日本に帰ってきて1週間。
何事もなく日常に戻ったなか、やりきれない侘しさがくすぶる俺のもとに、あの子からメールが届いた。

『お久しぶりです。』
『お元気ですか?』

木崎えみさんからメッセージが届きました。
その通知を押せずに、俺はしばらくベッドの上でごろごろしていた。なんでこのタイミングで…。しかもなんでちょっと安心しちゃってんだ、俺…。光がダメだったから今度はえみ、だなんて、都合が良すぎるだろ…。
だけど…。
あんな最悪な別れ方をした後でも、ずっと…俺のことを思っていてくれたのかな。
そう思ったら、俺はごく自然に、そのメッセージを開いていた。



***



ぼやける視界。白い天井に焦点が合ってきて、ゴロンと横を向くと、あどけない彼女の寝顔があった。

「……。」

こうしてみると、えみも結構、可愛いかも…。
光に嫌われたことで最後のタガでも外れたのか、昨夜はえみとの行為も普通にできた。普通に、といっても、俺はほぼ童貞みたいなもんだから、実際どうだったのかわからないけど…。

「ん…。」

えみが身じろぎをして、うっすらと目を開けた。真っ黒な瞳が俺を見て、ちょっと微笑む。

「…おはよ」
「…おはようございます…」

恥ずかしそうに布団を手繰り寄せるえみ。なんか、こっちまでむずがゆい。

「…なんか食うもんあるか、見てくる。」
「……。」

えみのぽうっとした視線に見送られ、俺はベッドを降りた。こんな甘酸っぱい気持ちで女と朝を迎えるのは初めてで、どうしたらいいのかわからない。
冷蔵庫を開けると、やはり大したものは入っていなかった。つーか最近までアメリカ行ってて食材溜めないようにしてたから、当たり前なんだけど…。

「ごめん、なんもねーから、何か買いに…」
「だ、大丈夫です」

えみは起き上がって、シャツを羽織った。

「もうお仕事、行かないといけないので…」
「あ…、そーなんだ…」

忙しいんだな…。
ちょっと残念に思いながら、支度を始めるえみを横目に、せめてコーヒーでも、と冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。
軽く髪を纏め、服を着たえみは、サングラスを手に取って俺を振り返る。

「じゃあ…私、もう…」

行きます…、と呟くえみに、冷たい缶コーヒーを手渡した。

「…また連絡する。」

そう言うと、えみは嬉しそうにはにかんで――

「…はい。」

そう頷いて、ぽろ、と涙をこぼした。俺は豆鉄砲を食らったように息を飲んだ。

「な、なんで泣くんだよ」

えみは涙がにじむ目尻を恥ずかしそうにはにかみながら拭って、ごめんなさい、と笑った。

「嬉しくて…」
「……。」

俺から連絡が来るのが…そんなに?

「…そっか」

なんか…ここまで思われてるとは…今まで悪いことしたな…。つーのはうぬぼれすぎかな。

「…じゃ…気を付けて」
「はい。」

また、と彼女はキラキラ輝くような笑顔でマンションを出て行った。
これでよかったんだ、と俺は胸の底で思った。



***



それからえみは毎日のように俺のマンションに来るようになった。
仕事の都合で、夜中に自分のマンションへ帰ったり、朝方慌てて帰っていくことも多く、そのたびに思っていたことを、俺は思い切って切り出した。

「…あのさ」
「はい?」

えみはバッグにメイクポーチを仕舞いながら返事をした。

「もう…住めば?ここに」
「…え?」

きょとん、と笑みは俺を見て、顔を赤くして俯いた。

「それって…。」

…同棲。
御幸も結婚前、結構長い期間光と同棲していたし。という考えがなかったわけではない。
だけどいつのまにか、えみにたいして随分自分が気を許していることに気が付いて、そうしてもいいような気がしたのだ。

「あ…でも狭いか、ここじゃ…」
「いえ!そんなこと…!わ、私のマンションの方が、狭いし…」
「…じゃ どっか探す?」
「……。」
「通勤距離とかもあるし…」

当時の御幸が住んでたレベルの1RKくらいなら、なんとかなるし…。

「…はい…」

えみが頷いて、俺は胸の奥がむずむずくすぐったくなった。なんだこれ、緊張する。御幸はどんな風に光を誘ったんだろう…こんな感じだったのかな。
えみははにかみながら仕事に出かけていき、俺も出かける準備を始めた。どんどん変わっていく。光の存在が遠くなって、なんだか、吹っ切れたように心が軽かった。



