323
「っ……」
朦朧とする視界。焦げ臭いにおい。事態を理解するのに時間はかからなかったが、それを信じたくない気持ちとの葛藤に、少し時間がかかった。
それでもすぐに光さんの様子を確認するために、俺は自分の体がどうなっているかよりもまず、辺りを見回した。幸い車は横転しているものの中からわかるような損傷はなく、光さんもシートベルトをしていたおかげで座席に座った格好のままうずくまり、ドアに持たれるように横たわっていた。
「光さん!無事ですか!?」
「…う…」
焦って、昔の呼び方で彼女の名前を呼び、苦い味を感じた。今は王女殿下だ…死ぬ気で守らなければならないお方だ。
とにかく…意識はあるみたいだ。この焦げ臭いにおいも気になるし、車から出たほうがいい。
俺は痛む体を叱咤してシートベルトを外し、ドアが地面にめり込んで開かないため、フロントガラスを破って外に這い出た。腕や肩を回し、骨は無事であることを確認して、横転した車の後部座席のドアを上から開け、光さんを引っ張り出した。
光さんはぐったりとしていたものの、車から離れた気の傍まで連れて行き、乾いた地面に横たわらせると、俺が上着を地面に敷いている間に身じろぎをして目を覚ました。
「……!」
そして青ざめて、何よりもまずお腹を押さえて何かを確かめ、どこか安堵したような表情をした彼女に、俺は息をのんだ。
「…光さん、まさか…」
「……。」
光さんは恐る恐る、青い瞳で俺を見上げ、すぐに俯いた。
「…まだ誰にも言ってないの…」
「…妊娠されてるんですか?」
「……。…陽性だった。でも…安定期に入るまでは…一也さんと洋一さんには、内緒にして。」
「……どうしてです?」
あのふたりは…いち早く知りたいはずだ。そして、きっと大喜びするはずだ。
「…また…悲しませるかもしれない」
「……。」
「私、一度…子供亡くしてるでしょ。だから…」
「……。」
「また…妊娠は望めるけど、流れやすくなるかもしれないって…お医者様から、言われて…」
「……。」
そこまで言って、彼女が泣きそうな目をしたから、俺は咄嗟に目を逸らした。
「でしたら…ここに座ってください。」
「え…?」
「体が冷えてしまいます。今、車から毛布も持ってきますから」
「え…、いいよ、大丈夫、危ないよ…」
「大丈夫です。待っていてください」
「……。」
「こんなことになって…申し訳ございません。」
俺は踵を返し、車から毛布を拾ってきて、光さんに手渡した。
「…ありがとう」
「どこか痛むところは?お怪我はありませんか?」
「うん…ぶつけたところが痛いけど、それだけ。大したことないよ。でも…何があったの?」
「……。」
俺の脳裏には、車の後ろから恐ろしい勢いで迫りくる黒い影がよみがえっていた。あれは…黒い車両だった。でも、周りを見渡してもそれらしきものはどこにも見当たらない。
「車が後ろから追突したようですが…逃げたのかもしれません」
「……。」
「城の者に連絡を取ります。」
スマートフォンをポケットから取り出す。しかし…アンテナはすべて消えていて、俺が苦い顔をしたのを、光さんは状況を察したように見つめた。
「このあたり、電波入らないんじゃ…?」
「……。」
…俺としたことが。ただでさえこの小さな国は、城内と城下町では不自由はないものの、周りは山と湖に囲まれているのだ。
「…大丈夫だよ。誰か気づいてくれるよ。周防君も座って。怪我はない?」
「いえ、俺は…誰かいないか、辺りを見てきます」
「一人で歩き回ると危ないんじゃ…」
「ですが日が暮れる前に山を下りないと」
そう言いかけたとき、突然、本当に突然、ざあああ…と雨が降り始めた。
「…やめたほうがいいね」
「……。」
この土砂降りの中で山の中を歩き回るのは確かに危険だ。光さんを一人で置いていくのも危ないし…
