259
昼前、突然玄関が開いて人の気配がした。
「今日の予定は全て順延です。明日の予定は改めて連絡します。」
「わかった、ありがとう。」
…光が帰って来たらしい。帰るのは深夜になるって言っていたのに。
マネージャーの男は帰ったらしく、光はひとりでリビングに入ってきた。
「あ…倉持さん。」
「おかえり。どうしたんだ?」
「今日、ゲリラ豪雨が来るらしいんですよ。それで撮影が中止になったんです。」
「へえ…。」
…ん?ってことは…。光とふたりっきり?
「…一也さん、出かけてるんですか?」
光が部屋の中を見渡して尋ねて、俺はギクリとした。御幸の事を庇ってやるつもりはねーけど…むやみに光を悲しませたくもない。
「ああ…さっきジョギングしてくるっつって出てったよ。」
「え?大丈夫かな…。」
そう言っている間にも雷が鳴りはじめ、窓に雨が打ちつけはじめた。
光は心配そうに窓辺に寄って空を見上げ、スマホで電話をかけ始めた。
「あ…もしもし一也さん?」
あいつ、電話に出たのか。今はあの幼馴染の女と一緒に居るのかな…?
「今どこにいるの?…そうなんだ。大丈夫?うん…私は今帰ってきたところ。午後は天気が崩れるからって、撮影が中止になって…」
光はしばらく話をして、じゃあね、と電話を切った。
「一也さん、今チームメイトの家で雨宿りさせてもらってるらしいです。」
「へぇ…」
チームメイト…ね。
「雨が止んだら帰るって言ってました。」
「そうか。」
「お昼もごちそうになるらしいので…私たちもお昼にしましょうか。」
「あ、あぁ」
…光とふたりっきりの食事。願ったり叶ったりだ。
にわかに喜びをかみしめる俺の、手元のスマホが鳴った。…御幸からの電話だ。キッチンに向かう光にちょっとごめん、と手をあげて、俺は客室に入って電話に出た。
「はい」
『倉持?今家?』
「そうだけど」
『……。』
深いため息。自業自得だっての。
『光に手ぇ出すなよ。』
「そればっかりだなお前。自分はどうなんだよ」
『は?』
「今尚ちゃんの家なんだろ?」
『お…おい倉持!』
「安心しろよ、部屋で電話してる」
『……。』
光にバレたらヤバイ事態だ、ってことは自覚してるみたいだな。
『別に…何もないからな。』
「何も言ってねーけど」
『真面目に聞けって。やましいことは何もないから。』
「でも光には言えねーんだろ?」
『…脅すつもりか?』
「何言ってんだよ、内緒にしてやってんのに。」
『……。』
「つーか、何のこのこ家に上がってんだよ。傘返しに行っただけだろ?」
『外で会ったんだよ。そしたら雨が降ってきて…』
「あーハイハイ、お約束だな」
『嘘じゃねえって!』
「わかったわかった。まあ…光には黙っておいてやるよ。俺だって光がショック受けるのは嫌だし」
『…はぁ』
「もういいか?切るぞ」
『…あぁ。』
電話を切り、ため息をついた。もしかしたら…、と想像してしまう自分がいる。もしあの武藤尚とかいう女が御幸に気があって、御幸もまんざらでないとしたら…。光が傷つくのは見たくないけど、御幸を振って自分の所へ来てくれるかもしれない、なんて。だけど…。
クソ御幸。隙なんか見せるんじゃねえよ。お前の他にも…俺の他にも、光を欲しい男はいっぱいいるんだぞ。
だけど…どんなに求めても、光が求めているのは御幸ただ一人なんだ。
リビングに戻ると、キッチンで料理をする光の姿があった。今はここに御幸はいない。ふたりっきりの部屋で、光は自分と俺、二人分の食事を作っている。そう思うと、にわかに胸が熱くなる。
「…何か手伝うことあるか?」
ただ邪魔なだけかもしれないと思いながらもそう声をかけると、光は振り向いてにっこり微笑んだ。
「大丈夫ですよ。」
「いやでも、1か月も世話になるのに…手伝いもしないなんて、なんか肩身が狭くてよ」
「…じゃあ…」
光はリンゴの皮を器用に剥きながら無邪気に微笑んだ。
「コーヒー飲みたいな。」
「あ、じゃあ淹れるよ。」
飲みたいな…。飲みたいなって…。そんな砕けたお願いの仕方、珍しいな…。か、可愛い…。
コーヒー豆を挽き、ドリップ機にセットする。これは日本から持ってきたらしく、俺も使い慣れてるものだ。伊達に二人の家に入り浸ってはいない。
