252
「申し訳ございません。またご一緒していただいてしまって…」
エレナが両手に荷物を抱えてすまなさそうに言う。
「いや、俺が白飯食いたいなんて言ったからさ。米は重いし、車じゃないと無理だろ。」
「確かに…これを持って駅から歩くのは、無理ですね。」
エレナはそう笑って、食事の用意を始めた。
「少し遅くなってしまいました。すぐ用意します。」
「いいよ、ゆっくりで。俺素振りでもしてるから」
そう答えながらバットを持ちベランダへ出ようとしたとき、エレナの携帯電話が鳴った。
すみませんと言いながら電話に出たエレナは、なんだか神妙な顔で、それからすぐに青ざめた。
『……ええっ!?…そんな…。……は…はい。…はい…。』
呆然とした顔で電話を切って、立ち尽くす彼女に不穏なものを感じる。
「…何かあったのか?」
「……は…母が…。…容体が、急変したって…」
それって…。
「な…何してるんだよ。仕事はいいから、はやく病院に!」
「えっ…で、でも…」
「いいから!ああでもタクシー呼ぶのも遅くなるな…俺が送るよ、ほら行くぞ!」
「えっ!?だ、旦那様…」
エレナを引っ張って車に乗せ、エンジンをかける。
「病院はどこ?」
「し、市立病院です…」
「市立病院ね…」
車を走らせると、エレナはだんだん実感がわいてきたように目に涙をにじませ、祈るように俯いた。
***
エレナを病院に送ってマンションに戻ってくると、すでに時間は深夜を回ろうとしていた。リビングに入ると、そこに見えるキッチンには出しっぱなしの食材が散乱していて、俺は少し呆然としたまま、とりあえずトマトを冷蔵庫に仕舞った。
部屋の中は静かだ。そういえば…光はまだ帰ってないのか?今日は周防からも何も連絡は来てない…よな。スマホを取り出して画面をつけるも、着信履歴もメールもない。おかしいな…帰る予定はいつも夜8時で、それが過ぎたときは必ず連絡が来てたのに。まさか何かあったんじゃ…。
そう考えているうちに、目の前で画面の数字がすべてゼロになった。日付が変わり、画面が暗くなる。黒くなった画面に触れて、発信履歴から光の名を選んだ。呼び出し音が鳴り、俺はじっと立ったまま耳を澄ます。…出ない。次に周防にもかけてみたが、結果は同じだった。
胸がざわつく。本当に何かあったのか?それとも…俺に怒っているのか?昨日、俺を遠ざけるように、周防に車いすを押させた光を思い出す。俺が押そうとしたのを、きっと気付かなかったんだ。それだけだ。…そう思おうとしたけど、やっぱり、昨日の光はどこか様子がおかしかったように思えた。俺が気づかなかっただけで、何かあったのかもしれない…。どうして気付けなかったんだ。光…まさか、帰ってこないつもりなんじゃ…。
気が付けば電話をかけてから20分近く経っていた。どうしよう…日本にいた頃なら、光が行く場所の目安も大体ついたけど…ここじゃ全くわからない。まだ仕事中なのか?それとも、どこかのホテル?まさか…周防の家?
