253
朝目が覚めたら、キッチンで朝食を作る光の姿があった。なんだか懐かしい気分だ。ふたりきりの朝…。光が作る朝食のいいにおいを感じながら、幸せな気分で目覚める。…今は冷戦状態だから、そういうわけにもいかないけど。
光はちょっと俺を見て、またフライパンに視線を戻した。あ〜、案の定まだ怒ってる。普段あまり怒らないけど、一度怒るとほんと長いんだよな、こいつ…。一也さんおはよう、って抱き着いて来て、キスしてくれる毎日に戻りたい…。
「おはよ。」
バスルームに行く途中声をかけた。
「…おはよう。」
こちらを見もせず低い声が返ってくる。…まあ、無視されなかっただけましだ。顔を洗ってすっきりとしない気持ちで鏡を見た。なんか調子が出ない。俺、昔から光には振り回されっぱなしだな。
はあ…。ただでさえ最近あんまり会えてないのに喧嘩なんて…きつい。
リビングに戻ると、光が料理をテーブルに並べていた。大麦パンの目玉焼きのせトースト、具だくさんのポトフ、トマトサラダ、ヨーグルト。向かい側の席には、ポトフとヨーグルトだけ。光は少食だ。毎朝こんなに作るのも俺の為。いや、朝だけじゃない。エレナを雇う前は3食きちんと作ってくれていた。喧嘩をしても、どんなに忙しくても。今だって…。
「…いただきます。」
向かい合って座って、ポトフを一口食べる。美味しい。いつも通り。なのに…すごく胸が苦しい。
「…光、ごめん。」
俺は降参するみたいにそう呟いた。光は不思議そうに俺を見た。
「エレナのこと、俺も母親を亡くしてるから…気持ちがわかるような気がして。同調しすぎてたと思う。」
「……。」
「…光臣に言われて、気付いた。俺、無神経だったよな。」
「……。」
光は顔を隠すように俯いた。
「お前と喧嘩してんの、まじで精神的にキツいから…仲直りしたいんだけど」
「……。」
「許してくれる?」
光は涙を零して、こくり、と頷いた。思わずため息を吐く。安堵のため息だ。
すると光が立ち上がって、どうしたのかと口を開けたまま見ている俺の傍に来て、手を伸ばしてきた。そのまま甘えるように抱き着いてきた光を、胸の奥から感情が溢れだしそうなまま抱きとめる。俺の膝の上に跨って、さっきまでの態度が嘘みたいに肩口に顔を埋めて。やっぱ、怒ってるときって…意地を張って強がってるだけなんだな。俺も光も本当は、お互いのことがどうしようもなく好きなんだ。だから気持ちが通じないとイライラするし、よそ見をされると腹も立つ。そう思うと、いつも…喧嘩の原因はどちらかのヤキモチだったかも。
「一也さん…」
「ん?」
「……ごめんなさい」
おお…光が謝った。ちょっと大人になったな。…なんて。
「大好き…」
「…おぉ、やけに素直だな…」
「どこにも行かないで」
「はっはっは。甘えん坊モードだな〜」
「…わるい?」
「いや?可愛いから大歓迎。」
ぎゅう、と俺にしがみつく腕の力が強まった。可愛いなぁ。喧嘩して、素直になれないところも…。
エレナに周防…急に生活の中に新しく人が入ってきて、落ち着けなかった反動もあるのかもな。今まではずっと、牧瀬に倉持、そして光臣。同じ奴らとばかりつるんで…家族みたいだったから。
「光、ちょっと離して。」
「…やだ」
「お願い。キスしたいから」
「……。」
ちょっと照れたような、でも口を尖らせた泣き顔のままで、光は体を離した。その涙を拭って、頬を包んで、キスをした。…はあ、やっぱ、最高。
「やっぱお前とチューしないと調子でねえな〜」
「……何それ…。」
照れた顔を隠すようにまた俺に抱き着く光。
「光。続きは飯食ってからにしない?」
「……。」
俺の提案に同意してくれたらしく、光はゆっくりと離れて席に戻った。
「つーかこのポトフ、超美味い」
「…ほんと?」
「ほんと。やっぱ光の作るご飯が一番好き」
「……。」
嬉しそうにはにかむ光。簡単なことだった。素直に気持ちを言葉にするだけで、光のこんなに可愛い笑顔が見れるのに。光臣の言う通りなのかもな…。俺がちゃんと言葉にしなきゃだめだ。
食事を終え、久しぶりに光も少し時間に余裕があるからと、日本に住んでいたころのように一緒に食器を片付けて、食後のコーヒーを飲んだ。ちょっと日本に帰りたくなってしまったけど…きっとそうじゃない。俺たち次第で、俺たちの毎日はもっと良くなるはずだ。
「光、時間大丈夫か?」
「あ、もうすぐ周防君が来る。着替えてくるね」
「うん。」
光が寝室へいき、俺は二人分のマグカップをキッチンで洗っていた。その時、玄関が開いて誰かが入ってきた。誰か、というか、家の鍵を預けている人物は他に一人しかいない。
「お、おはようございます!遅くなってすみませんでした!」
「エレナ。おはよう。もう朝食は済んだから平気だよ。」