本当に…俺は何をやってるんだ。
「どこか雨宿りできそうなところを探そう。」
こんな時でも光さんは文句の一つも言わず、立ち上がって俺に微笑んだ。
だけど妊娠しているというのにその気丈なふるまいに、俺は焦って咄嗟に駆け寄った。
「大丈夫だよ、私結構丈夫なんだから。」
光さんは俺をからかうように笑って、差し出した手を下ろさせた。
「…このあたりには開拓時代の廃墟がいくつかあるはずです。」
「うん。」
彼女に申し訳なさと自分のやるせなさにさいなまれながら、とにかく今は光さんを守ることに集中しようとした。そして土砂に気を付けながら少し歩いた先に、崩れかけた石レンガの小屋を見つけた。おそらく、開拓時代にこのあたりに住んでいた人がいたんだろう。この国には山の中や森の中にこうした廃墟が点在している。
「ここで雨宿りしましょう」
「うん。」
よかったーすぐ見つかって、と光さんは疲れも見せずに廃墟に入り、砂まみれの地面に毛布を敷いた。
「よかった、毛布はあんまり濡れてないよ。周防君の上着も。」
ありがとう、と光さんは上着を差し出したけど、俺は手をかざした。
「光さんが着てください。」
「え?でも…」
「濡れた服は脱いで、それを着ていてください。体が冷えてしまいます」
「周防君こそ…」
「あなたの体の方が大事に決まってるでしょう」
「……。」
光さんは少しばつが悪そうに、そして申し訳なさそうに納得した。自分は妊娠していて…それ以前にこの国の王女で。それを自覚したんだろうと察するのと同時に、俺も苦い味を感じた。今俺は、この人が王女かどうかなんてことは考えもせずに、ただこの人に…
おかしい。俺は…本当にどうかしてしまったんだろうか。
モヤモヤを振り払うためと、光さんが服を脱ぐため、俺は立ち上がって窓辺に歩み寄った。背後で布の擦れる音がする。なんだろう…胸の奥で心臓が震えている。光臣が部屋に女を連れ込んでいるところに出くわした時だって、何とも思わなかった。ただ煩わしさを感じただけで。自分は女に興味がないんだと思ったことさえあった。かといって、男にも興味はないけど…俺がこんな気持ちになるのは…きっと生涯ただ一人…
「…着替えたよ」
…この人だけだ。
光さんは俺のジャケットを着て、脱いだずぶ濡れのブラウスを丸めて絞っていた。
「座りなよ。」
「いえ俺は…」
「一晩中立ってるつもり?」
「……。」
光さんはやっぱりからかうように、毛布の上をポンポンと叩いて俺に微笑んだ。俺は少し情けない気持ちで、毛布の端に腰を下ろした。
「責任感じてるの?」
「…当然です。俺のせいです」
「違うよ。後ろから車がぶつかって来たなんて…どうしようもないよ。」
「もっと注意を払っているべきでした」
「今より?」
光さんはまたからかっているのか、目を丸めて俺をじっと見た。
「今もやりすぎなくらいだよ。もっと肩の力抜いていいのに…」
「…この状況で言いますか?」
「事故はしょうがないよ。無事だったんだからよかったじゃない。」
「……。」
「それに周防君、私を車の中から助けてくれたでしょ。そんなに自分を責めないでよ。」
そう言われてやっと、この状況でも明るくふるまっている光さんの意図を理解した。俺がうじうじしているからだ…。この状況で自分を責めたって無意味だ。むしろ、状況は悪くなる。彼女のように前向きにふるまうのが正しい…。本当に…この人と一緒にいると、自分の未熟さを思い知らされる。
「周防君、メイドたちにモテモテなんだって?」
「え…」
人が真剣に悩んでいるところに、光さんはまた無邪気な笑顔で微笑んできた。
「メイド長さんが言ってたよ、若いメイド達は皆周防君に夢中だって」
「…そんなことありません」
「ふうん…」
「……。」
「高校生の頃もモテてたでしょ。」