光…どこへ行ったんだよ…。
ガチャン、と鍵が開く音がした。俺ははじかれたように顔を上げた。
「明日は10時に迎えに来ます。」
「うん。おやすみなさい。」
玄関で声がして、一人は帰っていったらしい。少しして、松葉杖をついた光がゆっくりと歩いてやって来た。
光は俺を見て、何もかも出しっぱなしのキッチンを見て、また俺を見た。
「…どうしたの?」
俺もキッチンをもう一度見てから、光を見た。
「病院から連絡が来て…エレナの母親の容体が急変して、エレナを病院に送って来たんだよ。」
「……。」
深刻そうに息を飲んで俯く光。
「それより…お前はどうしたんだよ。」
「……。」
自分の声に怒りが滲んでいて、俺自身驚いた。
「…仕事の話をしてて…遅くなったの」
「連絡もできなかったのか?」
「……。」
「…心配したんだぞ。なんで電話に出なかったんだよ。」
「…サイレントになってて気づかなかったの」
「周防にもかけたんだぞ。」
「…運転中…だったから」
どうして光を責めてるんだろう。…不思議な気分だ。考えていることと、口に出る言葉が…全く違う。
「…わざとだろ?」
「…え?」
「わざと連絡しなかったんだろ。」
「…なんでそんなこと言うの?」
「昨日から俺のこと避けてるだろ。だから…」
「……。」
「なんで怒ってんだよ?機嫌悪くすんのは勝手だけど…遅くなるなら連絡くらいしてくれ。」
「……。」
光は黙り込む。いつもこうだ。黙り込んで塞ぎ込んで…何を言っても返ってこない。うんざりしてため息を吐くと、小さな声がかすかに返ってきた。
「……くせに」
「え?」
「私の帰りが遅いことなんて…気付いてなかったくせに」
光は目に涙をためて俺を睨んだ。
「なんだよそれ…俺は電話しただろ!?」
「ついさっきじゃない。それに今までだって…周防君が連絡するまで、一也さんがかけてきたこともない。」
「な…前のことは今話してないだろ!」
「私にとっては同じ話なの!どうせ…エレナと楽しく過ごしてて、私のことなんて気付かなかったんでしょ」
「は…はぁ!?何言ってんだよ!?」
「本当のことでしょ!」
「俺が浮気してるって言うのかよ!エレナと!」
「知るわけないでしょ。私はいなかったんだから」
「お前な…いい加減にしろよ!」
光の目から涙が一粒落ちたけど、俺は構わず続けた。
「エレナは今大変な時なんだぞ!母親が危篤で…それでも働き手が自分だけだからって、毎日仕事に来てくれてる。浮気だなんだって…くだらないこと言ってる場合じゃねーだろ!」
「……。」
ぽろぽろと涙をこぼす光。
「…そんなこと……わかってる」
「……。」
「……だから…言いたくなかったの」
「…え?」
「こんな…っ、こんなこと…っ、言ったら…っ…わたし、」
「……。」
「すごく……嫌な人間になっちゃう……っう…」
光は涙を隠すように俯いて、左手を目元にあてた。その拍子に松葉杖が一つ倒れ、光が拾おうとするより先に俺が拾い、手渡した。光は少し迷って杖を受け取ったが、すぐに逃げるように踵を返した。
「光、危ないから…」
「…触らないで!」
寝室まで行くのを手伝おうとすると、肩を竦めて避けられた。
寝室のドアが閉まる音がして、俺は、倒れるようにソファに座り込んだ。
***
ソファで朝を迎えた。気分は最悪だ。スマホで時間を確認しようとすると、エレナから電話が入っていた。電話が来ていたのは20分ほど前。今は朝の8時半。いつもは8時に来て朝食の用意をしているはずだが、部屋の中にエレナはいなかった。キッチンも昨日のままだ。俺はエレナに電話をかけなおしてみることにした。
数回のコールのあと、エレナは電話に出た。
『はい、エレナです』
「あ…悪い、電話今気づいたんだ。何かあったのか?」
『旦那様。申し訳ございません…実は、母の容体が思わしくなくて…ここ数日が峠だと言われたんです。だから…』
「…そっか。そういうことなら、今日は来なくていいよ。母親の傍に居てあげて。」
