260
「ずぶ濡れね…。」
尚ちゃんが苦笑しながらドアを開ける。
「はい、どうぞ。」
「お邪魔します。」
相手は尚ちゃんだ。やましく思う理由なんてないだろ、と自分に言い聞かせる。
尚ちゃんは部屋の奥のタンスからバスタオルを二枚取り出して、一枚を俺に差し出した。
「はい。」
「あ…。ありがとう。」
インナーまでずぶ濡れだ。シャツを脱ごうとして、思いとどまる。尚ちゃんの前で脱ぐのは何か…な。
「私、シャワー浴びてくるわね。」
「…あ、うん。」
ほら、尚ちゃんは俺のことなんてそんな風に見てないって。光がヤキモチ焼きだから…俺が勝手に後ろめたく思って、意識しちゃってるだけだ。
「一也君も次浴びる?」
「いや、俺はいいよ。」
「そう。」
尚ちゃんは頷いて、バスルームに入っていった。今の内だ、とシャツを脱ぎ、上半身を拭いた。体が冷えてしまった。家に帰ったら風呂に入ろう。
髪を拭いていると、着信音が響いてきた。ポケットの中を弄り、スマホを取り出す。電話の相手は…光。心配させたくないし…尚ちゃんがいない隙に話すか。
「はい」
『あ…もしもし、一也さん?』
「うん。」
シャワーの音が響いてくる。時折遠くで鳴る雷を聞きながら、そういえば光は雷が苦手だったと思い出した。大丈夫かな…。
『今どこにいるの?』
「今…えっと、チームメイトの家。雨宿りさせてもらってる。」
『…そうなんだ。大丈夫?』
「大丈夫。光は?大丈夫なのか?」
『うん…私は今帰ってきたところ。午後は天気が崩れるからって、撮影が中止になって…』
「そうなんだ。」
よかった、と言いかけたけど、そういえば家には倉持もいることを思い出した。つーことは…まさか今、二人っきり?
光との電話を終えると、俺はすぐに倉持に電話をかけた。
***
ソファに座っていると、尚ちゃんがバスルームから出てきた。襟元の緩いシャツにショートパンツ姿で、濡れた髪をタオルで拭きながら。あれ…何か俺、ここに来たの間違いだった?いくら尚ちゃんとは言え、女一人暮らしの部屋だし…。
さっき倉持に言われた言葉が頭の中で響く。『でも、光には言えねえんだろ?』…痛いところをつかれた。尚ちゃんに対して下心はない。それは断言できる。だけど…世間から見て十分怪しまれる状況だという事は理解している。
「すごい雨ね。」
尚ちゃんは窓に近寄って空を見上げて呟いた。
「ああ…うん」
俺はスマホを見つめて頷いた。光…今倉持と二人で、何をして過ごしているんだろう。倉持は何もしないと言っていたけど…一時期は想い合っていたふたりだ。どうしても不安がよぎる。
「一也君、本当にシャワー浴びなくていいの?」
尚ちゃんがキッチンで何かを準備しながら尋ねる。
「平気だよ。」
「でも、体冷えちゃったでしょ?風邪ひいちゃうわよ。浴びてきなさい。」
「……。」
なんか…尚ちゃんに言われると、弱い。
「じゃあ…借ります」
「よろしい。」
尚ちゃんはからかうように笑った。
シャワーで体を温めて、部屋に戻ると、尚ちゃんが食事を作ってくれていた。ペペロンチーノとサラダだ。尚ちゃんの料理…久しぶりだな。2人でソファに並んで座り、食事をした。
「ごめんなさいね、ちょうど食材切らしてて、こんなのしかなくて」
「いや、美味いよ。さすが尚ちゃん」
それなら良かった、とほほ笑んで、尚ちゃんはジュースを少し飲んだ。
「光さんとは…高校で出会ったの?」
「え…何、急に」
そんな恋バナみたいな。ちょっと恥ずかしくなりながらはぐらかすと、尚ちゃんは目を細めて笑う。
「いいじゃない。教えてよ」
「…そうだけど…。」
「同級生?」
「いや、光が一つ下」
「先輩後輩かぁ。いいわね」
「…何が?」
「ふふふ。照れないでよ。光さんも一也君もモテたんじゃない?ねぇ、どっちから好きになったの?」
「どっちかっつーと…俺かな」
「やっぱり。一也君面食いだものね。」
「そんなこと…」
「説得力ないわよ。」
からかわれっぱなしでむずがゆい。少しは反撃してやろうと、俺は言いかえした。
「…まぁそうだな、尚ちゃんのせいで理想が高くなっちゃって。」
「……。」
何か言い返してくるかと思ったのに、尚ちゃんは微笑を浮かべたまま口を噤んだ。…何かまずいこと言ったかな。
「尚ちゃん?」
「……ごめん」
尚ちゃんは呟いて、突然俯いて、目元を隠した。かすかに鼻を啜る音がした。え…泣いてる!?な、なんで?
