370
イタリアの空港で洋一と合流し、俺たちは明け方に城に帰ってきた。
「光の様子は?」
離陸場で俺たちを出迎えた周防に挨拶も忘れて尋ねると、周防は神妙な面持ちのまま呟いた。
「3時間ほど前に一度目覚められましたが、今は眠っておられます」
いいともわるいとも言わない周防に胸騒ぎがして、俺と洋一は光が休んでいる部屋へ向かった。
部屋のベッドには光が横たわり、静かな寝息を立てている。静かすぎて、本当に眠っているのかと――不安になって耳を澄ませて、かすかな呼吸音が聞こえたときは安どした。
それでも、顔色の悪さやあまりにも静かに眠っている姿には、胸が締め付けられた。
俺たちが出かける前よりも状態が悪くなってる…。
それは明らかだった。
「一也様」
周防が俺を呼びに来た。
「光也王子殿下からお電話です」
「光也から?」
こんな時間に、こんな休日の早朝に…珍しい。
俺は光の寝顔を見つめる洋一を残し、電話を取りに行った。
「携帯にかけても出ないからこっちにかけたんだけど」
光也は刺々しく言った後で、少し沈黙した。
「ああ…ごめん、飛行機に乗ってたんだ」
「どこか行ってたの?」
「アメリカに。さっきうちに着いたところだよ。」
「ふうん…」
「どうかしたのか?こんなに朝早く」
光のことを悟られぬよう、俺はいつもどおりの調子を装って尋ねた。
「別に…。…お母さん、大丈夫?」
どきりとした。だけどすぐに、光也たちを見送る時に「風邪気味みたい」と光がごまかしていたことを思い出した。
「あ、あぁ…お母さんはまだ寝てるよ。」
「……。」
そう答えてから、自分の言葉が答えになってないことに気づき、舌を噛んだ。
「…お父さん、俺、星には言わないから…本当のことを言って。」
「え?なんだよ、急に…」
「お母さん、どこか悪いの?」
…本当に…鋭い子だ、光也は。
賢くて、優しくて、強くて。自慢の…俺と光の子。
光も愛おしいけど、光也も…光が出産で体を壊したと知っても、光也がいとおしいからこそ、心が苦しい。
「…大丈夫だよ。心配するな。今はお母さんまだ寝てるけど、また電話で…元気な声聞かせてやってくれな。」
「……。」
光也は何か気付いたような沈黙を残した。
「…じゃあ…もう切るけど」
「はっはっは、そっけないな〜。」
「じゃあね。」
「ああ、元気でな。」
電話が切れ、俺は作っていた笑顔をやめ、ため息をついた。
嘘をついたのは間違いだったかもしれない。でも、まだ子供の光也に、お母さんが死んでしまうかもしれない、だなんて…。
俺自身、まだ受け入れられない現実を…言葉にするのも恐ろしい事実を、突き付けるなんて。
俺には母親がいなかった。それでさみしい思いをしなかったと言えばうそになる。俺とは違い、一王国の王子、王女である光也と星は、母親がいなくなったからといって家事や炊事を自分でしなければならないこともないし、お金や生活に困ることもない。毎日夜遅くまで父親が仕事で帰ってこないこともないし、誕生日やクリスマスには何でも欲しいものをもらえる。だけど、そうじゃない。そういうことじゃない。母親は…光は、何にも代えられない、かけがえのない、唯一の…存在だから。
***
まだ薄暗い明け方だったが眠る気にもなれず、朝食の時間まではトレーニングルームで時間をつぶしていた。洋一もじっとしていられず外を走ってきたらしく、朝食に呼ばれた時俺たちはシャワーを浴びてさっぱりした顔をしていた。
だけどお互い気分は晴れていないことをその表情で察し、静かに朝食を済ませた。
「王女殿下が目覚められました。」
部屋に入って来た周防が俺と洋一の顔を見て言った。反射的に立ち上がった俺たちに、周防はつづけた。
「容体も安定しています」
その言葉で俺たちは少し表情を緩め、行こう、と目配せをした。
部屋へ行くと、光はベッドで上体を起こして、医者に熱を測られていた。
