「おはようございます!」

今日も元気のいいあいさつでやって来たエレナ。今の時刻は朝10時前。最近はすっかりこの時間が常態化している。医者から母親はもう治る見込みはなく、いつ亡くなってもおかしくはないと言われたそうだ。そのため手術も見送りになった、と言われた。
けれど彼女はいつも通り明るい笑顔でキッチンへ向かう。

「エレナ、朝食はもう済んだから平気だよ。」
「あ…そうなんですか。いつもすみません…」

朝食は結局毎日光が朝早く起きて作っていってくれている。光が家を出るのは朝7時。俺が家を出るのは朝10時半。それなのに野球選手が不規則な生活ではいけないからと、光は毎朝早朝に起きて、バランスのいい食事を作っていってくれる。そのおかげで、俺は規則正しい生活ができている。

「あの、旦那様。」
「ん?」

荷物をまとめる俺の元へ来て、しおらしい態度で声をかけてくるエレナ。

「あの…本当に申し訳ないのですが…」
「……。」
「今日、母の調子があまりよくなくて…。心配なので、夜はお休みしてもよろしいでしょうか…。」

まただ。母親のことを理由に、エレナは実際にはほとんど仕事に来ていない。最近は俺もさすがにうんざりしてしまう。光はもう完全にエレナのことを信用していないし、俺もだんだん…。だけど、本当だとしたら気の毒だし、邪険にするのも気がとがめる。

「そうか。…わかったよ。」
「すみません…。仕事は全て、終わらせていきますから。」

エレナは深くお辞儀をして、掃除を始めた。まだ少し早いけど、俺は行ってきますと声をかけ、マンションを出た。
駐車場で車に乗り込み、スマホを取り出す。光に電話で伝えなければ。遅刻や休みは光に連絡するように言ったのに、結局俺に会ったときに直接伝えるようになって、光に言わないのも気になる。光に電話をかけると、間もなくして呼び出し音が途絶えた。

『もしもし、一也さん?』

後ろがざわざわと騒がしい。

「うん。ごめん、今忙しいか?」
『大丈夫。どうしたの?』
「エレナのことなんだけど…」

彼女のことを伝えるとき、なぜか俺まで後ろめたい。光は黙って俺の話を聞くと、ふうん、と呟いた。

『わかった。』

え…それだけ?

「……。」
『一也さん?』
「いや…。…そうだ、夕食どうする?早く帰れるなら、どっか食べに行くか?」
『私作るよ。今日はなんとか7時には帰れると思う。』
「え…でも、忙しいだろ?それなら俺が作るよ。」
『大丈夫。』
「いや、朝も毎日作ってくれてるしさ。夜は俺が…」
『じゃあ、ドーナツ食べたい。』
「…え?」

い、いきなりなんだ?

『ドーナツ買ってきてくれる?』
「…いいけど…突然何でドーナツ?」
『食べたくなっちゃった。』
「…そう。…?」
『マーケットタウンのエデンっていうお店で、3つ買ってきて。』
「おう…」
『チョコレートのと、ストロベリーと、ココナッツの味ね。』
「うん…」
『お願いね。夜は私が作るから。じゃあ、切るね』
「ああ…」

電話が切れた。…なんだか腑に落ちない。突然ドーナツなんて…どうしたんだろう?ずっと気になってた店なのかな?まあ、あいつ甘いもの好きだしな…。



***



練習が終わり、ロッカールームで着替えていると、チームメイトが集まってきた。

『よ、一也。もうここには慣れたか?』
『ああ、うん。慣れたよ。』

英語はまだ少し慣れないけど。チームメイトは気さくに声をかけてくれるし、なにより何もかもレベルが高くて、毎日楽しい。試合が始まるのが待ち遠しい。

『そりゃよかった。なあ、近くに良いバルがあるんだが、このあと一緒にどうだ?アイツらも行くぞ。』

アイツら、と差した先には楽しそうに歓談する3人のチームメイトたち。

『ごめん、今日は嫁が待ってるから。』

そう冗談交じりに断ると、チームメイトは目を丸くして、豪快に笑いだした。

『ハッハッハッハ!!そりゃ早く帰らないとな。あんないい女が家で待ってるなんて羨ましいぜ。』

俺の背中をバシバシ叩き、チームメイトも着替え始めた。あ…そうだ。

『なあ、マーケットタウンってどこにあるか知ってるか?』
『マーケットタウン?ああ、市立病院の傍のあそこか』

市立病院の傍…?

