最上階まで着くと、そこにはエレベーターホールから部屋へ向かう通路の間に鍵がかかった扉があって、俺は横のインターフォンを押した。
応答はなかったが、少しして、遠くでドアが開く音がして、通路の曲がり角から光が歩いてきた。光は角を曲がって俺の姿を見た途端、はっとして立ち止まったけど、一歩後ずさるのを引き留めるようにガラスのドアをノックすると、迷うような顔でゆっくりとこっちに歩いてきた。

光がそこまでやってきて、沈痛な面持ちで通路のドアを開けた。

「……なんで…。」
「……。…御幸に何された?」
「……。」
「何かあったんだろ?…泣いたのか?目が赤い。」
「……。」

つい伸ばした手を、光は顔を背けて避けた。

「……御幸と約束してたんだよ」
「え…?」
「光のこと…諦めるけど、御幸が光を悲しませたときは…」
「……。」
「…全力で奪いに行くって」

光はどこか足元の方を頑として見つめたまま、俺の顔を見ない。だけどその目にじわりと涙が滲んできて、とうとう瞬きをしたときに頬に雫が溺れ落ちた。

「光…、」
「や……、」

細い腕を掴んで近づくと、光は後ずさりをして、俺の背後で扉が閉まった。

「か…帰ってください…。」

光は腕を振りほどき、顔を背ける。

「……これで何度目だよ。」
「……。」
「もう御幸にお前を任せられねえ…。」
「……倉持さんはわかってない。私には一也さんが必要なんです。」
「俺はそうは思わない。」
「……。」
「俺は絶対、お前を泣かせない。」

光は堪えるように唇を噛んだ。頬を拭っても拭っても、濡れた長い睫からどんどん雫が伝い落ちてくる。

「何があったんだよ…。」
「……。」
「それだけでも教えてくれ。」
「……。」

俺が一歩踏み出すと、光は逃げるように一歩退く。

「帰って…。」

やはり、目は合わない。

「…お前をほっとけない。」
「倉持さんには…えみちゃんがいるじゃないですか」
「……。…知ってたら、えみと付き合ったりしてない」
「え……?」
「光、えみに協力してたんだろ。俺とのこと…。アメリカで俺を拒絶したのも、そのために…」
「…ちがいます!あれは本心です…」
「……。」
「倉持さんに特別な気持ちはありません。えみちゃんとうまくいってほしいって、本当に思ってます。」
「……。」
「もし、一也さんが本当に……。」

光の声が震え、少し鼻を啜った。

「…本当に…。…尚さんと…そういう関係だとしても」
「……。」
「倉持さんには関係ありません」

光は手を伸ばし、俺の胸のあたりを押し返した。

「帰って。」

そして踵を返し、部屋に向かって歩き出す。

「…光!」
「帰って!」

追いかけて行って、目の前でドアが閉められて、俺は立ち止まる。

「…光!…あ 愛してる…!」

聴こえてるかもわからないまま、俺は必死に訴えた。

「御幸より…伝えるのが遅くなった…」

「けど……すげえお前のこと…大事なんだよ…!」

「…答えてくれるまで…ずっと待ってる…」

返事はない。期待もしてない。だけど俺は、そこに座り込んだ。
光の為なら…何時間でも、何日でも待ってやる。

もう…10年、光を想ってきたんだから……。



***



どれくらい時間が経っただろうか。通路の窓の外はもう、日が暮れていた。
電話が鳴ってそのことに気が付いて、スマホをポケットから取り出すと、えみからの電話だった。
……えみ…。俺をずっと一途に想ってくれている子。そう思ってふと、それは俺の中で未だにえみからの一方通行なのだと気が付いた。そして、えみに色々と世話を焼いてもらうことが後ろめたいのも、きっと、自分にはそれに応えるだけの彼女への気持ちがないからだと…今更、やっと気が付いた。
応答ボタンを押す。えみが何を言おうと、彼女に言う言葉はもう決まっていた。