光は林檎を切って鍋に入れ、煮始めて、ボウルに小麦粉を振り始める。…何作ってるんだろう。それを眺めているうちにコーヒーができて、それぞれにミルクと砂糖を入れた。確か光は、ミルク多めの砂糖少なめ…。
「はい。」
「あ、ありがとうございます。」
マグカップを渡すとき、少し手が触れて顔が熱くなる。一瞬でも肌の柔らかさやすべすべ感が伝わってきて…。同時に、やっぱり光は自分の中で特別なんだと改めて思った。木崎さんとは…手を繋いでも、緊張はしてもこんな風に胸が熱くはならなかった。彼女が顔を真っ赤にしているのを見て、罪悪感すら感じて…。やっぱり俺、最低だ。
「何作ってんの?」
コーヒーを飲みながら尋ねると、光は楽しそうに生地を伸ばしながら言った。
「できてからのお楽しみです。」
「ヒャハ、そうか。」
本当に楽しみだ。林檎が入った鍋からは甘い香りが漂ってきた。
奪うつもりはない…。御幸にはそう言った。俺が強引に光に迫ったところで、彼女を困らせるだけだという事をわかっているから。だけど…
「見ててもいいか?」
「え?」
光は目を丸くして、はにかんで生地を伸ばし続ける。
「あんまり見られてると、恥ずかしいですけど…。」
細く白い綺麗な手を小麦粉まみれにして、綿棒を滑らせる。キッチンに二人きり。コーヒーを飲みながら料理をする。この幸せな、まるで夫婦みたいな時間を…今はこっそり、横取りする。
***
「はいっ、倉持さん。」
目の前に置かれたプレートを見て、俺は息を飲んだ。オムライスにハンバーグ、小さなナポリタンとサラダが添えられた、まるで大きなお子様ランチ。
「うおっ、すげ…」
思わず歓声を挙げそうになって、ぐっと踏みとどまる。
「…すげえ、美味そうだな」
「倉持さん、こういうの好きかなって思って。」
えへへ、と笑いながら、俺のより少ない量のプレートを自分の席に置く光。…俺、なんか子ども扱いされてる?
「いや、好きだけどさ…」
「?」
「…うん、好きだよ」
素直に認めると、光は頬を綻ばせて笑った。
食事をあっという間に平らげると、光は食器を下げて、オーブンを開けた。
「あ、まだデザートがあるんです。座っててください」
「…デザート?」
食器を片付けようとした俺を引き留める光。大人しく席で待っていると、光がトレーに紅茶とケーキを載せて戻ってきた。
「じゃん。」
楽し気に置かれたケーキは、アップルパイ。バニラアイスが添えられている。
「うわ、すげえ!」
思わず今度は正直に歓声を上げた。光はニコニコと席に着く。
「いただきます。」
「はい。」
一口食べて、思わず頬が緩む。甘酸っぱくて、パイ生地はサクサクしてて、アイスクリームは仄かに甘い。美味しい。
「今まで食べた中で一番美味い。」
「ふふふ。ありがとうございます。」
「いや、ホントだって。でも、ケーキ作るなんて珍しいな。今日何かの記念日?」
「いいえ。なんとなく食べたくなったんです。倉持さんは甘いものも好きだし、いいかなって思って。」
あ、そうか。御幸は甘いもん苦手だから、普段こういうの作らないのか…。ま、あいつのことだから、光が作ったものなら何でも食べそうだけど、光が遠慮してるんだろうな。
「おう、俺は甘いもん大好きだぜ!」
「ふふ、よかったです。」
だからまた作ってくれよ、という言葉は飲み込んだ。…さすがに図々しすぎるな。
アップルパイも食べ終えて、片付けを手伝って、二人でコーヒーを飲みながらゆっくりとリビングで過ごした。幸せだ…。光と結婚したら、こんな風に過ごせるのかな。御幸はこんな風に過ごしてるのか。…胸が苦しい。こんなに幸せなのに…御幸、どうしてあの女の家になんて行ったんだ。それを光が知ったら、悲しむことくらいわかるくせに。大したことじゃないとでも思ってるのか?案外バカだな。俺だったら…少しでも光が傷つく可能性があるなら、絶対にしない。他の女を見ることだってしない。ずっと光と一緒にいるのに。俺だったら…。
近くに雷が落ちた。光が肩を竦ませ、窓を振り返った。
「雨…やみませんね。」
ああ、とため息みたいに頷いた。御幸は今、あの女と一緒にいる。何をして過ごしてるんだか…。光はそれを、知る由もない。きっと今も、御幸の心配をしているんだ。薄黒い曇天を見上げる空色の瞳を見つめた。その綺麗な横顔を。小さな赤い唇が少し開き、静かなため息を吐く。御幸の帰りを待っている横顔。俺はため息を飲み込んだ。