***



翌月には手ごろな場所を見つけて引っ越した。マスコミにも騒がれたけど、御幸と光のときほどではなかった。俺たちの同棲報道は3日もすればネットでも騒がれなくなった。特に世間に向けて発表したわけではないけど、もともと交際報道は前にも出ていたし、知名度の差もあるだろう。あと、年齢的なこともあるかもしれない。あの頃の御幸達はまだ20そこそこだったけど、今はもう俺たちは、結婚しててもいい歳だし…。

「ただいまー…」

家に帰るのはまだ少し緊張する。

「…お おかえりなさい…」

ちょっとはずかしそうに俺を出迎えるエプロン姿のえみ。部屋の中にはいいにおいが広がっている。

「…え、うわ、なんか作ってくれたの?」
「仕事…終わるの早かったから…」

キッチンでは鍋がぐつぐつと音を立て、炊飯器からは蒸気が上がっている。これは…素直に嬉しい…。

「へー…ありがとう」
「う…ううん…」
「……。」
「す、すぐ用意するね。」

笑みはまだ少しぎこちなく笑って食事の準備に戻った。同棲ってこんな感じなのか…。まいにちむずがゆくて、幸せだけど、なんだか落ち着かない。

「いただきます…」

食卓に並べられたのは、ご飯に味噌汁、肉じゃが、ほうれん草のお浸しと、トマトサラダ。ちょっと物足りない…けど、えみは少食だし…つーかモデルだし、ヘルシー志向なのかな。俺は後でなんか食べればいいか。
肉じゃがを一口食べた。…うん。まずくは…ない。が…美味くも…

「ど…どうですか?」

不安そうに俺の表情を窺うえみの、くりくりした黒い瞳。う…普通…とか、言えねえ。言えるわけねえ。

「美味い…よ、うん」
「ほ、ほんとに?」
「うん、美味い」
「…よかった」

えみは安心したように微笑んで、やっと食事に箸をつけた。まあ…最初から何もかもうまくいくはずはねーんだ。こういうのはちょっとずつ乗り越えていくもんだってのは、さすがの俺にもわかる。
食事を終えて、えみが風呂に入った。俺は近所のコンビニへ行って、ビールとおにぎりとつまみを買ってマンションに戻った。
えみが風呂に入って30分以上…。…長くね?あーでも、女って長風呂なのかな…。
そんなことを考えながら、いつもベッドに入る時間が迫ってきて、ちょっと焦った。今はシーズンオフだからいいけど、シーズン中に睡眠時間削られんのはきついよなぁ…。いやでも、それは言えばいいんだ。次の日試合の日は、先に風呂に入らせてもらって…、

ガチャ、と脱衣場のドアが開いた。部屋着姿のえみがリビングにやってきて、おにぎりを食べている俺を見て足を止めた。

「あ…!もしかして、あの…足りなかった…ですか?」

はっとして慌てだすえみに、俺は慌てて手を振った。

「いや、別にそんなことないけど…」

って、何言ってんだ俺!ちょっと足りなかった、って言っちゃえばよかっただろ!実際足りなかったんだし…。

「えーと…その…」
「足りなかった…ですよね?」
「…ごめん、俺大食いだから…」

大食い…って程でもないけど…アスリートじゃない人間、しかも小食なえみから見たら十分大食いなんだよな、俺って…。

「わ、わたしのほうが…すみません。そうですよね、スポーツ選手ですもんね…」
「いやー…うん…」
「今度から、あの…もっとたくさん作ります。」
「え…、お、おう…ごめん…」

…なんか申し訳ねえなー…。別に、作ってくれと頼んだわけじゃないけど…。なんとなく、後ろめたい…。
なんとなくぎこちない空気になって、俺はそそくさと風呂に入った。…甘い香りがして落ち着かない。けど、これは慣れるしかない。
風呂から出て寝室に向かう。えみはベッドの上でスマホを弄っていた。俺もベッドに入り、ちょっと迷ってから、隣のえみにそっと触れる。