「あ…。洋一さん…。」

俺の機嫌を窺うような声。いつもそうだ。えみに不機嫌を現したことなど一度もないけど。むしろ、いつも気を遣って…お互いに気を遣ってばかりだ。

「あの…。帰りが遅いから…どうしたのかと…。」
「……ごめん。まだしばらく、帰れない。」
「……。」

どこにいるのか、とか、何をしてるのか、とか、聞かれるかと思ったけど…

「…わかり…ました…。」
「…うん」
「気を付けて…。」
「ああ。じゃあ…」

電話を切った。えみはきっと悲しんでいると思った。だけど…それに対して俺は罪悪感を感じるだけで、飛んで帰るほどの気持ちはわかなかった。光の所へは、いつも、どんなときでも、駆けつけているというのに…。

…カチャ、と背後のドアが鳴った。泣きはらした顔の光が俺を見ていた。

「…どうして…まだいるの?」

光の声は震え、それは拒絶と言うよりも動揺だった。

「10時間も…」

10時間…。そんなに経っていたのか。

「…もう10年近く待ってる。」

そう答えると、光は口を少し開いて、言葉を失った。

「10時間くらい…待つに決まってるだろ」
「……。」

光はもどかしげに顔を歪めて涙を流し、見ている方が惜しい気持ちになるくらい、綺麗な頬を伝う涙を、大雑把に拭った。

「…嫌い」

それから、独り言のように呟き始めた。

「倉持さんなんて嫌い」
「……。」
「どうして待ってるの?」
「……。」
「ずっと…」
「……。」
「…そういうところが嫌い」
「……。」
「なんで……」
「……。」
「……っ、なんで待つの……。」

光の声が震え、顔を覆って泣き出した光の肩を、俺は抱きしめた。

「…待っててよかった」

胸を押し返す弱い力。言い訳のように俺の胸に触れていた手が、やがて弱弱しく服を掴む。俺の腕の中で光は肩を震わせて泣き続け、俺は彼女の柔らかな髪と肌とをがむしゃらに抱きしめた。

「愛してる……。」

彼女のこめかみにそう囁いて、えみにはそんな風に言ったこともなかったと思い出した。やっぱり…こんな風に胸が熱くなるのは、光だけだ…。

「やだ……。」

俺の服を掴んだまま、光は俺を押し返す。弱い力で、全然びくともしないのに。

「帰って…」
「…説得力ねぇよ。」
「……。」
「俺を拒絶すんのは…えみのためだろ?」
「……。」
「だけど…もうここまでお前を追いかけてきたんだ。俺は覚悟決めてる。」
「……やめて」
「全部失ってもいい。…光が欲しい」
「……。」
「その気持ちだけは…ずっと変わってない」
「……。」
「…知ってるだろ?」

光が一番わかっているはずだ。何をどうしても、俺が一番大切なのは、光だという事…。

「……。…やっぱり、駄目…!」

光は俺を振り払った。今度こそ手も離して。だけどそれも弱い力で、俺たちの間には人ひとり分の距離すらも開かなかった。

「……これだけは黙っててやろうと思ってたけど…」
「……え?」

俺は卑怯だと思いながら、口を開いた。

「お前を悲しませたくなかったし…御幸を信じてたから、黙ってた」
「……。」
「だけど…」
「……。…何の話?」
「……御幸から聞いた。武藤さんにキスされたって」
「……。……え……?」
「アメリカで…夕立で、御幸が帰れなかった日…。あの日アイツ、武藤さんに呼ばれて出かけたんだ。忘れ物をしたからって…届けに行ってくるって。それで…」
「……。」
「武藤さんのアパートへ行って…詳しくは聞いてねぇけど……。…キスされたって」
「……。」
「これでもまだ、御幸を信じて待つのか?」

