299
光の父親がアメリカまで光を探しに来るなんて。
光は父親に追いかけられてから、ますます外出を控えるようになった。仕事も家でできることは極力そうするようにして、部屋でテレビ通話を使って衣装の打ち合わせをしたり、トレーニングメニューも家でできる自重メニューを中心に変更したと聞いた。
引退に向けて仕事は減らしていたから大した不都合はないよ、と光は軽く笑っていたけど…
「じゃ…行ってくる」
「行ってらっしゃい。」
光が玄関まで見送りに来て、キスをして部屋を出た。
通路にはSPが立っている。今日は周防は光の仕事の調整で出かけている。
俺の留守中に何かあったら…。不安になりながら、やるべきことを投げ出してずっと二人で部屋に籠っているわけにもいかない。
…倉持がいたら…なんて、思ってもいけない。絶対に。
光は俺一人で…夫として、守らなきゃならないし、守りたい。
***
帰宅すると、料理をするいいにおいが漂ってきた。
「おかえりなさい。」
手が離せなかったのか、キッチンの鍋の前で光はしきりに俺を振り返って言った。
「ただいま。」
部屋の中を見渡す。いつもきれいにしてくれているけど、今日はまた一段と部屋の中がこざっぱりしていて、掃除でもしてくれたのかもしれない。洗濯物も片付いているし、シャワーを浴びにバスルームに入ったら、そこも掃除をしたらしく綺麗になっていた。
今日もずっと家にいたのかもな…。気晴らしに出かけることもできないなんて。
俺はシャワーを浴びて、リビングに戻った。
「ご飯できたよ。」
「あ、すぐ行く。」
寝室に行って荷物を置いてからリビングに戻り、光とテーブルに着いた。美味しい料理。いつもと変わらない光。
「今日何かあった?」
何気なくそう訊くと、光はスープを飲みながら言った。
「何もないよ。ずっと家にいるんだから…」
愚痴のように呟いて、すぐにばつが悪そうに唇を舐めて、冗談めかすように笑って見せた。ああ…俺、いらんこと言った。光に気を遣わせてどうすんだよ。
でもだからって、じゃあどっか出かけるか、とは言えないし。どうしたもんかな…。
「でも私、家でこうやって…料理とかして過ごすの、好きだから」
「…そっか」
いや、そっかじゃねぇって!光は出かけるのも好きだし、確かに家でのんびりするのも好きだけど、出かけないのと出かけられないのは違うだろ!
何かできることはないのか、光の気晴らしになるようなこと…、とぐるぐる考えていると、光がからかうように俺を見てニコニコしていることに気付いた。
「…何笑ってんの。」
「え?だって…」
光が笑い出すのを見て悟った。俺の考えはお見通しだったらしい。
「私の事は気にしなくていいよ。」
…ほらやっぱり。
「いや気にしないでいられるわけないじゃん?」
「どうして?」
「どうしてって…大事な奥さんの事ですし。」
「あはは。」
ちょっと顔を赤くして笑う光。奥さん、とか、嫁さん、とか言うと、いつもこうやって嬉しそうにはにかむの…可愛いな〜…。
「何かしたい事とかない?」
「したいこと?うーん…」
光は口元に手を当てて考え始め、ちら、と俺の顔を見上げた。
「……何?」
なんとなく嫌な予感を察知しながら尋ねると、光は小さな声でぽつり、と言った。
「一回だけ……メイクしてみてもいい?」
「は?…えっと…それって……俺に?」
「に、似合うと思うの!」
動揺する俺を宥めようとしたのかそう口走る光。嬉しくないんですけど…
「あの…ほら…一也さん、プロになってすぐの頃、企画か何かで女装してたでしょ」
「………。」
代々球団の若手が受ける洗礼的なやつだぞあれは……。
「それを見たとき思ったの」
「見たんだ…」
「私ならもっと可愛くできるのにって…」
「あ、そっち?」
もちろんあれも可愛かったけど、と慌ててフォローになっていないフォローをする光。
「…だめ?」
ずるい…それはずるい…
そんな風に小首傾げて、だめ?なんて聞かれたら、俺が断れないこと知ってるくせに…!!!
