040
飲み屋街から外れた路地裏の、小ぢんまりとした居酒屋。俺がこのあたりに越してきてから、チームメイトに教えてもらった店だ。客の出入りの少ない、それでいて店主の気前もいい、いわば「有名人御用達」の店。ここならあまり人目につかずに過ごせる。
店内に足を踏み入れると、すっかり顔を見知った店主が、ああ、と会釈して静かに店の奥を指した。その奥の席にはすでに、キャップを目深にかぶった男が座っている。
「はえーじゃん」
珍しい、と嫌味を言って、俺は御幸の向かい側に座る。御幸はメニューから顔を上げ、ああ、とつぶやく。
「大将、ウーロン茶。」
「はいよ」
カウンターを振り返って声をかけると、静かな了承が返ってくる。
「…飲まねぇの?」
御幸は少し非難がましい眼で俺を見る。そりゃそうだ、飲みに誘ったのは俺なんだから。
「この後、別の約束があんだよ」
「はぁ?なんだよ来て早々、お前から誘っておいて…」
御幸の機嫌を損ねるのを承知で、俺は通しの枝豆を口に放り込む。
「…玉城さんから電話が来た」
その名前を口にするときの緊張を悟られないよう、呪文のように、俺は一息で言った。御幸からの返事はすぐには返ってこなかった。俺の前にウーロン茶が置かれ、何も注文しない御幸を気にしたように一瞥して、店主はカウンターに戻っていく。
「……、…そ。」
御幸はかすれた声で言った。本当は、訊きたいことが山ほどあるくせに。動揺しているくせに。ショックを受けているくせに。うつむいた御幸の顔は、キャップのつばに覆われて見えない。
「…まだ、連絡とってたんだ、お前ら」
動揺を隠そうとしているのが手に取るようにわかるほど、その声は震えていて、それを予想していたはずの俺も、少し動揺した。
「…いや、卒業してから…っつーか、連絡先交換してから、初めてだよ、電話なんて来たのは」
「……。」
「玉城さん、番号変わってたから、最初誰だかわかんなかったし…まさか玉城光から電話が来るなんて、思わねぇだろ」
玉城光。その名前は、今はとても遠い存在を指す言葉になっていた。きっとそれは、御幸も同じだ。
「…それで、このあと会うことになってる。」
御幸が弾かれたように顔を上げた。見たことのない顔をしていた。ショックを受けたような、悲しんでいるような、だけど、ずっと探していたものを、見つけた時のような…。それからすぐに、そわそわと視線をさ迷わせて、唇を噛んだ。
…こんなに迷うこいつを見るのは初めてだ。いつも自信満々で、嫌味な奴で、無茶ばかりして、一度は弱音も吐いたけど…でも、意地の強い、…強いやつだと思っていた。
「そろそろ時間だから、いくわ」
そう言って俺は、ウーロン茶をゆっくりと飲み干した。…聞かねえのか、何も?止めねえのか?
御幸はずっと黙っている。俺はすっかりウーロン茶を飲み干して、席を立ち上がる。テーブルに千円札を置いて、御幸に背を向けた。御幸は何も、言わなかった。
***
居酒屋から少し歩いた場所にある、有名人にはよく知られたバー。おしゃれで、店内は暗くて客同士の顔もよく見えず、一見客はお断りの、いわゆる逢引きにはぴったりのバー。俺自身、先輩に教えてもらって一度来ただけで、自分で来るのは初めてだ。
この店を指定したとき、電話の向こうの玉城さんは一瞬黙った後、わかりました、と言った。
有名人の間では知られた店だから、噂くらいは聞いたことがあるんだろう。…逢引きに使われる店だと。だけど、他に人目につかない安全な場所があるわけじゃないし、俺はともかく、玉城さんは男といるところを見られたらまずいだろう。きっと了承したのはそのせいだ。
店に入ると、店主を一瞥し、カウンター席の一番奥に座った。腕時計を見る。約束の時間まであと5分程度。俺は頬杖をつき、物思いにふける。
…高校卒業前に会ったきりの玉城さん。今ではほとんど毎日テレビで見るし、町では彼女の歌が流れてる。高校卒業後、芸能活動を本格的に始めたらしい彼女は、多才に色々な活躍を見せている。モデルから始まり、バラエティ番組で歌を歌ったのをきっかけに、有名なアーティストが楽曲を提供してCDを出し、自分でも作詞をするようになり、タレントとしても引っ張りだこで、今度は、主演の映画が公開される。
