030
「…あ、もしもし、叔母さん?」
廊下で叔母に電話をかけている光の声を、俺は緊張しながら盗み聞く。
「うん…そう……、…え?そうなの?」
…?なんだ?
「う、うん。わかった。うん、大丈夫。じゃあ、おやすみなさい。」
電話を切り、居間に戻ってくる光。どこかうずうずしている。
「どうした?」
「はい…あの…」
光はキラキラした目で俺を見上げた。
「叔母さん、台風で帰れないので、今日は会社に泊まるそうです。で、明日もそのまま仕事に行くから、帰るのは明日の夜になるって…」
ま…マジかよ。
「それで…お前も帰れなくなったって言ったのか?」
「言うわけないじゃないですか!大丈夫、バレませんよ。」
……頭が痛い。もしバレたら俺、どうなるんだ。
「…まぁいいや、とりあえず風呂入って来いよ」
「あ……はい」
「風呂はこっちな。タオルはここの使っていいから。あと…あ、着替えがねーな…」
俺は呟きながら部屋に行き、なるべく綺麗なトレーナーとズボンを引っ張り出してくる。平静を装っているが、心臓は爆発しそうだ。
「…とりあえずこれ着て。ちゃんと洗ってあるから」
「すみません…」
「……あ。」
やべぇ。忘れてた。もっと肝心な…
「?」
不思議そうに俺を見上げる光。くそ、一応最後までしたことあるのに…未だに緊張する。
「いや…下着が、ないから」
「……あぁ、大丈夫です」
大丈夫!?な、何が大丈夫なんだ!?
「下着なら私、替えがあるので…」
「…え?」
な、なんで下着の替えなんて持ってんだ?も…もしかして光は、そういうことを想定して、用意して…?
「…あ、あの。…せ、生理になった時用…に」
「……あ、あぁ、そうなんだ」
な…なるほどな。女子は大変なんだな。
「…あ。…じゃあ、ご、ごゆっくり」
「…はい。」
俺は脱衣所を後にする。
…クソ、緊張する。挙動不審だ。今夜は、やっぱり…するのかな。願ってもないことだけど、まさか実家でこんなことになるとは。予想していなかっただけに、戸惑う。
やがて脱衣所の向こうからシャワーの音が聞こえてきて、俺は足早にそこを去った。
***
「お風呂、ありがとうございました。」
「ああ…」
光の声で顔を上げて、ドキリとする。まず、珍しく髪をまとめた姿に、俺のトレーナーは光にはぶかぶかで、襟元に覗くうなじや鎖骨、さらに袖を捲った隙間から伸びる細い手首。肌は少し紅潮していて、居間に入って来ただけなのに、なんだかいいにおいがして。
「…うわあ…」
居間のテーブルに駆け寄る光に、俺はただただ見惚れて目を奪われた。
「これ、先輩が作ったんですか!?」
純粋に驚いた様子で言う光にわれに返り、そうだと頷く。
「あんま食材なくて、それしかできねーけど…」
「すごいです!すごく美味しそう」
「そ、そうか?」
ただのナポリタンなんだけど。光がこんなにはしゃいでいるのは初めて見る。作ったかいがあるというものだ。
俺たちはテーブルに着き、手を合わせた。
「「いただきます」」
幸せそうにナポリタンを口に運ぶ光をみて、胸の奥がじんと熱くなる。ああ、なんか、幸せだな、俺。
「すごく美味しいです!今まで食べたナポリタンの中で一番おいしい!」
「はは、大袈裟だろ」
「全然大袈裟じゃないですよ!毎日でも食べたいです」
そんな冗談交じりのお世辞にもドキリとしてしまう。どうせこいつは、深く考えてなんていないんだろうけど。
食事を終え、光は袖を捲り上げる。
「私洗い物しますから、先輩もお風呂入ってください。」
「いや、俺が…」
「もう、ちょっとくらい手伝わせてくださいよ。至れり尽くせりすぎて申し訳ないんです。」
頬を膨らませる光に、俺は思わず笑みをこぼした。
「いいんだよ、尽くされてれば…」
そう呟いたが、光には聞こえていなかったようで。
光はスポンジに洗剤を垂らしながら俺を振り返る。
「早くお風呂入ってきてください。冷めちゃいますよ」
