「周防君。」

リビングの隣の部屋でお茶を淹れなおしていると、光さんがこっそりやって来た。
牧瀬が俺の名前を出したのを聞いて、そっと部屋を出てきたことが少し後ろめたく、俺はぎくりとした。

「もう電話終わったから、戻ってきて大丈夫だよ。」
「え…、あ、いいえ、黙って退室して申し訳ございません」
「いいっていいって。周防君、司のこと苦手なんでしょ。」

光さんはからかうように笑って、戸棚に寄りかかって、湯を沸かす俺と鍋を見つめた。

「周防君…本当にありがとう」
「え…?」
「光也を助けてくれたこと。周防君のおかげで、無事生まれてくることができたから」
「そんなこと…できることをしただけです」
「謙遜しないで、お礼言わせて。周防君がいてくれて本当に心強かった。」

光さんの微笑みに一瞬見惚れてしまう。俺はすぐに目を逸らし、小さな気泡が沸き始めた鍋の水面を見つめ、火力を強めた。

「経験があったって聞いたけど…」
「…一応、資格はないので、誇れるものでもないんですが」
「謙遜するなぁ…すごいことだと思うよ?普通、あんな風に冷静に動けないよ。」
「…女性は皆、未経験で出産をこなします。女性の方がすごいですよ」
「……。」

光さんは目を丸くして、意外そうに俺を見上げた。

「周防君って…」
「……?」
「ふふ…ううん。やっぱりすごいなって思って」

自分の顔に困惑がにじみ出たことに自分でも気づいた。褒められるのは落ち着かない。特に、光さんに褒められるのは。
自分は大した人間じゃない…誰にも評価も期待もされたくないし、したくもない。光さんだけは、裏表のない、純粋な人だと…少し信じられる。だけど…最近ではそう信じたくて、自分でそう思い込むことで光さんに縋っているような気がしていた。
俺はもう、光さんからも離れたほうがいいのかもしれない…

「周防君?」

光さんに呼ばれ、ハッと我に返った。彼女の目が俺と鍋を心配そうに見比べているのを見て、鍋を見ると、湯が激しく沸騰していた。

「あ…、も、申し訳ございません」

慌てて火を止め、茶葉を入れる。

「疲れてるなら休んでても…」
「いえ。問題ありません」

首を振った俺を、光さんは心配そうに見つめ、だけど口を噤んだ。



***



「やっぱパパかなー。」
「男だぜ?反抗期にクソ親父って呼ばれる羽目になるぞ。大人しくお父さんとかにしとけ」
「おい、光也の前で汚い言葉使うなよ」
「面倒くせぇ…」

リビングで一也さんと洋一さんが王子を囲み、言い合っている。どうやら自分のことを何と呼ばせようか相談しているらしい。光さんはその様子を見て微笑んで王子を抱き上げ、哺乳瓶でミルクをあげ始める。

「ほ〜らこんな可愛いんだぞ?パパ、ママのが似合うじゃん」
「赤ん坊の時は皆そー思うんだよ。」
「何だよ知ったようなこと言って…なー光、パパママがいいよな?」
「ん〜…」

光さんはちょっと考えて、呟いた。

「まあ、そのほうが呼びやすいかもね…小さいうちは。」
「ほらー!洋一ほら!光もこう言ってるじゃん」
「うぜぇ…」
「一也さんはお父さんのことなんて呼んでたの?」
「俺?親父。」
「あ…そっか。じゃあ洋一さんは?お母さんのこと」
「……。」

光さんの問いに、洋一さんは言い辛そうに口ごもった。その隣でニヤニヤした一也さんが代わりに答える。

「あ〜ダメダメ、こいつババアとかだから。参考にならないから。」
「へぇ…」
「あっ!テメェ余計なことを…!」
「高校生になってまで反抗期引きずってたもんなぁ〜元ヤンの洋一君は(笑)」
「うるせぇな!」
「元ヤンって?」

きょとん、と目を瞬いた光さん。あっ、と苦い顔をする洋一さんに、ますます面白そうにニヤつく一也さん。

「こいつ中学んとき金髪でありがちなヤンキーだったんだぜぇ〜」
「金髪?」
「てめぇいい加減黙れって…!」
「何恥ずかしがってんの?(笑)あ、その時の写真見る?多分俺の携帯に入ってるぜ、沢村がアルバム盗撮した奴…」
「ハァ!?なんっ…や、やめろ!!」
「え〜、見たい」
「ひ…光まで…!やめろって…!!」

笑っている光さんのまぶしい笑顔。この人が笑っているとホッとする。このままずっと、この人の傍で、この人が笑顔で過ごせるようお手伝いできたら…それだけで俺は…それだけで、もう、いい気がする。