『申し訳ございません…。』
「気にしなくていいから。お母さん…よくなるといいな。」
『はい、ありがとうございます。』
「それじゃ。」
電話を切り、キッチンを振り返る。…とりあえず、片付けるか。朝食は…適当に作ろう。光はまだ起きてないのか…それとももう家を出たのか。寝室へ行って確かめるのも気が進まない。
キッチンを片付け終え、トーストとオムレツを作っていると、ドアの開閉音と足音が聞こえた。視線を上げてリビングを見ると、パジャマ姿の光が歩いて来て、部屋の中を見渡していた。
「エレナなら今日は休みだよ。」
聞かれる前にそう言うと、光は俺を見た。
「…昨日そう言ってたの?」
「いや。今、電話で」
「……。」
光はちょっと口を噤んで、不満気に呟いた。
「…一也さんのところに来たんだ、連絡」
「…どういう意味だよ?どっちに連絡したっていいだろ、別に」
「ダメなんて…言ってないし」
機嫌は最悪らしい。俺もだ。一度喧嘩が始まると長引くから、本当にうんざりする。
イライラしながらも食パンをもう一枚切ろうと手に取ると、光はスマホをいじりながらキッチンの横を通り、バスルームへ向かう途中で言った。
「私の分はいいよ。」
思わず天井を仰いでため息を吐く。ほんと…ただやみくもに不満をぶつけて、肝心な本音は言わない。すぐに拗ねるし、不満を口にしないくせにずっと腹の中に抱え込んで。俺が気づいてやらないとすぐに不機嫌になる。どうしろってんだよ。俺は超能力者じゃないんだぞ。
その点エレナは…母親があんなことになって辛いだろうに、ここに来ている間はいつも明るく努めていて、光よりもはるかに大人だ。こっちまで明るい気分になれるし、助けてやりたい。母親のこと…いい方向に行けばいいけど。
俺が食卓で朝食を食べ始める頃、光はバスルームから出てきて寝室へ行き、服を着替えてリビングに戻ってきた。そしてしばらくすると玄関のインターフォンが鳴り、光が立ち上がる。
「…おい、何か言えよ」
黙って玄関へ向かう背中に声をかけると、小さく声が返ってきた。
「…行ってきます」
「帰りは?」
「まだわからない。」
それだけ言って、松葉杖で玄関へ向かう。
「おはようございます。今日はBスタジオなので、車いすで行きましょう」
「うん。」
ドアが開く音のあと、周防の声がした。しばらく物音がしてから、玄関のドアが閉まる。出かけたようだ。
ああ、むしゃくしゃする。
***
『来月そっちに行こうと思うんだが、少し時間とれるか?』
休憩時間に光臣から電話が来て、そんなことを言われた。
「来月って…いつ頃?」
『それはそちらに合わせる。』
「…どうかな。俺は大丈夫だけど…あいつは忙しいみたいだし」
『なんだ?また喧嘩してるのか?』
「だから…またって言うな。」
あっさり言い当てられて、急に自分がガキっぽく思えた。
「つーか、あっちが勝手に不機嫌になってるだけだから」
そう言うと、それも完全に子供の言い訳みたいで…俺ってダサい。
『そうか。それはお前が悪いな。』
「…は!?なんでだよ」
『男だから』
「……。」
い…意味わかんねえ…。
『そういうものだ。男女間の喧嘩は全て男が悪いのさ。どんなに理不尽でもな。』
「なんだそれ…」
『それで、光はなぜ怒ってるんだ?』
「知らねーよ」
『知らないはずないだろ。心当たりくらいはあるはずだ』
ほんと、こいつと話してると…身ぐるみはがされてる気分。
「…あいつ、俺がエレナと浮気してるとでも思ってんだよ。」
『してるのか?』
「なわけねーだろ。」
『じゃあなぜそんな誤解をされてるんだ。』
「知るかよ。俺は普通に接してただけだ。」
『普通に、ねぇ。』
…なんか含みのある言い方だな。
「…何だよ?」
『一緒に買い物に行ったり、帰りが遅い妻を忘れて楽しくお喋りするのが普通…か。』
「はぁ!?…忘れてなんかねえよ。つーか…なんでそんなこと、お前が…」