「ど、どしたの?」
「いいの、ごめん、ごめんね。ちょっと待って」
尚ちゃんは涙をぬぐい、赤くなった目で俺を見上げて無理に微笑んだ。
「ごめん…俺何かまずいこと言った?」
「…ちがうのよ」
「でも…」
「…時々考えちゃうの」
「え?」
「あと少し…生まれるのが遅かったら…。一也君と一緒に居られたのかなって…」
「……。」
……え?
「ごめんね…こんなこと言って…。」
「…いや…」
それって…つまり、尚ちゃんは俺のこと…。…え、マジで?全然気づかなかった…。ずっと、子ども扱いされていると思っていた。
「…ごめんね…」
「……。」
「…ごめん…」
「…そんなに…」
そんなに、謝るなよ。そう言いかけた時、尚ちゃんは言った。
「わざとなの…」
「…え?」
「…傘…わざと忘れたの」
「…なんで?」
「また…一也君に、会いたくて」
「……。」
「電話をする理由が…欲しくて」
尚ちゃんの目から、また涙がぽろぽろとこぼれはじめた。こんなふうに泣いてる尚ちゃんは…初めて見る。記憶の中の彼女はいつも頼れるお姉さんで、しっかり者で、絶対に泣いたりしなかった。
「…好きなの。あなたのことが」
「……。」
心臓が跳ねて息が苦しい。驚きと、動揺と…決して嫌ではない感情。だけど俺には…光がいる。尚ちゃんの気持ちには応えられない。
「…ごめん、俺は…」
「わかってるわ。光さん…素敵な人だもの」
「……。」
「でも…今だけでいいから」
「……。」
「雨がやむまでは…私の傍にいて…。」
尚ちゃんが手を伸ばしてきて、俺の手を握った。俺はその手を、振り払う事は出来なかった。
「やっぱり…一也君って、優しいのね」
「…え?」
尚ちゃんが俺を見上げて、じっと見つめてきた。
「でも…こういうときは、突き放さなきゃだめなのよ」
そう言うと、尚ちゃんは突然身を乗り出してきて――次の瞬間には、唇が重なっていた。
「…ちょ…っ、尚ちゃん」
今更身を引いてももう遅い。キス…してしまった。尚ちゃんと…。
尚ちゃんは手を離して立ち上がる。そして窓辺に歩み寄って、呟いた。
「雨…上がってきたわね。」
「……。」
言われて気付いた。遠くの方の空は、わずかに晴れ間が差しはじめている。
「…帰った方が…いいわよね。」
尚ちゃんが呟いて、俺は立ち上がった。
「…帰るよ。」
「……。」
尚ちゃんが振り向く前に、俺は部屋を出た。唇にはまだ、柔らかな感触が残っていた。
尚ちゃんが苦笑しながらドアを開ける。
「はい、どうぞ。」
「お邪魔します。」
相手は尚ちゃんだ。やましく思う理由なんてないだろ、と自分に言い聞かせる。
尚ちゃんは部屋の奥のタンスからバスタオルを二枚取り出して、一枚を俺に差し出した。
「はい。」
「あ…。ありがとう。」
インナーまでずぶ濡れだ。シャツを脱ごうとして、思いとどまる。尚ちゃんの前で脱ぐのは何か…な。
「私、シャワー浴びてくるわね。」
「…あ、うん。」
ほら、尚ちゃんは俺のことなんてそんな風に見てないって。光がヤキモチ焼きだから…俺が勝手に後ろめたく思って、意識しちゃってるだけだ。
「一也君も次浴びる?」
「いや、俺はいいよ。」
「そう。」
尚ちゃんは頷いて、バスルームに入っていった。今の内だ、とシャツを脱ぎ、上半身を拭いた。体が冷えてしまった。家に帰ったら風呂に入ろう。
髪を拭いていると、着信音が響いてきた。ポケットの中を弄り、スマホを取り出す。電話の相手は…光。心配させたくないし…尚ちゃんがいない隙に話すか。
「はい」
『あ…もしもし、一也さん?』
「うん。」
シャワーの音が響いてくる。時折遠くで鳴る雷を聞きながら、そういえば光は雷が苦手だったと思い出した。大丈夫かな…。
『今どこにいるの?』
「今…えっと、チームメイトの家。雨宿りさせてもらってる。」
『…そうなんだ。大丈夫?』
「大丈夫。光は?大丈夫なのか?」
『うん…私は今帰ってきたところ。午後は天気が崩れるからって、撮影が中止になって…』
「そうなんだ。」
よかった、と言いかけたけど、そういえば家には倉持もいることを思い出した。つーことは…まさか今、二人っきり?