どうやら揶揄うのはやめてくれないらしい。俺は少し居心地の悪さを感じて俯いた。
「でも…彼女の話とか、聞いたことないな」
「…いたことありませんから。」
「…え!?どうして?モテるのに…」
必要を感じない…なんて、言っていいんだろうか。この、愛にあふれた、神様からさえも愛されているような人に。
「あ…じゃあ、彼氏…がいたとか?」
「……。違います。」
「なんだ、違うのか…」
光さんは大まじめに呟いて、膝を抱えて座った。
「……。…好きということが、よくわからないんです」
「え?」
呟いてから、しまった、と思った。何を言ってるんだ俺は、よりにもよって光さんに。
だけど今更話を流そうとしても、光さんは思いのほか興味深そうに俺を見た。
「誰かを好きになったことがないってこと?」
「…わかりません。でも…一緒に居たいと思えるような相手は…」
今のところ…あなた以外には、
「出会ったことがありませんね。」
「そうなんだ…」
光さんは目を瞬いて、少し考えこんだ。
「じゃあ…よく光臣と仲良くなれたね…」
あの、女をとっかえひっかえしていた光臣と…と、言外に感じられて、俺は少し笑いそうになった。
「…仲が良かったわけではないですが」
「あ…そうなんだ」
「自分のマンションから女に追い出されたからと一晩転がり込まれて、そのままズルズルと」
「あ〜…もう…ごめんね迷惑かけて」
「悪いのはあいつですから」
「ふふ…でも、それじゃあ光臣は周防君のこと、気に入ってたんだろうな」
「……。」
「なんとなくわかる…周防君って頼もしいから」
…どくん、どくん、と心臓が騒ぎ始める。ただの社交辞令だ…そう思って落ち着こうとするのに、それは酷く難しかった。
「じゃあ…それが誰とも付き合わない理由?」
「……。」
「誰も好きになれないから?」
俺を見上げる二つの青い宝石から、俺は逃げるように目を逸らした。
きっとあの二人も…いや、それよりもっと多くの男たちが、こうしてこの二つの宝石に魅入られるようにして、陥落していったんだ。きっとそうだ。
「…そうですね」
俺は大ウソをついた。
「…周防君」
不意に光さんは真面目な顔になって、俯いた。
「何ですか?」
「…この国に来たこと…後悔してない?」
…後悔?するはずがない。惜しむようなものもないのに。
「…いえ」
「でも何も知らない国に…突然…それに断りづらかったんじゃないかと思って」
「……。」
断りづらかった…というより、断る選択肢なんて、俺には…
――視界が一瞬真っ白になった。
その正体に気づいた直後、激しい轟音が空気を震わせた。
「きゃああ!?」
光さんが悲鳴を上げて身をすくませて、それに驚いた俺と目が合うと、みるみる顔を赤くした。
「……大丈夫ですか?」
「…だ…大丈夫」
「……。」
「……雷苦手なの!」
「そのようですね…」
もうやだ、と呟いて、光さんは恥ずかしそうにそっぽを向いた。こんな一面があるなんて…知らなかった。雷が苦手だということも。この人にも苦手なものなんてあったのか…。
「今何時かな…」
光さんが呟いて、ポケットからスマホを取り出した。
「…あ!ここ、アンテナが一本立ってる!」
すると画面を見るなりそう声を上げて、すぐに電話をかけ始めた。
「……もしもし、一也さん!?」
繋がったのか…。俺は安堵と疲労を同時に感じた。
「うん、無事。ごめん心配かけて。電波がないからあとで説明する。…うん、大丈夫。あのね、いつもの道から少し北に入ったところの…」
光さんは現在地を説明し、とにかく無事だと言い聞かせて電話を切った。
「雨が上がったら、車で探しに来てくれるって。」
「…よかったです」
俺は…。責任を取れと言われたら、日本に帰ることになるかもしれないな…。
何せ、この国の王女殿下を危険にさらしたんだ…。