「微熱ですね。解熱剤は必要ないでしょう」
そう言って医者は俺たちを振り返り、王配両殿下がいらっしゃいましたよ、と言っていろいろな器具を片付けるそぶりをして少し光から離れた。
「おかえりなさい。」
歩み寄る俺たちの方を向いて光は微笑んだ。
「ただいま光。」
「ただいま。大丈夫か?」
光ははにかみ顔で頷く。
医者は失礼します、とお辞儀をして部屋を出ていき、代わりに使用人がトレーをもって近づいてきた。
「王女殿下、朝食でございます。」
ベッド用のテーブルを用意しようとする使用人に、光は表情を暗くする。
「お腹すいてないから…」
そう言って朝食を断ろうとした光に、使用人は悲しそうに眉を下げ、俺たちの様子を見るように見上げてきた。
「光。」
きょとんとした澄んだ瞳が俺の顔の少し横を見上げた。
「今朝光也から電話が来たぞ。」
「え?いつ?私も話したかった…」
「明け方の暗い時間だよ。元気そうだったぞ。」
「……。」
残念そうに眉を下げる光。
「光也何か言ってた?」
「お母さんのこと心配してたよ。家出るとき風邪気味だって言ってたから…大丈夫かって」
「……。」
「また今度電話するってさ。だから、ちゃんと栄養取って元気にならないとな。」
俺の言葉を聞いて、光はバツが悪そうに俯いた。
「食べられるだけでいいから。」
「…うん」
俺が使用人に頷くと、使用人は微笑みを浮かべ、失礼します、と光の前に食事を用意した。
終わったら呼ぶよ、と言って使用人を下げさせ、俺はベッドのわきに腰かけた。
「よーしじゃあ俺があーんしてやろう。」
「えっ…。」
にわかに光の顔が赤くなった。
「おい調子に乗んなテメエ」
「はっはっは!お前もしたいんだろ〜」
「ぐっ…!」
俺たちの会話を聞いて、光は少し笑みをこぼす。そのバラ色に色づいた頬を見て、俺はじんわり胸が温かくなった。
「はい光、あーん♡」
「……。」
「何か懐かしいな〜!昔はよくこうやって…」
「おい!俺の前で自慢話すんじゃねーよクソ眼鏡!」
「はっはっはっは!」
***
かすかに物音がして目が覚めた。
ぼんやりする視界の中、視線を巡らせると、部屋のドアが開いているようでわずかに廊下の明かりが漏れていて、そこに人影が見えた。
不思議に思って眼鏡をかけてそちらを見ると、ちょうどドアを開けた格好で、光がこちらを向いて立っていた。
「え!?光?」
俺はベッドから飛び降りて光に駆け寄った。
「どうしたんだよ、大丈夫か?」
「うん…」
光は俺の腕につかまる。そこで、俺はふと疑問を抱いた。
「…どうやってここまで来たんだ?」
光は目が見えないはず。まさか壁を伝って歩いてきたんだろうか?しかし光はその質問には答えず、俺を見上げてほほ笑んだ。まるで見えているみたいに。
「光…」
あっけにとられる俺に、光は背伸びをして、キスをしてきた。久々のその感触に、俺は夢中になってキスを返した。しばらく唇を重ね合った後、光はすっと俺から離れ、窓辺に歩いて行った。少しカーテンをめくり、青白い月あかりを浴びた光は、ほんの少し透き通って見えた。
「光」
俺はその光が、あまりに美しい光が、すっと月明かりに溶けて消えてしまうんじゃないかと思って、名前を呼んだ。光は俺を振り返り、ほほ笑んだ。
「大丈夫なのか?体調は?」
光は微笑むだけ。俺はなんだか嫌な汗が背中にじっとりとにじみ出てくるのを感じ始めていた。
「光…」
「一也さん…。」
光の声が、部屋の中に静かに響いた。まるで耳元で語りかけられてるかのように、はっきりと。
「こんな言葉じゃ言い尽くせないけど…ありがとう。」
「…え?」
「……。」
「…や、やめろよ。なんだよ、急にそんなこと…」
光はただただほほえみを浮かべ、窓辺に立っていた。
「…愛してる…。」