「……もう好きにして…。」
「いいの!?」
え〜、なんでそんな嬉しそう…
久しぶりの光の満面の笑みを前に、俺は嬉しいやら悲しいやら、複雑な気持ちのまま顔を緩めた。
***
「座って座って。」
「はい……」
夕食後。光にドレッサーの前に座るよう促され、俺は光の為にと言い聞かせ、もうどうにでもなれという気持ちでスツールに座った。
光は嬉しそうにヘアバンドを持ちだしたところで、あ、と手を止めた。
「待って一也さん。」
「ん?」
「髭生えてる。剃ってきて。」
「……。」
そ、そこまで…。こんな夜中に髭剃りか〜…めんどくせぇ。
わかりましたと立ち上がり、俺はバスルームに向かった。いいんだもう。今日は光の為に何でもしてやるさ。
クリームの缶を手に取り、蓋を開けた。そんなに濃い方じゃないから、普段は朝剃るだけだ。
髭を剃りながら、何となく昔の事を思い出した。昔…高校生の時にも、光に髭の事を言われたことがあった…
「おっ、玉城。」
衣替えの時期。廊下でばったり会った玉城は長袖の制服姿になっていて、だけどまだ暑いから、ブラウス一枚で袖をまくっていた。いつも通り俺を見てムッと睨み付ける玉城。まだ何もしてないのに。
「何でブレザー着てねぇの?」
「暑いし…先輩も着てないじゃないですか」
お前何言ってんだ、と隣の倉持も俺を小突いた。
「牧瀬は着てるじゃん」
玉城の隣の牧瀬はブレザーを着用している。指摘された牧瀬は、私寒がりなんで、と笑った。
「玉城ちゃんもちゃんとブレザー着なさい。」
「はぁ?…何でですか?」
「そのほうが可愛い…いって!なんだよ。」
「キモい。」
後ろから倉持のチョップが降ってきた。玉城が呆れたように俺を見て、牧瀬はケラケラ笑っている。
冗談のように言ったけど…本当にブレザー着てほしい。セーターでもいい。だって…
…下着が透けてる……。
「…何ですか?」
あ、やべ、見すぎた。
「別に。いいからブレザー着ろよ。」
「やですよ暑いもん。」
ああぁ腕組むと胸が強調されて…!バカ!何で気づかないんだよ!他の男がこんなん見てると思うと腹が煮えくり返る!!
「…ちょっと来い!」
「きゃっ…ちょっと何!?」
玉城の肩を押して廊下の隅に連れていき、声を潜めた。
「お前さ…、」
言いかけて、いや待てよ、と思い留まる。…何て言おう。上着着ろ、だけじゃ素直に言う事訊くはずないし…下着見えてる、なんて言ったら嫌われることは確実で、殴られるか、変態の烙印を押されるか、そのどっちもか…
「……。」
「……え、なに?その熱視線…。」
ふと、玉城が俺の顔を食い入るようにじっと見つめていることに気づいて、ドキドキしちゃう、とおちょくると、玉城は顔を赤くして俺の胸元をどついた。
「ちがう!だって先輩…。」
「え…何?」
「…ひげはえてる」
え?