すみません、とまた頭を下げて、エレナはいつものエプロンを付けた。
「今朝は大丈夫だったのか?」
今朝は母親の検査だと聞いた。何日か前に、ここ数日が峠だと言われたと言っていたけど…状態は良くなったのだろうか。
「えっ?あ、はい!」
エレナはいつも通り元気よく頷いた。その反応に違和感を感じたが、すぐにエレナが表情を曇らせて何か話したそうにしたから、ついそっちに気を取られてしまった。
「あの…旦那様。」
「ん?」
マグカップを拭きながら振り返る。エレナは浮かない顔で切り出した。
「あの…本当に、本当に申し訳ないんですけど…明日の朝も、少し遅れてもいいでしょうか。」
「え…」
「す、すみません。母が手術をすることになって…その、説明を受けるときに付き添ってあげたくて」
…元々エレナは朝5時からの契約だった。光が朝早く家を出ることが多くなるから、6時に光の朝食、8時に俺の朝食を作ってもらう予定だった。それを光と一度話し合って、朝7時半からの契約に変更している。光の早朝の撮影が終わったことと、エレナが遠い病院から通うことを考慮したのだ。結局光はまだ時々不定期に早朝出かけていくけど、基本的には7時半に来たエレナが8時半に二人分の朝食を用意することになっている。
事情が事情だから責めたくはないけど、こうも何度も遅刻されては契約の意味がなくなってしまう。
「…まあ、そういう事情なら仕方ないけど…」
そう言いかけた時、光がリビングにやって来た。
「どうしたの?」
エレナが驚いた様子で振り返る。
「お、奥様…?」
エレナは時計を見上げ、また光を見た。いつもなら光はとっくに出かけているはずだからだろう。けど…それにしては驚きすぎな気もする。
「どうかしたの?」
光はそんなエレナの様子には構わずに俺に尋ねた。
「エレナが、明日もお母さんのことで遅くなるんだってさ。明日の朝食は俺が作るよ。」
「お母さんの具合、よくないの?」
光はエレナに視線を移した。エレナは少しうつ向いたまま頷く。
「はい、あの、…手術をすることになって」
「手術って?」
「母は、心臓が弱いんです。」
「心臓の…手術?」
「はい。」
光は少し考えるようにエレナを見つめた。…なんだ?
「病気…なの?」
「…生まれつきで」
「生まれつき?」
「…原因は不明なんです」
「そう…。」
光はそう相槌を打って、口を噤んだ。けれどその様子には同情も哀れみもなく、本当にただ相槌を打っただけだった。
「それなら、もう一度契約を見直す?」
「え?」
「朝は忙しいみたいだから、夜だけの契約にしてもいいし。できるだけ家に出入りする人は少なくしたかったけど、朝は別の人を探すから」
「そ、そんな…」
「エレナ、最初は朝5時に来てくれる人を探してたの。あなたはその条件で応募してきたはずだよね?状況が変わったのはわかるから、契約も見直した。でも、それも難しいんでしょう?」
「で…ですが…お仕事が夜だけになってしまうと…」
その分収入も減る。エレナにとっては大問題だ。彼女の家には今、彼女しか収入源がないのだから。
「それなら日中、もっと条件のいい仕事を探した方がいいと思う。朝来てくれる人がいないと私たちも困るの。大変なのはわかるけど…できない仕事にお金は払えない。」
「……。」
「お…おい、光。そんな風に言わなくても…」
エレナが救いを求めるような目で俺を見て、光はそんな彼女を一瞥した後、俺を見上げる。う…肩身が狭い。
「一也さん…」
怒られるか拗ねられるかと思ったら、光は少し悲し気な目をした。
その時インターフォンが鳴って、周防が来たらしいことに気付く。光は時間を確認して、俺とエレナを見渡した。
「この話はまた後で。エレナ、考えておいてね。」
「…はい。」
行ってきます、と光は部屋を出て行く。…怒ってるわけじゃなさそうだけど…。
「…やっぱり」
エレナが俯いて悲しそうに呟いた。
「やっぱり…私…奥様に嫌われてるのかも…」
「え…いや、そういうわけじゃ」
まあ…冷たいかもしれないけど、間違ったこと言ってるわけじゃないしなぁ…。
「…まぁ、いい方法を考えてみようぜ。エレナも無理なく働けた方がいいだろ?」
「……。」
「俺もそろそろ行かないといけないから、また後で話そう。じゃあ、あとよろしくな」
「は…はい!」
行ってらっしゃいませ、とエレナに見送られ、考えると言っても途方のない気分になる。使用人なんて雇うのは初めてだし…できれば雇いたくなかったくらいなんだ、俺は。家の中に他人がいるのは落ち着かないし…光とイチャイチャできないし。でも俺も光も忙しくて家事に手が回らないから、仕方なく…。
