「じゃあ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい。気を付けて。」

今日から光は撮影のため日本へ行く。ハリウッド女優が来日するとなって、もともとの予定の撮影以外にもインタビューやらバラエティー出演やら、あれもこれもとオファーが殺到してしまったらしいけど…。
無理はするなと言い聞かせ、あとは周防に任せることにした。今回の仕事はもちろん、マネージャーの周防とSPも同行する。

「…エレベーターを呼んでおきます」

迎えに来ていた周防は踵を返して部屋を出て行った。俺は苦笑して、光の腕を絡め取った。

「…アイツ気が利きすぎてコワイ。」
「ふふ…」

はにかんだ光の、赤い唇にキスをして、別れを惜しむ。

「行ってくるね。」
「ああ…。」

するり、と手の中から光の柔らかな手がすり抜けて行った。周防にエスコートされ、手を振ってエレベーターに乗り込む光に手を振り返して、エレベーターの扉が閉まると、俺は唇を噛んでため息を吐いた。…1週間か…。…長い…。



***



「あ…。」

廊下に尚ちゃんの姿を見つけて、苦い思いが胸ににじんだ。尚ちゃんはチームメイトとトレーニングについて話している。あのことがあってから、尚ちゃんに会うのは気まずい。だけど尚ちゃんはあれから俺に距離を置いているような感じがして、きっとあの日のことを後悔していて、なかったことにしたいんだろうと思うと、少し安堵した。

「おはよう。」
「おっ、おはよう!」
「おはよう…。」

すれ違いざまに平静を装って二人に挨拶し、俺はそのまま通り過ぎる。

「一也!今嫁さん日本に帰ってるんだって?」

しかしチームメイトが俺を呼び止めてそう言った。尚ちゃんの目が瞬いて、俺は極力チームメイトの顔だけを見て愛想笑いを浮かべた。

「ああ、うん…仕事で。」
「じゃあ今日うちに夕食に来ないか?」
「え?」
「バーベキューをするんだ。夜のバーベキューなんて最高じゃないか?」

ハッハッハ、と豪快に笑うチームメイト。彼らしい。

「他にも何人か声をかけてるんだけどな。」
「ああ、うん…じゃあ、行こうかな。」
「おっ珍しい!こりゃうちの娘が大喜びするぞ。」
「ははは…。」
「今10歳なんだ。お前のファンなんだよ。」

娘はやらないからな、と小突かれて、そりゃ残念、と肩を竦めてその場を去った。



***



チームメイトの家で食事をごちそうになって、マンションに帰ってきたのは夜の0時だった。日付が変わる前にお暇できたのは、まだ小さい子供がいたおかげ…。睡眠は重要だし、さっさと風呂に入って体を温めて寝よう。

小さい子どもと言っても、もう10歳だったけど…子供って可愛いもんだな。光も、あの頃に比べて前向きになってきているし…成り行きに任せようということになったけど、実際お互いに忙しくてゴムつけちゃうんだよなぁ…。光は映画の撮影のキリがつくまでは無理だろうし。うーん…いっそちゃんと決めたほうが良いのかなぁ、来年は子供作る、とか…。忙しい事を理由にしてたら、永遠に子供なんて持てない気がする…。
親父も、口は出してこないけど、孫を楽しみにしてるだろうし…。光の叔母さんだって…。それに、俺も…光との子供は欲しい。

エレベーターのドアが開き、部屋の鍵をポケットから出しながら廊下を歩いて行って…ぎょっとした。

「こんばんは。」

壁にもたれかかって、小さな紙袋を持った尚ちゃんがそこにいて、明るくにこにこ笑っていた。

「えっ…な、何?どしたの?」
「おすそ分け。」

尚ちゃんは紙袋を持ち上げて見せた。ぽかんと口を開けたまま佇む俺に、尚ちゃんは噴出した。

「あはは、警戒しないでよ。昔みたいに、ちょっと弟の世話を焼きたくなっただけ。」
「……。」
「光さんがいないから、栄養が偏っちゃうかなと思って。野菜の常備食をいくつか。ハイ。」
「いや、でも…」
「…受け取ってよ。じゃないと、なんか変な感じじゃない?」