昔、学校中の羨望の的だった少女は…今や世界中から愛される美しい女性となった。俺一人で守ろうなど、おこがましかったのかもしれない…
「っ…」
また遠くで雷が鳴り、光さんは肩を竦めた。こういうとき…あの二人だったら、肩を抱き寄せたりして…彼女を守るんだろうな。だけど、俺がそれをするのは出過ぎた真似だ。
「あの、周防君…」
そもそもそんなこと、考えること自体…
「もうちょっと、傍に行ってもいい…?」
……。
「……え?」
「ごめん!でもほんとに雷は無理なの!これだけはダメなの!」
「…いい、ですけど…」
「ごめん…」
光さんはこころなしか涙ぐんだ顔で俺のすぐ隣まで来た。ふと触れてしまいそうなほど、近くに…
「きゃ…!!」
そしてまた雷が鳴って、光さんは俺の腕にしがみついてきた。
「う〜〜もうやだ〜〜…ごめん、本当にごめんなさい」
「……お気になさらず」
光さんは少し涙を流し、それを拭って俺にしがみついている。涙は怯えているというより驚いた拍子にこぼれたようで、彼女の宝石のような青い瞳の輝きを増していた。
「…なぜ雷が苦手なんですか?」
「え…?」
「光さんに苦手なものなんてないと思っていました。」
「え〜…?いっぱいあるよ。でも、そうだなぁ、雷は…」
うーん、と少し考えて、光さんは呟いた。
「大きい音が…苦手なのかも」
「…そうですか」
言外に他の理由がありそうだと、彼女の表情を見て思ったけど、俺は何も言わなかった。
光さんの人生は波乱万丈で、きっとまだ俺の知らないことがたくさんある…。
なのに光さんの手は…肌は、驚くほど柔らかくて、あどけなくて、どうしてか胸の底からとめどない感情があふれ出てくる。息を吐き出さずにいられないほど。それは心地悪いようで、悪くないとも思う。もどかしい…あえて言葉にするならば、きっと、多分、…愛おしい…のような…
……。
「…周防君?…」
かすかに、光さんの声がした…ような気がした。
朦朧とする視界。焦げ臭いにおい。事態を理解するのに時間はかからなかったが、それを信じたくない気持ちとの葛藤に、少し時間がかかった。
それでもすぐに光さんの様子を確認するために、俺は自分の体がどうなっているかよりもまず、辺りを見回した。幸い車は横転しているものの中からわかるような損傷はなく、光さんもシートベルトをしていたおかげで座席に座った格好のままうずくまり、ドアに持たれるように横たわっていた。
「光さん!無事ですか!?」
「…う…」
焦って、昔の呼び方で彼女の名前を呼び、苦い味を感じた。今は王女殿下だ…死ぬ気で守らなければならないお方だ。
とにかく…意識はあるみたいだ。この焦げ臭いにおいも気になるし、車から出たほうがいい。
俺は痛む体を叱咤してシートベルトを外し、ドアが地面にめり込んで開かないため、フロントガラスを破って外に這い出た。腕や肩を回し、骨は無事であることを確認して、横転した車の後部座席のドアを上から開け、光さんを引っ張り出した。
光さんはぐったりとしていたものの、車から離れた気の傍まで連れて行き、乾いた地面に横たわらせると、俺が上着を地面に敷いている間に身じろぎをして目を覚ました。
「……!」
そして青ざめて、何よりもまずお腹を押さえて何かを確かめ、どこか安堵したような表情をした彼女に、俺は息をのんだ。
「…光さん、まさか…」
「……。」
光さんは恐る恐る、青い瞳で俺を見上げ、すぐに俯いた。
「…まだ誰にも言ってないの…」
「…妊娠されてるんですか?」
「……。…陽性だった。でも…安定期に入るまでは…一也さんと洋一さんには、内緒にして。」
「……どうしてです?」
あのふたりは…いち早く知りたいはずだ。そして、きっと大喜びするはずだ。
「…また…悲しませるかもしれない」
「……。」
「私、一度…子供亡くしてるでしょ。だから…」
「……。」