こういうことってどうするのがいいんだろう。エレナは可哀そうだと思うけど、光の言うことは正論だと思う。光は幼い頃から使用人がいる家で生活してきたから、光が正しいのかもしれないけど…。やっぱり、こういうことに詳しいあいつに聞いてみるか。
***
『光が正しいな。』
「…そう言うと思ったよ」
……やっぱりな。
『それより、その様子だと光と仲直りできたみたいだな。』
「当たり前だろ。今まで何回喧嘩してきたと思ってんだ。」
『数えきれないくらいかな。』
「……。」
『フッ…伊達ではなかったようだな。まだ喧嘩中だと聞いたら、倉持洋一にでも告げ口しようかと思っていたが。』
「な…なんで倉持が出てくるんだよ。」
『君が光を悲しませていると知ったら、アメリカにまででも駆けつけそうじゃないか。』
「…冗談…」
…冗談じゃない。やりかねないから恐ろしい。せっかく、木崎さんに目を逸らし始められたところなのに。
『そうだな。冗談は置いておこう。』
「……。」
『それで、エレナのことだったか。』
「ああ」
『俺は光の言う通り、彼女自身が他に割のいい仕事を見つけるしかないと思うぞ。』
「それはわかるけどさ…」
『知り合いで条件の合いそうな使用人を探している者はいないのか?』
「いねーよ…」
『そうか。だが、彼女はなぜそこまでして君たちの家に仕えたいのだろうな?』
「しらねーけど…他の所を探すのも不安なんじゃねーの?」
『……。』
「病院暮らしで母親の看病して大変だろうし…」
『ところで、その母親の病気の診断書は見たのか?』
「え?」
なんでそんな疑うような真似…
「見てねーけど…」
『病名や状態も知らないのか?』
「光が聞いたら、生まれつき原因不明で心臓が弱いって…今度手術することになったって言ってたけど」
『光はそれを聞いて何と?』
「…普通に、へぇそう、って感じ。朝が忙しいなら契約を見直そうって、その時言ったんだよ。」
『ふうん…』
「一理あるけどさ、母親が危篤状態のエレナにとっては酷な話だよな。もう少し落ち着いてからでも…」
『…大体わかった。』
「え?何が?」
『お前たちの今の状況だ。』
また何か心を読まれた気分…。
『君は元々なぜ昔の貴族が使用人を雇っていたかわかるか?』
「え…。…権力の象徴?」
『それもあるが、もう一つの理由は、人々に仕事を与えるためだ。』
「……。」
『貴族はその地で経済を回し、土地を豊かに治める義務がある。ただ贅沢をして暮らしているわけではないのだよ。仕事がない者や、貧しい家の者が、名のある貴族の元で働くのは、その者が地位を高めるチャンスにもなる。』
「……。」
『だからもちろん貴族の使用人となるのは大変な名誉で、希望者はあとを絶えない。そのため、より熱心で優秀な者が求められるわけだ。貴族の名声がそのまま自分の評価につながり、逆もまた然り。使用人たちは主人のために働き、その権力によって守ってもらうわけだ。』
「…それが、うちの話と何の関係があるんだよ?」
『失礼。君が使用人の雇い方をよく知らないようだったからな。』
「…?」
『エレナが可哀そうだからと言って、彼女の要望を飲んでしまったら、光の言う通り、働いてもいないのにただ金を渡しているだけだ。そんなものはただの施しだ。それは雇い主がすることではない。国や慈善団体の仕事だ。』
「……。」
『診断書が下り、働けない状況で収入もないとわかれば補助金が支給されるはず。父親がいないなら、母子家庭だろう?優先順位も高いはずだぞ。まずは診断書を持って来させろ。話はそれからだな。』
「診断書…って、そんな、疑うみたいな…」
『それを理由に仕事ができないと主張しているのだから、君たちの当然の権利だ。そっちでは診断書も無料だしな。だが…光がそれを言わなかったのは、優しさかもな。』
「え…?」
『悪いが、もういいか?こっちはもう深夜なんだ。睡眠時間が足りなくなる。』
「あ…、ああ、悪い。それじゃ。」
『ああ。またな。』
電話を切り、胸に靄が残る。…さて、どうするかな…。
***
「ただいま。」
「おかえりなさいませ!」
帰宅すると、エレナがいつも通りキッチンにいて拍子抜けした。明るく元気ないつものエレナだ。
「あの、旦那様。」
「ん?」
「今朝のお話のこと…。」
エレナは歩いてやってきて、神妙な顔で言った。
「あの、どうかここで働かせていただきたいんです。」
「そりゃ…俺たちもクビにするつもりはないよ。エレナは頑張ってくれてるし…」
「でも…奥様は違います。」
「そんなこと…」
「いいえ!私、嫌われてます。」
…そういう問題かなぁ、ほんとに…。
「私…奥様が怖い。」
「え…」
「申し訳ありません、こんなことを言って…。でも、旦那様はお優しいから…母のことも、親身になってくださるけど、でも…。」
お…おいおい、泣くなよ…?