『司から聞いた。』
つーことは…光が電話で牧瀬に話したのか。
『浮気だな。』
「なんでだよ。」
『だから言ったのに。メイドに手を出すのはまずい、と。』
「だから、出してねーって。」
『妻よりも優先した時点で、アウトだと思うが。』
「優先なんて…」
そんなつもりはなかった。けど…
「…エレナは今大変な時なんだよ。母親が倒れて入院してて…危篤状態らしい。父親はいないから、仕事もしなきゃならなくて…」
『…ふうん。危篤状態…ね。』
光臣は静かに呟いた。
『まあ…あくまで雇用関係だという事は忘れるなよ。連絡の優先順位は守らせることだな。』
「え?」
『契約時の話では、仕事の連絡はまず光にすることになってるはずだろ。』
そんなことまで話してんのかよ…。そう辟易したとき、着信のキャッチ音が入った。
「御忠告どうも。キャッチ入ったから切るぞ。」
『ああ、どういたしまして。それじゃあ。』
電話を切り、画面を見ると、かけてきているのはエレナだった。…噂をすれば、ということなのだろうか。
「はい、御幸です。」
『旦那様。すみません、お忙しいのに。』
「ちょうど休憩中だよ。どうした?」
今日は休むという連絡は既に貰っている。もしかして母親に何かあったのだろうか…。
『あの…明日の朝、少し遅れても大丈夫でしょうか。』
「明日の朝?…何時頃になる?」
『ええと…遅くとも、10時には…。』
10時…か。俺はともかく、それだと光は朝食を食べられない。…俺が作るか。またいらないって言われそうだけど。
「いいけど…何かあったのか?」
『あ、えっと…明日の朝、母が検査をするので』
「検査?」
危篤状態なのに…?いや…でも、心臓が悪いとは聞いたけど、俺はよくわからないし…。
「…そうなんだ。わかった。」
『申し訳ありません。』
「いいよ、大丈夫。」
その時、光臣の言葉が頭をよぎって、俺は頭を掻いた。
「…光には連絡した?」
『あ…。』
電話の向こうで、エレナの煮え切らない声が返ってくる。
『いえ…まだ…。』
「…そう。一応さ、連絡は光にってことになってるだろ。今回は俺から伝えとくけど…次からは光に連絡してくれる?」
『…は…はい。』
エレナは気が進まない様子でそう言って、言葉を続けた。
『…あの…私、なんだか、奥様に…あまり、好かれてないような気がして。』
「え?」
『こ、こんなことを言って…すみません。…それでつい、旦那様に連絡するようになってしまって…すみません。』
エレナと光は普通に仲はいいと思っていたけど…。…もしかして、光の奴…エレナにもやつあたりしたのか?俺だけならまだしも、辛い状況にいるエレナにまで?そこまで幼稚な奴じゃないと思ってたけど…。
「…そんなことないと思うけど、まぁ、一応連絡だけはそうしてくれ。悪いな。」
『い、いえ、こちらこそ、すみません。では…』
「うん、じゃあ。」
電話が切れると、思わず息を吐き出した。…光に伝えなきゃ…だよな。あー、気が重い。
時計を見上げると、休憩時間もあと少し。…さっさと連絡しちまうか。気がかりを残したくない。
発信履歴から光を選んで電話をかけた。…出なかったら周防に伝えておけばいいか。…出ないな。マジで出ない。くそ、わざとか…?いや、撮影中なのかもしれないし。…よし、周防に電話するかな…
『…はい。』
で…出た。機嫌悪そうだな。
「俺だけど…少しいい?」
『少しなら』
素っ気ないってレベルじゃねーぞ。また俺のとこに連絡が来たって知ったらますます怒るんじゃ…。
『あ、ちょっと待って。』
声が遠ざかって、英語の短い会話が聞こえた。…忙しそうだな。
『…ごめん。何?』
「…今さ…エレナから連絡が来て…」
『……。』
「明日の朝、母親の検査で少し遅れるって…。朝食間に合わないから、俺が作るよ。」
『……。』
「あと…次からは、連絡は光にしてって言っておいたから。」
『……そう。』
…そう、って。どういう反応なんだ?