「また…妊娠は望めるけど、流れやすくなるかもしれないって…お医者様から、言われて…」
「……。」
そこまで言って、彼女が泣きそうな目をしたから、俺は咄嗟に目を逸らした。
「でしたら…ここに座ってください。」
「え…?」
「体が冷えてしまいます。今、車から毛布も持ってきますから」
「え…、いいよ、大丈夫、危ないよ…」
「大丈夫です。待っていてください」
「……。」
「こんなことになって…申し訳ございません。」
俺は踵を返し、車から毛布を拾ってきて、光さんに手渡した。
「…ありがとう」
「どこか痛むところは?お怪我はありませんか?」
「うん…ぶつけたところが痛いけど、それだけ。大したことないよ。でも…何があったの?」
「……。」
俺の脳裏には、車の後ろから恐ろしい勢いで迫りくる黒い影がよみがえっていた。あれは…黒い車両だった。でも、周りを見渡してもそれらしきものはどこにも見当たらない。
「車が後ろから追突したようですが…逃げたのかもしれません」
「……。」
「城の者に連絡を取ります。」
スマートフォンをポケットから取り出す。しかし…アンテナはすべて消えていて、俺が苦い顔をしたのを、光さんは状況を察したように見つめた。
「このあたり、電波入らないんじゃ…?」
「……。」
…俺としたことが。ただでさえこの小さな国は、城内と城下町では不自由はないものの、周りは山と湖に囲まれているのだ。
「…大丈夫だよ。誰か気づいてくれるよ。周防君も座って。怪我はない?」
「いえ、俺は…誰かいないか、辺りを見てきます」
「一人で歩き回ると危ないんじゃ…」
「ですが日が暮れる前に山を下りないと」
そう言いかけたとき、突然、本当に突然、ざあああ…と雨が降り始めた。
「…やめたほうがいいね」
「……。」
この土砂降りの中で山の中を歩き回るのは確かに危険だ。光さんを一人で置いていくのも危ないし…
本当に…俺は何をやってるんだ。
「どこか雨宿りできそうなところを探そう。」
こんな時でも光さんは文句の一つも言わず、立ち上がって俺に微笑んだ。
だけど妊娠しているというのにその気丈なふるまいに、俺は焦って咄嗟に駆け寄った。
「大丈夫だよ、私結構丈夫なんだから。」
光さんは俺をからかうように笑って、差し出した手を下ろさせた。
「…このあたりには開拓時代の廃墟がいくつかあるはずです。」
「うん。」
彼女に申し訳なさと自分のやるせなさにさいなまれながら、とにかく今は光さんを守ることに集中しようとした。そして土砂に気を付けながら少し歩いた先に、崩れかけた石レンガの小屋を見つけた。おそらく、開拓時代にこのあたりに住んでいた人がいたんだろう。この国には山の中や森の中にこうした廃墟が点在している。
「ここで雨宿りしましょう」
「うん。」
よかったーすぐ見つかって、と光さんは疲れも見せずに廃墟に入り、砂まみれの地面に毛布を敷いた。
「よかった、毛布はあんまり濡れてないよ。周防君の上着も。」
ありがとう、と光さんは上着を差し出したけど、俺は手をかざした。
「光さんが着てください。」
「え?でも…」
「濡れた服は脱いで、それを着ていてください。体が冷えてしまいます」
「周防君こそ…」
「あなたの体の方が大事に決まってるでしょう」
「……。」
光さんは少しばつが悪そうに、そして申し訳なさそうに納得した。自分は妊娠していて…それ以前にこの国の王女で。それを自覚したんだろうと察するのと同時に、俺も苦い味を感じた。今俺は、この人が王女かどうかなんてことは考えもせずに、ただこの人に…
おかしい。俺は…本当にどうかしてしまったんだろうか。
