薬の時間だ。
俺は腕時計を確認し、素早く光さんの処方薬をトレーに並べ、水差しとグラスを添えて光さんが休んでいる部屋に向かった。
咳止め、解熱剤、睡眠導入剤、もしものときのために鎮痛剤。そして、血液を補うための鉄分のサプリと、時間を少しおいてから飲むビタミンのサプリ。

「失礼いたします。」

部屋に入ると、光さんは起きていて、ベッドの上から窓の外を見つめていた。
光さんが伏せるようになって最初に言ったのは、二人の夫といつでも会えるように、自室ではなくこの部屋にベッドを整えてほしいということだった。部屋の中央に備えていた大きなベッドを、いつでも外を眺められるようにと使用人5人がかりで窓際に運んだ。その矢先に、視力を失ってしまったけど…。

「王女殿下、お薬の時間です。」
「……。」

光さんは少しやつれた顔で俺がいるほうを見た。
先日視力がまた落ちて、光さんはかすかな明るさしか感じられない。それでも窓の外を見つめるのは、景色と言うより、外の物音に耳を澄ましているように見えた。
一也さんや洋一さんの帰りを待ってるんだろうか…。

「お水です」
「……。」
「こちらが、…」

解熱剤を渡そうとしたとき、光さんが咳き込んでグラスの水がこぼれた。

「あ、ごめんなさい…」
「大丈夫です。失礼します」

濡れた毛布をどかし、グラスに水を注ぎなおした。

「咳止めも飲みましょう。」
「うん…」

光さんの唇に血が滲んでいる。また血が…。
光さんも口の中に血の味を感じたらしく、少し水を飲んだ。
薬を飲み終え、片づけをして、俺は後ろ髪惹かれる思いで光さんを振り返った。

「ほかに何かお申しつけはございますか?」
「……。周防君…」
「…はい?」
「今日…忙しい?」

不思議な質問に、なぜか胸が鼓動を速めた。

「…王女殿下の御用より優先させなければならないことなどございません。」
「……。」

光さんは唇をなめ、俺の顔…よりすこし遠くを見上げた。

「…ここに…いて」

彼女の震える声が、俺の心臓を貫くがごとく、強く胸の中に響いた。

「…あと、いつもみたいに…名前で、呼んで」
「……。」

…あのふたりがいないからだ。だから彼女は、俺に…安心感を求めてる。
この国に来る前…王女になる前から、知っている人物だから…。
それだけだ…。

「…わかりました。でもその前に…新しい毛布をお持ちします。」
「……。」




***



「新しい毛布をお持ちしました。」

部屋に入ると、光さんはうつむいていた顔を上げた。

「ついでにシーツも新しいものに取り替えます。」
「ありがとう」
「一度ソファに」
「うん…」

光さんを支え、ベッドから降ろそうとしたとき。
床に足をついた途端、光さんは立ち眩んで床にしゃがみこんだ。

「!光さん」
「大丈夫…立ち眩み」

そう言う光さんを見て、俺はまた驚いた。
光さんのネグリジェの裾…ちょうど臀部の部分にしみた、赤い染み。それはシーツにも…。

「…光さん、あの」
「え…?」
「血が…」
「血?」
「……。」

狼狽えるな、こんなことで。

「……。…その、月経では…ないかと」
「え…。」

光さんの青白い顔が、にわかに赤くなった。

「うそ、あ…。ご、ごめんなさい。汚れてる?」
「服と、シーツが。今メイドを呼びます」
「あ、待って」

光さんは俺の手を掴んだ。

「大丈夫、自分で…着替えられるから。」
「ですが…」
「いや。お願い、今日は…もう誰にも会いたくない」
「…わかりました」

それなのに、俺にはここにいろ…だなんて、そんなこと…。
いや、やめろ。変な期待を抱くな…。

「…バスルーム、連れて行ってくれる?」
「はい」

光さんを支え、隣接したバスルームへ連れていき、着替えも運んだ。
光さんが着替えている間、俺はベッドのシーツと布団を替え、窓を開けて部屋の換気をした。
しばらくして光さんがドアを開け、俺は急いで支えに行った。