テレビで一時話題になっていた「恋人」と別れたという報道があってからは、その人気に一層拍車がかかった。まさかと思って、報道の後御幸に電話をしたら、本当だよ、と低く呟いた。その時の御幸の声は、今も聞いた瞬間のように思い出せる。
だけど…あの歌。玉城さんが作詞したというあの歌は…俺にはわかる。御幸に向けられた歌だ。彼女はまだ、御幸のことが好きなんだ。
ふと時計を見る。約束の時間は過ぎていた。一抹の不安を感じながら、進む秒針を眺めた。
するとそのとき、ふわりといいかおりが鼻をかすめて、俺は顔を上げた。俺の隣の椅子に手をかけて、美しい女性が――玉城光が、俺を覗いていた。
「あの…倉持…さん、ですか?」
遠慮がちにそう問う玉城さんに、俺は咄嗟に作り笑いを向ける。
「ああ、うん、そうだけど。」
「あ…、よかった。遅れてごめんなさい。玉城です。」
「うん、わかってる…」
椅子をすすめ、玉城さんを座らせる。玉城さんは白いスプリングコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。薄いニットに包まれた体の柔らかなラインが見えて、俺は心臓がはねる。…こんなに綺麗になってるなんて。いや、テレビではさんざん見ていたけど、でも、テレビで見るより何倍もきれいだ。
連れが来たことを察知して、店主がさりげなく注文を聞きに来た。
「俺は…ジントニック。」
「かしこまりました。」
言いながら、メニューを玉城さんの前に差し出す。
「玉城さんって、よく飲むのか?」
「いえ…あまり…」
ってことは…あんま強くねーのかな。
「飲むときはどんなの飲んでる?」
「甘いカクテルとか…柑橘系が多いです」
「じゃ、そういう感じの…飲みやすいカクテルお願いします。」
「かしこまりました。」
店主はカウンターの酒棚に向かっていった。
静かな店内。耳を澄ますと聞こえる程度のピアノジャズが流れている。カウンターに並ぶキャンドルが照らす、玉城さんの横顔。…綺麗だな。まるい額、つんとした小さな鼻、赤くぷっくりとした唇、小さく細い顎。大きな瞳は伏せられ、長い睫が頬に影を落としている。うっすらと化粧をしているその横顔には、振れるのもためらうほどの美しさのなかに、かすかな懐かしさが、確かにあった。
玉城さんだ。まさかまた、会える時が来るなんて。もう二度と手の届かない人になったと思っていたから、まだ夢を見ている気分だ。
ふいに玉城さんが俺を見て、息をのんだ。思わず見入ってしまっていた。
「あの…、」
玉城さんが言いかけた時、カクテルが運ばれてきて、彼女は一瞬口をつぐんだ。店主が少し離れると、また俺を見つめて口を開いた。
「…あの、それで…わかりましたか?」
そう縋るように言う玉城さんの見つめる先に、今いるのは俺なのに。
「…御幸…さんの、…連絡先」
彼女はいつも、御幸だけを見ている。
「…これ。」
俺はポケットから小さなメモ紙を取り出し、彼女に差し出した。彼女は慎重にそれを受け取った。手が近づいた一瞬、緊張したけど、指が触れ合うことはなかった。
メモ紙を開く玉城さん。そこには、御幸の電話番号が書いてある。
「あいつ、何度か携帯変えたみたいでよ。何台か使い分けてるみてーだし…でもそれは、ちゃんと繋がるやつだから。」
「……。」
玉城さんはとても大切なものを見るように電話番号を見つめ、唇を引き結んだ。それから俺をちらりと見上げ、ごまかすように笑った。
「…ありがとうございます。でも…電話…」
独り言のように玉城さんは呟く。
「…できるか…わからないけど……」
今にも彼女が泣き出すんじゃないかと思って、俺は少し身構えていた。だけど玉城さんはふっと表情を硬め、カクテルを飲み始めた。
薄暗い店内で、少し肌寒そうに身をすくめ、カクテルを飲む玉城さんを見ていたら、ふと高校時代のことを思い出した。学校の倉庫に、二人で隠れた時のこと。窓から差し込む夕暮れの赤い光がぼんやりと照らしていた彼女の姿と、今、キャンドルの炎に淡く照らされる彼女の姿が重なった。違うのは…俺たちはもう成長して、大人になって、そして…彼女に今、恋人がいないこと。
あの日、一瞬頭に浮かんで、すぐにかき消した想像。
…もし、今、抱きしめたら。…拒絶する?それとも、受け入れる?