『市立病院の場所はわかるか?』
『うん。』
『その通りから西に一本入るとマーケットタウンだ。けど…何しに行くんだ?あんな若い子ばかりの場所。ナンパか?』
『いやいや、嫁からドーナツを買ってくるよう言われたんだ』
『なんだ、そうか。』

チームメイトはロッカーを閉め、もう一度俺の背中を叩いて踵を返した。

『ま、頑張れよ。』
『…?』

その言葉に疑問符を浮かべながら、俺も荷物を持ってロッカールームを出た。



***



マーケットタウン。その場所はすぐにわかった。だけど…

「うわ…」

…若い女ばっか。うわー、俺めっちゃ浮いてるじゃん。帰りてえ…。せめて光が一緒だったら…。いや、だけど、光のためにドーナツを買うんだ。それだけだ。
少し歩いていくと、パステルグリーンとパステルピンクで彩られたファンシーな店を見つけて、そこの看板にドーナツの絵が描いてあった。見上げると、ネオンでEdenと書かれている。ここが光の言っていた店か。店内はそこそこ客がいて、ショーケースにドーナツが並んだレジカウンターが奥にあり、店の左側はイートインコーナーになっているらしかった。俺は一直線にショーケースに向かう。暇そうな店員が立ち上がり、俺の注文を待つように前に立った。
光に言われた通り、チョコレートとストロベリーとココナッツをひとつずつ注文し、お金を払って、トッピングする間待つようにと椅子を案内される。まだかな…早くここを出たい。
片身狭く座りながら、イートインコーナーでおしゃべりをしている少女たちを何気なく見た。あれ…あそこにいるあの後ろ姿…。エレナに似ている…。いやまさかな。彼女は今病院で母親に付き添っているはずだ。

『ねえ、そういえば新しい仕事始めたんでしょ?どんな仕事?』
『家政婦のアルバイト。朝と夜3時間ずつで、朝食と夕食作って、あと掃除と洗濯、買い物とかするの。』
『うわ〜大変そう。エレナちゃんとできるの〜?』

エレナ?…今、確かにそう言った。じゃあ…あの黒髪の後ろ姿は、本当にエレナなのか?

『大丈夫だって!あたし料理は好きだし。しかもね、雇い主誰だったと思う?』
『え?有名な人?』
『セレブ?』
『超セレブよ!なんとね…御幸一也と御幸光夫妻!ね、すごいでしょ?』
『うそ!超スゴい』
『どうやってそんな仕事見つけたの!?』
『たまたまよ。あたしもあった時びっくりしちゃった。日本人って金払いも良いし、お給料もよくて最高。旦那様は優しいしね。』
『え、じゃあ奥様は優しくないの?』
『奥様は超厳しいの。ちょっと遅れただけで理由とか聞いてくるしさ。日本人じゃないんだから、そんな時間に正確に行動できないっての。でも休みたいときは旦那様に言えば大丈夫。』
『え〜そんな簡単に休みくれるの?』
『まあね。ママが死にそうって言ったら何かと優遇してくれるの。アハハ』
『アンタまだそんなことしてるの〜?またバレて首になるわよ?』
『その時はその時よ。日本人はバカ真面目だしお人よしだから大丈夫。』