「…えみ。」
「え…、あ…。」

顔を赤くしてキスに応じ、覆いかぶさる俺を見上げて、えみはぎこちなく、俺の胸をそっと押し返した。

「あ あの…今日は、あの…」
「……?」
「…せ 生理…なんです…」

ごめんなさい…、と顔を真っ赤にして申し訳なさそうに言うえみに、俺まで恥ずかしくなった。

「あ…そ、そーなんだ…」
「…ごめんなさい…」
「いやいや…こっちこそなんか、ごめん」

えみから離れ、気まずい空気のまま横になった。えみはまたスマホを弄りだす。…メールか何かかな。
……もう寝たいんだけど…電気消してくれねーかなー…。…ま、しょうがねーか…気にしないようにして寝よう…。



***



「…つかれる…」

同棲3日後。ついに御幸に電話で愚痴をこぼすと、はっはっは、と軽い調子で笑う声が返ってきた。

『まー最初はそんなもんなんじゃね?』
「うーん…」
『何、もう嫌になったのかよ?』
「そういうわけじゃねーけどさ…」
『じゃあ何が嫌なの?』
「…なんつーか…えみが悪いわけじゃねーけど…なんか…」
『なんだよ?』
「…ちょっとしたことがいろいろあわないっつーか…」
『例えば?』

意外にも真面目に相談に乗ってくれる御幸にちょっと拍子抜けしつつ、俺は改めて不安要素を考えてみた。

「…飯が少ない…」
『何か自分で用意すればいいじゃん。』
「したよ!したらなんか…謝られるし…気まずくなったんだよ」
『気ぃ使いすぎなんじゃね?』
「簡単に言うな!」
『でも飯作ってくれるなんていい子じゃん。』
「んー…でも…」
『なんだよ?』
「…ぶっちゃけ…フツーなんだよな」
『普通って?』
「まずくはない…けど、美味くもない…」
『贅沢者。』
「お…お前に言われたくねーよ。あんな…料理上手な嫁さん、もらって…」

不意に光の事を思い出しそうになって、咄嗟にかき消した。

『光は一緒に暮らし始めた頃は料理できなかったけど?』
「…え!?」

俺はつい大きな声を上げるほど驚いた。あの…和洋折衷プロ級の料理を作り、最近ではレシピ本まで出してる光が…料理できなかった…だと!?

『単純にやる機会がなかったんだろうな。家にはお手伝いさんがいたし。最初は俺が作るのを隣で見てたよ。』
「……。」
『でもそのうち、俺が知らない間に料理教室に通ってたらしくてさ。俺がシーズン20号HRを達成して帰った日…めちゃくちゃ美味いちらし寿司作って待っててくれてさ〜。』
「……。」
『いや〜あの日は感動した…』
「テメー…ちゃっかりのろけてんじゃねえ!」

はっはっはっは!と悪びれない笑い声が響く。クソムカつく。

『で、あとは何が不満なわけ?』
「…不満ってわけじゃねーけど」

俺はそう言い訳のように前置きし、ぽつりぽつりとつぶやいた。

「やっぱなんか…毎日のルーティンが崩れるし…」
『お前ってそんな繊細だったっけ?(笑)』
「るせっ!とにかくなんか違和感つーか…落ち着かねんだよ!」
『それはしょーがないだろ。お前女に免疫ないし。慣れるしかないんじゃね?』
「…お前どのくらいで慣れたよ?」
『俺?俺は別に光に不満なんてなかったモン。』
「こっちだって別に不満じゃねーし…」