ほんのりと頬が赤くなった玉城さんは、やけに色っぽく見えて。俺は息をのんだ。
店内に客の姿はほとんどなく、俺たちのグラスはほとんど空になった。
不意に、俺の携帯のバイブレーションが鳴った。画面を確認し、御幸、と表示されたすぐ下の赤いボタンを押す。それから電源を切って、ポケットにしまい込んだ。
「時間、大丈夫?」
まだ終電までは時間がある。わかっていて訊いた。
「…はい。」
断る口実もなく、玉城さんは頷いて、メニューを手に取り次に飲むカクテルを選び始めた。
「あ…これ美味しそう」
そう言ってカクテルの長ったらしい名前を指さす。
「あぁこれ、味は甘くて飲みやすいけど、結構強いから…このあたりのほうが飲みやすいよ」
「へぇ、そうなんですか…」
ふたり分のカクテルを注文し、俺はジントニックを飲み干す。
「…倉持さんって」
まだ呼びなれない様子で気恥ずかしそうに、玉城さんは切り出した。
「優しい…ですよね」
「え…」
意外な話題に、俺の心臓は跳ねる。
「昔から…いつも助けてくれたし…」
「…そうだっけ」
「そうですよ。ストーカーのときも、倉庫に隠れた時も…パパラッチからも、助けてくれて」
「……。」
「だから…私、先輩のこと…」
目の前がぐらぐらする。次に続く言葉を、俺はどうしても期待せずにはいられず、思わず息を止めた。
「…尊敬してます。」
納得したような声で、玉城さんは呟いた。なんだ…そうか。そうだよな。
玉城さんが俺に微笑んでくれても、無防備に頼ってくれても、それは信頼であっても、尊敬止まりの感情で。昔からずっと…御幸と俺とでは、まるで違っていた。御幸の前でだけは、気取らず、素直で、無邪気で…一番綺麗な笑顔だった。
俺は小さく笑った。それで、玉城さんも警戒が完全に溶けたような顔で、柔らかく笑った。カクテルが運ばれてきて、それを片手に、俺たちはお互いの話をした。
懐かしい高校時代の話、卒業してからの話、今も連絡を取ってる奴の話…。玉城さんは今も、牧瀬と仲がいいらしい。牧瀬は今大学に通っていて、恋人と同じ劇団に入り、日々演劇に励んでいるんだとか。玉城さんつながりでテレビに呼ばれることも時々あり、最近だんだんと名が知られてきたらしい。
「それで今度、ファッションショーにも一緒に出ることになって…」
「へぇ、すげえな」
どこか別世界の話を、俺はなんてことない顔をして聞く。時間が経つのが惜しくて、何度も時計を見た。この夢みたいな時間が終わってしまうのが嫌で。だって、もう会う口実だって、なくなってしまった。
「…すみませんお客さん、うちは一見様は…」
不意に店主の声がして、俺たちの会話は途切れた。店主の制止を聞かず、一人の男が店内に入ってきて、客の顔を確かめるように眺めながら奥に歩いてくる。キャップを目深にかぶった、このしゃれた店には不釣り合いなグレーのウインドブレーカー姿のその男は、よく見るとかすかに息が切れていた。男は俺たちの方を見て立ち止まった。俺にはもう、それが誰だかわかっていた。男は俺たちに歩み寄り、その間に割り込むようにして腕をカウンターに着いた。
「…おせえよ」
俺はそう呟いて、御幸を見上げた。ここまで手当たり次第に店を探してきたんだろう。息切れしている御幸が、ゆっくりと玉城さんを振り向く。その顔を見上げた玉城さんの、ぽかんと開いた唇が、ふるえた。口元を覆った白くてきれいな細い手に、ぽろりと涙が落ちてくる。言葉はなく、玉城さんはただ御幸を見上げていた。
「…行こう」
御幸が言い、手を差し出すと、玉城さんは一瞬の躊躇もなく、その手を握り返した。二人は黙ったまま連れ立って店を出ていった。俺は頭を抱えて俯き、深く長い息を吐く。…終わりだ。終わったんだ。俺のこの思いは。
だから、もう前を向かなくちゃ。
ぼやける視界を眺めながら、暗い店で良かったと、一人静かに目を閉じた。
店内に足を踏み入れると、すっかり顔を見知った店主が、ああ、と会釈して静かに店の奥を指した。その奥の席にはすでに、キャップを目深にかぶった男が座っている。