「奥様は…母の病気のこと、あんなふうに言うなんて、私のこと疑ってるんです。酷い…。私…母のこと、考えただけで…辛くて…」
「お、落ち着いて。」
「私、きっとクビになります。」
「そんなことないって。」
「では…旦那様からも、奥様にお話ししていただけますか?」
「話?」
「私のこと…雇ってくださるんですよね?」
まあ…光もクビにするつもりはないんだろうし…。
「…ああ、話すよ。」
「本当ですか!?」
エレナの表情が晴れた。すっかり安堵した笑顔でエプロンを外し始める。
「よかったです…ありがとうございます。旦那様、お願いします。」
「あぁ…」
「では…食事の用意も終わったので、今日はこれで失礼します。母の検査がありますから。」
ぺこり、とお辞儀をして部屋を出て行くエレナ。色々と大変だからと、帰りは仕事が終わり次第帰っていいという事になったからだ。これを提案したのも光だった。
「ああ…お疲れ。」
エレナが帰って時計を見ると夜7時を過ぎた頃。光からの連絡はないけど…今日も遅くなるんだろうな。8時を過ぎたら電話してみよう。そう考えて、俺は食事を済ませ、風呂に入った。8時を少し過ぎた頃、そろそろ電話をしようかと思った時に、玄関が開いた。
「お疲れさまでした。明日は10時に迎えに来ます。」
「うん。お疲れ様。おやすみなさい。」
周防と光だ。周防はすぐに帰ったようだ。光がひとりでリビングにやってきて、俺を見つけて笑顔になった。
「ただいま。」
「おかえり。」
ハグ…は、なしか。けどまあ、喧嘩が終わっただけで安堵だ。光は部屋着に着替えて夕食を食べ始めた。
「光。」
「ん?」
俺もダイニングテーブルへ行って、彼女の向かい側に座った。
「エレナのことだけどさ…」
「うん」
「さっき帰り際に、頼み込まれたんだ。これまで通り雇ってほしいって。」
緊張しながらそう伝えると、光はパンにバターを塗りながら言った。
「一也さんはそれでいいと思う?」
「…よくはないけど、仕方ねーかな、って…」
…う。この真っすぐの目に俺は弱い。
「お母さんが危ないから?」
「そりゃ…精神的にもきついだろうし。」
「それは、わかるよ。」
俺も光も母親を亡くしている。原因は違うけど…その辛さは経験した。
「でもね…」
「…なんだよ?」
「あんまり、こんなこと、言いたくないんだけど…」
光はパンを食べ、また一口大にちぎりながら言った。
「…本当…なのかな、って…」
「…エレナが嘘ついてるって言うのか?」
「……。」
「俺はエレナを病院まで送って行ったんだぞ。嘘でそこまでするか?」
「わからないけど…」
「じゃあ、どうしてそう思うんだよ?」
「……都合が良すぎる気がして」
…えぇ?
