者を魅了する凛とした力強さがある。監督は彼女を起用するに当って、彼女が所属する日本の芸能プロダクションにこれまで10回以上のラブコールを送ったという。彼女は既に母国で揺るぎない人気と地位を確立しており、その若さからは想像もできないほど洗練されている。…
英語はまだ慣れていないから、長文を読むと疲れる。とにかく、光を絶賛している記事だというのはわかった。
「旦那様。今日お買い物をするんですけど、何か必要なものはございますか?」
エレナが明るい声で切り出した。母親のことで大変な時なのに、気丈な子だ。
「…そうだな…あ、ケーブル」
「あ…、それは、奥様から伺ってます。」
「…じゃあ…湿布。いつものやつ」
「それも、伺ってます。」
「…じゃあ…特にないわ」
「そうですか。」
エレナは可笑しそうに笑って、メモを閉じてポケットに入れた。
「買い物って、どこ行くの?」
「マーケットです。駅からシャトルバスが出ています。食材に、えーと、ドラッグストア、ウエア、ホームストア…なんでもあります。」
「へー…」
そういや…インナーのスペア買い足したいな。
「それ、俺も行っていい?車出すからさ。」
「え?そんな、私一人で大丈夫です。」
「いや、インナー欲しいんだ。店の場所も知りたいし…車なら荷物運ぶのも楽だろ?」
「で…でも…そんなご親切…」
「そんな大げさな。今日俺、午後オフだからさ。2時頃帰るから、店の場所教えてよ。」
「わ…わかりました!」
なんだか使命感を宿したエレナの面持ちが可笑しくて、俺は笑いながら立ち上がった。
「じゃ、行ってきます。」
***
午後マンションに帰り、エレナを載せて車でマンションを出た。
「十字路に出たら、左に曲がって、真っ直ぐです。」
「おう」
エレナの案内で、マーケットまで車で15分ほどで着いた。
「近いんだな。駅まで行ってシャトルだと遠回りじゃないか?」
「でも、シャトルは無料なんです。」
「ああ、そうなんだ。」
まあ…車が無いと仕方ないか。
広いマーケット内を回って、必要な物や食料を買って、俺たちは3時ごろマンションに帰ってきた。
エレナは買ってきた食材を早速下処理し始める。筋を取ったり、芽を取ったり、棒を刺したり、茹でたり、調味料を塗したり、液に漬けたりするのだ。
「これなに?」
「これは冷凍して、あとでベーコンに包んで焼くととっても美味しいですよ。」
「へー。こっちは?この野菜見たことないな」
「日本にはありませんでしたか?これは瓜の仲間で…」
ガチャン、と玄関が開いた。俺もエレナも驚いて振り返る。
「足元、気を付けて。掴まってください。」
「う、うん…ごめん」
小声で話しながらリビングへ入ってきたのは、光と周防だった。光は片足首を包帯と添え木で固定され、周防に支えられるようにして立っている。
「光!?その怪我…」
駆け寄って肩を支えようとしたが、すでにしっかりと周防が支えていた。
「アクションシーンの撮影で失敗しちゃって…」
光が苦笑すると、隣の周防が口を開いた。
「足首の骨にヒビが。3週間は安静にしてください。」
「…アクションシーンって…そんなに危険なのか?」
「リハーサルでは成功してたの。本番でちょっとタイミングがずれちゃっただけだよ。」
「今回の怪我は、放り投げられた仮定で飛び込み台から飛び降り、受け身を取るシーンです。」
「飛び降り…って」
そ…そんなことしてたのか!?日本では恋愛ドラマの出演が多かったから、アクションなんてほとんどやったことないくせに…。
「そんな危ないこと…無茶するなよ!」
「無茶ではありません。」
光よりも先に、周防が静かに言い切った。
「光さんは完璧にできます。」
「……。」
な…なんだこいつ…。
唖然とする俺をよそに、周防は光を寝室に連れていった。俺も後を追って寝室へ入る。
「今夜はくれぐれも安静に。」
「うん。」
「明日は10時にお迎えに上がります。」
「そんな怪我で撮影続けるのかよ?」
黙っていられずに口を挟むと、周防がじっと俺を見上げた。
「アクションシーンの撮影は順延します。明日は衣装合わせと打ち合わせがありますので。」
「……。」
忙しいのはわかるけど…。
「それでは、失礼します。」
頷いた光を確認して、周防は帰っていった。光は上着を脱ぎ、シャツのボタンを外し始める。俺はイスにかかっているルームウエアを取って光に渡した。
「痛むか?」
「痛み止め貰ったから、大丈夫。」
そう言いながらシャツを脱いだ光。下着姿の彼女から目を逸らそうとして、留めた。その白い肌にたくさんの痣があったからだ。
「おい…痣だらけじゃねーか!」
両肩を掴んだ俺に、光はびっくりしたように目を丸くした。
「だ…大丈夫だよ。」
「何が大丈夫だよ!どんな撮影してんだよ…」
「見た目ほど痛くないし…このくらい皆怪我してるよ。」
「……。」
もうやめろよ、と、つい言いかけた。光が怪我するなんて…耐えられない。
光は俺の手を離させてスウェットを着た。
「それより…一也さんは今日はどうしたの?」
「俺は今日、午後オフだったから…エレナと買い物に行ってたんだよ。スポーツ用品店の場所も知りたかったし」
「…そう。」
光は呟いて、ベッドに入った。
「私、ちょっと仮眠とる。」
「…夕食前に起こすよ。」
「うん…おやすみ」