『朝は私が用意するからいい。』
「え、でも…」
『呼ばれたから行かなきゃ。じゃあね』
プツン。電話が切れた。…俺ももう休憩終わるし、行かないと。
『一也、忙しそうだな。何か問題でも?』
チームメイトが気さくにそう声をかけてきた。俺はスマホをバッグに放り込み、頭を振った。
『問題ないよ。』
エレナが両手に荷物を抱えてすまなさそうに言う。
「いや、俺が白飯食いたいなんて言ったからさ。米は重いし、車じゃないと無理だろ。」
「確かに…これを持って駅から歩くのは、無理ですね。」
エレナはそう笑って、食事の用意を始めた。
「少し遅くなってしまいました。すぐ用意します。」
「いいよ、ゆっくりで。俺素振りでもしてるから」
そう答えながらバットを持ちベランダへ出ようとしたとき、エレナの携帯電話が鳴った。
すみませんと言いながら電話に出たエレナは、なんだか神妙な顔で、それからすぐに青ざめた。
『……ええっ!?…そんな…。……は…はい。…はい…。』
呆然とした顔で電話を切って、立ち尽くす彼女に不穏なものを感じる。
「…何かあったのか?」
「……は…母が…。…容体が、急変したって…」
それって…。
「な…何してるんだよ。仕事はいいから、はやく病院に!」
「えっ…で、でも…」
「いいから!ああでもタクシー呼ぶのも遅くなるな…俺が送るよ、ほら行くぞ!」
「えっ!?だ、旦那様…」
エレナを引っ張って車に乗せ、エンジンをかける。
「病院はどこ?」
「し、市立病院です…」
「市立病院ね…」
車を走らせると、エレナはだんだん実感がわいてきたように目に涙をにじませ、祈るように俯いた。
***
エレナを病院に送ってマンションに戻ってくると、すでに時間は深夜を回ろうとしていた。リビングに入ると、そこに見えるキッチンには出しっぱなしの食材が散乱していて、俺は少し呆然としたまま、とりあえずトマトを冷蔵庫に仕舞った。
部屋の中は静かだ。そういえば…光はまだ帰ってないのか?今日は周防からも何も連絡は来てない…よな。スマホを取り出して画面をつけるも、着信履歴もメールもない。おかしいな…帰る予定はいつも夜8時で、それが過ぎたときは必ず連絡が来てたのに。まさか何かあったんじゃ…。
そう考えているうちに、目の前で画面の数字がすべてゼロになった。日付が変わり、画面が暗くなる。黒くなった画面に触れて、発信履歴から光の名を選んだ。呼び出し音が鳴り、俺はじっと立ったまま耳を澄ます。…出ない。次に周防にもかけてみたが、結果は同じだった。
胸がざわつく。本当に何かあったのか?それとも…俺に怒っているのか?昨日、俺を遠ざけるように、周防に車いすを押させた光を思い出す。俺が押そうとしたのを、きっと気付かなかったんだ。それだけだ。…そう思おうとしたけど、やっぱり、昨日の光はどこか様子がおかしかったように思えた。俺が気づかなかっただけで、何かあったのかもしれない…。どうして気付けなかったんだ。光…まさか、帰ってこないつもりなんじゃ…。
気が付けば電話をかけてから20分近く経っていた。どうしよう…日本にいた頃なら、光が行く場所の目安も大体ついたけど…ここじゃ全くわからない。まだ仕事中なのか?それとも、どこかのホテル?まさか…周防の家?