モヤモヤを振り払うためと、光さんが服を脱ぐため、俺は立ち上がって窓辺に歩み寄った。背後で布の擦れる音がする。なんだろう…胸の奥で心臓が震えている。光臣が部屋に女を連れ込んでいるところに出くわした時だって、何とも思わなかった。ただ煩わしさを感じただけで。自分は女に興味がないんだと思ったことさえあった。かといって、男にも興味はないけど…俺がこんな気持ちになるのは…きっと生涯ただ一人…
「…着替えたよ」
…この人だけだ。
光さんは俺のジャケットを着て、脱いだずぶ濡れのブラウスを丸めて絞っていた。
「座りなよ。」
「いえ俺は…」
「一晩中立ってるつもり?」
「……。」
光さんはやっぱりからかうように、毛布の上をポンポンと叩いて俺に微笑んだ。俺は少し情けない気持ちで、毛布の端に腰を下ろした。
「責任感じてるの?」
「…当然です。俺のせいです」
「違うよ。後ろから車がぶつかって来たなんて…どうしようもないよ。」
「もっと注意を払っているべきでした」
「今より?」
光さんはまたからかっているのか、目を丸めて俺をじっと見た。
「今もやりすぎなくらいだよ。もっと肩の力抜いていいのに…」
「…この状況で言いますか?」
「事故はしょうがないよ。無事だったんだからよかったじゃない。」
「……。」
「それに周防君、私を車の中から助けてくれたでしょ。そんなに自分を責めないでよ。」
そう言われてやっと、この状況でも明るくふるまっている光さんの意図を理解した。俺がうじうじしているからだ…。この状況で自分を責めたって無意味だ。むしろ、状況は悪くなる。彼女のように前向きにふるまうのが正しい…。本当に…この人と一緒にいると、自分の未熟さを思い知らされる。
「周防君、メイドたちにモテモテなんだって?」
「え…」
人が真剣に悩んでいるところに、光さんはまた無邪気な笑顔で微笑んできた。
「メイド長さんが言ってたよ、若いメイド達は皆周防君に夢中だって」
「…そんなことありません」
「ふうん…」
「……。」
「高校生の頃もモテてたでしょ。」
どうやら揶揄うのはやめてくれないらしい。俺は少し居心地の悪さを感じて俯いた。
「でも…彼女の話とか、聞いたことないな」
「…いたことありませんから。」
「…え!?どうして?モテるのに…」
必要を感じない…なんて、言っていいんだろうか。この、愛にあふれた、神様からさえも愛されているような人に。
「あ…じゃあ、彼氏…がいたとか?」
「……。違います。」
「なんだ、違うのか…」
光さんは大まじめに呟いて、膝を抱えて座った。
「……。…好きということが、よくわからないんです」
「え?」
呟いてから、しまった、と思った。何を言ってるんだ俺は、よりにもよって光さんに。
だけど今更話を流そうとしても、光さんは思いのほか興味深そうに俺を見た。
「誰かを好きになったことがないってこと?」
「…わかりません。でも…一緒に居たいと思えるような相手は…」
今のところ…あなた以外には、
「出会ったことがありませんね。」
「そうなんだ…」
光さんは目を瞬いて、少し考えこんだ。
「じゃあ…よく光臣と仲良くなれたね…」
あの、女をとっかえひっかえしていた光臣と…と、言外に感じられて、俺は少し笑いそうになった。
「…仲が良かったわけではないですが」
「あ…そうなんだ」
「自分のマンションから女に追い出されたからと一晩転がり込まれて、そのままズルズルと」
「あ〜…もう…ごめんね迷惑かけて」
「悪いのはあいつですから」
「ふふ…でも、それじゃあ光臣は周防君のこと、気に入ってたんだろうな」
「……。」
「なんとなくわかる…周防君って頼もしいから」
…どくん、どくん、と心臓が騒ぎ始める。ただの社交辞令だ…そう思って落ち着こうとするのに、それは酷く難しかった。
「じゃあ…それが誰とも付き合わない理由?」
「……。」
「誰も好きになれないから?」
俺を見上げる二つの青い宝石から、俺は逃げるように目を逸らした。