俺はもう言葉にならなかった。どうして光が急にそんな…まるで、そう、もう最期…かのようなことを、言うのか…
俺は……。
「光…?」
気が付くと、ずっと見つめていたはずの光の姿が消えていた。まるで夢でも見ていたかのように。
俺は途端に胸騒ぎがして、部屋を飛び出した。そのまま光が眠っている部屋に急いでいくと、廊下の向こうから洋一が走ってきた。血走った目で、真っ青の顔をして、冷や汗をかいた顔で。
俺たちは言葉にせずとも変な胸騒ぎを覚えていることをお互いに理解し、光の下へと急いだ。
部屋のドアを突き破る勢いで開くと、ベッドに光の姿はなく、その手前…床の上に、光はうつぶせで倒れていた。まるで助けを求めてベッドから落ちてしまい、そこで力尽きたかのようだった。
「光!大丈夫か!?おい!」
俺は光のすぐそばにずっとついていなかったことを激しく後悔した。洋一も光の顔を真っ青な顔でのぞき込み、おそらく俺と同じ気持ちだった。
「光!!光!!!」
「目ぇ覚ましてくれよ!!光…!!」
「……。」
俺たちの声に震えが混ざり始めたとき、光の目がうっすらと開いた。
「!!光…!」
「大丈夫か!?しっかりしろ!!」
洋一は医者を呼ぶベルを鳴らし、また駆け戻ってきた。
光の目には涙がたまり、頬に零れ落ちて俺の手を濡らした。
「…ごめ…なさい…」
光の声はかすれていた。
「なんだよ…何で謝るんだよ」
「……も……くるしい…。」
俺も洋一も言葉を失った。光はもう限界だと…頑張れないと…俺と洋一に伝えたんだとわかって。
だけどそれは…それだけは、受け入れたくない現実だった。
「だめだ…」
「……。」
「だめだ、光、だめだ…許さない、許さないからな…元気に…ならなきゃ、だめだ…」
「……。」
「光、頼む、お前は…お前は、俺のすべてなんだよ。お前がいなきゃ、俺は…生きていけない…」
「……。」
「絶対、絶対治る…ダメだ光、諦めちゃダメだ、なぁ、光、光…、光……おい、光…」
「一也」
洋一が俺の肩に手を置いた。洋一の顔を見ると、涙でぐちゃぐちゃになっていた。それからもう一度光の顔を見て、…俺の腕の中の光の顔を見て…俺は呼吸が止まった。
息を…してない。
「光…」
俺は光の胸に顔をうずめ、光の体を抱きしめて、あふれ出す涙に身を任せた。
「光…。光…、光……。」
光。ひかり。
ひかり…。
光の笑顔が脳裏を駆け巡る。
可愛くて、綺麗で、きらきらしてて…まぶしくて、あたたかくて…
光…。俺の人生の光だった。光がいたから俺の目の前は明るく、いつでもあたたかくて…
光…。お前がいなくなったら…俺は…
どうすればいいんだよ…。
「王女殿下!!」
使用人と医者が駆け付け、光の体は俺の手から離れ、ベッドに横たえられた。
救命措置が行われ、医者と看護士が駆け回っているのを呆然と見つめているうちに、窓の外の空が白み始め、光は人工呼吸器をつけられ、腕には点滴が繋がれた。
「手は尽くしました。」
光のような、暖かくて優しい、さわやかな朝の空気の中、医者の低い声が残酷なまでにはっきりと響いた。
「延命措置をやめれば…王女殿下は……。」
「やめないでください」
「一也…」
「もっと…何か、できることはないんですか?なんでも…なんでもいいから…」
「……。」
「もう、できることはありません」
医者はうつむき、言いきって、顔を上げた。目は赤くなっていた。
「一也…このままじゃ光も苦しい」
洋一の手が重く肩にのしかかった。
「言ってただろ…苦しいって…」
「……。」
ベッドの上に横たわる光を見つめた。呼吸器や点的に繋がれ、顔色も悪く、とても痩せた…。だけど、まだ、今にふっと目を覚まして、一也さんおはようって…言ってくれる気がして…
「…嫌だ…。」
俺が涙声でつぶやくと、洋一は少し息を吐いて俺から手を放した。
俺はベッドに歩いて行って、椅子に座り、光の顔を見つめた。