光…どこへ行ったんだよ…。
ガチャン、と鍵が開く音がした。俺ははじかれたように顔を上げた。
「明日は10時に迎えに来ます。」
「うん。おやすみなさい。」
玄関で声がして、一人は帰っていったらしい。少しして、松葉杖をついた光がゆっくりと歩いてやって来た。
光は俺を見て、何もかも出しっぱなしのキッチンを見て、また俺を見た。
「…どうしたの?」
俺もキッチンをもう一度見てから、光を見た。
「病院から連絡が来て…エレナの母親の容体が急変して、エレナを病院に送って来たんだよ。」
「……。」
深刻そうに息を飲んで俯く光。
「それより…お前はどうしたんだよ。」
「……。」
自分の声に怒りが滲んでいて、俺自身驚いた。
「…仕事の話をしてて…遅くなったの」
「連絡もできなかったのか?」
「……。」
「…心配したんだぞ。なんで電話に出なかったんだよ。」
「…サイレントになってて気づかなかったの」
「周防にもかけたんだぞ。」
「…運転中…だったから」
どうして光を責めてるんだろう。…不思議な気分だ。考えていることと、口に出る言葉が…全く違う。
「…わざとだろ?」
「…え?」
「わざと連絡しなかったんだろ。」
「…なんでそんなこと言うの?」
「昨日から俺のこと避けてるだろ。だから…」
「……。」
「なんで怒ってんだよ?機嫌悪くすんのは勝手だけど…遅くなるなら連絡くらいしてくれ。」
「……。」
光は黙り込む。いつもこうだ。黙り込んで塞ぎ込んで…何を言っても返ってこない。うんざりしてため息を吐くと、小さな声がかすかに返ってきた。
「……くせに」
「え?」
「私の帰りが遅いことなんて…気付いてなかったくせに」
光は目に涙をためて俺を睨んだ。
「なんだよそれ…俺は電話しただろ!?」
「ついさっきじゃない。それに今までだって…周防君が連絡するまで、一也さんがかけてきたこともない。」
「な…前のことは今話してないだろ!」
「私にとっては同じ話なの!どうせ…エレナと楽しく過ごしてて、私のことなんて気付かなかったんでしょ」
「は…はぁ!?何言ってんだよ!?」
「本当のことでしょ!」
「俺が浮気してるって言うのかよ!エレナと!」
「知るわけないでしょ。私はいなかったんだから」
「お前な…いい加減にしろよ!」
光の目から涙が一粒落ちたけど、俺は構わず続けた。
「エレナは今大変な時なんだぞ!母親が危篤で…それでも働き手が自分だけだからって、毎日仕事に来てくれてる。浮気だなんだって…くだらないこと言ってる場合じゃねーだろ!」
「……。」
ぽろぽろと涙をこぼす光。
「…そんなこと……わかってる」
「……。」
「……だから…言いたくなかったの」
「…え?」
「こんな…っ、こんなこと…っ、言ったら…っ…わたし、」
「……。」
「すごく……嫌な人間になっちゃう……っう…」
光は涙を隠すように俯いて、左手を目元にあてた。その拍子に松葉杖が一つ倒れ、光が拾おうとするより先に俺が拾い、手渡した。光は少し迷って杖を受け取ったが、すぐに逃げるように踵を返した。
「光、危ないから…」
「…触らないで!」
寝室まで行くのを手伝おうとすると、肩を竦めて避けられた。
寝室のドアが閉まる音がして、俺は、倒れるようにソファに座り込んだ。
***
ソファで朝を迎えた。気分は最悪だ。スマホで時間を確認しようとすると、エレナから電話が入っていた。電話が来ていたのは20分ほど前。今は朝の8時半。いつもは8時に来て朝食の用意をしているはずだが、部屋の中にエレナはいなかった。キッチンも昨日のままだ。俺はエレナに電話をかけなおしてみることにした。
数回のコールのあと、エレナは電話に出た。
『はい、エレナです』
「あ…悪い、電話今気づいたんだ。何かあったのか?」
『旦那様。申し訳ございません…実は、母の容体が思わしくなくて…ここ数日が峠だと言われたんです。だから…』
「…そっか。そういうことなら、今日は来なくていいよ。母親の傍に居てあげて。」
『申し訳ございません…。』
「気にしなくていいから。お母さん…よくなるといいな。」