ぽかんとして自分の顎に触れた。いつものすこしざらりとした感触。そんなに目立たないから朝剃れば夕方まで持つけど、近づいたからうっすら見えたのか。
「そりゃ男の子ですから。」
「……。…変なの。」
「いやしょーがないじゃん。」
でも…、と顔を赤くしてぼそぼそ言う玉城。え、なにその意識しちゃってる感じ…。髭なんかで。そんな風に照れられるとなんか恥ずかしいんだけど…。
「…そ、それより…結局何なんですか?」
玉城は赤面を誤魔化すように俺を睨んだ。
「大事なことだから怒るなよ?」
「え?…何ですか」
「怒らないって約束して。」
「……。何それ。」
「いいから約束して。」
「怒るようなことなんですか?」
「玉城次第だけど、俺は親切心で言うだけだから。」
「…わかったから、早く言ってください。」
「怒らねーよな?」
「怒りませんから。」
俺は意を決して言った。
「ブラウスの下何か着ろよ。」
「…は?」
「透けてる…いって!!」
バシン、と肩口に衝撃がぶつかった。
「…怒らないって言ったじゃん」
「だって…!信じらんない!バカ!変態!」
殴られた上に変態呼ばわりされた。予想通り…
なんだなんだ、と倉持と牧瀬がやってきて目を丸くして俺たちを見た。
「何言ってんだよ俺は親切で!教えてやったの!男はそういうとこ見るんだから!」
「御幸先輩だけでしょそんなこと考えてるの!」
「皆思ってるけど言わないだけだって!俺はお前の為に…」
「うるさい!あっち行って!」
「いやマジだから!なぁ倉持!」
「な…何?」
いやな予感を顔面に滲ませる倉持を、俺は盛大に巻き込んだ。
「玉城、下透けてるって思ったよな?」
「…は!?おまっ…ハァ!?何言って…!!」
「ほら赤くなった。図星だろ?」
俺を殺しそうな目つきで顔を赤くする倉持を指す頃には、玉城は牧瀬を引っ張って去っていくところだった。
「あっおい玉城!何か着ろよ!?」
「黙って!!」
***
「んふふ」
「……楽しそうですね」
だって楽しいもん、と光はコットンに薄いピンクの液体をにじませ、俺の眼鏡を外し、顔を優しく拭いた。かすかに甘い、清潔な香り。あ〜…風呂上りの光のにおい…。これにシャンプーとボディオイルの香りを混ぜたら完全に…あぁやばい、ムラムラしてきた。
「肌綺麗だな〜…」
うっとりと俺の顔を見つめ、光は何かの液体を手のひらで伸ばす。
「光の方が綺麗じゃん。」
「私はお手入れ頑張ってるもん。一也さんはほとんど何もしてないじゃん。」
「……。」
「いいな〜…ずるいなぁ…」
「……。」
どうしろと。
「ちょっと上向いて。」
「ん……これ何?」
「下地。」
聞いてもよくわからん。ふうん、と相槌を打って、透明の液体を大人しく顔に塗られて行く。
光の手のひらは柔らかくて温かくて気持ちいい。眠くなってきた。
「コンシーラーいらないね。コントロールカラーだけでいいかな…」
「はあ…」
「ファンデーションも不自然になりそうだからフィニッシュパウダーだけにしよう。」
「そお…」
化粧って手間がかかってるんだなぁ…それを光は毎日…。…10分位で終わってるけど。
「毎日コレすんの大変だね。」
「んー…私は撮影の時にやってもらうだけで、自分ではあまりしないけどね。」
あぁなんだ、そうだよな。休みの日に出かけるときも、顔洗って髪纏めるくらいだもんな。パーティーの時とか人と会う時はメイクしてんの見るけど…。そういえばちゃんと見たことないなぁ。
光の指が薄橙色のクリームを俺の顔の何か所かに塗り、大きな柔らかいブラシで白っぽい粉をはたいた。
「ビューラーするよ。」
「えっそれで挟むの?」
「目閉じて。」
「いや怖い怖い」
「大丈夫!私10年やってる」
「うそだ!自分じゃあんましないって言ったじゃん」
「たまにはするもん」
「いやいやいや…」
ほら、と眼前に銀色の器具を差し出され、俺は観念して目を閉じた。もうどうにでもなれ…!