早く目覚めてくれと…縋るように願いながら。
「光の様子は?」
離陸場で俺たちを出迎えた周防に挨拶も忘れて尋ねると、周防は神妙な面持ちのまま呟いた。
「3時間ほど前に一度目覚められましたが、今は眠っておられます」
いいともわるいとも言わない周防に胸騒ぎがして、俺と洋一は光が休んでいる部屋へ向かった。
部屋のベッドには光が横たわり、静かな寝息を立てている。静かすぎて、本当に眠っているのかと――不安になって耳を澄ませて、かすかな呼吸音が聞こえたときは安どした。
それでも、顔色の悪さやあまりにも静かに眠っている姿には、胸が締め付けられた。
俺たちが出かける前よりも状態が悪くなってる…。
それは明らかだった。
「一也様」
周防が俺を呼びに来た。
「光也王子殿下からお電話です」
「光也から?」
こんな時間に、こんな休日の早朝に…珍しい。
俺は光の寝顔を見つめる洋一を残し、電話を取りに行った。
「携帯にかけても出ないからこっちにかけたんだけど」
光也は刺々しく言った後で、少し沈黙した。
「ああ…ごめん、飛行機に乗ってたんだ」
「どこか行ってたの?」
「アメリカに。さっきうちに着いたところだよ。」
「ふうん…」
「どうかしたのか?こんなに朝早く」
光のことを悟られぬよう、俺はいつもどおりの調子を装って尋ねた。
「別に…。…お母さん、大丈夫?」
どきりとした。だけどすぐに、光也たちを見送る時に「風邪気味みたい」と光がごまかしていたことを思い出した。
「あ、あぁ…お母さんはまだ寝てるよ。」
「……。」
そう答えてから、自分の言葉が答えになってないことに気づき、舌を噛んだ。
「…お父さん、俺、星には言わないから…本当のことを言って。」
「え?なんだよ、急に…」
「お母さん、どこか悪いの?」
…本当に…鋭い子だ、光也は。
賢くて、優しくて、強くて。自慢の…俺と光の子。
光も愛おしいけど、光也も…光が出産で体を壊したと知っても、光也がいとおしいからこそ、心が苦しい。
「…大丈夫だよ。心配するな。今はお母さんまだ寝てるけど、また電話で…元気な声聞かせてやってくれな。」
「……。」
光也は何か気付いたような沈黙を残した。
「…じゃあ…もう切るけど」
「はっはっは、そっけないな〜。」
「じゃあね。」
「ああ、元気でな。」
電話が切れ、俺は作っていた笑顔をやめ、ため息をついた。
嘘をついたのは間違いだったかもしれない。でも、まだ子供の光也に、お母さんが死んでしまうかもしれない、だなんて…。
俺自身、まだ受け入れられない現実を…言葉にするのも恐ろしい事実を、突き付けるなんて。
俺には母親がいなかった。それでさみしい思いをしなかったと言えばうそになる。俺とは違い、一王国の王子、王女である光也と星は、母親がいなくなったからといって家事や炊事を自分でしなければならないこともないし、お金や生活に困ることもない。毎日夜遅くまで父親が仕事で帰ってこないこともないし、誕生日やクリスマスには何でも欲しいものをもらえる。だけど、そうじゃない。そういうことじゃない。母親は…光は、何にも代えられない、かけがえのない、唯一の…存在だから。
***
まだ薄暗い明け方だったが眠る気にもなれず、朝食の時間まではトレーニングルームで時間をつぶしていた。洋一もじっとしていられず外を走ってきたらしく、朝食に呼ばれた時俺たちはシャワーを浴びてさっぱりした顔をしていた。
だけどお互い気分は晴れていないことをその表情で察し、静かに朝食を済ませた。
「王女殿下が目覚められました。」
部屋に入って来た周防が俺と洋一の顔を見て言った。反射的に立ち上がった俺たちに、周防はつづけた。
「容体も安定しています」
その言葉で俺たちは少し表情を緩め、行こう、と目配せをした。
部屋へ行くと、光はベッドで上体を起こして、医者に熱を測られていた。