「着替えは大丈夫ですか?」
「うん…慣れてるから…。」

光さんが視力を失ったのは今回が初めてではない。俺は苦い思いを飲み込んで、彼女をまたベッドへ連れて行った。

「食事の時間まで少し休んでください。」
「……。」
「…なんです?」

光さんは俺に横たわらせられ、澄んだ青い瞳を物憂げに伏せた。

「周防君…行っちゃうの?」

その声のかぼそく、悲しげな響きといったら。

「…お側にいます」

俺がそう答えると、光さんは安堵したように目を閉じた。




***




「光の様子は?」

毎日決まって、2人の王配殿下が光さんの様子を聞くために電話をかけてくる。城にではなく、俺に直接。その方が早いからだ。

「…変わりありません。」
「…そうか」

それは悲しい知らせではないが、喜ばしいことでもなかった。
日々少しずつ衰弱していく光さんがたどり着く先を想像しては、何度も何度もやるせなく、どうしようもなく悲しい気持ちになる。自分の無力さにも、運命の残酷さにも。
一体どうすれば光さんの具合が良くなるのか…原因もわからない現状がもどかしく、怒りすら湧く。それは2人の王配殿下も同じだった。
ついさっき洋一さんとの電話を終えるとすぐに、待っていたかのように一也さんからの電話が鳴った。

「予定では明日帰れる。だから暫くは、遠出をする仕事は極力断りたい」
「…手を尽くします」
「頼む。こんな時に近くにいてやれないなんて…耐えられない」
「……。」

一也さんの絞り出すような声に、少し動揺した。だが、驚きはなかった。この人も洋一さんも、光さんを心から愛している。…愛しすぎている。

「あ…悪い」
「いえ…」

「マモル!」

突然使用人が走ってきて、叫ぶように俺を呼んだ。

「大変よ!王女殿下が発作を起こして…!」
「!?」

その声が電話越しに一也さんにも聞こえたらしく、電話の向こうからも声が響いた。

「おい!光に何かあったのか!?」

俺は光さんが休んでいる部屋に向かって走り出しながら電話に向かって言った。

「発作を起こされたと…」
「発作!?」

今までそんなことはなかった。嫌な予感が胸の奥を支配していく。

「無事なのか!?おい!周防!」
「今部屋に向かってます!」

もどかしく怒鳴り返して、俺は部屋に駆け込んだ。ベッドの上で過呼吸のような状態に陥り、医者と使用人に押さえつけられている光さんが目に飛び込んできて愕然とした。
俺は電話を放り投げ、光さんに駆け寄った。

「光さん!!しっかり!!」
「いや!!いやああ!!」

息苦しそうに喉を掻き、涙を流して叫ぶ光さん。こんな姿、見たことがない…

「鎮静剤を打つから抑えててくれ!」

医者が叫び、俺は使用人と一緒に光さんを押さえつけた。胸が痛くなった。
医者が手際良く光さんの陶器のように美しい腕に注射針を刺し、程なくして光さんは目をとろんとさせ、ふっと力が抜けて眠り始めた。
いつも毅然として凛としている美しい彼女の初めて見た姿に、俺も使用人も医者も暫く呆然としていた。

「ーーおい!周防!!」

そこで、俺は電話のことを思い出し、電話を拾い上げて耳に当てた。

「おい聞いてんのか!!何があったんだよ!!」
「申し訳ありません、光さんは無事です」

一番知りたいであろうことをとりあえず伝えると、一也さんは少し落ち着いた。

「…じゃあどうしたんだ?」
「発作が起こり…今は眠っています」
「発作って、何でだよ。大丈夫なのか?」

医者を見ると、何か言いたそうにしたため、俺は医者に変わりますと一也さんに言い、医者に携帯を渡した。医者が一也さんと話し始め、俺は眠る光さんを見つめた。
光さんは白い顔で微かな寝息を立てている。