瞼にひやりと冷たいものが触れる。緊張の中、睫毛が引っ張られる奇妙な感覚。こ、こわ…いけど、そんなに痛くは…ない、な。
「…はい!できた。いいよ目開けて。」
「……。」
深いため息とともに目を開けたけど、眼鏡をしていないから違いがよくわからない。
「可愛くなってきた〜…」
「…そおですか。」
だけど光は頬に手を当てて嬉しそうに言った。俺は嬉しくないんだけど…
「…それは?」
「アイブロウ。」
「何それ?」
「いいからじっとしてて。」
「……。」
完全におもちゃだ…。光は楽しそうに鉛筆のような物で俺の眉を書き始めた。ああ、アイブロウって眉か…。
形を確かめながら少しずつ書いていき、仕上げにブラシで軽く撫でると、光は満足そうに微笑んだ。
「アイシャドウは何色にしようかな〜…」
「……。」
「やっぱりブラウン系かな〜。」
「……。」
「目閉じて。」
「ハイ…」
指先が俺の瞼を優しく撫でる。
「まだ開けちゃダメ。」
「ハイ…」
「アイライナー描くから目閉じたままでいてね。」
「ハイ…」
細くて硬いものが瞼の際をくすぐる……こ、こええぇ…早く終わってくれ…!!
「目開けていいよ。」
「…はあ〜〜…」
「マスカラするからそのまま瞬きしないでね。」
「!?」
目を閉じた後は開けてろって…!?球団でやらされたときは目にはつけまつげされただけだったからな…。メイク自体、ここまで下地やらなんちゃらカラーやらちゃんとしなかったし。
「はい、いいよ。」
「はあ…」
「ちょっと横向いて。」
丸い筆先が俺の頬を軽く撫でた。それから光はクリームをコットンにとり、俺の唇を丁寧に拭いて、うきうきと口紅を取り出した。細い筆で唇を塗り、指で撫でて微調整をして、光は満足そうな笑顔で俺の顔を見つめた。
「…終わった?」
「まだ。ちょっと髪も弄らせて。」
「え〜まだやんの…」
これどういうプレイなの……、と疲れはじめたけど、いやいやこれも光の気晴らしの為、と改めて自分に言い聞かせた。光は俺の髪を軽く濡らし、ドライヤーで軽く乾かした後、ヘアアイロンでアレンジし始めた。ここまで本格的に女装させられるとは…。複雑な気分だ。
「できた!こっち向いて。」
ヘアアイロンの電源を切って光が言う。つい反射的に振り向くと、光はそれはもう嬉しそうに口元を手で覆って満面の笑みを浮かべた。
「可愛い!」
「…そーですか…」
そりゃよかった…、と項垂れる俺に、光はスマホを構えた。
「ちょっと待て!撮るな。」
「いや!お願い1枚だけ!」
「ヤだよ、どうせソレ牧瀬に見せて笑う気だろ!」
「ちがう!自慢するの!」
「やめなさい!!」
「じゃあ1回だけ撮らせて!一也さんに見せるから!それで嫌だったらちゃんと消すから!」
「そ…、」
…そこまで言うなら…。
「…し、しょうがねーな…」
「ほんと?やった!」
ぱっと嬉しそうな笑顔になる光。俺はこの笑顔に弱い…。
光は角度や光源をこだわって、やっと一枚写真を撮った。
「ほら!可愛いでしょ?」
カワイイでしょ、と自分の写真を見せられるのは妙な気分だけど…俺は眼鏡をかけ、光のスマホを受け取った。
「……。え…これ俺?」
ぽかん、と呟くと、光は得意げにはにかんだ。
写真に写っていたのは、どう見ても女。メイクもナチュラルで、全然不自然じゃない。なんなら結構可愛い。
「どう?ね、いいでしょ?」
「いや〜…化粧ってコワい…首のあたりはさすがにちょっとゴツいけど」
「何言ってるの、元が良いからだよ。」
「……。」
「ねぇ、司に見せてもいいでしょ?」
牧瀬に見せてもいいかってのは、正直、また別の問題なんだけどな…
「…これ俺にも送っといて。」
「気に入ってるじゃん」