「都合が良い?母親が危篤なんて嘘、最悪だろ。」
「…だから、確証はないけど…」
「もし本当だったらどうするんだよ。そんな理由であんなこと言ったのか?」
「あんなこと?」
「だから…病気のこと聞いたりしただろ。エレナ、傷ついてたぞ。」
「…だから言いたくなかったの」
「どういう意味だよ?」
「疑うことを責められたら…何も言えなくなる」
「……。」
そりゃ…そうだけど…。
「だけど…」
「ねえ、もうやめよう。一也さんは優しいから、エレナのことを庇うでしょ。でも私はエレナを信じられない。このままじゃまた喧嘩になる。一也さんと喧嘩はしたくない。」
「……。」
「エレナのことは…少し考えさせて。それまでは今まで通りでいい。明日の朝食も私が作るから。」
「え、いや、朝は俺が…」
「私が作りたいの。一也さんの食事。」
「……。」
ぐ…。やっぱ…光は愛おしい。俺だって喧嘩はしたくない。
「ごめん…。ありがとう。」
「いいえ。」
光は冗談っぽくちょっと気取ってそう答え、食事を再開した。
光はちょっと俺を見て、またフライパンに視線を戻した。あ〜、案の定まだ怒ってる。普段あまり怒らないけど、一度怒るとほんと長いんだよな、こいつ…。一也さんおはよう、って抱き着いて来て、キスしてくれる毎日に戻りたい…。
「おはよ。」
バスルームに行く途中声をかけた。
「…おはよう。」
こちらを見もせず低い声が返ってくる。…まあ、無視されなかっただけましだ。顔を洗ってすっきりとしない気持ちで鏡を見た。なんか調子が出ない。俺、昔から光には振り回されっぱなしだな。
はあ…。ただでさえ最近あんまり会えてないのに喧嘩なんて…きつい。
リビングに戻ると、光が料理をテーブルに並べていた。大麦パンの目玉焼きのせトースト、具だくさんのポトフ、トマトサラダ、ヨーグルト。向かい側の席には、ポトフとヨーグルトだけ。光は少食だ。毎朝こんなに作るのも俺の為。いや、朝だけじゃない。エレナを雇う前は3食きちんと作ってくれていた。喧嘩をしても、どんなに忙しくても。今だって…。
「…いただきます。」
向かい合って座って、ポトフを一口食べる。美味しい。いつも通り。なのに…すごく胸が苦しい。
「…光、ごめん。」
俺は降参するみたいにそう呟いた。光は不思議そうに俺を見た。
「エレナのこと、俺も母親を亡くしてるから…気持ちがわかるような気がして。同調しすぎてたと思う。」
「……。」
「…光臣に言われて、気付いた。俺、無神経だったよな。」
「……。」
光は顔を隠すように俯いた。
「お前と喧嘩してんの、まじで精神的にキツいから…仲直りしたいんだけど」
「……。」
「許してくれる?」
光は涙を零して、こくり、と頷いた。思わずため息を吐く。安堵のため息だ。
すると光が立ち上がって、どうしたのかと口を開けたまま見ている俺の傍に来て、手を伸ばしてきた。そのまま甘えるように抱き着いてきた光を、胸の奥から感情が溢れだしそうなまま抱きとめる。俺の膝の上に跨って、さっきまでの態度が嘘みたいに肩口に顔を埋めて。やっぱ、怒ってるときって…意地を張って強がってるだけなんだな。俺も光も本当は、お互いのことがどうしようもなく好きなんだ。だから気持ちが通じないとイライラするし、よそ見をされると腹も立つ。そう思うと、いつも…喧嘩の原因はどちらかのヤキモチだったかも。
「一也さん…」
「ん?」
「……ごめんなさい」
おお…光が謝った。ちょっと大人になったな。…なんて。
「大好き…」
「…おぉ、やけに素直だな…」
「どこにも行かないで」
「はっはっは。甘えん坊モードだな〜」
「…わるい?」
「いや?可愛いから大歓迎。」
ぎゅう、と俺にしがみつく腕の力が強まった。可愛いなぁ。喧嘩して、素直になれないところも…。
エレナに周防…急に生活の中に新しく人が入ってきて、落ち着けなかった反動もあるのかもな。今まではずっと、牧瀬に倉持、そして光臣。同じ奴らとばかりつるんで…家族みたいだったから。
「光、ちょっと離して。」
「…やだ」
「お願い。キスしたいから」
「……。」
ちょっと照れたような、でも口を尖らせた泣き顔のままで、光は体を離した。その涙を拭って、頬を包んで、キスをした。…はあ、やっぱ、最高。
「やっぱお前とチューしないと調子でねえな〜」
「……何それ…。」
照れた顔を隠すようにまた俺に抱き着く光。
「光。続きは飯食ってからにしない?」
「……。」
俺の提案に同意してくれたらしく、光はゆっくりと離れて席に戻った。
「つーかこのポトフ、超美味い」
「…ほんと?」
「ほんと。やっぱ光の作るご飯が一番好き」
「……。」
嬉しそうにはにかむ光。簡単なことだった。素直に気持ちを言葉にするだけで、光のこんなに可愛い笑顔が見れるのに。光臣の言う通りなのかもな…。俺がちゃんと言葉にしなきゃだめだ。
食事を終え、久しぶりに光も少し時間に余裕があるからと、日本に住んでいたころのように一緒に食器を片付けて、食後のコーヒーを飲んだ。ちょっと日本に帰りたくなってしまったけど…きっとそうじゃない。俺たち次第で、俺たちの毎日はもっと良くなるはずだ。