『はい、ありがとうございます。』
「それじゃ。」
電話を切り、キッチンを振り返る。…とりあえず、片付けるか。朝食は…適当に作ろう。光はまだ起きてないのか…それとももう家を出たのか。寝室へ行って確かめるのも気が進まない。
キッチンを片付け終え、トーストとオムレツを作っていると、ドアの開閉音と足音が聞こえた。視線を上げてリビングを見ると、パジャマ姿の光が歩いて来て、部屋の中を見渡していた。
「エレナなら今日は休みだよ。」
聞かれる前にそう言うと、光は俺を見た。
「…昨日そう言ってたの?」
「いや。今、電話で」
「……。」
光はちょっと口を噤んで、不満気に呟いた。
「…一也さんのところに来たんだ、連絡」
「…どういう意味だよ?どっちに連絡したっていいだろ、別に」
「ダメなんて…言ってないし」
機嫌は最悪らしい。俺もだ。一度喧嘩が始まると長引くから、本当にうんざりする。
イライラしながらも食パンをもう一枚切ろうと手に取ると、光はスマホをいじりながらキッチンの横を通り、バスルームへ向かう途中で言った。
「私の分はいいよ。」
思わず天井を仰いでため息を吐く。ほんと…ただやみくもに不満をぶつけて、肝心な本音は言わない。すぐに拗ねるし、不満を口にしないくせにずっと腹の中に抱え込んで。俺が気づいてやらないとすぐに不機嫌になる。どうしろってんだよ。俺は超能力者じゃないんだぞ。
その点エレナは…母親があんなことになって辛いだろうに、ここに来ている間はいつも明るく努めていて、光よりもはるかに大人だ。こっちまで明るい気分になれるし、助けてやりたい。母親のこと…いい方向に行けばいいけど。
俺が食卓で朝食を食べ始める頃、光はバスルームから出てきて寝室へ行き、服を着替えてリビングに戻ってきた。そしてしばらくすると玄関のインターフォンが鳴り、光が立ち上がる。
「…おい、何か言えよ」
黙って玄関へ向かう背中に声をかけると、小さく声が返ってきた。
「…行ってきます」
「帰りは?」
「まだわからない。」
それだけ言って、松葉杖で玄関へ向かう。
「おはようございます。今日はBスタジオなので、車いすで行きましょう」
「うん。」
ドアが開く音のあと、周防の声がした。しばらく物音がしてから、玄関のドアが閉まる。出かけたようだ。
ああ、むしゃくしゃする。
***
『来月そっちに行こうと思うんだが、少し時間とれるか?』
休憩時間に光臣から電話が来て、そんなことを言われた。
「来月って…いつ頃?」
『それはそちらに合わせる。』
「…どうかな。俺は大丈夫だけど…あいつは忙しいみたいだし」
『なんだ?また喧嘩してるのか?』
「だから…またって言うな。」
あっさり言い当てられて、急に自分がガキっぽく思えた。
「つーか、あっちが勝手に不機嫌になってるだけだから」
そう言うと、それも完全に子供の言い訳みたいで…俺ってダサい。
『そうか。それはお前が悪いな。』
「…は!?なんでだよ」
『男だから』
「……。」
い…意味わかんねえ…。
『そういうものだ。男女間の喧嘩は全て男が悪いのさ。どんなに理不尽でもな。』
「なんだそれ…」
『それで、光はなぜ怒ってるんだ?』
「知らねーよ」
『知らないはずないだろ。心当たりくらいはあるはずだ』
ほんと、こいつと話してると…身ぐるみはがされてる気分。
「…あいつ、俺がエレナと浮気してるとでも思ってんだよ。」
『してるのか?』
「なわけねーだろ。」
『じゃあなぜそんな誤解をされてるんだ。』
「知るかよ。俺は普通に接してただけだ。」
『普通に、ねぇ。』
…なんか含みのある言い方だな。
「…何だよ?」
『一緒に買い物に行ったり、帰りが遅い妻を忘れて楽しくお喋りするのが普通…か。』
「はぁ!?…忘れてなんかねえよ。つーか…なんでそんなこと、お前が…」
『司から聞いた。』
つーことは…光が電話で牧瀬に話したのか。
『浮気だな。』
「なんでだよ。」
『だから言ったのに。メイドに手を出すのはまずい、と。』
「だから、出してねーって。」
