038
段ボールの山を前にため息をつく。卒業式を終えて実家に帰ってからの日々はめまぐるしく、今日は早くも引っ越しの日だ。
クリーニングから戻ってきた制服は、しわひとつなく壁にかかっている。俺はその第二ボタンを見つめた。
『先輩の卒業式の日、私仕事で学校に来られないんです。』
そう残念そうに言った光が、ほっそりとした指先で撫でたボタン。
『だから、このボタンとっておいてくださいね。』
『…第2ボタン?』
『はい。絶対他の人にあげちゃだめですよ!』
俺は立ち上がり、つい今しがたまでテープを切っていたはさみを手に、制服に歩み寄る。そして、ボタンの糸を切り、それを手のひらにおさめた。
…いつ渡せるんだろうか。光はあの日、あのあと、倉持にかばわれてから、一度も会えていない。そして今日は俺の引っ越しの日。…もう会えなくても不思議ではないのに、なぜ、何も連絡がないんだろう。
「準備できたか?」
突然親父が部屋をのぞいてきて、俺は慌ててボタンを握りしめた。
「ああ、うん。」
「じゃ、荷物運ぶか。そろそろ引っ越し屋も来るだろうし…」
親父は時計を見上げ、廊下に引っ込んだ。俺は息を吐き、春の陽気が一の部屋で、もの悲しい気分に浸る。
段ボール箱の上に放り投げられた携帯電話は静まり返ったままだ。…光。今、何してる?どうして…何も言ってくれないんだ。
「一也。」
居間に戻ったと思っていた親父が戻ってきたから、俺は驚いて目を丸くし、返事をするのも忘れた。
「そういえば…その」
言いづらそうに言葉を濁す親父。その珍しさに俺は冷静になって、肩をすくめた。
「…何?」
促すと、親父は切り出した。
「…光ちゃんとは、まだ付き合ってるのか。」
まさか親父の口から光の名前を聞くとは思わず、俺は息をのむ。
「…まあ。」
「そうか。…お前、引っ越すだろ、遠くに。だから、その…、心配でな」
そんなの…わかってる。
「それに、光ちゃん、最近忙しそうだろ。有名になって…お前と付き合ってることは…大丈夫なのか?」
…俺だって知りたい。
「連絡はちゃんと取ってるのか?」
取ってたら…こんなに悩んでない。
「…平気だよ。」
親父に関係ない。その言葉は飲み込んだ。ただの八つ当たりだと自制できる程度には、まだ冷静なのだろう。
「…そうか。」
親父はそれ以上追求せず、今度こそ居間に戻った。俺は意味もなく窓の外を見つめる。鬱陶しいほどの桜の花びらが、春の白い空を寂しく漂っていた。
***
引っ越し先のマンションに着き、荷物の整理もひと段落ついた頃、日はすっかり暮れていた。
練習は明日から。携帯には、青道の奴らから数件、お祝いのメールが届いていた。それを眺めていたら、突然画面が暗転して、着信中の文字が表示された。
…光?
突然の電話に動揺しながら、焦りを抑えて通話ボタンを押す。
「…はい。」
作ったとはいえ、落ち着いた自分の声を聴いて安堵した。動揺を光に覚られたくはなかった。
『…一也先輩?』
もう学校の先輩ではないのに、光は俺をそう呼んだ。
「うん。…なんか、久しぶりだな。」
言った後で、後悔した。これじゃまるで、別れたカップルの会話だ。
『…そうですね。』
光はそうつぶやいた後で、言葉をつづけた。
『…ごめんなさい。』
「…なんで謝んの?」
『連絡…全然できなくて。私のせいで…全然、会えなくなったし…』
いいよ、気にするなよ、なんていう気にもなれず、黙り込む。
『…先輩、今日、引っ越しだったんですよね。』
「え?うん。…なんで知ってんの?」
『沢村君が言ってました。』
なんだよそれ。…沢村とは話してんの?