「光、時間大丈夫か?」
「あ、もうすぐ周防君が来る。着替えてくるね」
「うん。」
光が寝室へいき、俺は二人分のマグカップをキッチンで洗っていた。その時、玄関が開いて誰かが入ってきた。誰か、というか、家の鍵を預けている人物は他に一人しかいない。
「お、おはようございます!遅くなってすみませんでした!」
「エレナ。おはよう。もう朝食は済んだから平気だよ。」
すみません、とまた頭を下げて、エレナはいつものエプロンを付けた。
「今朝は大丈夫だったのか?」
今朝は母親の検査だと聞いた。何日か前に、ここ数日が峠だと言われたと言っていたけど…状態は良くなったのだろうか。
「えっ?あ、はい!」
エレナはいつも通り元気よく頷いた。その反応に違和感を感じたが、すぐにエレナが表情を曇らせて何か話したそうにしたから、ついそっちに気を取られてしまった。
「あの…旦那様。」
「ん?」
マグカップを拭きながら振り返る。エレナは浮かない顔で切り出した。
「あの…本当に、本当に申し訳ないんですけど…明日の朝も、少し遅れてもいいでしょうか。」
「え…」
「す、すみません。母が手術をすることになって…その、説明を受けるときに付き添ってあげたくて」
…元々エレナは朝5時からの契約だった。光が朝早く家を出ることが多くなるから、6時に光の朝食、8時に俺の朝食を作ってもらう予定だった。それを光と一度話し合って、朝7時半からの契約に変更している。光の早朝の撮影が終わったことと、エレナが遠い病院から通うことを考慮したのだ。結局光はまだ時々不定期に早朝出かけていくけど、基本的には7時半に来たエレナが8時半に二人分の朝食を用意することになっている。
事情が事情だから責めたくはないけど、こうも何度も遅刻されては契約の意味がなくなってしまう。
「…まあ、そういう事情なら仕方ないけど…」
そう言いかけた時、光がリビングにやって来た。
「どうしたの?」
エレナが驚いた様子で振り返る。
「お、奥様…?」
エレナは時計を見上げ、また光を見た。いつもなら光はとっくに出かけているはずだからだろう。けど…それにしては驚きすぎな気もする。
「どうかしたの?」
光はそんなエレナの様子には構わずに俺に尋ねた。
「エレナが、明日もお母さんのことで遅くなるんだってさ。明日の朝食は俺が作るよ。」
「お母さんの具合、よくないの?」
光はエレナに視線を移した。エレナは少しうつ向いたまま頷く。
「はい、あの、…手術をすることになって」
「手術って?」
「母は、心臓が弱いんです。」
「心臓の…手術?」
「はい。」
光は少し考えるようにエレナを見つめた。…なんだ?
「病気…なの?」
「…生まれつきで」
「生まれつき?」
「…原因は不明なんです」
「そう…。」
光はそう相槌を打って、口を噤んだ。けれどその様子には同情も哀れみもなく、本当にただ相槌を打っただけだった。
「それなら、もう一度契約を見直す?」
「え?」
「朝は忙しいみたいだから、夜だけの契約にしてもいいし。できるだけ家に出入りする人は少なくしたかったけど、朝は別の人を探すから」
「そ、そんな…」
「エレナ、最初は朝5時に来てくれる人を探してたの。あなたはその条件で応募してきたはずだよね?状況が変わったのはわかるから、契約も見直した。でも、それも難しいんでしょう?」
「で…ですが…お仕事が夜だけになってしまうと…」
その分収入も減る。エレナにとっては大問題だ。彼女の家には今、彼女しか収入源がないのだから。
「それなら日中、もっと条件のいい仕事を探した方がいいと思う。朝来てくれる人がいないと私たちも困るの。大変なのはわかるけど…できない仕事にお金は払えない。」
「……。」
「お…おい、光。そんな風に言わなくても…」
エレナが救いを求めるような目で俺を見て、光はそんな彼女を一瞥した後、俺を見上げる。う…肩身が狭い。
「一也さん…」
怒られるか拗ねられるかと思ったら、光は少し悲し気な目をした。
その時インターフォンが鳴って、周防が来たらしいことに気付く。光は時間を確認して、俺とエレナを見渡した。
「この話はまた後で。エレナ、考えておいてね。」
「…はい。」
行ってきます、と光は部屋を出て行く。…怒ってるわけじゃなさそうだけど…。
「…やっぱり」
エレナが俯いて悲しそうに呟いた。
「やっぱり…私…奥様に嫌われてるのかも…」
「え…いや、そういうわけじゃ」
まあ…冷たいかもしれないけど、間違ったこと言ってるわけじゃないしなぁ…。
「…まぁ、いい方法を考えてみようぜ。エレナも無理なく働けた方がいいだろ?」
「……。」
「俺もそろそろ行かないといけないから、また後で話そう。じゃあ、あとよろしくな」
「は…はい!」