「マモル、使用人が王女殿下をあまり見つめるのは不敬よ」

落ち着きを取り戻した使用人が俺を嗜めた。

「…そうですね」

そうだ。俺なんかが光さんを…特別に思うなんて。そんなこと許されない。

「体力が戻り次第、発作の原因を検査しまして…」

医者がおそらく一也さんに怒られ、萎縮しながら説明している。医者は悪くない。一也さんもそれはわかっている。だけどやり場のない怒りを感じるのも理解できた。
何とか一也さんを宥めたらしい医者は、汗を拭きながら俺に携帯を返した。

「周防です」
「…発作の件は聞いた。俺、今夜の便で帰るから」
「え…しかし」
「急病ってことにして明日の会食は断る。飛行機の手配をしてくれ」
「…承知しました」
「じゃあ、準備するから切るぞ」

プツン、と電話が切れた。俺は飛行機をアメリカと、一緒に日本にも手配し、洋一さんにも電話をかけた。きっと彼も今すぐに帰ると言うだろうから。
誰も口にしないけど、光さんがもし……。そう最悪な想像をせずにはいられなかった。




***




「……。」

光さんが目を覚ましたのは、深夜日付が変わった頃だった。
静かに目を開けた彼女を、俺は息を殺して見つめていた。
光さんは月明かりの中でぼんやり天井を見つめ、おもむろに手をサイドテーブルの方へ伸ばした。手探りでサイドテーブルの上を探り、光さんは涙を流し始めた。

「…う、」

光さんの手が呼び出し用のベルにぶつかり、ベルは床に落ちた。その音を聞いて光さんは息を飲んだ。

「う…っ、う、ぅ……」

光さんは泣きながら必死にベッドの下に手を伸ばそうとした。

「光さん」

俺はついに駆け寄ってその手を握った。

「俺はここにいます」

言ってから、なんて自惚れた言葉を言ってしまったんだ、と後悔した。彼女が求めているのは俺ではなく、一也さんや洋一さんや…

「…王配殿下方も今、予定を切り上げてここに向かっておりま…」
「…っ」

光さんが俺を強く抱きしめた。

「う…っ、ひ、ひとりにしないで」

俺に縋り付く光さん。どうして…俺なんかに…

「うっ…、うぅ…」
「…申し訳ございません」

光さんが俺の肩口で泣いている。俺はただされるがままになって、光さんが落ち着くのを待った。

「周防君」
「…はい」

光さんは少し落ち着いて顔を上げ、俺の顔を触って確かめた。涙で濡れた彼女の顔が間近にある。美しくて、愛らしいお顔だ。俺が見つめるのはもったいないほどの…

「……。」

光さんは急に俺から手を離し、おもむろに自分の顔の涙を拭い始めた。

「い、今夜だよね…」
「…?深夜0時を過ぎたところです」
「部屋暗いよね?」
「??…ええ」
「……。」
「どうされたんですか?」
「…私酷い顔してる…から…」
「いいえ、お美しいです」
「え……。」

光さんは目を瞬いて黙り込んだ。

「体調はいかがですか?」
「…大丈夫」
「発作を起こされたことは覚えていますか?」
「…少し」
「お薬をお持ちしますか?」
「…ううん、いい…」

ふう…、と、光さんは小さくため息をついた。

「…朝には王配殿下方がお帰りになられると思います」
「……。」

光さんは心細そうに目を潤ませた。

「…もう少しお休みになった方がよろしいかと」

俺が言うと、光さんは枕に頭を預けた。

「…周防君…ずっとここにいてくれたの?」
「……。」

俺が答える前に、光さんは布団から手を伸ばしてきた。

「手…握ってて」
「……。」

差し出された美しい手を眺める。さっきは咄嗟に握ってしまったが、いいんだろうか、と迷いが生じた。俺がこの手に触れても…。

「お願い…眠れるまで…」
「…もちろんです」

俺は答え、光さんの手を握った。少し冷えた、しっとりとして滑らかな、柔らかな手…。

「…ありがとう…」

光さんは呟き、目を閉じた。
部屋には静寂が降りた。

 


ALICE+