そんな風に考えてしまう自分に気付いて、唇を噛んだ。…当たり前だろ、同級生で、同じ学校に通っているんだから。会うことくらい…普通だ。
『遠い…んですよね、先輩の家…』
それは暗に、なかなか会えない、と責められている気がした。いや、実際そうなのだろう。でもそれは、仕方のないことだろ。なにも光から離れたくて遠くに引っ越したわけじゃない。
「…うん」
肯定しながら窓の外を見る。月がぽっかりと浮かんでいた。まぶしく、大きな月。今日は満月らしい。
『…先輩。』
光の声は暗い。次に何を言われるか、考えたくなかった。
『今日、事務所の社長に、言われたんです。』
「…何を?」
『…もう、十分話題になったから、設定を変えようって』
「設定?」
『……“一途な女の子”。やっぱり、容姿で売るには、恋人がいるのはまずいって…』
「……。」
『先輩が卒業して、遠くの大学に進学して、すれ違いから…別れたことにしようって、言われて…』
光の声は平淡だった。
「…そうだな。」
その言葉をつぶやいたとき、何か重たくてあたたかいものが、一緒に口から零れ落ちた気がした。
『…そうだなって…どういう意味ですか?』
電車の音が夜風に響いてくる。俺は明日、あの電車に乗って、野球をしに行く。
「今の俺たち…そのままじゃん。」
『……別れるってことですか?』
光がどんな顔でその言葉を言ったのか、俺には想像もつかなかった。…あれ。こいつって、どんな顔してたっけ。ぼんやりと…笑ってるような顔の、うすれた印象しか思い出せない。毎日のように、雑誌で見てたのに。でも雑誌に載ってる光って、なんだか別人のようで…俺にはよくわからないんだよな。
「…甲子園の時と、同じだよ」
俺が呟くと、光は小さく息をのんだ。
「お前の邪魔をしたくない。お前、今の仕事好きだろ?俺とのことが騒がれて、台無しにしてほしくない。」
光はしばらく黙っていた。長い沈黙の間、俺は月を見上げていた。
『もう、いいです』
短い言葉だった。その言葉を最後に電話は切れた。
月は相変わらずまぶしくて、電車は淡々と流れていった。遠くのマンションの電気が一つ消えた。目の前の家の屋根に小さな鳥の影が飛来した。ここは寮にいた時よりも星がたくさん見えた。バットを振る音も、誰かの掛け声も、ふざけあう喧騒も、騒がしい足音もない。部屋の時計の針が嫌に大きく響いて、当たり前に時間が過ぎていることを俺に知らしめた。
こんなに取り残されたような気分なのに、時間は過ぎていく。もう光は俺の恋人じゃなくなった。関係がなくなった。もう電話をしても、メールをしても、返ってこないのかもしれない。会えないのかもしれない。だって…嫌われたんだから。
初めて会った時のこと。
あまりに綺麗な子で驚いたこと。
意外に子供っぽい悪戯が好きなこと。
しっかりしているようでどこか抜けていること。
本当は俺を頼りにしてくれていたこと。
俺に体を許してくれたこと。
俺を求めてくれたこと。
何よりも、俺を信じていてくれたこと。
思いがあふれてきて、俺は狭いベランダでひとり立ち尽くした。まぶしいほどの月がぼやけて、目の前いっぱいに光が広がり、何も見えなくなってもそれをぬぐうこともせず、俺はただただ、立ち尽くした。
クリーニングから戻ってきた制服は、しわひとつなく壁にかかっている。俺はその第二ボタンを見つめた。
『先輩の卒業式の日、私仕事で学校に来られないんです。』
そう残念そうに言った光が、ほっそりとした指先で撫でたボタン。
『だから、このボタンとっておいてくださいね。』
『…第2ボタン?』
『はい。絶対他の人にあげちゃだめですよ!』
俺は立ち上がり、つい今しがたまでテープを切っていたはさみを手に、制服に歩み寄る。そして、ボタンの糸を切り、それを手のひらにおさめた。
…いつ渡せるんだろうか。光はあの日、あのあと、倉持にかばわれてから、一度も会えていない。そして今日は俺の引っ越しの日。…もう会えなくても不思議ではないのに、なぜ、何も連絡がないんだろう。
「準備できたか?」
突然親父が部屋をのぞいてきて、俺は慌ててボタンを握りしめた。
「ああ、うん。」
「じゃ、荷物運ぶか。そろそろ引っ越し屋も来るだろうし…」
親父は時計を見上げ、廊下に引っ込んだ。俺は息を吐き、春の陽気が一の部屋で、もの悲しい気分に浸る。
段ボール箱の上に放り投げられた携帯電話は静まり返ったままだ。…光。今、何してる?どうして…何も言ってくれないんだ。
「一也。」
居間に戻ったと思っていた親父が戻ってきたから、俺は驚いて目を丸くし、返事をするのも忘れた。
「そういえば…その」
言いづらそうに言葉を濁す親父。その珍しさに俺は冷静になって、肩をすくめた。
「…何?」
促すと、親父は切り出した。
「…光ちゃんとは、まだ付き合ってるのか。」
まさか親父の口から光の名前を聞くとは思わず、俺は息をのむ。
「…まあ。」
「そうか。…お前、引っ越すだろ、遠くに。だから、その…、心配でな」
そんなの…わかってる。
「それに、光ちゃん、最近忙しそうだろ。有名になって…お前と付き合ってることは…大丈夫なのか?」
…俺だって知りたい。
「連絡はちゃんと取ってるのか?」
取ってたら…こんなに悩んでない。
「…平気だよ。」
親父に関係ない。その言葉は飲み込んだ。ただの八つ当たりだと自制できる程度には、まだ冷静なのだろう。
「…そうか。」
親父はそれ以上追求せず、今度こそ居間に戻った。俺は意味もなく窓の外を見つめる。鬱陶しいほどの桜の花びらが、春の白い空を寂しく漂っていた。
***
引っ越し先のマンションに着き、荷物の整理もひと段落ついた頃、日はすっかり暮れていた。
練習は明日から。携帯には、青道の奴らから数件、お祝いのメールが届いていた。それを眺めていたら、突然画面が暗転して、着信中の文字が表示された。
…光?