また雷が、さっきよりもさらに近いところに落ちた。ビクリ、と光は驚いて肩を竦め、はあ、と息を吐く。
「…大丈夫か?」
なんだか怯えているように見えて、そう声をかける。光は振り向いて、はにかんだ。
「ちょっと、びっくりして…。」
部屋が一瞬真っ白に光った。直後、爆発するような雷の轟音が響いた。
「きゃ…!」
一瞬、何が起こったかわからなかった。気づけば、俺の胸元にしがみつく光がいて。花のような甘い香りが鼻先をかすめ、服越しに柔らかな熱を肌に感じた。
「あ、ご、ごめんなさい」
光はすぐに離れて、だけどその目には涙が滲んでいて、顔色は悪かった。俺は心臓がうるさいくらいに跳ねていて、その音でもう頭が真っ白なのに、彼女の手が震えていることに気が付いた。
その手に、自分の手を伸ばした。手を掴むと、光は戸惑ったように顔を赤くして俺を見た。
「…雷、やむまで」
そう呟いて、少し強引に指を絡めて繋ぐと、光はそれを振りほどくことはしなかった。震える手は、少し強く、俺の手を握り返したような気がした。
***
……。何分…いや、何十分経っただろう。手汗がヤバい…気がする。
カッコつけたけど、息苦しいくらい心臓が跳ねている。けど…光は手を繋いでいてくれている。よほど雷が怖いのか、それとも俺の気持ち、まんざらでもない…とか?
「あの…」
「…え?」
突然光が口を開いて、俺はぎくりとした。手、離してください…とか、冷たく言われたらどうしよう。
「えみちゃんと…どうして別れたのか、教えてくれませんか?」
「……。」
それ…手繋ぎながら訊く?
「…今は、無理かな」
「え…?今はって…」
「今言ったら、多分、手ぇ離されるから」
「……。」
光はその意味を聞きたそうに俺を見つめて、考えるように目を伏せた。
「…じゃあ…離さないから、教えてください」
俺はつい小さく噴出した。なんだそれ、変なこと言うなぁ光。
「な、なんで笑うんですか?」
「いや、だって…。…まあ、いいや。じゃあ絶対離すなよ?」
「…はい。」
決意したように真剣な顔で俺の手を握りしめる光。ああ…やっぱ、すげー好きだなぁ。
「…勃たなかったんだ」
「……。」
「……。」
「…えっと…。」
「……。」
「……それって…。」
光は目を瞬いて、困惑と動揺で目を泳がせた。
「く…倉持さん、病気…なんですか?」
「ぶっ…」
マジ?そっち?
「な、なんでまた笑うんですか?」
「ヒャハハハ。いや、ゴメン、予想外過ぎて…」
「だ、だって…その…できなかった…んですよね?」
少し顔を赤くして、だけど真剣に尋ねる光。ほんと、真面目だけど天然で…可愛い。
「そうじゃなくてよ、…言いづらいけど…」
「…なんですか?」
「…ダメなんだ、他の子じゃ」
「…え?」
「…お前でしか、勃たないみたいだ」
大きな目が瞬いた。顔が赤くなって、動揺がその目に浮かぶ。
「え…っと…」
「こら、手ぇ離さないって言ったよな?」
「……。」
少し力が抜けた手を、ぎゅっと握った。光は困惑した顔で目を背けた。
「安心しろよ。お前を抱くつもりはねぇから」
「……。」
「お前が幸せなのが一番大事だ。お前が好きなのは御幸だろ。」
「……。」
「でも、御幸に飽きたらいつでも俺んとこ来いよな。」
「…え。」
光は目を丸くして、小さく笑いだした。
「笑うなよ。マジだぞ俺は。」
「ふふ…。あ…雨、止んでる」
光が窓を振り返って、俺もつられて見た。雨も雷もやみ、外はいつの間にか晴れ間がさしていた。
「ほんとだ。」
俺は呟いて、名残惜しくも彼女の手を離した。ほんとはもっと繋いでいたかったけど…。光が微笑んだのを見て、まあいいか、と思った。
「今日の予定は全て順延です。明日の予定は改めて連絡します。」
「わかった、ありがとう。」
…光が帰って来たらしい。帰るのは深夜になるって言っていたのに。
マネージャーの男は帰ったらしく、光はひとりでリビングに入ってきた。
「あ…倉持さん。」
「おかえり。どうしたんだ?」
「今日、ゲリラ豪雨が来るらしいんですよ。それで撮影が中止になったんです。」
「へえ…。」
…ん?ってことは…。光とふたりっきり?