行ってらっしゃいませ、とエレナに見送られ、考えると言っても途方のない気分になる。使用人なんて雇うのは初めてだし…できれば雇いたくなかったくらいなんだ、俺は。家の中に他人がいるのは落ち着かないし…光とイチャイチャできないし。でも俺も光も忙しくて家事に手が回らないから、仕方なく…。
こういうことってどうするのがいいんだろう。エレナは可哀そうだと思うけど、光の言うことは正論だと思う。光は幼い頃から使用人がいる家で生活してきたから、光が正しいのかもしれないけど…。やっぱり、こういうことに詳しいあいつに聞いてみるか。
***
『光が正しいな。』
「…そう言うと思ったよ」
……やっぱりな。
『それより、その様子だと光と仲直りできたみたいだな。』
「当たり前だろ。今まで何回喧嘩してきたと思ってんだ。」
『数えきれないくらいかな。』
「……。」
『フッ…伊達ではなかったようだな。まだ喧嘩中だと聞いたら、倉持洋一にでも告げ口しようかと思っていたが。』
「な…なんで倉持が出てくるんだよ。」
『君が光を悲しませていると知ったら、アメリカにまででも駆けつけそうじゃないか。』
「…冗談…」
…冗談じゃない。やりかねないから恐ろしい。せっかく、木崎さんに目を逸らし始められたところなのに。
『そうだな。冗談は置いておこう。』
「……。」
『それで、エレナのことだったか。』
「ああ」
『俺は光の言う通り、彼女自身が他に割のいい仕事を見つけるしかないと思うぞ。』
「それはわかるけどさ…」
『知り合いで条件の合いそうな使用人を探している者はいないのか?』
「いねーよ…」
『そうか。だが、彼女はなぜそこまでして君たちの家に仕えたいのだろうな?』
「しらねーけど…他の所を探すのも不安なんじゃねーの?」
『……。』
「病院暮らしで母親の看病して大変だろうし…」
『ところで、その母親の病気の診断書は見たのか?』
「え?」
なんでそんな疑うような真似…
「見てねーけど…」
『病名や状態も知らないのか?』
「光が聞いたら、生まれつき原因不明で心臓が弱いって…今度手術することになったって言ってたけど」
『光はそれを聞いて何と?』
「…普通に、へぇそう、って感じ。朝が忙しいなら契約を見直そうって、その時言ったんだよ。」
『ふうん…』
「一理あるけどさ、母親が危篤状態のエレナにとっては酷な話だよな。もう少し落ち着いてからでも…」
『…大体わかった。』
「え?何が?」
『お前たちの今の状況だ。』
また何か心を読まれた気分…。
『君は元々なぜ昔の貴族が使用人を雇っていたかわかるか?』
「え…。…権力の象徴?」
『それもあるが、もう一つの理由は、人々に仕事を与えるためだ。』
「……。」
『貴族はその地で経済を回し、土地を豊かに治める義務がある。ただ贅沢をして暮らしているわけではないのだよ。仕事がない者や、貧しい家の者が、名のある貴族の元で働くのは、その者が地位を高めるチャンスにもなる。』
「……。」
『だからもちろん貴族の使用人となるのは大変な名誉で、希望者はあとを絶えない。そのため、より熱心で優秀な者が求められるわけだ。貴族の名声がそのまま自分の評価につながり、逆もまた然り。使用人たちは主人のために働き、その権力によって守ってもらうわけだ。』
「…それが、うちの話と何の関係があるんだよ?」
『失礼。君が使用人の雇い方をよく知らないようだったからな。』
「…?」
『エレナが可哀そうだからと言って、彼女の要望を飲んでしまったら、光の言う通り、働いてもいないのにただ金を渡しているだけだ。そんなものはただの施しだ。それは雇い主がすることではない。国や慈善団体の仕事だ。』
「……。」
『診断書が下り、働けない状況で収入もないとわかれば補助金が支給されるはず。父親がいないなら、母子家庭だろう?優先順位も高いはずだぞ。まずは診断書を持って来させろ。話はそれからだな。』
「診断書…って、そんな、疑うみたいな…」
『それを理由に仕事ができないと主張しているのだから、君たちの当然の権利だ。そっちでは診断書も無料だしな。だが…光がそれを言わなかったのは、優しさかもな。』
「え…?」
『悪いが、もういいか?こっちはもう深夜なんだ。睡眠時間が足りなくなる。』
「あ…、ああ、悪い。それじゃ。」
『ああ。またな。』
電話を切り、胸に靄が残る。…さて、どうするかな…。
***
「ただいま。」
「おかえりなさいませ!」
帰宅すると、エレナがいつも通りキッチンにいて拍子抜けした。明るく元気ないつものエレナだ。
「あの、旦那様。」
「ん?」
「今朝のお話のこと…。」
エレナは歩いてやってきて、神妙な顔で言った。
「あの、どうかここで働かせていただきたいんです。」
「そりゃ…俺たちもクビにするつもりはないよ。エレナは頑張ってくれてるし…」
「でも…奥様は違います。」
「そんなこと…」
「いいえ!私、嫌われてます。」
…そういう問題かなぁ、ほんとに…。
「私…奥様が怖い。」
「え…」
「申し訳ありません、こんなことを言って…。でも、旦那様はお優しいから…母のことも、親身になってくださるけど、でも…。」
お…おいおい、泣くなよ…?