「はえーじゃん」
珍しい、と嫌味を言って、俺は御幸の向かい側に座る。御幸はメニューから顔を上げ、ああ、とつぶやく。
「大将、ウーロン茶。」
「はいよ」
カウンターを振り返って声をかけると、静かな了承が返ってくる。
「…飲まねぇの?」
御幸は少し非難がましい眼で俺を見る。そりゃそうだ、飲みに誘ったのは俺なんだから。
「この後、別の約束があんだよ」
「はぁ?なんだよ来て早々、お前から誘っておいて…」
御幸の機嫌を損ねるのを承知で、俺は通しの枝豆を口に放り込む。
「…玉城さんから電話が来た」
その名前を口にするときの緊張を悟られないよう、呪文のように、俺は一息で言った。御幸からの返事はすぐには返ってこなかった。俺の前にウーロン茶が置かれ、何も注文しない御幸を気にしたように一瞥して、店主はカウンターに戻っていく。
「……、…そ。」
御幸はかすれた声で言った。本当は、訊きたいことが山ほどあるくせに。動揺しているくせに。ショックを受けているくせに。うつむいた御幸の顔は、キャップのつばに覆われて見えない。
「…まだ、連絡とってたんだ、お前ら」
動揺を隠そうとしているのが手に取るようにわかるほど、その声は震えていて、それを予想していたはずの俺も、少し動揺した。
「…いや、卒業してから…っつーか、連絡先交換してから、初めてだよ、電話なんて来たのは」
「……。」
「玉城さん、番号変わってたから、最初誰だかわかんなかったし…まさか玉城光から電話が来るなんて、思わねぇだろ」
玉城光。その名前は、今はとても遠い存在を指す言葉になっていた。きっとそれは、御幸も同じだ。
「…それで、このあと会うことになってる。」
御幸が弾かれたように顔を上げた。見たことのない顔をしていた。ショックを受けたような、悲しんでいるような、だけど、ずっと探していたものを、見つけた時のような…。それからすぐに、そわそわと視線をさ迷わせて、唇を噛んだ。
…こんなに迷うこいつを見るのは初めてだ。いつも自信満々で、嫌味な奴で、無茶ばかりして、一度は弱音も吐いたけど…でも、意地の強い、…強いやつだと思っていた。
「そろそろ時間だから、いくわ」
そう言って俺は、ウーロン茶をゆっくりと飲み干した。…聞かねえのか、何も?止めねえのか?
御幸はずっと黙っている。俺はすっかりウーロン茶を飲み干して、席を立ち上がる。テーブルに千円札を置いて、御幸に背を向けた。御幸は何も、言わなかった。
***
居酒屋から少し歩いた場所にある、有名人にはよく知られたバー。おしゃれで、店内は暗くて客同士の顔もよく見えず、一見客はお断りの、いわゆる逢引きにはぴったりのバー。俺自身、先輩に教えてもらって一度来ただけで、自分で来るのは初めてだ。
この店を指定したとき、電話の向こうの玉城さんは一瞬黙った後、わかりました、と言った。
有名人の間では知られた店だから、噂くらいは聞いたことがあるんだろう。…逢引きに使われる店だと。だけど、他に人目につかない安全な場所があるわけじゃないし、俺はともかく、玉城さんは男といるところを見られたらまずいだろう。きっと了承したのはそのせいだ。
店に入ると、店主を一瞥し、カウンター席の一番奥に座った。腕時計を見る。約束の時間まであと5分程度。俺は頬杖をつき、物思いにふける。
…高校卒業前に会ったきりの玉城さん。今ではほとんど毎日テレビで見るし、町では彼女の歌が流れてる。高校卒業後、芸能活動を本格的に始めたらしい彼女は、多才に色々な活躍を見せている。モデルから始まり、バラエティ番組で歌を歌ったのをきっかけに、有名なアーティストが楽曲を提供してCDを出し、自分でも作詞をするようになり、タレントとしても引っ張りだこで、今度は、主演の映画が公開される。
テレビで一時話題になっていた「恋人」と別れたという報道があってからは、その人気に一層拍車がかかった。まさかと思って、報道の後御幸に電話をしたら、本当だよ、と低く呟いた。その時の御幸の声は、今も聞いた瞬間のように思い出せる。