「…一也さん、出かけてるんですか?」
光が部屋の中を見渡して尋ねて、俺はギクリとした。御幸の事を庇ってやるつもりはねーけど…むやみに光を悲しませたくもない。
「ああ…さっきジョギングしてくるっつって出てったよ。」
「え?大丈夫かな…。」
そう言っている間にも雷が鳴りはじめ、窓に雨が打ちつけはじめた。
光は心配そうに窓辺に寄って空を見上げ、スマホで電話をかけ始めた。
「あ…もしもし一也さん?」
あいつ、電話に出たのか。今はあの幼馴染の女と一緒に居るのかな…?
「今どこにいるの?…そうなんだ。大丈夫?うん…私は今帰ってきたところ。午後は天気が崩れるからって、撮影が中止になって…」
光はしばらく話をして、じゃあね、と電話を切った。
「一也さん、今チームメイトの家で雨宿りさせてもらってるらしいです。」
「へぇ…」
チームメイト…ね。
「雨が止んだら帰るって言ってました。」
「そうか。」
「お昼もごちそうになるらしいので…私たちもお昼にしましょうか。」
「あ、あぁ」
…光とふたりっきりの食事。願ったり叶ったりだ。
にわかに喜びをかみしめる俺の、手元のスマホが鳴った。…御幸からの電話だ。キッチンに向かう光にちょっとごめん、と手をあげて、俺は客室に入って電話に出た。
「はい」
『倉持?今家?』
「そうだけど」
『……。』
深いため息。自業自得だっての。
『光に手ぇ出すなよ。』
「そればっかりだなお前。自分はどうなんだよ」
『は?』
「今尚ちゃんの家なんだろ?」
『お…おい倉持!』
「安心しろよ、部屋で電話してる」
『……。』
光にバレたらヤバイ事態だ、ってことは自覚してるみたいだな。
『別に…何もないからな。』
「何も言ってねーけど」
『真面目に聞けって。やましいことは何もないから。』
「でも光には言えねーんだろ?」
『…脅すつもりか?』
「何言ってんだよ、内緒にしてやってんのに。」
『……。』
「つーか、何のこのこ家に上がってんだよ。傘返しに行っただけだろ?」
『外で会ったんだよ。そしたら雨が降ってきて…』
「あーハイハイ、お約束だな」
『嘘じゃねえって!』
「わかったわかった。まあ…光には黙っておいてやるよ。俺だって光がショック受けるのは嫌だし」
『…はぁ』
「もういいか?切るぞ」
『…あぁ。』
電話を切り、ため息をついた。もしかしたら…、と想像してしまう自分がいる。もしあの武藤尚とかいう女が御幸に気があって、御幸もまんざらでないとしたら…。光が傷つくのは見たくないけど、御幸を振って自分の所へ来てくれるかもしれない、なんて。だけど…。
クソ御幸。隙なんか見せるんじゃねえよ。お前の他にも…俺の他にも、光を欲しい男はいっぱいいるんだぞ。
だけど…どんなに求めても、光が求めているのは御幸ただ一人なんだ。
リビングに戻ると、キッチンで料理をする光の姿があった。今はここに御幸はいない。ふたりっきりの部屋で、光は自分と俺、二人分の食事を作っている。そう思うと、にわかに胸が熱くなる。
「…何か手伝うことあるか?」
ただ邪魔なだけかもしれないと思いながらもそう声をかけると、光は振り向いてにっこり微笑んだ。
「大丈夫ですよ。」
「いやでも、1か月も世話になるのに…手伝いもしないなんて、なんか肩身が狭くてよ」
「…じゃあ…」
光はリンゴの皮を器用に剥きながら無邪気に微笑んだ。
「コーヒー飲みたいな。」
「あ、じゃあ淹れるよ。」
飲みたいな…。飲みたいなって…。そんな砕けたお願いの仕方、珍しいな…。か、可愛い…。
コーヒー豆を挽き、ドリップ機にセットする。これは日本から持ってきたらしく、俺も使い慣れてるものだ。伊達に二人の家に入り浸ってはいない。
光は林檎を切って鍋に入れ、煮始めて、ボウルに小麦粉を振り始める。…何作ってるんだろう。それを眺めているうちにコーヒーができて、それぞれにミルクと砂糖を入れた。確か光は、ミルク多めの砂糖少なめ…。