俺は迷ったけど、尚ちゃんのからりとした笑顔に押し切られて、紙袋を受け取った。

「…ありがとう。」
「こちらこそ。…恥ずかしいんだけど、これでこの間のこと、水に流してほしいかなって…。」
「え?」
「一也君と気まずくなるの、嫌だもの。確かにちょっと、あなたにドキドキしたこともあったわ。年頃だったからね。でも、ほら…わかるでしょ?婚約者のこと…思い出して、ちょっと寂しかっただけ。ねっ。」

ごめんね、と冗談交じりに言う尚ちゃんに、俺はちょっと救われた。なんだ、そーだったのか…。

「そっか…。」

俺が苦笑を浮かべたのを見て、尚ちゃんはほっとしたように微笑んだ。

「バーベキューしてきたんでしょう?すごくお酒臭いわよ。」
「はっはっは…勧められちゃって…」
「ふふ、もう…明日大丈夫?」
「なんとか…。」
「二日酔い対策のドリンク作ってあげましょうか?」
「え…、」

目を丸くした俺に、尚ちゃんはふふふと笑って、俺に手渡した紙袋を指した。

「実はこんなこともあろうかと、材料持って来たの。」

な、なんか尚ちゃん、急にお節介焼きに戻ったな…。昔からそうだった。皆の面倒を見るお姉さん、みたいな…。

「い、いや、平気だよ」
「もう、遠慮しないでよ、らしくない。気まずくなっちゃうじゃない。」
「……。」

まあ…確かに、尚ちゃんを意識するからおかしな空気になるんだ。そーだ。

「…じゃ、お願いします…」
「うふふ。」

部屋に尚ちゃんを招き入れ、ちょっと胸の奥がキリキリしながらも、部屋の電気と暖房と、それから無意味にテレビも付けて、俺は上着を脱いだ。尚ちゃんもコートを脱ぎ、早速キッチンに立つ。
光がいつも立っている場所。そこに光以外の、しかも尚ちゃんがいるのは…すごく違和感を感じる。

「前に来た時も思ったけど、いいキッチンよね。」
「ああ…うん」

光は料理好きだから、このマンションを買う時にキッチンはこだわったところだ。と言っても、俺も光もいつかはもう少し利便性の高いところに引っ越すつもりでいて、契約の範囲内でしか弄ってないけれど。

「すぐにできるから。」
「ありがとう。…ちょっと、シャワー浴びてくる。」
「ええ。よく体を温めてね。」

本当に姉か母親かというような言葉に、俺はちょっと苦笑しつつ、シャワーを浴びに行った。
バスルームから出てリビングに戻ると、尚ちゃんはジュースを作り終え、テーブルにグラスが二つ並んでいた。

「どうぞ。」

尚ちゃんがからかうような笑顔でグラスを勧めてくる。その表情から、美味しいジュースではないらしいことが想像できて、俺も笑いながらグラスを持ち上げた。

「いただきます。」

口の中に流し込むと、これは…。…確かに、よく効きそうな…。

「全部飲むのよ。」

尚ちゃんの追い討ちに笑いながらジュースを飲み続ける。その隣で、尚ちゃんは涼しい顔をしてもう一つのグラスをあっという間に空にした。
俺はやっとの思いで全部飲み干して、口元を拭った。

「…何が入ってんの?」
「ヒミツよ。」

尚ちゃんは人差し指を口元に当てて笑った。

「いやーでも、よく効きそう…」
「でしょ?」
「もうすでに眼が冴えてきたし」
「酔い覚ましであって、眠気覚ましじゃないんだけど?」
「はっはっは!」

うふふふ、と笑う尚ちゃんを見て、なんだか普通に過ごせていることに安堵した。

「ねえ」

尚ちゃんは俺をソファに促し、自分も隣に座った。

「奥さんとよくお酒飲んだりするの?」
「いや、光は酒弱いからあんまり…。時々かな。」
「へ〜、そうなんだ。一也君は?お酒好き?」
「んー…まぁ普通に…付き合い程度かな。」
「そうなの。」