なんだか素っ気ない。普段の彼女なら…抱き着いてきたり、キスをねだったり…するのに。光があっけなく布団にもぐってしまって、こちらから触れるタイミングも逃してしまった。胸の奥に靄が広がる。帰ってきたとき、彼女を抱きしめたかった。
リビングに戻ると、エレナが心配そうにこちらを振り向いた。夕食の準備を始めたらしい。
「夕食の時間まで仮眠とるってさ。」
「そうですか…。」
エレナは親身に頷いて、朗らかに笑った。
「だけど、久しぶりに奥様と食事ができますね。」
その言葉で、俺は、そういえばそうだ、と胸の靄が少し晴れた。
俺のスマホが鳴って、料理を始めるエレナを横目にスマホをもってベランダへと出た。着信の相手は…珍しい。光臣だ。
「もしもし?」
『よう。調子はどうだ?』
なんだか機嫌がいい。
「普通だよ。お前は?なんか声が嬉しそうだけど」
『フッ…そうだな、例えるなら…信長を討つ前夜の、秀吉の気分というべきか。』
「はあ…?」
『まあ、調子は最高といったところだ。』
「よくわかんねーけど…その様子じゃ、牧瀬の紹介は上手くいったのか?」
『ああ、あの晩は…最悪だったよ』
「…はあ!?うまくいかなかったってことか?」
『父と祖父の脳みそは超合金製らしいな。打っても打ってもキズひとつつかない。司は電話で光と話したそうだが、聞いてないのか?』
「……。」
光とはほとんど会えてない…とは言いづらいな。
『まさかまた問題発生か?』
「またっていうな。こっちはいろいろ忙しいんだよ。」
『ハリウッド女優とメジャーリーガーだものな。大体想像はつくさ。あんなに嫌っていた使用人も雇ったそうじゃないか?』
「別に嫌ってたわけじゃ…。それに誰か雇わないと家事が回んねーんだよ。お前みたいにおやつタイムの紅茶を入れてもらってるわけじゃねーの。」
『これは心外だな。俺だって身の丈にあった数の使用人を雇っているつもりだが?』
「そーかよ」
『それより。雇ったのは…若い女なんだろう?』
なんだか含みを持った言い方に、俺は顔が引きつった。
「なんか嫌な言い方だな…光のひとつ下の女の子だよ。」
『美人か?』
「なんでそんなこと聞くんだよ。関係ないだろ」
『はぐらかすとかえって怪しいぞ。関係ないなら正直に言えるはずだ』
…ホンット、腹立つくらい口が上手い奴…。
「…まあ、可愛い感じだよ。」
『フッ…そうか。』
「なんだよその含み笑いは。言っとくけど俺はやましいことは何もないからな。エレナは光とも仲良いし…」
『エレナというのか。親しげな呼び方だな。』
「……。」
な、なんで後ろめたくなってんだ、俺。
「…敬称付けるのも変だろ、なんか…」
『別にダメとは言ってないぞ。』
「じゃあ何が言いたいんだよ?」
『そうだな、一つ忠告をしておこう。』
「…なんだよ?」
『メイドに手を出すのは絶対にやめた方がいいぞ。』
「…お前な…。俺の話聞いてた?」
『絶対に後悔するぞ。教師と生徒よりもまずい。主従関係は一生ついて回るからな…どんなに壊れても。』
「…ご忠告どうも。超的外れだけど。」
『そうかな。』
フッ、と小さく笑うような吐息が聞こえる。
『お前は禁止されればされるほど、燃える男だと思うが。』
「…人を何だと思ってんだ」
たしかに、試合で相手の裏をかくのは好きだけど。者には限度ってもんがある。その境界線が分からないくらい愚かではないつもりだし、そもそもエレナをそんな目で見るなんて想像もつかない。俺は光しか考えられないし、今だってこんなに、彼女に触れたくて仕方がないのに。
『おっと…急用だ。それじゃ、またな。』
「…はいはい、じゃな」
スマホをポケットに突っ込んだ。相変わらず何か含みを残す言い方をする…。何もかも俺はわかっているぞとでもいうような。だけど…牧瀬を父親と祖父母に紹介して、うまくいかなかったような口ぶりだったのに…あいつ、なんか楽しそうだったな。どうしてだ…?牧瀬が大変な状況なら、それを聞いた光が黙っているとも思えないし、俺は何も聞いてないから、牧瀬は落ち着いている状況なんだろうけど…。わけがわからない。
すっきりしないままリビングに戻ると、エレナはまだ夕食を作っていた。時間も早いし、少し素振りでもしようと考えて、着替えを取りに寝室へ向かう。ドアをあけて中に入ると、ベッドにはすやすやと眠る光。胸がギュッと苦しくなる。本当は脆いところもあるのに…外ではあんな痣だらけになって頑張っていたのかと思うと胸が痛い。雑誌では何でもできる完璧超人かのように書かれ、周防のような奴には期待を抱かれ…。また、無理をしてるんじゃないだろうか。辛い、って言ってくれたら…俺にだけでも言ってくれたら、もうこんな無茶なことはやめろと言えるのに。こんなに綺麗な彼女を、ずっと安全な場所で、いっそ閉じ込めてしまいたい…なんて思ってるのは…きっと世界中で俺だけだ。
じっと見ていると、手が吸い寄せられるように頬を撫でたくなってしまう。なあ…、めちゃくちゃな我儘を言ってくれよ。俺に抱き着いて、傍に居てって…ずっと抱きしめてって、強請ってくれよ。そうしたら俺、なんだってできる気がするんだよ…。
…お前じゃなきゃ、駄目なんだ。なんて…我儘なのは俺の方だな。
ぐっとこらえて、Tシャツを引っ掴んで部屋を出た。光が遠く感じた。