「…どうぞ。」
「あ、ありがとう。」

淹れた紅茶を3人の傍…王子にぶつからないよう少し離して置いた。光さんは礼を言って、俺を見上げた。

「周防君。」
「はい…?」
「はい。」

はい、と腕に抱いている往時を差し出す光さん。え、と固まると、光さんは隣にやってきて、ほら、と王子を差し出す。無下にすることもできず、そっと王子を腕に受け取る。温かくて、軽いけど、ずっしりと腕に重みを感じる。湖面のような青いつぶらな瞳には、くっきりと俺の戸惑った顔が映っている。

「さすが周防君、抱っこ上手だね。」

にこにこ俺と王子を見比べる光さん。反応に困っていると、王子がぐずり始めた。少しゆすってあやすと、すぐに落ち着いて、ふにゃふにゃと声にならない声を唇からこぼす。

「お〜、なんか慣れてんな?」
「…昔」

つい口をついて言葉が出て、しまったと思ったけど、3人とも興味津々の目で俺の顔を見ていて、今更何も言わなかったふりはできないかと諦めた。

「孤児院にいたときは…年長組が小さい子の面倒を見るのが、当たり前でしたから」

孤児院?と目を丸くした洋一さんを除いて、光さんと一也さんは腑に落ちたように相槌を打った。

「…。すみません。下で仕事が…」

途端に喋りすぎた気分になって、光さんに王子を返し、俺はリビングを出た。
孤児院の話なんてして…しかも、あんな幸せそうな人たちに。水を差すような真似を。同情でもしてほしかったのか?俺は…
…少し…長く、人の優しさに触れすぎてしまったかもしれない。
俺のような心の欠けた人間に、同じように幸せを手になんてできるはずがないのに。



***



「周防。」

イタリア語の講義の後、一也さんに呼び止められた。珍しい。いつもは講義が終わると、一目散に光さんの所へ帰るのに。

「はい。」
「ありがとう。」

応じると、一也さんは突然深く頭を下げてきた。

「…え?」

戸惑う俺の顔を、一也さんは顔を上げて見る。

「光と光也を助けてくれて。ちゃんとお礼、言えてなかったからさ。」
「……俺は…そんな」
「命の恩人だよ。…本当に」

一也さんは目尻を赤くして、口元に無理をしたような笑みを浮かべた。

「周防がいてよかった」
「…い…いえ…」
「光臣に聞いたけど、大学の時…カンボジア?で産気づいた女の人を助けたって…すごいな」
「え?……あぁ…、いえ…それは…手伝いをしただけですから」

一也さんの言葉を聞き、俺はその体験を思い出した。

「…?じゃあ、そのときのことじゃないのか?経験があるってのは」
「……。」

口の中に苦い味が広がった。俺の言葉を待つ一也さんの目が、だんだんと真剣みを帯びていく。

「……孤児院にいるときに…。」

だから…余計なことを言うな。どうして、打ち明けたくなってしまうんだ…。この人たちに…この人たちなら、俺をわかってくれるような気が…そんなうぬぼれを抱いてしまうんだ。

「ひとつ年下の女の子が…いたんです。まだ…中学生でした」
「……。」
「とても痩せている子で…誰も気づかなかったんです。その時が来るまで」
「……。」
「その時…俺は最年長で…。…気分が悪くなったと言うその子を…部屋へ連れて行く途中で…」
「……。」
「……だけど…ほとんど、見ていることしか…できませんでした。」

そしてあの子は最後まで…相手が誰かさえ言わなかった。同意の上である可能性はほとんどなかった。彼女に恋人がいるなんて、噂すらなかったし、彼女はいつも俯いて…ほとんどしゃべらない、大人しい子だった。

「…そっか。」

一也さんはぽつりと、そう呟いた。

「…大変だったな」

はっとした。こんな話をしても…困らせるだけだ。

「い…え、申し訳ございません、こんな話をして」
「え?」
「……、失礼します。」
「…周防。」

逃げるように立ち去ろうとした俺の肩を、一也さんは引き留めた。

「話してくれて嬉しいよ。」
「……え…」
「お前は謎に包まれてるからな〜。」

ケラケラ明るく笑う一也さん。俺の心の中の靄も、吹き飛ばしてしまうように…

「お前の過去の話、もっと聞きたいな。今度一緒に飲もうぜ。」
「……お、俺は…。」
「光もお前の話興味あると思うぜ〜。一緒に飲みたがると思う。それは光也がおっぱい卒業してからだな〜。」

はっはっは、と笑う一也さんに、俺は思わずぽかんとした。

「じゃ!周防先生、また明日頼むぜ!」

一也さんは俺の肩を叩き、軽い駆け足で階段を上がっていった。光さんに会いに行ったのだろう。
いや…、光さんと、王子と、そして洋一さん…彼の家族たちに。

俺も肩の温かい痛みに促されるようにして、階段を上がり始めた。

 


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