俺がマンションに帰った時、思った通り、えみは起きて俺の帰りを待っていた。
時間は深夜0時…いつもなら、えみはもう寝ている時間だ。

「あ……。」

えみは立ち上がり、俺の様子を窺うように見る。

「おかえりなさい……。」
「…ただいま。」

どこに行っていたのかとか、何をしていたのかとか…聞きたいことはたくさんあるだろう。なのに、荷物を下ろして上着を脱ぐ俺を、えみは何も言わずに…いや、言えずに見つめていた。
…言わなきゃならない。できるだけ早く。一日でも早く。
俺はその決意を固めながら、ここへ帰ってきた。

「…えみ。」

改まって名前を呼ぶと、えみは不安をにじませた目で俺を見た。

「……何……?」

聞きたくない。えみの顔はそう物語っていた。

「…ごめん。」

えみに向き直って、俺は頭を下げた。

「……、……別れてくれ。」

――ゴトン、と音が響いた。えみの足元に、彼女のスマホが落ちていた。

「……え…?」
「…本当に、ごめん。」
「……。」
「えみは何も悪くない。俺が…馬鹿なだけで」
「……。」
「……。」

しばらく沈黙が流れた。顔を上げると――えみは静かに大粒の涙をボロボロと零れるままにして、立ち尽くしていた。

「…ど…うして……?」
「……何を…失っても……守りたい子がいる」
「……。…それって…」
「……。」
「……光先輩……ですか?」

俺は口を引き結んでつばを飲み込み、頷いた。

「…そうだ。」
「……。」

えみの黒い瞳から、諦めたように光が消え、その色は暗くなった。

「…あきらめの悪い馬鹿で…ごめん」
「……。」

力のなかったえみの表情が歪み、俺を見上げる。

「…やだ…。」
「……。」
「諦めなくてもいい…。光先輩に敵うなんて思ってない…!」
「……。」
「でも行かないで…!!」

いつも、わかりました、と俺の顔色を窺っているえみが…そんなふうに自分の気持ちを主張するのは初めてだった。

「光先輩には御幸さんがいるじゃない…!」
「……。」
「ふたりとも…っお似合いで…!」
「……。」
「うっ…、…よ、洋一さんが入る隙、なんて…ないでしょう…?」
「…それでも、光の為に…傍に居てやりたい」
「なんで…っ」

俺は下した荷物をまた持ち上げた。

「……今日、光の所に行ってたんだ」
「……え…?」

えみの顔に動揺が広がる。…当たり前だ。

「光に何かあったって聞いて…居ても立ってもいられなかった」
「……。」
「光には拒絶されたけど…」
「……。」
「でも関係ない。俺はずっと…光のことが好きで…」
「……。」
「…ほっとけない。」

えみはどこか空を見つめたまま涙を流し、ぎゅっと目を瞑って嗚咽を零した。

「今まで…俺なんかの為に、ありがとう。」
「…っ…。」
「えみは……美人だし、優しいし…俺の心配ばかりして…尽くしてくれて…」
「……。」
「すごく…嬉しかった、だけど」
「……。」
「えみが俺の為に…何かしてくれる度に、」
「……。」
「その気持ちには、応えられないと思った」

改めて言葉にすると…

「…ほんと…最低だな、俺」

痛いほど自覚する。でも、迷いを抱えたまま、俺をまっすぐに愛してくれるえみの笑顔を見るのは…辛い。

「ここは…しばらくいてくれていいから」
「え……」
「本当に…ごめん」

上着を取って踵を返すと、えみが腕にすがりついてきた。

「やだ…!待って、行かないで!」

俺はえみに縋りついて引き留められるほどの人間じゃないのに…。えみは騙されてる…彼女自身の幻想の中の俺に。

「ごめん……。」

その手をできるだけ優しく引きはがして、俺はマンションを出た。
腕に残ったえみの手の感触が、いつまでもこびりついていた。



***



適当なホテルに転がり込み、軽食を掻きこんでいると、御幸から電話が来た。無性に腹が立って、無視しようかしばらく迷ったけど、詳しい事情を知るためだと自分に言い聞かせて応答した。

「何」
「倉持?」

なんだこいつ、ちょっとほっとしたような声出しやがって…。いったいどういうつもりで俺に電話なんて…。

「だからなんだよ」
「牧瀬の電話番号知らねえ?」
「はあ?何で?」
「光臣に掛けたけど出ねーんだよ…お前ら仲良かっただろ」
「…知ってるけど、教えねー」
「は!?なんでだよ」
「そっちこそ、なんで牧瀬の番号なんて聞くんだよ」

御幸が言葉に詰まった。後ろめたい事情だあるのだと直感した。

「…光と連絡がとれねーんだよ」

はっ、と面白くもないのに笑いがこぼれる。幸い御幸には聞こえなかったようだ。

「光なら、今日会ったけど」
「え…、どこで?」
「ホテルで」

沈黙から御幸の動揺が伝わってくる。

「言ったよな?光を悲しませたら、全力で奪いに行くって」
「お前……、な…何言ってんのかわかってんのか?ホテルって何…」
「何もしてねぇよ。光に何かあったって聞いて、ほっとけなくて…会いに行った」
「……。」
「光…泣いてたぞ。」

そう御幸を責めながら、えみを泣かしてここにいる自分にこんな事を言う権利ねぇよな、と自虐的に思った。

「なんで……」
「聞きてぇのはこっちだよ!光に何しやがったテメェ!!」
「……。…光と話したい。」
「んなこと知ったこっちゃねぇよ!」
「こっちだってお前に言われる筋合いない。木崎さんはどうしたんだよ」
「別れたよ」
「…は?」
「さっき別れた。光をほっとけない。そんなの、えみにも申し訳ないから」
「……。」
「俺にも説明しろよ。お前、光に何したんだよ!」

御幸はしばらく言葉に詰まって、やがて、息を吐き出すような掠れた声で言った。

「……わからない」
「はあ!?わからねぇ事でなんで光があんなに泣くんだよ!」
「……。」
「おい!なんとか言え!!」
「…お前には言わない。」
「ハァ!?」
「お前には関係ない。」

このクソ眼鏡、と怒鳴りつける前に、電話は切れた。俺に弱味を見せたくないってことなんだろう。あいつの中で、俺は味方ではなく、敵になった瞬間だった。
だけどあいつは今アメリカにいる。俺は光と同じ、日本に…東京にいる。会いに行こうと思えば会いに行ける距離に。今すぐにだって…。

…でも、今会いに行くのは違う。

光は御幸を信じると言ったけど、御幸と武藤さんの間で何かがあったことは明白だ。俺が武藤さんの話をしたら光の顔色が変わった。不安と動揺と確信。何かを思い出したような青ざめ方。疑惑の核心に気が付いてしまったような。

きっと…また俺を頼ってくれるはず。待つのはもう慣れた。

俺はベッドに寝転んで、薄暗い天井を睨んだ。

 


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