「はは、はいはい。」
食器の鳴る音を聞きながら、お言葉に甘えて脱衣所へ向かう。
光と結婚したらこんな感じなのかな、なんて考えながら。
***
風呂から上がると、光は居間で携帯をいじっていた。物音に気づいたらしく、振り返った光と目が合う。その、これからのことを想定しているような目に耐えきれず、俺はわざと視線を逸らす。
「……喉渇かねぇ?」
「…大丈夫です。」
「…そう」
流れる気まずい空気は、実際に交わされる会話よりも、今の状況をしつこいほどに物語っていて。
ちらりと時計を見上げると、時間は夜の9時。いつもなら素振りでもしている時間だが、この天気ではそうもいかない。
「まだ早いけど…もう寝ますか?」
光が静かに携帯を閉じ、訊いてくる。俺はコップに水を注ぎ、飲み干しながらその声を聴いて、飲み干すとすぐに、頷いた。
「…そうだな」
言いながら、俺は考える。やっぱり一緒に寝るのはまずい。光には俺の部屋で寝てもらって、俺は和室で寝るか…。
光を部屋に案内する。ドアを開け、電気をつけ、中に促す。俺の部屋に、光が立っている。小さな背中。華奢な肩。白い、柔らかそうなうなじ。振り返って俺を見上げる、大きな瞳。その赤い唇は、甘い香りがしそうなほど煽情的で。今、軽く光を押したら、簡単にベッドに倒せる。
「じゃあ」
俺は息苦しさを感じながら、ドアノブを掴む。
「おやすみ」
光はもの言いたげな目をしている。…いや、俺もだ。
「…おやすみなさい。」
その返答に、落胆してしまうのだから。
ドアが閉まる直前まで、俺を見つめる光。俺はたまらず背中を向け、後ろ手にドアを閉める。
だめだ。光を抱いたときだって、あれは、光にとって窮地だったんだ。誰だってああする。望まない結婚を前に、恋人がそばにいたら。誰だって…抱いてくれと言う。
そうだよ。俺は浮かれて、軽率なことをしようとしていた。
――もし、結婚するまでそういうことをしたくないって言ったら…――
いつかの光の言葉がいまさら蘇る。やっぱり、あいつ、後悔してるんじゃないか?
だけど――
さっきまで俺を見ていた光の瞳はうるんでいて、期待していて、それで――だから、
俺は息をのんで振り返った。ほとんど同時に、部屋のドアが開いた。
俺と光は見つめあうより前に、キスをしていた。
廊下で叔母に電話をかけている光の声を、俺は緊張しながら盗み聞く。
「うん…そう……、…え?そうなの?」
…?なんだ?
「う、うん。わかった。うん、大丈夫。じゃあ、おやすみなさい。」
電話を切り、居間に戻ってくる光。どこかうずうずしている。
「どうした?」
「はい…あの…」
光はキラキラした目で俺を見上げた。
「叔母さん、台風で帰れないので、今日は会社に泊まるそうです。で、明日もそのまま仕事に行くから、帰るのは明日の夜になるって…」
ま…マジかよ。
「それで…お前も帰れなくなったって言ったのか?」
「言うわけないじゃないですか!大丈夫、バレませんよ。」
……頭が痛い。もしバレたら俺、どうなるんだ。
「…まぁいいや、とりあえず風呂入って来いよ」
「あ……はい」
「風呂はこっちな。タオルはここの使っていいから。あと…あ、着替えがねーな…」
俺は呟きながら部屋に行き、なるべく綺麗なトレーナーとズボンを引っ張り出してくる。平静を装っているが、心臓は爆発しそうだ。
「…とりあえずこれ着て。ちゃんと洗ってあるから」
「すみません…」
「……あ。」
やべぇ。忘れてた。もっと肝心な…
「?」
不思議そうに俺を見上げる光。くそ、一応最後までしたことあるのに…未だに緊張する。
「いや…下着が、ないから」
「……あぁ、大丈夫です」
大丈夫!?な、何が大丈夫なんだ!?
「下着なら私、替えがあるので…」
「…え?」
な、なんで下着の替えなんて持ってんだ?も…もしかして光は、そういうことを想定して、用意して…?