ぶつぶつと言い訳しながら、疎ましい気持ちをそのまま御幸に八つ当たりするようにぶつけた。

「…じゃーお前同棲するにあたって苦労とか何もなかったのかよ?」
『苦労っつーか、そりゃ最初は驚いたこともあるけど…』
「驚いたこと?」

うん、と言って、御幸は話し始めた。


同棲を始めてすぐの頃。練習を終えてマンションに帰ってくると、リビングに人はなかった。

「ただいま。」

一応声をかけて部屋に入ると、どうやら光は風呂に入っているらしかった。風呂か、と誰にでもなく呟いて荷物をおろし、携帯を開いたところで、脱衣所のドアが開いた。

「あ…おかえりなさい。」
「おう…、…!?」

何気なく顔を上げると、下着姿にキャミソールだけ着た格好で髪を拭きながら出てきた光がいた。慌てた様子もなくきょとんとこちらを見上げ、胸元に流れる滴をタオルで拭う。

「…あのさ…」
「はい?」
「…服着てくんない?」

え、と光が大きな目を瞬いた。

「お風呂上りって暑いんだもん…」

…うん。わかるけどさ…

「俺が大変なことになるから、お願いだから服ちゃんと着て。」
「はいはい。それよりちょっとお願いしたいんですけど」

はいはいって…。それよりって…。
呆然とする俺の前に、光は背を向けてキャミソールの肩ひもをはらりとおろした。

「ブラの紐、ちょっときつくしてくれませんか?」
「………。」

目の前でいきなり脱ぐなよ…!!と心の中で叫びながら、もう苦笑いを浮かべるしかなくて、肩ひもを慣れない手つきで調節した。

「…はい」
「ありがとうございます。」

光はキャミソールを直し、こっちを向いて、胸を手で支え上げた。胸が寄せ上げられ、目の前で揺れる。俺の目は釘付け。

「うん。ちょうどいい。」

光はそう言って、髪を拭きながら踵を返し――その腕を俺はひきとめて、白いうなじにかぶりついた。

「ひゃっ!?ちょっと、なに…?」
「お前が悪い。」
「え、ちょっと…!」

胸を揉みしだいてから解放すると、光は顔を赤くして俺を睨んだ。

「嫌なら服着なさい。」
「……。」

やっと意味が分かったのか、光は黙りこんで、うなじを手で押さえて部屋に逃げ込んだ。


『…まあ今じゃ俺も風呂上りはパン一だけどな〜。そのうち慣れる慣れる。』
「…ぜんっぜん参考にならねーんだけど…」
『あと同棲始めた頃と言えばアレだな〜、掃除のことで一回喧嘩したかな』
「お!それそれ、そーいうのを聞きたいんだよ俺は!」
『急にテンションたけぇなぁ』
「ヒャハハ。お前らもそんな喧嘩するんだな〜。何何、ちゃんと掃除しろって怒られたのか?」
『違う違う。光が仕事行ってる間、俺が掃除してたらさ…』


風呂掃除にトイレ掃除、キッチンの水回りもすっきりと掃除をした。もともと光がこまめに掃除してくれてるから、そんなに汚れてないけど、俺はしばらく遠征だし光も最近忙しいし、今日オフで徹底的に掃除できてよかった。
痕は寝室に掃除機掛けて…そろそろ布団も渇いたかな、とリビングに掃除機を取りに行くと、ちょうど帰ってきた光と出くわした。

「あ、おかえり。」
「ただいま…。」

光は不思議そうに部屋の中を見渡していて、掃除機を取り出す俺を見るなりはっと息をのんだ。

「…一也さんまた掃除したでしょ!!」
「え?うん…したけど…」

なんだ…?なんか怒ってる?

「私昨日したのに…」
「…うん、でも俺明日から手伝えないし…光も忙しいじゃん」
「どこか汚れてた?」
「そうじゃないけど、しとけば楽かなって」
「……。」

光は悔しそうな悲しそうな顔で黙り込んでしまった。な、なぜ!?

「…光?」
「…掃除したかったのに…」
「え??」

掃除…したかった??光ってそんなに掃除好きだったの?

「ご、ごめん…?」
「……。」
「そんなに掃除好きだったとは知らなくて。」
「…そうじゃないですけど」
「え?」

光は顔を赤くして、ぽそぽそと呟いた。

「…一也さんの為にするのが…好きなの」
「……。」



『やべ〜〜思い出すと未だに照れる…』
「結局のろけかよ!死ね!!」

へへへえ、と笑い声にすら覇気が無くなってきた御幸。やっぱ何の苦労もしてねーじゃねーか…同棲については…。

「つーかなんだその喧嘩…喧嘩じゃねーよそれ…やっぱ変なカップルだな」
『褒めるなよ。』
「褒めてねーよ。つかじゃあ何だ…それからはずっと光が家事してんの?なんか申し訳なくならねえ?そういうの…」
『いや大体一緒にしてるけど。』
「……。もっと苦労したようなエピソードはねーのかよ」
『苦労〜…?』

御幸はしばらく考えて、うーん、と呟いた。

『先輩たちから散々恨み言聞かされたことくらいかな。』

だめだ…こいつからは惚気しか返ってこねえ…。参考にする相手間違えた。

「もういいわ。お前じゃ参考にならねえ。またな」
『はー?なんだそれ。』

不満げな御幸の声を無視して電話を切った。あと相談できそうな人といえば…。…光臣…も牧瀬と同棲してたっけ。でもあの使用人だらけの屋敷で同棲なんて…絶対参考にならねーだろ。

 


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