光は父親に追いかけられてから、ますます外出を控えるようになった。仕事も家でできることは極力そうするようにして、部屋でテレビ通話を使って衣装の打ち合わせをしたり、トレーニングメニューも家でできる自重メニューを中心に変更したと聞いた。
引退に向けて仕事は減らしていたから大した不都合はないよ、と光は軽く笑っていたけど…
「じゃ…行ってくる」
「行ってらっしゃい。」
光が玄関まで見送りに来て、キスをして部屋を出た。
通路にはSPが立っている。今日は周防は光の仕事の調整で出かけている。
俺の留守中に何かあったら…。不安になりながら、やるべきことを投げ出してずっと二人で部屋に籠っているわけにもいかない。
…倉持がいたら…なんて、思ってもいけない。絶対に。
光は俺一人で…夫として、守らなきゃならないし、守りたい。
***
帰宅すると、料理をするいいにおいが漂ってきた。
「おかえりなさい。」
手が離せなかったのか、キッチンの鍋の前で光はしきりに俺を振り返って言った。
「ただいま。」
部屋の中を見渡す。いつもきれいにしてくれているけど、今日はまた一段と部屋の中がこざっぱりしていて、掃除でもしてくれたのかもしれない。洗濯物も片付いているし、シャワーを浴びにバスルームに入ったら、そこも掃除をしたらしく綺麗になっていた。
今日もずっと家にいたのかもな…。気晴らしに出かけることもできないなんて。
俺はシャワーを浴びて、リビングに戻った。
「ご飯できたよ。」
「あ、すぐ行く。」
寝室に行って荷物を置いてからリビングに戻り、光とテーブルに着いた。美味しい料理。いつもと変わらない光。
「今日何かあった?」
何気なくそう訊くと、光はスープを飲みながら言った。
「何もないよ。ずっと家にいるんだから…」
愚痴のように呟いて、すぐにばつが悪そうに唇を舐めて、冗談めかすように笑って見せた。ああ…俺、いらんこと言った。光に気を遣わせてどうすんだよ。
でもだからって、じゃあどっか出かけるか、とは言えないし。どうしたもんかな…。
「でも私、家でこうやって…料理とかして過ごすの、好きだから」
「…そっか」
いや、そっかじゃねぇって!光は出かけるのも好きだし、確かに家でのんびりするのも好きだけど、出かけないのと出かけられないのは違うだろ!
何かできることはないのか、光の気晴らしになるようなこと…、とぐるぐる考えていると、光がからかうように俺を見てニコニコしていることに気付いた。
「…何笑ってんの。」
「え?だって…」
光が笑い出すのを見て悟った。俺の考えはお見通しだったらしい。
「私の事は気にしなくていいよ。」
…ほらやっぱり。
「いや気にしないでいられるわけないじゃん?」
「どうして?」
「どうしてって…大事な奥さんの事ですし。」
「あはは。」
ちょっと顔を赤くして笑う光。奥さん、とか、嫁さん、とか言うと、いつもこうやって嬉しそうにはにかむの…可愛いな〜…。
「何かしたい事とかない?」
「したいこと?うーん…」
光は口元に手を当てて考え始め、ちら、と俺の顔を見上げた。
「……何?」
なんとなく嫌な予感を察知しながら尋ねると、光は小さな声でぽつり、と言った。
「一回だけ……メイクしてみてもいい?」
「は?…えっと…それって……俺に?」
「に、似合うと思うの!」
動揺する俺を宥めようとしたのかそう口走る光。嬉しくないんですけど…
「あの…ほら…一也さん、プロになってすぐの頃、企画か何かで女装してたでしょ」
「………。」
代々球団の若手が受ける洗礼的なやつだぞあれは……。
「それを見たとき思ったの」
「見たんだ…」
「私ならもっと可愛くできるのにって…」
「あ、そっち?」
もちろんあれも可愛かったけど、と慌ててフォローになっていないフォローをする光。
「…だめ?」
ずるい…それはずるい…
そんな風に小首傾げて、だめ?なんて聞かれたら、俺が断れないこと知ってるくせに…!!!