「…あ、あの。…せ、生理になった時用…に」
「……あ、あぁ、そうなんだ」
な…なるほどな。女子は大変なんだな。
「…あ。…じゃあ、ご、ごゆっくり」
「…はい。」
俺は脱衣所を後にする。
…クソ、緊張する。挙動不審だ。今夜は、やっぱり…するのかな。願ってもないことだけど、まさか実家でこんなことになるとは。予想していなかっただけに、戸惑う。
やがて脱衣所の向こうからシャワーの音が聞こえてきて、俺は足早にそこを去った。
***
「お風呂、ありがとうございました。」
「ああ…」
光の声で顔を上げて、ドキリとする。まず、珍しく髪をまとめた姿に、俺のトレーナーは光にはぶかぶかで、襟元に覗くうなじや鎖骨、さらに袖を捲った隙間から伸びる細い手首。肌は少し紅潮していて、居間に入って来ただけなのに、なんだかいいにおいがして。
「…うわあ…」
居間のテーブルに駆け寄る光に、俺はただただ見惚れて目を奪われた。
「これ、先輩が作ったんですか!?」
純粋に驚いた様子で言う光にわれに返り、そうだと頷く。
「あんま食材なくて、それしかできねーけど…」
「すごいです!すごく美味しそう」
「そ、そうか?」
ただのナポリタンなんだけど。光がこんなにはしゃいでいるのは初めて見る。作ったかいがあるというものだ。
俺たちはテーブルに着き、手を合わせた。
「「いただきます」」
幸せそうにナポリタンを口に運ぶ光をみて、胸の奥がじんと熱くなる。ああ、なんか、幸せだな、俺。
「すごく美味しいです!今まで食べたナポリタンの中で一番おいしい!」
「はは、大袈裟だろ」
「全然大袈裟じゃないですよ!毎日でも食べたいです」
そんな冗談交じりのお世辞にもドキリとしてしまう。どうせこいつは、深く考えてなんていないんだろうけど。
食事を終え、光は袖を捲り上げる。
「私洗い物しますから、先輩もお風呂入ってください。」
「いや、俺が…」
「もう、ちょっとくらい手伝わせてくださいよ。至れり尽くせりすぎて申し訳ないんです。」
頬を膨らませる光に、俺は思わず笑みをこぼした。
「いいんだよ、尽くされてれば…」
そう呟いたが、光には聞こえていなかったようで。
光はスポンジに洗剤を垂らしながら俺を振り返る。
「早くお風呂入ってきてください。冷めちゃいますよ」
「はは、はいはい。」
食器の鳴る音を聞きながら、お言葉に甘えて脱衣所へ向かう。
光と結婚したらこんな感じなのかな、なんて考えながら。
***
風呂から上がると、光は居間で携帯をいじっていた。物音に気づいたらしく、振り返った光と目が合う。その、これからのことを想定しているような目に耐えきれず、俺はわざと視線を逸らす。
「……喉渇かねぇ?」
「…大丈夫です。」
「…そう」
流れる気まずい空気は、実際に交わされる会話よりも、今の状況をしつこいほどに物語っていて。
ちらりと時計を見上げると、時間は夜の9時。いつもなら素振りでもしている時間だが、この天気ではそうもいかない。
「まだ早いけど…もう寝ますか?」
光が静かに携帯を閉じ、訊いてくる。俺はコップに水を注ぎ、飲み干しながらその声を聴いて、飲み干すとすぐに、頷いた。
「…そうだな」
言いながら、俺は考える。やっぱり一緒に寝るのはまずい。光には俺の部屋で寝てもらって、俺は和室で寝るか…。
光を部屋に案内する。ドアを開け、電気をつけ、中に促す。俺の部屋に、光が立っている。小さな背中。華奢な肩。白い、柔らかそうなうなじ。振り返って俺を見上げる、大きな瞳。その赤い唇は、甘い香りがしそうなほど煽情的で。今、軽く光を押したら、簡単にベッドに倒せる。
「じゃあ」
俺は息苦しさを感じながら、ドアノブを掴む。
「おやすみ」
光はもの言いたげな目をしている。…いや、俺もだ。
「…おやすみなさい。」
その返答に、落胆してしまうのだから。
ドアが閉まる直前まで、俺を見つめる光。俺はたまらず背中を向け、後ろ手にドアを閉める。
だめだ。光を抱いたときだって、あれは、光にとって窮地だったんだ。誰だってああする。望まない結婚を前に、恋人がそばにいたら。誰だって…抱いてくれと言う。
そうだよ。俺は浮かれて、軽率なことをしようとしていた。
――もし、結婚するまでそういうことをしたくないって言ったら…――
いつかの光の言葉がいまさら蘇る。やっぱり、あいつ、後悔してるんじゃないか?
だけど――
さっきまで俺を見ていた光の瞳はうるんでいて、期待していて、それで――だから、
俺は息をのんで振り返った。ほとんど同時に、部屋のドアが開いた。
俺と光は見つめあうより前に、キスをしていた。