尚ちゃんは意外そうに目を丸くして、相槌のように笑った。

「奥さんとの出会いはどんな感じだったの?」
「え〜なんでそんなこと聞くんだよ。」
「気になるじゃない?」
「恥ずいって。」
「いいじゃない、教えてよ。」
「……。…俺が知らない後輩に、呼び出されたときに…」
「あら。やっぱり一也君ってモテモテだったんだ?」
「いやいや…。…で、光も知らない先輩に呼び出されてて」
「へぇ〜〜。」
「お互い呼び出された相手だと勘違いして…俺が声かけて、でなんかおかしいってことになって…」
「ふふふふ。」
「誤解はすぐ解けたけど。で、なんか面白い子だな〜って…」
「しかも可愛いし?」
「やめてってば…」
「うふふふ。」

尚ちゃんは足をぱたぱたさせてはしゃいだ。

「ねぇねぇ、じゃあ、告白はどんな感じでしたの?」
「…え〜〜〜もう勘弁してくれよ…」
「いいじゃない。ね、教えて教えて。」
「はは…。えーと…なんか…あの時はちょっと、光と気まずくなってて…」
「どうして?」
「ん〜今思うと…お互い意識しすぎてたって言うか。」
「あら〜…それで?」
「で、なんか避けられるのが嫌…嫌っていうか、もう気まずくなるくらいなら告っちまえと思って」
「一也君らしい。」
「まぁ…、付き合って、って言って…。」
「オッケーだったんだ?」
「う、うん…」

顔が熱い。その俺の顔を、尚ちゃんは面白がるように見つめた。

「からかわないでよ。」
「だって…うふふ。いつも飄々としてる一也君が照れるなんて、レアだもの。」
「……。」
「でもいいなぁー。そんな青春、私もしてみたかったなぁ〜…」

冗談か本音かわからない調子で声を上げた尚ちゃんは、あーあ、と天井を仰いだ。

「…ねえ、これは私の勘なんだけど…」
「ん?」

かと思うと、ふと神妙な顔をして、尚ちゃんは身を乗り出してきた。

「気を悪くしないでね。」
「…うん?」
「あの…倉持さんっているじゃない?」
「ああ、倉持?」
「仲良いでしょう?」
「…まー高校からの腐れ縁って感じかな」
「光さんとも、付き合い長いんでしょう?」
「……それが?」
「うん…あのさ、倉持さんって、光さんのこと…?」

遠慮気味に俺の顔色を窺う尚ちゃんの黒い瞳に、俺は口元が引きつった。

「あー…、昔、ちょっとな。でも、もう倉持も彼女と同棲してるし。」
「あら、そうなの?」
「まぁ一時期マジで焦った時あったけど…」
「え?どういうこと?」
「結婚前、倉持が光にマジ惚れしてた時期があって…」
「それで?」
「俺と光がちょっと…モメてた時期だったから、マジで奪われるかと…」

あれ…何で俺、こんな話してるんだろう。しかも尚ちゃん相手に…。

「…光さんも倉持さんが好きだったの?」
「…多分…惹かれる気持ちはあったと思う」
「……。」
「けど…絶対失いたくなかった…。」
「……。」
「俺…光を愛してるんだ。…すごく…。」

頭のどこかで自分の言葉を他人事のように聞きながら、猛烈な眠気に襲われた。飲み過ぎた…かな。もうこのまま…眠ってしまいたい…。

「……。」

尚ちゃんが口開くのを最後に、俺はとうとう目を閉じた。

「…愛してる?」

その言葉に、俺は意識を手放しながら、かろうじて返事をした。

「愛してる…。…ずっと…」

 


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