『一也、ちょっといいか?』

コーチに呼び止められ、足を止める。

『はい、何ですか?』

もう帰るところだったから、光に連絡をしようと手に持っていたスマホをポケットに突っ込んだ。

『彼女が今日から新しいトレーナーとして来てくれたんだ、紹介させてくれ。』

そう言われてコーチの後ろから現れた女性を見て、言葉を失った。

「武藤尚です。」

キリッとした美人で、ショートボブヘアの、スタイル抜群の女性。その面影には、どこか見覚えがあった。そして名乗られたその名前を聞いて、はっと息をのんだ。

「久しぶりね。一也君。」
「…尚ちゃん?」

知り合いか?とコーチが安堵した表情で言い、尚ちゃんは頷く。

『実家が近所で、小さい頃はよく遊びました。』

そうだ。尚ちゃんは3つ年上で、近所に住むお姉さん。俺が小学生の頃は、よくおばさんが作ってくれた料理をうちに持ってきてくれた。尚ちゃんが中学生になると、時々自分で作った料理も持ってきてくれて。高校から尚ちゃんは全寮制の女子高へ行ってしまったから、会うことはなくなってしまったけど、今でも覚えてる。幼心に憧れていた彼女のことを。
知り合いなら話は早い、とコーチは笑って、先に行ってしまった。

「私のこと覚えてた?」

ふふ、とからかうように笑って目を細め、俺を見る尚ちゃん。

「そりゃ覚えてるよ。おばさんと尚ちゃんの料理でデカくなったからな。」
「うふふ、覚えててくれたんだ。嬉しい。」

今では尚ちゃんを見下ろすほど背が伸びた。中学までは彼女よりチビだったけど。

「一也君、カッコよくなったわね。」
「……はは。」

尚ちゃんに言われると気恥ずかしい。完全にからかわれてるからな。

「おじさんも元気?」
「うん。相変わらずだよ。」
「あら…心配ね。」
「ほんと…たまにはちゃんと休むように、尚ちゃんからも言ってやってよ。」
「ふふふ。そうね、久しぶりにおじさんにも会いたいわ。」

ふたりでしゃべりながらトレーニングルームを出て、廊下を歩く。自分の方ほどの高さにある彼女の頭がなんだか新鮮で落ち着かない。

「一也君、今どこに住んでるの?」
「俺?ノースストリートのマンションだよ。」
「あ、もしかしてあの大きいマンション?さすがメジャーリーガーね。」
「いや〜…はっはっは」
「でもそれならご近所さんね。」
「え?」
「私、ノースストリートの南の公園前にあるアパートに住んでるの。」
「ああ、あそこの公園。じゃあめちゃくちゃ近いじゃん。」
「こっちでもご近所さんね。」

笑いながら駐車場まで来ると、尚ちゃんは車に向かいかけて、立ち止まって俺を振り返った。

「ねえ、食事に誘ったらまずいかしら?」
「え?」
「奥さんに怒られちゃう?」
「…あー」

まあ…多分、良い顔はしない…だろうな。でも…

「いや、平気だよ。」
「本当に?」

目を丸くして微笑む尚ちゃんに、うん、と頷く。尚ちゃんは家族みたいなもんだし…姉みたいな存在だ。光にも紹介したい。

「じゃあ、連絡先教えてくれる?」
「うん。」
「ありがとう。それじゃ…また今度連絡するわね。」

尚ちゃんは手を振って、グレーのミニに乗って去って行った。いやー、まさか尚ちゃんと再会するとは。思いもよらなかったな。相変わらず美人で、大人っぽくて…いや、あの頃よりもっと綺麗になってた。自覚していた初恋は光だけど、今思えばあの頃、ガキなりに尚ちゃんに淡い恋心みたいなものを抱いていた気がする。…これは光には内緒にしておこう。


***


「ただいまー」
「おかえり。」

玄関に入ると、光が駆け寄ってきた。

「あれ光、今日早かったな。」
「うん、ついさっき帰ってきたの。」

ハグをして、ふたりでリビングに入ると、光は料理の途中だったらしくキッチンに戻った。その向かいのカウンターには倉持が座っていて、何かを食べている。

「お前何食ってんだよ?」
「ん?味見。」

…なんか顔緩んでるぞ。

「倉持さん、どうですか?」
「全部美味い。」
「光、こいつ何でも美味いって言うから味見任せちゃダメだよ。」
「あぁ?ホントに美味いんだよ」

ったく、光にデレデレしやがって。何が奪うつもりはないだよ。あわよくば…っていう下心が透けまくってるっつーの。

「夕ご飯できたよ。」
「すぐ行く。」

俺はそう言いながら寝室へいき、荷物を下ろして部屋着に着替えた。荷物の中からスマホを取り出すと、いつの間にか、尚ちゃんからのメールが入っていた。

『早速だけど、明日のランチ一緒にどう?』

その短い一文だけ。ランチとなると、光は同席できないな。けどまあ、尚ちゃんだし…。
OK、という返事を返し、スマホをポケットに突っ込んでリビングへ戻った。
ダイニングテーブルにはすでに倉持が席についていて、光も料理を運び終えた様子で席に着くところだった。俺も光の隣に座り、いただきます、と声をそろえる。