きっとあの二人も…いや、それよりもっと多くの男たちが、こうしてこの二つの宝石に魅入られるようにして、陥落していったんだ。きっとそうだ。
「…そうですね」
俺は大ウソをついた。
「…周防君」
不意に光さんは真面目な顔になって、俯いた。
「何ですか?」
「…この国に来たこと…後悔してない?」
…後悔?するはずがない。惜しむようなものもないのに。
「…いえ」
「でも何も知らない国に…突然…それに断りづらかったんじゃないかと思って」
「……。」
断りづらかった…というより、断る選択肢なんて、俺には…
――視界が一瞬真っ白になった。
その正体に気づいた直後、激しい轟音が空気を震わせた。
「きゃああ!?」
光さんが悲鳴を上げて身をすくませて、それに驚いた俺と目が合うと、みるみる顔を赤くした。
「……大丈夫ですか?」
「…だ…大丈夫」
「……。」
「……雷苦手なの!」
「そのようですね…」
もうやだ、と呟いて、光さんは恥ずかしそうにそっぽを向いた。こんな一面があるなんて…知らなかった。雷が苦手だということも。この人にも苦手なものなんてあったのか…。
「今何時かな…」
光さんが呟いて、ポケットからスマホを取り出した。
「…あ!ここ、アンテナが一本立ってる!」
すると画面を見るなりそう声を上げて、すぐに電話をかけ始めた。
「……もしもし、一也さん!?」
繋がったのか…。俺は安堵と疲労を同時に感じた。
「うん、無事。ごめん心配かけて。電波がないからあとで説明する。…うん、大丈夫。あのね、いつもの道から少し北に入ったところの…」
光さんは現在地を説明し、とにかく無事だと言い聞かせて電話を切った。
「雨が上がったら、車で探しに来てくれるって。」
「…よかったです」
俺は…。責任を取れと言われたら、日本に帰ることになるかもしれないな…。
何せ、この国の王女殿下を危険にさらしたんだ…。
昔、学校中の羨望の的だった少女は…今や世界中から愛される美しい女性となった。俺一人で守ろうなど、おこがましかったのかもしれない…
「っ…」
また遠くで雷が鳴り、光さんは肩を竦めた。こういうとき…あの二人だったら、肩を抱き寄せたりして…彼女を守るんだろうな。だけど、俺がそれをするのは出過ぎた真似だ。
「あの、周防君…」
そもそもそんなこと、考えること自体…
「もうちょっと、傍に行ってもいい…?」
……。
「……え?」
「ごめん!でもほんとに雷は無理なの!これだけはダメなの!」
「…いい、ですけど…」
「ごめん…」
光さんはこころなしか涙ぐんだ顔で俺のすぐ隣まで来た。ふと触れてしまいそうなほど、近くに…
「きゃ…!!」
そしてまた雷が鳴って、光さんは俺の腕にしがみついてきた。
「う〜〜もうやだ〜〜…ごめん、本当にごめんなさい」
「……お気になさらず」
光さんは少し涙を流し、それを拭って俺にしがみついている。涙は怯えているというより驚いた拍子にこぼれたようで、彼女の宝石のような青い瞳の輝きを増していた。
「…なぜ雷が苦手なんですか?」
「え…?」
「光さんに苦手なものなんてないと思っていました。」
「え〜…?いっぱいあるよ。でも、そうだなぁ、雷は…」
うーん、と少し考えて、光さんは呟いた。
「大きい音が…苦手なのかも」
「…そうですか」
言外に他の理由がありそうだと、彼女の表情を見て思ったけど、俺は何も言わなかった。
光さんの人生は波乱万丈で、きっとまだ俺の知らないことがたくさんある…。
なのに光さんの手は…肌は、驚くほど柔らかくて、あどけなくて、どうしてか胸の底からとめどない感情があふれ出てくる。息を吐き出さずにいられないほど。それは心地悪いようで、悪くないとも思う。もどかしい…あえて言葉にするならば、きっと、多分、…愛おしい…のような…
……。
「…周防君?…」
かすかに、光さんの声がした…ような気がした。