「微熱ですね。解熱剤は必要ないでしょう」
そう言って医者は俺たちを振り返り、王配両殿下がいらっしゃいましたよ、と言っていろいろな器具を片付けるそぶりをして少し光から離れた。
「おかえりなさい。」
歩み寄る俺たちの方を向いて光は微笑んだ。
「ただいま光。」
「ただいま。大丈夫か?」
光ははにかみ顔で頷く。
医者は失礼します、とお辞儀をして部屋を出ていき、代わりに使用人がトレーをもって近づいてきた。
「王女殿下、朝食でございます。」
ベッド用のテーブルを用意しようとする使用人に、光は表情を暗くする。
「お腹すいてないから…」
そう言って朝食を断ろうとした光に、使用人は悲しそうに眉を下げ、俺たちの様子を見るように見上げてきた。
「光。」
きょとんとした澄んだ瞳が俺の顔の少し横を見上げた。
「今朝光也から電話が来たぞ。」
「え?いつ?私も話したかった…」
「明け方の暗い時間だよ。元気そうだったぞ。」
「……。」
残念そうに眉を下げる光。
「光也何か言ってた?」
「お母さんのこと心配してたよ。家出るとき風邪気味だって言ってたから…大丈夫かって」
「……。」
「また今度電話するってさ。だから、ちゃんと栄養取って元気にならないとな。」
俺の言葉を聞いて、光はバツが悪そうに俯いた。
「食べられるだけでいいから。」
「…うん」
俺が使用人に頷くと、使用人は微笑みを浮かべ、失礼します、と光の前に食事を用意した。
終わったら呼ぶよ、と言って使用人を下げさせ、俺はベッドのわきに腰かけた。
「よーしじゃあ俺があーんしてやろう。」
「えっ…。」
にわかに光の顔が赤くなった。
「おい調子に乗んなテメエ」
「はっはっは!お前もしたいんだろ〜」
「ぐっ…!」
俺たちの会話を聞いて、光は少し笑みをこぼす。そのバラ色に色づいた頬を見て、俺はじんわり胸が温かくなった。
「はい光、あーん♡」
「……。」
「何か懐かしいな〜!昔はよくこうやって…」
「おい!俺の前で自慢話すんじゃねーよクソ眼鏡!」
「はっはっはっは!」
***
かすかに物音がして目が覚めた。
ぼんやりする視界の中、視線を巡らせると、部屋のドアが開いているようでわずかに廊下の明かりが漏れていて、そこに人影が見えた。
不思議に思って眼鏡をかけてそちらを見ると、ちょうどドアを開けた格好で、光がこちらを向いて立っていた。
「え!?光?」
俺はベッドから飛び降りて光に駆け寄った。
「どうしたんだよ、大丈夫か?」
「うん…」
光は俺の腕につかまる。そこで、俺はふと疑問を抱いた。
「…どうやってここまで来たんだ?」
光は目が見えないはず。まさか壁を伝って歩いてきたんだろうか?しかし光はその質問には答えず、俺を見上げてほほ笑んだ。まるで見えているみたいに。
「光…」
あっけにとられる俺に、光は背伸びをして、キスをしてきた。久々のその感触に、俺は夢中になってキスを返した。しばらく唇を重ね合った後、光はすっと俺から離れ、窓辺に歩いて行った。少しカーテンをめくり、青白い月あかりを浴びた光は、ほんの少し透き通って見えた。
「光」
俺はその光が、あまりに美しい光が、すっと月明かりに溶けて消えてしまうんじゃないかと思って、名前を呼んだ。光は俺を振り返り、ほほ笑んだ。
「大丈夫なのか?体調は?」
光は微笑むだけ。俺はなんだか嫌な汗が背中にじっとりとにじみ出てくるのを感じ始めていた。
「光…」
「一也さん…。」
光の声が、部屋の中に静かに響いた。まるで耳元で語りかけられてるかのように、はっきりと。
「こんな言葉じゃ言い尽くせないけど…ありがとう。」
「…え?」
「……。」
「…や、やめろよ。なんだよ、急にそんなこと…」
光はただただほほえみを浮かべ、窓辺に立っていた。
「…愛してる…。」
俺はもう言葉にならなかった。どうして光が急にそんな…まるで、そう、もう最期…かのようなことを、言うのか…