『あなたのドーナツです、どうぞ。』

突然目の前に白い箱を差し出されて、俺は我に返った。

『…どうも、ありがとう。』

箱を取って受け取って、立ち上がる。エレナの母親の話は…嘘だったのか。光が正しかった…。…ごめん、光…。

『そんなに行きたくないなら仕事変えればいいじゃない』
『行きたくないわけじゃないわよ。それに御幸夫妻の家の使用人なんて、皆に自慢できるじゃない。仕事は楽だし旦那様は優しいし自慢できる。最高でしょ?』
『まあね〜…』
『でも奥様には会いたくないから、なるべく朝は行かないようにしてるの。アハハ。』

『なら、もう来なくていい。』

彼女の後ろに立って、そう声をかけた。驚いて振り返ったエレナが、俺を見上げて蒼白する。

『なっ……えっ……!だ、だん……』
『…その嘘だけは許せない。』

そう言い残して、彼女の言葉を待たずに家を出た。帰ったら光に話して…ああそうだ、警備室にも寄って、もうエレナを解雇したことを伝えなければ。彼女に鍵を渡さないように。
なんだか…とても疲れた。俺はずっと騙されていたのか。光は気づいていたのに…俺にもそう言ったのに…。



***



「明日はリハビリもあるので、9時に迎えに来ます。」
「わかった。ありがとう、おやすみなさい。」

玄関から声がして、光の帰宅に気付いた。すぐに光はリビングにやってきて、俺を見てほほ笑んだ。

「ただいま。」
「おかえり…」

光は…あそこにエレナがいることを知っていて、俺に行かせたんだろうか。じゃなきゃ…あんな偶然、おかしすぎる。

「すぐ作るね。」

光はエプロンをつけてキッチンに入り、手を洗って冷蔵庫を開けた。

「光、ドーナツ買って来たぞ。」

白い箱をカウンターに置いて言うと、光は振り向いて微笑んだ。

「ありがとう。」
「それから…エレナは、解雇した」

光は食材を取り出して調理台に置き、俺を見つめる。

「何があったの?」
「偶然会ったんだ、ドーナツ屋で。母親のことは…全部嘘だった。」
「…そう。」

その様子はやっぱり、驚いてはいない様子で。何か知っていたんだろうか。

「エレナのこと…お前は気づいてただろ、嘘だって。…どうして…わかったんだ?」
「どうしてって…」

光は玉ねぎを器用にみじん切りし始めた。

「嘘っぽいって思っただけ。」
「…え?」
「なんとなく…わかるの。ああいう子の嘘は…」

…なんでわかるんだ。

「ねえ、それよりお願いがあるんだけど…」
「え…何?」
「共演者の人たちがね、一也さんのサインが欲しいんだって。今日色紙も預かってきちゃったの。サインお願いしてもいい?」
「サイン…?…あ!!」
「え?」

すっかり忘れてた。俺は寝室へ駆けこんで、紙袋を持って戻った。

「ごめん、忘れてた。俺もクリス先輩に頼まれて…」
「?」
「クリス先輩のチームメイト達が、お前のサイン欲しいんだって。…書いてもらえる?」

俺と光は顔を見合わせ、同時に笑った。

「じゃあ、ご飯食べたら書こうか。」
「そうだな。あ…手伝うよ。」

一緒に食事を作って、食事をして。食後はコーヒーを飲みながらサインを何枚も書いて。久しぶりに二人きりで過ごす夜。やっぱり大切な時間だ。だって俺たちは、ずっと一緒に居たくて…結婚したんだから。

「なあ…使用人、どうしようか。」

家事に手が回らないのは変わらない。だけどエレナのような人がまた来るのは勘弁だ。

「それなんだけど…光臣がひとり紹介してくれるっていうの。」
「え…あいつが今雇ってる人?」
「そうみたい。引継ぎとかいろいろあるから、来てくれるのは1週間くらい後になるって言われたんだけど…どうする?」
「まあ、あいつの紹介ならいいかもな。」

そう答えると、光は微笑んで頷いた。

「じゃあ、お願いするね。」

できた、と最後のユニフォームを広げて言う光の横顔を見て、もっと光を信じるべきだった、と後悔した。

 


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