光との電話を終えると、俺はすぐに倉持に電話をかけた。
***
ソファに座っていると、尚ちゃんがバスルームから出てきた。襟元の緩いシャツにショートパンツ姿で、濡れた髪をタオルで拭きながら。あれ…何か俺、ここに来たの間違いだった?いくら尚ちゃんとは言え、女一人暮らしの部屋だし…。
さっき倉持に言われた言葉が頭の中で響く。『でも、光には言えねえんだろ?』…痛いところをつかれた。尚ちゃんに対して下心はない。それは断言できる。だけど…世間から見て十分怪しまれる状況だという事は理解している。
「すごい雨ね。」
尚ちゃんは窓に近寄って空を見上げて呟いた。
「ああ…うん」
俺はスマホを見つめて頷いた。光…今倉持と二人で、何をして過ごしているんだろう。倉持は何もしないと言っていたけど…一時期は想い合っていたふたりだ。どうしても不安がよぎる。
「一也君、本当にシャワー浴びなくていいの?」
尚ちゃんがキッチンで何かを準備しながら尋ねる。
「平気だよ。」
「でも、体冷えちゃったでしょ?風邪ひいちゃうわよ。浴びてきなさい。」
「……。」
なんか…尚ちゃんに言われると、弱い。
「じゃあ…借ります」
「よろしい。」
尚ちゃんはからかうように笑った。
シャワーで体を温めて、部屋に戻ると、尚ちゃんが食事を作ってくれていた。ペペロンチーノとサラダだ。尚ちゃんの料理…久しぶりだな。2人でソファに並んで座り、食事をした。
「ごめんなさいね、ちょうど食材切らしてて、こんなのしかなくて」
「いや、美味いよ。さすが尚ちゃん」
それなら良かった、とほほ笑んで、尚ちゃんはジュースを少し飲んだ。
「光さんとは…高校で出会ったの?」
「え…何、急に」
そんな恋バナみたいな。ちょっと恥ずかしくなりながらはぐらかすと、尚ちゃんは目を細めて笑う。
「いいじゃない。教えてよ」
「…そうだけど…。」
「同級生?」
「いや、光が一つ下」
「先輩後輩かぁ。いいわね」
「…何が?」
「ふふふ。照れないでよ。光さんも一也君もモテたんじゃない?ねぇ、どっちから好きになったの?」
「どっちかっつーと…俺かな」
「やっぱり。一也君面食いだものね。」
「そんなこと…」
「説得力ないわよ。」
からかわれっぱなしでむずがゆい。少しは反撃してやろうと、俺は言いかえした。
「…まぁそうだな、尚ちゃんのせいで理想が高くなっちゃって。」
「……。」
何か言い返してくるかと思ったのに、尚ちゃんは微笑を浮かべたまま口を噤んだ。…何かまずいこと言ったかな。
「尚ちゃん?」
「……ごめん」
尚ちゃんは呟いて、突然俯いて、目元を隠した。かすかに鼻を啜る音がした。え…泣いてる!?な、なんで?
「ど、どしたの?」
「いいの、ごめん、ごめんね。ちょっと待って」
尚ちゃんは涙をぬぐい、赤くなった目で俺を見上げて無理に微笑んだ。
「ごめん…俺何かまずいこと言った?」
「…ちがうのよ」
「でも…」
「…時々考えちゃうの」
「え?」
「あと少し…生まれるのが遅かったら…。一也君と一緒に居られたのかなって…」
「……。」
……え?
「ごめんね…こんなこと言って…。」
「…いや…」
それって…つまり、尚ちゃんは俺のこと…。…え、マジで?全然気づかなかった…。ずっと、子ども扱いされていると思っていた。
「…ごめんね…」
「……。」
「…ごめん…」
「…そんなに…」
そんなに、謝るなよ。そう言いかけた時、尚ちゃんは言った。
「わざとなの…」
「…え?」
「…傘…わざと忘れたの」
「…なんで?」
「また…一也君に、会いたくて」
「……。」
「電話をする理由が…欲しくて」
尚ちゃんの目から、また涙がぽろぽろとこぼれはじめた。こんなふうに泣いてる尚ちゃんは…初めて見る。記憶の中の彼女はいつも頼れるお姉さんで、しっかり者で、絶対に泣いたりしなかった。
「…好きなの。あなたのことが」
「……。」
心臓が跳ねて息が苦しい。驚きと、動揺と…決して嫌ではない感情。だけど俺には…光がいる。尚ちゃんの気持ちには応えられない。
「…ごめん、俺は…」
「わかってるわ。光さん…素敵な人だもの」
「……。」
「でも…今だけでいいから」
「……。」
「雨がやむまでは…私の傍にいて…。」
尚ちゃんが手を伸ばしてきて、俺の手を握った。俺はその手を、振り払う事は出来なかった。
「やっぱり…一也君って、優しいのね」
「…え?」
尚ちゃんが俺を見上げて、じっと見つめてきた。
「でも…こういうときは、突き放さなきゃだめなのよ」
そう言うと、尚ちゃんは突然身を乗り出してきて――次の瞬間には、唇が重なっていた。
「…ちょ…っ、尚ちゃん」
今更身を引いてももう遅い。キス…してしまった。尚ちゃんと…。
尚ちゃんは手を離して立ち上がる。そして窓辺に歩み寄って、呟いた。
「雨…上がってきたわね。」
「……。」
言われて気付いた。遠くの方の空は、わずかに晴れ間が差しはじめている。
「…帰った方が…いいわよね。」
尚ちゃんが呟いて、俺は立ち上がった。
「…帰るよ。」
「……。」
尚ちゃんが振り向く前に、俺は部屋を出た。唇にはまだ、柔らかな感触が残っていた。