「……もう好きにして…。」
「いいの!?」
え〜、なんでそんな嬉しそう…
久しぶりの光の満面の笑みを前に、俺は嬉しいやら悲しいやら、複雑な気持ちのまま顔を緩めた。
***
「座って座って。」
「はい……」
夕食後。光にドレッサーの前に座るよう促され、俺は光の為にと言い聞かせ、もうどうにでもなれという気持ちでスツールに座った。
光は嬉しそうにヘアバンドを持ちだしたところで、あ、と手を止めた。
「待って一也さん。」
「ん?」
「髭生えてる。剃ってきて。」
「……。」
そ、そこまで…。こんな夜中に髭剃りか〜…めんどくせぇ。
わかりましたと立ち上がり、俺はバスルームに向かった。いいんだもう。今日は光の為に何でもしてやるさ。
クリームの缶を手に取り、蓋を開けた。そんなに濃い方じゃないから、普段は朝剃るだけだ。
髭を剃りながら、何となく昔の事を思い出した。昔…高校生の時にも、光に髭の事を言われたことがあった…
「おっ、玉城。」
衣替えの時期。廊下でばったり会った玉城は長袖の制服姿になっていて、だけどまだ暑いから、ブラウス一枚で袖をまくっていた。いつも通り俺を見てムッと睨み付ける玉城。まだ何もしてないのに。
「何でブレザー着てねぇの?」
「暑いし…先輩も着てないじゃないですか」
お前何言ってんだ、と隣の倉持も俺を小突いた。
「牧瀬は着てるじゃん」
玉城の隣の牧瀬はブレザーを着用している。指摘された牧瀬は、私寒がりなんで、と笑った。
「玉城ちゃんもちゃんとブレザー着なさい。」
「はぁ?…何でですか?」
「そのほうが可愛い…いって!なんだよ。」
「キモい。」
後ろから倉持のチョップが降ってきた。玉城が呆れたように俺を見て、牧瀬はケラケラ笑っている。
冗談のように言ったけど…本当にブレザー着てほしい。セーターでもいい。だって…
…下着が透けてる……。
「…何ですか?」
あ、やべ、見すぎた。
「別に。いいからブレザー着ろよ。」
「やですよ暑いもん。」
ああぁ腕組むと胸が強調されて…!バカ!何で気づかないんだよ!他の男がこんなん見てると思うと腹が煮えくり返る!!
「…ちょっと来い!」
「きゃっ…ちょっと何!?」
玉城の肩を押して廊下の隅に連れていき、声を潜めた。
「お前さ…、」
言いかけて、いや待てよ、と思い留まる。…何て言おう。上着着ろ、だけじゃ素直に言う事訊くはずないし…下着見えてる、なんて言ったら嫌われることは確実で、殴られるか、変態の烙印を押されるか、そのどっちもか…
「……。」
「……え、なに?その熱視線…。」
ふと、玉城が俺の顔を食い入るようにじっと見つめていることに気づいて、ドキドキしちゃう、とおちょくると、玉城は顔を赤くして俺の胸元をどついた。
「ちがう!だって先輩…。」
「え…何?」
「…ひげはえてる」
え?