「はい。」
「あ、ありがとうございます。」
マグカップを渡すとき、少し手が触れて顔が熱くなる。一瞬でも肌の柔らかさやすべすべ感が伝わってきて…。同時に、やっぱり光は自分の中で特別なんだと改めて思った。木崎さんとは…手を繋いでも、緊張はしてもこんな風に胸が熱くはならなかった。彼女が顔を真っ赤にしているのを見て、罪悪感すら感じて…。やっぱり俺、最低だ。
「何作ってんの?」
コーヒーを飲みながら尋ねると、光は楽しそうに生地を伸ばしながら言った。
「できてからのお楽しみです。」
「ヒャハ、そうか。」
本当に楽しみだ。林檎が入った鍋からは甘い香りが漂ってきた。
奪うつもりはない…。御幸にはそう言った。俺が強引に光に迫ったところで、彼女を困らせるだけだという事をわかっているから。だけど…
「見ててもいいか?」
「え?」
光は目を丸くして、はにかんで生地を伸ばし続ける。
「あんまり見られてると、恥ずかしいですけど…。」
細く白い綺麗な手を小麦粉まみれにして、綿棒を滑らせる。キッチンに二人きり。コーヒーを飲みながら料理をする。この幸せな、まるで夫婦みたいな時間を…今はこっそり、横取りする。
***
「はいっ、倉持さん。」
目の前に置かれたプレートを見て、俺は息を飲んだ。オムライスにハンバーグ、小さなナポリタンとサラダが添えられた、まるで大きなお子様ランチ。
「うおっ、すげ…」
思わず歓声を挙げそうになって、ぐっと踏みとどまる。
「…すげえ、美味そうだな」
「倉持さん、こういうの好きかなって思って。」
えへへ、と笑いながら、俺のより少ない量のプレートを自分の席に置く光。…俺、なんか子ども扱いされてる?
「いや、好きだけどさ…」
「?」
「…うん、好きだよ」
素直に認めると、光は頬を綻ばせて笑った。
食事をあっという間に平らげると、光は食器を下げて、オーブンを開けた。
「あ、まだデザートがあるんです。座っててください」
「…デザート?」
食器を片付けようとした俺を引き留める光。大人しく席で待っていると、光がトレーに紅茶とケーキを載せて戻ってきた。
「じゃん。」
楽し気に置かれたケーキは、アップルパイ。バニラアイスが添えられている。
「うわ、すげえ!」
思わず今度は正直に歓声を上げた。光はニコニコと席に着く。
「いただきます。」
「はい。」
一口食べて、思わず頬が緩む。甘酸っぱくて、パイ生地はサクサクしてて、アイスクリームは仄かに甘い。美味しい。
「今まで食べた中で一番美味い。」
「ふふふ。ありがとうございます。」
「いや、ホントだって。でも、ケーキ作るなんて珍しいな。今日何かの記念日?」
「いいえ。なんとなく食べたくなったんです。倉持さんは甘いものも好きだし、いいかなって思って。」
あ、そうか。御幸は甘いもん苦手だから、普段こういうの作らないのか…。ま、あいつのことだから、光が作ったものなら何でも食べそうだけど、光が遠慮してるんだろうな。
「おう、俺は甘いもん大好きだぜ!」
「ふふ、よかったです。」
だからまた作ってくれよ、という言葉は飲み込んだ。…さすがに図々しすぎるな。
アップルパイも食べ終えて、片付けを手伝って、二人でコーヒーを飲みながらゆっくりとリビングで過ごした。幸せだ…。光と結婚したら、こんな風に過ごせるのかな。御幸はこんな風に過ごしてるのか。…胸が苦しい。こんなに幸せなのに…御幸、どうしてあの女の家になんて行ったんだ。それを光が知ったら、悲しむことくらいわかるくせに。大したことじゃないとでも思ってるのか?案外バカだな。俺だったら…少しでも光が傷つく可能性があるなら、絶対にしない。他の女を見ることだってしない。ずっと光と一緒にいるのに。俺だったら…。
近くに雷が落ちた。光が肩を竦ませ、窓を振り返った。
「雨…やみませんね。」