「あー、やっぱ光の料理は美味いな」

倉持がしみじみと呟く。よかったです、と光は微笑む。

「お前も早く美味い飯作ってくれる嫁さん見つけろよ。」

そう呟いてご飯を口に入れると、倉持に鋭く睨まれた。光はそんな俺たちを不思議そうに眺める。

「え?えみちゃんがいるじゃないですか。ね、倉持さん。」
「……。」
「別れたんだって。」
「えっ?」

なんで今言うんだよ、と訴えるように俺を睨む倉持。その倉持を、光は心配そうに見つめた。

「何かあったんですか…?」
「いや…」

まさか光に、木崎さんとヤろうとしたけど勃たなかった、なんて言えないであろう倉持は口ごもった。

「……。」

煮え切らない倉持を心配そうに見つめ続ける光の肩に手を置く。

「ま、本人たちの問題だから。」
「…それは…そうだけど…。」

なんだか責任を感じている様子で、光は渋々フォークを手にサラダを食べ始めた。

「そういやさ、今日懐かしい人に会ったんだよ。」
「え…誰?」

話を変えようと切り出すと、光は気を取り直したように尋ね返す。

「実家の近所に住んでた子でさ、武藤尚っていう、3つ年上の子。昔はよくその子の母親が作ったおかずとか、うちに持ってきてくれたんだ。」
「へえ…。」
「チームの新しいトレーナーとして今日から来てさ、びっくりしたよ。」
「女?」

不躾な質問をする倉持。

「そうだけど?」

そう頷くと、隣の光が口を噤んだ。

「え…いや、別にそういうんじゃないから。ほんとにただの近所の子だからな。」
「…仲良かったの?」
「仲良いって言うか…姉みたいに思ってたかな」
「ふーん…」
「ちょ…光、誤解するなって。」

倉持がニヤニヤと俺を見てくるから、俺は当てつけのように光を抱き寄せた。

「も〜お前はほんとにすぐヤキモチ焼くんだから。俺のこと大好きだもんな〜!はっはっはっは」
「……。」

口を噤んだまま赤くなる光を見て沈黙する倉持。…勝った。

「心配するなよ。今度お前にも紹介したいんだ。お世話になった人だから」
「うん…」

頭を撫でて光を離し、食事を再開する。倉持は俺を少し睨んで、ビールを喉に流し込んだ。



***



「なんだか懐かしいわね。」

尚ちゃんと向かい合って座り、食事を囲む。そう言われてみれば確かにそうだ。一緒に食事をするのなんて、小学生以来だ。あの頃は、俺の実家の居間で、自分で作った野菜炒めや、尚ちゃんが持ってきてくれたおかずを囲んだ。

「そうだな。」
「すっかり大きくなっちゃって。背、越されちゃったわね。」
「おかげさまで。」
「うふふ。生意気なのは相変わらずね。」

うーん…尚ちゃんが相手だとやっぱり調子が狂う。

「尚ちゃんは綺麗になったな。」
「なあにそれ。口説いてるの?」
「ま…まさか。」
「ふふふ。年上をからかわないの。」

だめだ、勝てない。ほんと、大人の女性って感じだ。

「けど…意外だな、尚ちゃんが野球に携わる仕事に就いてるなんて。」
「そう?」
「昔は看護師になりたいって言ってたじゃん」
「そうだったわね。でも…そうね。一也君の影響かな。」
「え、俺?」
「ええ。一也君のこと、忘れられなかったの。」
「……。」

じっと俺を見つめ、だんだんとからかうような笑みを浮かべる尚ちゃん。

「…尚ちゃんこそからかうなよ。」
「うふふ。お返しよ。」

やっぱりこの人には敵わない。顔が熱くなってきた。

「そうだ、尚ちゃん、今度うちに来てよ。光のこと紹介したいんだ。」
「あら。ハリウッド女優に会えるなんて感激だわ。」
「あとひとり、いま滞在してる奴がいるけど…まぁ気にしないで。」
「お友達?」
「知ってるかな。高校からチームメイトで、日本でも同じ球団だった…倉持洋一。」
「もちろん知ってるわ。仲良しなんでしょ?」
「別に仲良くはねーかな。」
「うふふ。仲良さそうね。」

尚ちゃんとの話は弾んで、食事が終わって席を立つのが名残惜しいほどだった。また今度連絡する、と言い残し、俺は午後の練習に戻った。


***


それから1週間後。尚ちゃんがうちにやって来た。

「初めまして、武藤尚です。」

現れた尚ちゃんに、光は微笑み返す。

「初めまして。光です。」
「あら、まぁ…やっぱりすごく綺麗ですね。緊張しちゃうわ。」
「いえ、そんな…」

お互いに少し緊張した面持ちで話しながらリビングにやって来ると、そこには倉持がいて、軽い挨拶を交わす。尚ちゃんをダイニングテーブルに促し、光はキッチンへ、俺は荷物を置きに寝室へ向かった。すると倉持があとをついて来て、ドアにもたれかかって俺を見た。

「美人だな。」
「え?尚ちゃんのこと?」
「そうだよ。」
「何、お前のタイプ?」
「ちげぇよ!お前、マジであの人と何もなかったのかよ?」
「お前が思ってるようなことは何もないよ。」
「ふーん…」

じろじろと、倉持は疑うような目で俺を見る。

「なんだよ…」
「別に?俺としてはお前が目移りすんのは大歓迎だからな。」
「はぁ?」
「奪うつもりはないとは言ったけど…好きなのに変わりはないから。お前が光を悲しませたら話は別だ」
「…何先走ってんの?マジで何もねぇから、期待外れで悪いけど。」
「そーかよ。」
「そーだよ。着替えるからそこ閉めてくんない?」
「……チッ」

倉持は舌打ちをぶつけてドアを閉め、去って行った。何宣戦布告してんだか…。だいたい、尚ちゃんには婚約者が…。…あれ、たしかいたはずだけど。どうしたんだろう?もう結婚してるはずだよな。旦那さんの話は聞いてないけど…。

リビングに戻ると、食卓はすっかり料理が並んでいた。食事は和やかに進み、光と尚ちゃんも打ち解けたように見えた。ただ倉持は、やけに静かに口を噤んで、俺たちの様子を窺うように見つめていた。

 


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