突然の電話に動揺しながら、焦りを抑えて通話ボタンを押す。
「…はい。」
作ったとはいえ、落ち着いた自分の声を聴いて安堵した。動揺を光に覚られたくはなかった。
『…一也先輩?』
もう学校の先輩ではないのに、光は俺をそう呼んだ。
「うん。…なんか、久しぶりだな。」
言った後で、後悔した。これじゃまるで、別れたカップルの会話だ。
『…そうですね。』
光はそうつぶやいた後で、言葉をつづけた。
『…ごめんなさい。』
「…なんで謝んの?」
『連絡…全然できなくて。私のせいで…全然、会えなくなったし…』
いいよ、気にするなよ、なんていう気にもなれず、黙り込む。
『…先輩、今日、引っ越しだったんですよね。』
「え?うん。…なんで知ってんの?」
『沢村君が言ってました。』
なんだよそれ。…沢村とは話してんの?
そんな風に考えてしまう自分に気付いて、唇を噛んだ。…当たり前だろ、同級生で、同じ学校に通っているんだから。会うことくらい…普通だ。
『遠い…んですよね、先輩の家…』
それは暗に、なかなか会えない、と責められている気がした。いや、実際そうなのだろう。でもそれは、仕方のないことだろ。なにも光から離れたくて遠くに引っ越したわけじゃない。
「…うん」
肯定しながら窓の外を見る。月がぽっかりと浮かんでいた。まぶしく、大きな月。今日は満月らしい。
『…先輩。』
光の声は暗い。次に何を言われるか、考えたくなかった。
『今日、事務所の社長に、言われたんです。』
「…何を?」
『…もう、十分話題になったから、設定を変えようって』
「設定?」
『……“一途な女の子”。やっぱり、容姿で売るには、恋人がいるのはまずいって…』
「……。」
『先輩が卒業して、遠くの大学に進学して、すれ違いから…別れたことにしようって、言われて…』
光の声は平淡だった。
「…そうだな。」
その言葉をつぶやいたとき、何か重たくてあたたかいものが、一緒に口から零れ落ちた気がした。
『…そうだなって…どういう意味ですか?』
電車の音が夜風に響いてくる。俺は明日、あの電車に乗って、野球をしに行く。
「今の俺たち…そのままじゃん。」
『……別れるってことですか?』
光がどんな顔でその言葉を言ったのか、俺には想像もつかなかった。…あれ。こいつって、どんな顔してたっけ。ぼんやりと…笑ってるような顔の、うすれた印象しか思い出せない。毎日のように、雑誌で見てたのに。でも雑誌に載ってる光って、なんだか別人のようで…俺にはよくわからないんだよな。
「…甲子園の時と、同じだよ」
俺が呟くと、光は小さく息をのんだ。
「お前の邪魔をしたくない。お前、今の仕事好きだろ?俺とのことが騒がれて、台無しにしてほしくない。」
光はしばらく黙っていた。長い沈黙の間、俺は月を見上げていた。
『もう、いいです』
短い言葉だった。その言葉を最後に電話は切れた。
月は相変わらずまぶしくて、電車は淡々と流れていった。遠くのマンションの電気が一つ消えた。目の前の家の屋根に小さな鳥の影が飛来した。ここは寮にいた時よりも星がたくさん見えた。バットを振る音も、誰かの掛け声も、ふざけあう喧騒も、騒がしい足音もない。部屋の時計の針が嫌に大きく響いて、当たり前に時間が過ぎていることを俺に知らしめた。
こんなに取り残されたような気分なのに、時間は過ぎていく。もう光は俺の恋人じゃなくなった。関係がなくなった。もう電話をしても、メールをしても、返ってこないのかもしれない。会えないのかもしれない。だって…嫌われたんだから。
初めて会った時のこと。
あまりに綺麗な子で驚いたこと。
意外に子供っぽい悪戯が好きなこと。
しっかりしているようでどこか抜けていること。
本当は俺を頼りにしてくれていたこと。
俺に体を許してくれたこと。
俺を求めてくれたこと。
何よりも、俺を信じていてくれたこと。
思いがあふれてきて、俺は狭いベランダでひとり立ち尽くした。まぶしいほどの月がぼやけて、目の前いっぱいに光が広がり、何も見えなくなってもそれをぬぐうこともせず、俺はただただ、立ち尽くした。