だけど…あの歌。玉城さんが作詞したというあの歌は…俺にはわかる。御幸に向けられた歌だ。彼女はまだ、御幸のことが好きなんだ。
ふと時計を見る。約束の時間は過ぎていた。一抹の不安を感じながら、進む秒針を眺めた。
するとそのとき、ふわりといいかおりが鼻をかすめて、俺は顔を上げた。俺の隣の椅子に手をかけて、美しい女性が――玉城光が、俺を覗いていた。
「あの…倉持…さん、ですか?」
遠慮がちにそう問う玉城さんに、俺は咄嗟に作り笑いを向ける。
「ああ、うん、そうだけど。」
「あ…、よかった。遅れてごめんなさい。玉城です。」
「うん、わかってる…」
椅子をすすめ、玉城さんを座らせる。玉城さんは白いスプリングコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。薄いニットに包まれた体の柔らかなラインが見えて、俺は心臓がはねる。…こんなに綺麗になってるなんて。いや、テレビではさんざん見ていたけど、でも、テレビで見るより何倍もきれいだ。
連れが来たことを察知して、店主がさりげなく注文を聞きに来た。
「俺は…ジントニック。」
「かしこまりました。」
言いながら、メニューを玉城さんの前に差し出す。
「玉城さんって、よく飲むのか?」
「いえ…あまり…」
ってことは…あんま強くねーのかな。
「飲むときはどんなの飲んでる?」
「甘いカクテルとか…柑橘系が多いです」
「じゃ、そういう感じの…飲みやすいカクテルお願いします。」
「かしこまりました。」
店主はカウンターの酒棚に向かっていった。
静かな店内。耳を澄ますと聞こえる程度のピアノジャズが流れている。カウンターに並ぶキャンドルが照らす、玉城さんの横顔。…綺麗だな。まるい額、つんとした小さな鼻、赤くぷっくりとした唇、小さく細い顎。大きな瞳は伏せられ、長い睫が頬に影を落としている。うっすらと化粧をしているその横顔には、振れるのもためらうほどの美しさのなかに、かすかな懐かしさが、確かにあった。
玉城さんだ。まさかまた、会える時が来るなんて。もう二度と手の届かない人になったと思っていたから、まだ夢を見ている気分だ。
ふいに玉城さんが俺を見て、息をのんだ。思わず見入ってしまっていた。
「あの…、」
玉城さんが言いかけた時、カクテルが運ばれてきて、彼女は一瞬口をつぐんだ。店主が少し離れると、また俺を見つめて口を開いた。
「…あの、それで…わかりましたか?」
そう縋るように言う玉城さんの見つめる先に、今いるのは俺なのに。
「…御幸…さんの、…連絡先」
彼女はいつも、御幸だけを見ている。
「…これ。」
俺はポケットから小さなメモ紙を取り出し、彼女に差し出した。彼女は慎重にそれを受け取った。手が近づいた一瞬、緊張したけど、指が触れ合うことはなかった。
メモ紙を開く玉城さん。そこには、御幸の電話番号が書いてある。
「あいつ、何度か携帯変えたみたいでよ。何台か使い分けてるみてーだし…でもそれは、ちゃんと繋がるやつだから。」
「……。」
玉城さんはとても大切なものを見るように電話番号を見つめ、唇を引き結んだ。それから俺をちらりと見上げ、ごまかすように笑った。
「…ありがとうございます。でも…電話…」
独り言のように玉城さんは呟く。
「…できるか…わからないけど……」
今にも彼女が泣き出すんじゃないかと思って、俺は少し身構えていた。だけど玉城さんはふっと表情を硬め、カクテルを飲み始めた。
薄暗い店内で、少し肌寒そうに身をすくめ、カクテルを飲む玉城さんを見ていたら、ふと高校時代のことを思い出した。学校の倉庫に、二人で隠れた時のこと。窓から差し込む夕暮れの赤い光がぼんやりと照らしていた彼女の姿と、今、キャンドルの炎に淡く照らされる彼女の姿が重なった。違うのは…俺たちはもう成長して、大人になって、そして…彼女に今、恋人がいないこと。
あの日、一瞬頭に浮かんで、すぐにかき消した想像。
…もし、今、抱きしめたら。…拒絶する?それとも、受け入れる?