ああ、とため息みたいに頷いた。御幸は今、あの女と一緒にいる。何をして過ごしてるんだか…。光はそれを、知る由もない。きっと今も、御幸の心配をしているんだ。薄黒い曇天を見上げる空色の瞳を見つめた。その綺麗な横顔を。小さな赤い唇が少し開き、静かなため息を吐く。御幸の帰りを待っている横顔。俺はため息を飲み込んだ。
また雷が、さっきよりもさらに近いところに落ちた。ビクリ、と光は驚いて肩を竦め、はあ、と息を吐く。
「…大丈夫か?」
なんだか怯えているように見えて、そう声をかける。光は振り向いて、はにかんだ。
「ちょっと、びっくりして…。」
部屋が一瞬真っ白に光った。直後、爆発するような雷の轟音が響いた。
「きゃ…!」
一瞬、何が起こったかわからなかった。気づけば、俺の胸元にしがみつく光がいて。花のような甘い香りが鼻先をかすめ、服越しに柔らかな熱を肌に感じた。
「あ、ご、ごめんなさい」
光はすぐに離れて、だけどその目には涙が滲んでいて、顔色は悪かった。俺は心臓がうるさいくらいに跳ねていて、その音でもう頭が真っ白なのに、彼女の手が震えていることに気が付いた。
その手に、自分の手を伸ばした。手を掴むと、光は戸惑ったように顔を赤くして俺を見た。
「…雷、やむまで」
そう呟いて、少し強引に指を絡めて繋ぐと、光はそれを振りほどくことはしなかった。震える手は、少し強く、俺の手を握り返したような気がした。
***
……。何分…いや、何十分経っただろう。手汗がヤバい…気がする。
カッコつけたけど、息苦しいくらい心臓が跳ねている。けど…光は手を繋いでいてくれている。よほど雷が怖いのか、それとも俺の気持ち、まんざらでもない…とか?
「あの…」
「…え?」
突然光が口を開いて、俺はぎくりとした。手、離してください…とか、冷たく言われたらどうしよう。
「えみちゃんと…どうして別れたのか、教えてくれませんか?」
「……。」
それ…手繋ぎながら訊く?
「…今は、無理かな」
「え…?今はって…」
「今言ったら、多分、手ぇ離されるから」
「……。」
光はその意味を聞きたそうに俺を見つめて、考えるように目を伏せた。
「…じゃあ…離さないから、教えてください」
俺はつい小さく噴出した。なんだそれ、変なこと言うなぁ光。
「な、なんで笑うんですか?」
「いや、だって…。…まあ、いいや。じゃあ絶対離すなよ?」
「…はい。」
決意したように真剣な顔で俺の手を握りしめる光。ああ…やっぱ、すげー好きだなぁ。
「…勃たなかったんだ」
「……。」
「……。」
「…えっと…。」
「……。」
「……それって…。」
光は目を瞬いて、困惑と動揺で目を泳がせた。
「く…倉持さん、病気…なんですか?」
「ぶっ…」
マジ?そっち?
「な、なんでまた笑うんですか?」
「ヒャハハハ。いや、ゴメン、予想外過ぎて…」
「だ、だって…その…できなかった…んですよね?」
少し顔を赤くして、だけど真剣に尋ねる光。ほんと、真面目だけど天然で…可愛い。
「そうじゃなくてよ、…言いづらいけど…」
「…なんですか?」
「…ダメなんだ、他の子じゃ」
「…え?」
「…お前でしか、勃たないみたいだ」
大きな目が瞬いた。顔が赤くなって、動揺がその目に浮かぶ。
「え…っと…」
「こら、手ぇ離さないって言ったよな?」
「……。」
少し力が抜けた手を、ぎゅっと握った。光は困惑した顔で目を背けた。
「安心しろよ。お前を抱くつもりはねぇから」
「……。」
「お前が幸せなのが一番大事だ。お前が好きなのは御幸だろ。」
「……。」
「でも、御幸に飽きたらいつでも俺んとこ来いよな。」
「…え。」
光は目を丸くして、小さく笑いだした。
「笑うなよ。マジだぞ俺は。」
「ふふ…。あ…雨、止んでる」
光が窓を振り返って、俺もつられて見た。雨も雷もやみ、外はいつの間にか晴れ間がさしていた。
「ほんとだ。」
俺は呟いて、名残惜しくも彼女の手を離した。ほんとはもっと繋いでいたかったけど…。光が微笑んだのを見て、まあいいか、と思った。