「奥様は…母の病気のこと、あんなふうに言うなんて、私のこと疑ってるんです。酷い…。私…母のこと、考えただけで…辛くて…」
「お、落ち着いて。」
「私、きっとクビになります。」
「そんなことないって。」
「では…旦那様からも、奥様にお話ししていただけますか?」
「話?」
「私のこと…雇ってくださるんですよね?」
まあ…光もクビにするつもりはないんだろうし…。
「…ああ、話すよ。」
「本当ですか!?」
エレナの表情が晴れた。すっかり安堵した笑顔でエプロンを外し始める。
「よかったです…ありがとうございます。旦那様、お願いします。」
「あぁ…」
「では…食事の用意も終わったので、今日はこれで失礼します。母の検査がありますから。」
ぺこり、とお辞儀をして部屋を出て行くエレナ。色々と大変だからと、帰りは仕事が終わり次第帰っていいという事になったからだ。これを提案したのも光だった。
「ああ…お疲れ。」
エレナが帰って時計を見ると夜7時を過ぎた頃。光からの連絡はないけど…今日も遅くなるんだろうな。8時を過ぎたら電話してみよう。そう考えて、俺は食事を済ませ、風呂に入った。8時を少し過ぎた頃、そろそろ電話をしようかと思った時に、玄関が開いた。
「お疲れさまでした。明日は10時に迎えに来ます。」
「うん。お疲れ様。おやすみなさい。」
周防と光だ。周防はすぐに帰ったようだ。光がひとりでリビングにやってきて、俺を見つけて笑顔になった。
「ただいま。」
「おかえり。」
ハグ…は、なしか。けどまあ、喧嘩が終わっただけで安堵だ。光は部屋着に着替えて夕食を食べ始めた。
「光。」
「ん?」
俺もダイニングテーブルへ行って、彼女の向かい側に座った。
「エレナのことだけどさ…」
「うん」
「さっき帰り際に、頼み込まれたんだ。これまで通り雇ってほしいって。」
緊張しながらそう伝えると、光はパンにバターを塗りながら言った。
「一也さんはそれでいいと思う?」
「…よくはないけど、仕方ねーかな、って…」
…う。この真っすぐの目に俺は弱い。
「お母さんが危ないから?」
「そりゃ…精神的にもきついだろうし。」
「それは、わかるよ。」
俺も光も母親を亡くしている。原因は違うけど…その辛さは経験した。
「でもね…」
「…なんだよ?」
「あんまり、こんなこと、言いたくないんだけど…」
光はパンを食べ、また一口大にちぎりながら言った。
「…本当…なのかな、って…」
「…エレナが嘘ついてるって言うのか?」
「……。」
「俺はエレナを病院まで送って行ったんだぞ。嘘でそこまでするか?」
「わからないけど…」
「じゃあ、どうしてそう思うんだよ?」
「……都合が良すぎる気がして」
…えぇ?
「都合が良い?母親が危篤なんて嘘、最悪だろ。」
「…だから、確証はないけど…」
「もし本当だったらどうするんだよ。そんな理由であんなこと言ったのか?」
「あんなこと?」
「だから…病気のこと聞いたりしただろ。エレナ、傷ついてたぞ。」
「…だから言いたくなかったの」
「どういう意味だよ?」
「疑うことを責められたら…何も言えなくなる」
「……。」
そりゃ…そうだけど…。
「だけど…」
「ねえ、もうやめよう。一也さんは優しいから、エレナのことを庇うでしょ。でも私はエレナを信じられない。このままじゃまた喧嘩になる。一也さんと喧嘩はしたくない。」
「……。」
「エレナのことは…少し考えさせて。それまでは今まで通りでいい。明日の朝食も私が作るから。」
「え、いや、朝は俺が…」
「私が作りたいの。一也さんの食事。」
「……。」
ぐ…。やっぱ…光は愛おしい。俺だって喧嘩はしたくない。
「ごめん…。ありがとう。」
「いいえ。」
光は冗談っぽくちょっと気取ってそう答え、食事を再開した。