ほんのりと頬が赤くなった玉城さんは、やけに色っぽく見えて。俺は息をのんだ。
店内に客の姿はほとんどなく、俺たちのグラスはほとんど空になった。
不意に、俺の携帯のバイブレーションが鳴った。画面を確認し、御幸、と表示されたすぐ下の赤いボタンを押す。それから電源を切って、ポケットにしまい込んだ。
「時間、大丈夫?」
まだ終電までは時間がある。わかっていて訊いた。
「…はい。」
断る口実もなく、玉城さんは頷いて、メニューを手に取り次に飲むカクテルを選び始めた。
「あ…これ美味しそう」
そう言ってカクテルの長ったらしい名前を指さす。
「あぁこれ、味は甘くて飲みやすいけど、結構強いから…このあたりのほうが飲みやすいよ」
「へぇ、そうなんですか…」
ふたり分のカクテルを注文し、俺はジントニックを飲み干す。
「…倉持さんって」
まだ呼びなれない様子で気恥ずかしそうに、玉城さんは切り出した。
「優しい…ですよね」
「え…」
意外な話題に、俺の心臓は跳ねる。
「昔から…いつも助けてくれたし…」
「…そうだっけ」
「そうですよ。ストーカーのときも、倉庫に隠れた時も…パパラッチからも、助けてくれて」
「……。」
「だから…私、先輩のこと…」
目の前がぐらぐらする。次に続く言葉を、俺はどうしても期待せずにはいられず、思わず息を止めた。
「…尊敬してます。」
納得したような声で、玉城さんは呟いた。なんだ…そうか。そうだよな。
玉城さんが俺に微笑んでくれても、無防備に頼ってくれても、それは信頼であっても、尊敬止まりの感情で。昔からずっと…御幸と俺とでは、まるで違っていた。御幸の前でだけは、気取らず、素直で、無邪気で…一番綺麗な笑顔だった。
俺は小さく笑った。それで、玉城さんも警戒が完全に溶けたような顔で、柔らかく笑った。カクテルが運ばれてきて、それを片手に、俺たちはお互いの話をした。
懐かしい高校時代の話、卒業してからの話、今も連絡を取ってる奴の話…。玉城さんは今も、牧瀬と仲がいいらしい。牧瀬は今大学に通っていて、恋人と同じ劇団に入り、日々演劇に励んでいるんだとか。玉城さんつながりでテレビに呼ばれることも時々あり、最近だんだんと名が知られてきたらしい。
「それで今度、ファッションショーにも一緒に出ることになって…」
「へぇ、すげえな」
どこか別世界の話を、俺はなんてことない顔をして聞く。時間が経つのが惜しくて、何度も時計を見た。この夢みたいな時間が終わってしまうのが嫌で。だって、もう会う口実だって、なくなってしまった。
「…すみませんお客さん、うちは一見様は…」
不意に店主の声がして、俺たちの会話は途切れた。店主の制止を聞かず、一人の男が店内に入ってきて、客の顔を確かめるように眺めながら奥に歩いてくる。キャップを目深にかぶった、このしゃれた店には不釣り合いなグレーのウインドブレーカー姿のその男は、よく見るとかすかに息が切れていた。男は俺たちの方を見て立ち止まった。俺にはもう、それが誰だかわかっていた。男は俺たちに歩み寄り、その間に割り込むようにして腕をカウンターに着いた。
「…おせえよ」
俺はそう呟いて、御幸を見上げた。ここまで手当たり次第に店を探してきたんだろう。息切れしている御幸が、ゆっくりと玉城さんを振り向く。その顔を見上げた玉城さんの、ぽかんと開いた唇が、ふるえた。口元を覆った白くてきれいな細い手に、ぽろりと涙が落ちてくる。言葉はなく、玉城さんはただ御幸を見上げていた。
「…行こう」
御幸が言い、手を差し出すと、玉城さんは一瞬の躊躇もなく、その手を握り返した。二人は黙ったまま連れ立って店を出ていった。俺は頭を抱えて俯き、深く長い息を吐く。…終わりだ。終わったんだ。俺のこの思いは。
だから、もう前を向かなくちゃ。
ぼやける視界を眺めながら、暗い店で良かったと、一人静かに目を閉じた。