ぽかんとして自分の顎に触れた。いつものすこしざらりとした感触。そんなに目立たないから朝剃れば夕方まで持つけど、近づいたからうっすら見えたのか。
「そりゃ男の子ですから。」
「……。…変なの。」
「いやしょーがないじゃん。」
でも…、と顔を赤くしてぼそぼそ言う玉城。え、なにその意識しちゃってる感じ…。髭なんかで。そんな風に照れられるとなんか恥ずかしいんだけど…。
「…そ、それより…結局何なんですか?」
玉城は赤面を誤魔化すように俺を睨んだ。
「大事なことだから怒るなよ?」
「え?…何ですか」
「怒らないって約束して。」
「……。何それ。」
「いいから約束して。」
「怒るようなことなんですか?」
「玉城次第だけど、俺は親切心で言うだけだから。」
「…わかったから、早く言ってください。」
「怒らねーよな?」
「怒りませんから。」
俺は意を決して言った。
「ブラウスの下何か着ろよ。」
「…は?」
「透けてる…いって!!」
バシン、と肩口に衝撃がぶつかった。
「…怒らないって言ったじゃん」
「だって…!信じらんない!バカ!変態!」
殴られた上に変態呼ばわりされた。予想通り…
なんだなんだ、と倉持と牧瀬がやってきて目を丸くして俺たちを見た。
「何言ってんだよ俺は親切で!教えてやったの!男はそういうとこ見るんだから!」
「御幸先輩だけでしょそんなこと考えてるの!」
「皆思ってるけど言わないだけだって!俺はお前の為に…」
「うるさい!あっち行って!」
「いやマジだから!なぁ倉持!」
「な…何?」
いやな予感を顔面に滲ませる倉持を、俺は盛大に巻き込んだ。
「玉城、下透けてるって思ったよな?」
「…は!?おまっ…ハァ!?何言って…!!」
「ほら赤くなった。図星だろ?」
俺を殺しそうな目つきで顔を赤くする倉持を指す頃には、玉城は牧瀬を引っ張って去っていくところだった。
「あっおい玉城!何か着ろよ!?」
「黙って!!」
***
「んふふ」
「……楽しそうですね」
だって楽しいもん、と光はコットンに薄いピンクの液体をにじませ、俺の眼鏡を外し、顔を優しく拭いた。かすかに甘い、清潔な香り。あ〜…風呂上りの光のにおい…。これにシャンプーとボディオイルの香りを混ぜたら完全に…あぁやばい、ムラムラしてきた。
「肌綺麗だな〜…」
うっとりと俺の顔を見つめ、光は何かの液体を手のひらで伸ばす。
「光の方が綺麗じゃん。」
「私はお手入れ頑張ってるもん。一也さんはほとんど何もしてないじゃん。」
「……。」
「いいな〜…ずるいなぁ…」
「……。」
どうしろと。
「ちょっと上向いて。」
「ん……これ何?」
「下地。」
聞いてもよくわからん。ふうん、と相槌を打って、透明の液体を大人しく顔に塗られて行く。
光の手のひらは柔らかくて温かくて気持ちいい。眠くなってきた。
「コンシーラーいらないね。コントロールカラーだけでいいかな…」
「はあ…」
「ファンデーションも不自然になりそうだからフィニッシュパウダーだけにしよう。」
「そお…」
化粧って手間がかかってるんだなぁ…それを光は毎日…。…10分位で終わってるけど。
「毎日コレすんの大変だね。」
「んー…私は撮影の時にやってもらうだけで、自分ではあまりしないけどね。」
あぁなんだ、そうだよな。休みの日に出かけるときも、顔洗って髪纏めるくらいだもんな。パーティーの時とか人と会う時はメイクしてんの見るけど…。そういえばちゃんと見たことないなぁ。
光の指が薄橙色のクリームを俺の顔の何か所かに塗り、大きな柔らかいブラシで白っぽい粉をはたいた。
「ビューラーするよ。」
「えっそれで挟むの?」
「目閉じて。」
「いや怖い怖い」
「大丈夫!私10年やってる」
「うそだ!自分じゃあんましないって言ったじゃん」
「たまにはするもん」
「いやいやいや…」
ほら、と眼前に銀色の器具を差し出され、俺は観念して目を閉じた。もうどうにでもなれ…!