光はどこか呆然として、深い青色の瞳が暗くなった。その姿に俺は胸が痛くなったけど、必要なことだと自分に言い聞かせた。

「…光。俺はお前だけを見てきたんだぜ。」
「……。」

光は落ち込んだように俯いた。何も反論できないと、震える赤い唇が物語っていた。

「…光…、」

その唇に、一瞬、素早く唇を重ねた。光ははっとして身を引いた。目が合って、光の瞳が迷うように揺れて、その隙を見つけた瞬間、俺は踏み込んだ。

「…ん…っ」

唇を重ねる。光の手が俺の肩を押し返す。だけどそれもだんだんと弱く……弱くなっていく。

「は…、…だ、だめ……。」

ゆるゆると頭を横に振りながら、俺に唇を舐められ、食まれ、部屋の中に、奥に連れていかれ――光はベッドに躓くように座った。

「光…っ」

衝動のままに覆いかぶさって柔らかな体を抱きしめ、こめかみや首筋にキスをして、大きな胸に手を這わせた。シャツの向こうに下着の感触…そして柔らかな塊の手ごたえ。手からあふれんばかりの大きな胸…白くてきれいな…

「だ…だめ…」

想像すると堪らず見たくなって、ボタンを外し始める俺の手を、光の手が掴んで阻んだ。

「やめて…」
「…御幸より大事にする」
「……そ、…そんなの…」
「大丈夫だから」
「だめ…。だめ…」

顔を背けて光は俺を押しのけて、震える声で零した。

「一也さん……。」

なぜ?どうしてこんなになってまで、御幸を…

「…御幸は助けてくれねぇぞ」
「……。」
「いつも…お前の所に駆けつけたのは、俺だっただろ」
「……。」
「…光!」

小さな両頬を包んで前を向かせ、縋るような思いで、青い目をじっと覗き込んだ。

「俺を見ろ…。」
「……。」

怯えたような、不安そうな目が俺を見つめ返す。肌蹴たシャツの間から、白くて丸い膨らみが覗いている。

「…俺を信じろ。」
「……。」
「絶対幸せにするから…何も心配しなくていいから」
「……。」

不安に揺れる瞳を見つめて、確信した。
光が…俺か御幸か、迷ってる。…迷ってる。今繋ぎとめれば、きっと…。

「…お前がいれば…なんでもできる」

心からの本心を訴えた。一生光を守っていくつもりだった。光が手に入るなら、他に何もいらないと思った。
だけど次の瞬間、俺の横っ面に、ぺちん、と衝撃がぶつかった。光に叩かれた…それを自覚するのと同時に、思い出した。

あ…。今の言葉…、…御幸のプロポーズと同じ…

「…もうやめて」

光は起き上がってシャツの襟元を手繰り寄せ、じりじりと俺から離れた。

「…私…最後まで一也さんを信じる」

光はそう言って、シャツのボタンを閉めると、ベッドから降りてスマホを手に取った。

「……。」

電話をかけた相手は待っていたようにすぐに応答したらしい。

「…周防君?…すぐに来て。お願い。」

それだけ言うと光は電話を切って、俺を振り返った。

「今すぐ帰ってください。」

その目は、涙に濡れながらも、強い決意を宿していた。

「…わかった」

俺もベッドから降り、光を見つめ返した。

「今日は帰る。だけど…」
「……。」
「…俺はずっと待ってる。」

光は答えなかった。俺はベッドサイドの上に置かれたメモ帳に自分の電話番号を殴り書き、ビッと破り取って光に近づいた。頑として顔を背ける光の手に、無理やりその紙をくしゃくしゃに握らせた。

「いつ、どんなときも、いつまでもずっと、お前の事を一生愛してる男の連絡先だ。」
「……。」
「いつでも、どこでも、すぐ駆けつけるから…」
「……。」
「…持っててくれ」

光の手をメモごとぎゅっと握って、合わない目をしつこく覗き込んで、俺はやっと、後ろ髪惹かれながら部屋を後にした。

 


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