『妻よりも優先した時点で、アウトだと思うが。』
「優先なんて…」
そんなつもりはなかった。けど…
「…エレナは今大変な時なんだよ。母親が倒れて入院してて…危篤状態らしい。父親はいないから、仕事もしなきゃならなくて…」
『…ふうん。危篤状態…ね。』
光臣は静かに呟いた。
『まあ…あくまで雇用関係だという事は忘れるなよ。連絡の優先順位は守らせることだな。』
「え?」
『契約時の話では、仕事の連絡はまず光にすることになってるはずだろ。』
そんなことまで話してんのかよ…。そう辟易したとき、着信のキャッチ音が入った。
「御忠告どうも。キャッチ入ったから切るぞ。」
『ああ、どういたしまして。それじゃあ。』
電話を切り、画面を見ると、かけてきているのはエレナだった。…噂をすれば、ということなのだろうか。
「はい、御幸です。」
『旦那様。すみません、お忙しいのに。』
「ちょうど休憩中だよ。どうした?」
今日は休むという連絡は既に貰っている。もしかして母親に何かあったのだろうか…。
『あの…明日の朝、少し遅れても大丈夫でしょうか。』
「明日の朝?…何時頃になる?」
『ええと…遅くとも、10時には…。』
10時…か。俺はともかく、それだと光は朝食を食べられない。…俺が作るか。またいらないって言われそうだけど。
「いいけど…何かあったのか?」
『あ、えっと…明日の朝、母が検査をするので』
「検査?」
危篤状態なのに…?いや…でも、心臓が悪いとは聞いたけど、俺はよくわからないし…。
「…そうなんだ。わかった。」
『申し訳ありません。』
「いいよ、大丈夫。」
その時、光臣の言葉が頭をよぎって、俺は頭を掻いた。
「…光には連絡した?」
『あ…。』
電話の向こうで、エレナの煮え切らない声が返ってくる。
『いえ…まだ…。』
「…そう。一応さ、連絡は光にってことになってるだろ。今回は俺から伝えとくけど…次からは光に連絡してくれる?」
『…は…はい。』
エレナは気が進まない様子でそう言って、言葉を続けた。
『…あの…私、なんだか、奥様に…あまり、好かれてないような気がして。』
「え?」
『こ、こんなことを言って…すみません。…それでつい、旦那様に連絡するようになってしまって…すみません。』
エレナと光は普通に仲はいいと思っていたけど…。…もしかして、光の奴…エレナにもやつあたりしたのか?俺だけならまだしも、辛い状況にいるエレナにまで?そこまで幼稚な奴じゃないと思ってたけど…。
「…そんなことないと思うけど、まぁ、一応連絡だけはそうしてくれ。悪いな。」
『い、いえ、こちらこそ、すみません。では…』
「うん、じゃあ。」
電話が切れると、思わず息を吐き出した。…光に伝えなきゃ…だよな。あー、気が重い。
時計を見上げると、休憩時間もあと少し。…さっさと連絡しちまうか。気がかりを残したくない。
発信履歴から光を選んで電話をかけた。…出なかったら周防に伝えておけばいいか。…出ないな。マジで出ない。くそ、わざとか…?いや、撮影中なのかもしれないし。…よし、周防に電話するかな…
『…はい。』
で…出た。機嫌悪そうだな。
「俺だけど…少しいい?」
『少しなら』
素っ気ないってレベルじゃねーぞ。また俺のとこに連絡が来たって知ったらますます怒るんじゃ…。
『あ、ちょっと待って。』
声が遠ざかって、英語の短い会話が聞こえた。…忙しそうだな。
『…ごめん。何?』
「…今さ…エレナから連絡が来て…」
『……。』
「明日の朝、母親の検査で少し遅れるって…。朝食間に合わないから、俺が作るよ。」
『……。』
「あと…次からは、連絡は光にしてって言っておいたから。」
『……そう。』
…そう、って。どういう反応なんだ?
『朝は私が用意するからいい。』
「え、でも…」
『呼ばれたから行かなきゃ。じゃあね』
プツン。電話が切れた。…俺ももう休憩終わるし、行かないと。
『一也、忙しそうだな。何か問題でも?』
チームメイトが気さくにそう声をかけてきた。俺はスマホをバッグに放り込み、頭を振った。
『問題ないよ。』