瞼にひやりと冷たいものが触れる。緊張の中、睫毛が引っ張られる奇妙な感覚。こ、こわ…いけど、そんなに痛くは…ない、な。
「…はい!できた。いいよ目開けて。」
「……。」
深いため息とともに目を開けたけど、眼鏡をしていないから違いがよくわからない。
「可愛くなってきた〜…」
「…そおですか。」
だけど光は頬に手を当てて嬉しそうに言った。俺は嬉しくないんだけど…
「…それは?」
「アイブロウ。」
「何それ?」
「いいからじっとしてて。」
「……。」
完全におもちゃだ…。光は楽しそうに鉛筆のような物で俺の眉を書き始めた。ああ、アイブロウって眉か…。
形を確かめながら少しずつ書いていき、仕上げにブラシで軽く撫でると、光は満足そうに微笑んだ。
「アイシャドウは何色にしようかな〜…」
「……。」
「やっぱりブラウン系かな〜。」
「……。」
「目閉じて。」
「ハイ…」
指先が俺の瞼を優しく撫でる。
「まだ開けちゃダメ。」
「ハイ…」
「アイライナー描くから目閉じたままでいてね。」
「ハイ…」
細くて硬いものが瞼の際をくすぐる……こ、こええぇ…早く終わってくれ…!!
「目開けていいよ。」
「…はあ〜〜…」
「マスカラするからそのまま瞬きしないでね。」
「!?」
目を閉じた後は開けてろって…!?球団でやらされたときは目にはつけまつげされただけだったからな…。メイク自体、ここまで下地やらなんちゃらカラーやらちゃんとしなかったし。
「はい、いいよ。」
「はあ…」
「ちょっと横向いて。」
丸い筆先が俺の頬を軽く撫でた。それから光はクリームをコットンにとり、俺の唇を丁寧に拭いて、うきうきと口紅を取り出した。細い筆で唇を塗り、指で撫でて微調整をして、光は満足そうな笑顔で俺の顔を見つめた。
「…終わった?」
「まだ。ちょっと髪も弄らせて。」
「え〜まだやんの…」
これどういうプレイなの……、と疲れはじめたけど、いやいやこれも光の気晴らしの為、と改めて自分に言い聞かせた。光は俺の髪を軽く濡らし、ドライヤーで軽く乾かした後、ヘアアイロンでアレンジし始めた。ここまで本格的に女装させられるとは…。複雑な気分だ。
「できた!こっち向いて。」
ヘアアイロンの電源を切って光が言う。つい反射的に振り向くと、光はそれはもう嬉しそうに口元を手で覆って満面の笑みを浮かべた。
「可愛い!」
「…そーですか…」
そりゃよかった…、と項垂れる俺に、光はスマホを構えた。
「ちょっと待て!撮るな。」
「いや!お願い1枚だけ!」
「ヤだよ、どうせソレ牧瀬に見せて笑う気だろ!」
「ちがう!自慢するの!」
「やめなさい!!」
「じゃあ1回だけ撮らせて!一也さんに見せるから!それで嫌だったらちゃんと消すから!」
「そ…、」
…そこまで言うなら…。
「…し、しょうがねーな…」
「ほんと?やった!」
ぱっと嬉しそうな笑顔になる光。俺はこの笑顔に弱い…。
光は角度や光源をこだわって、やっと一枚写真を撮った。
「ほら!可愛いでしょ?」
カワイイでしょ、と自分の写真を見せられるのは妙な気分だけど…俺は眼鏡をかけ、光のスマホを受け取った。
「……。え…これ俺?」
ぽかん、と呟くと、光は得意げにはにかんだ。
写真に写っていたのは、どう見ても女。メイクもナチュラルで、全然不自然じゃない。なんなら結構可愛い。
「どう?ね、いいでしょ?」
「いや〜…化粧ってコワい…首のあたりはさすがにちょっとゴツいけど」
「何言ってるの、元が良いからだよ。」
「……。」
「ねぇ、司に見せてもいいでしょ?」
牧瀬に見せてもいいかってのは、正直、また別の問題なんだけどな…
「…これ俺にも送っといて。」
「気に入ってるじゃん」