俺は……。
「光…?」
気が付くと、ずっと見つめていたはずの光の姿が消えていた。まるで夢でも見ていたかのように。
俺は途端に胸騒ぎがして、部屋を飛び出した。そのまま光が眠っている部屋に急いでいくと、廊下の向こうから洋一が走ってきた。血走った目で、真っ青の顔をして、冷や汗をかいた顔で。
俺たちは言葉にせずとも変な胸騒ぎを覚えていることをお互いに理解し、光の下へと急いだ。
部屋のドアを突き破る勢いで開くと、ベッドに光の姿はなく、その手前…床の上に、光はうつぶせで倒れていた。まるで助けを求めてベッドから落ちてしまい、そこで力尽きたかのようだった。
「光!大丈夫か!?おい!」
俺は光のすぐそばにずっとついていなかったことを激しく後悔した。洋一も光の顔を真っ青な顔でのぞき込み、おそらく俺と同じ気持ちだった。
「光!!光!!!」
「目ぇ覚ましてくれよ!!光…!!」
「……。」
俺たちの声に震えが混ざり始めたとき、光の目がうっすらと開いた。
「!!光…!」
「大丈夫か!?しっかりしろ!!」
洋一は医者を呼ぶベルを鳴らし、また駆け戻ってきた。
光の目には涙がたまり、頬に零れ落ちて俺の手を濡らした。
「…ごめ…なさい…」
光の声はかすれていた。
「なんだよ…何で謝るんだよ」
「……も……くるしい…。」
俺も洋一も言葉を失った。光はもう限界だと…頑張れないと…俺と洋一に伝えたんだとわかって。
だけどそれは…それだけは、受け入れたくない現実だった。
「だめだ…」
「……。」
「だめだ、光、だめだ…許さない、許さないからな…元気に…ならなきゃ、だめだ…」
「……。」
「光、頼む、お前は…お前は、俺のすべてなんだよ。お前がいなきゃ、俺は…生きていけない…」
「……。」
「絶対、絶対治る…ダメだ光、諦めちゃダメだ、なぁ、光、光…、光……おい、光…」
「一也」
洋一が俺の肩に手を置いた。洋一の顔を見ると、涙でぐちゃぐちゃになっていた。それからもう一度光の顔を見て、…俺の腕の中の光の顔を見て…俺は呼吸が止まった。
息を…してない。
「光…」
俺は光の胸に顔をうずめ、光の体を抱きしめて、あふれ出す涙に身を任せた。
「光…。光…、光……。」
光。ひかり。
ひかり…。
光の笑顔が脳裏を駆け巡る。
可愛くて、綺麗で、きらきらしてて…まぶしくて、あたたかくて…
光…。俺の人生の光だった。光がいたから俺の目の前は明るく、いつでもあたたかくて…
光…。お前がいなくなったら…俺は…
どうすればいいんだよ…。
「王女殿下!!」
使用人と医者が駆け付け、光の体は俺の手から離れ、ベッドに横たえられた。
救命措置が行われ、医者と看護士が駆け回っているのを呆然と見つめているうちに、窓の外の空が白み始め、光は人工呼吸器をつけられ、腕には点滴が繋がれた。
「手は尽くしました。」
光のような、暖かくて優しい、さわやかな朝の空気の中、医者の低い声が残酷なまでにはっきりと響いた。
「延命措置をやめれば…王女殿下は……。」
「やめないでください」
「一也…」
「もっと…何か、できることはないんですか?なんでも…なんでもいいから…」
「……。」
「もう、できることはありません」
医者はうつむき、言いきって、顔を上げた。目は赤くなっていた。
「一也…このままじゃ光も苦しい」
洋一の手が重く肩にのしかかった。
「言ってただろ…苦しいって…」
「……。」
ベッドの上に横たわる光を見つめた。呼吸器や点的に繋がれ、顔色も悪く、とても痩せた…。だけど、まだ、今にふっと目を覚まして、一也さんおはようって…言ってくれる気がして…
「…嫌だ…。」
俺が涙声でつぶやくと、洋一は少し息を吐いて俺から手を放した。
俺はベッドに歩いて行って、椅子に座り、光の顔を見つめた。
早く目覚めてくれと…縋るように願いながら。