058
「じゃ、光のことよろしくお願いしますね。」
マンションの下で、牧瀬は迎えに来た恋人の車に乗り込む前に、俺に言い聞かせる。
「くれぐれも口説いたりしたらダメですよ。」
「し…しねーよ!馬鹿か」
「ちゃんと無事に家まで送り届けてくださいね?」
「そんなに信用ねーのか俺は」
牧瀬は少し笑い、冗談だと俺を小突いた。
「もちろん信用してますよ。…光も、明日は倉持さんしか味方がいないんですから。しっかり頼みますよ」
「…わかってるよ」
「私も試験が終わったら、すぐ駆けつけますから。じゃ、また明日。」
「おう」
牧瀬は助手席に乗り込み、車は発進する。それを見送って、俺は部屋に戻った。
ドアを開けると、俯いていた玉城さんが驚いたように顔を上げた。その顔は涙で濡れていて、俺は息をのむ。玉城さんは慌てて涙をぬぐいながら顔を背けた。
「…送るよ。」
車の鍵を取って、なんでもないように振る舞って声をかける。
「…帰りたくないです」
……え?
い…今、なんつった?
俺は鍵を取り落としそうになって、爆発しそうなほど強く響く心音で目の前を白黒させながら玉城さんを見る。玉城さんは、呆然と手元を見つめていた。
帰りたくないって…そういう…意味だよな…?
「…今、マネージャーから電話が来て」
「…お、おう」
ここでマネージャーの話?
「私の服を届けに…蒼井颯斗と、私の家に向かってるそうです」
「…え!?」
俺は今度こそ車の鍵を落とした。足の指に直撃した。いてぇ。
帰りたくないって、そう言う意味かよ…あーびっくりした。早まらなくてよかった。
「…じゃーこの部屋使えよ。俺は沢村のとこにでも行くし」
「え?…沢村って…」
「沢村栄純。昔同じクラスだったっけ?あいつんちもこの近くなんだよ。」
「沢村君が…そうなんですか…」
「風呂はここでトイレはここな。タオルとかはこの中のやつ適当に使っていいから。えーとあとは…腹減ったら冷蔵庫の中のもん適当に食えよ。あとベッドも…って、俺のベッドじゃ嫌だよな。たしか毛布があったから――」
「い、嫌じゃないです」
「え…」
咄嗟に言った玉城さんが、徐々に顔を赤くした。…あ、やばい。今絶対俺も顔が赤い。
「…あ、ご、ごめんなさい。そうじゃないですよね、ベッド使われるなんて嫌ですよね…」
「いや、俺は全然嫌とかじゃ…」
…なんて言ったらいいんだ、こういう時。下手にベッドを進めると下心あるっぽいし、かといって使わせないのもただの嫌な奴だ…。
「よ…よかったら、ベッド使って。」
「…いえ…すみません…」
…つ…使うのか!?使わないのか!?どっちなんだ!?
「えっと…じゃあ…まあ……俺、行くわ」
「…あの!」
玄関に向かう俺に、玉城さんは駆け寄ってきた。手を伸ばせはすぐ届く距離で立ち止まる。ふわりといい香りが鼻をかすめる。…恋人だったら、ここでキスのひとつ…いや、恋人だったら、当然…同じ部屋で一晩過ごすんだろうな。
「本当に…ご迷惑をおかけして…すみません」
申し訳なさそうに言って、玉城さんは俺を見上げる。その目に何か、心の底を覗かれてしまうような気がして、俺は咄嗟に目を逸らした。
「き…気にすんなよ!沢村のとこなんてしょっちゅう転がり込んでるし、今は緊急事態なんだからよ」
慌ててスニーカーを履く。とにかく、早くこの狭い二人きりの空間から逃げ出したかった。
「明日の朝また来るから。じゃあな、おやすみ。」
「あ…」
玉城さんが何か言いかけたような気がしたが、それよりも早くドアが閉まった。迷うようにやや間が空いて、鍵の閉まる音がする。それを確認して、俺は階段を下りた。
***
…ただの沢村の家だというのに、一晩中緊張して、全然眠れなかった。
それでも妙に冴えた頭で自分のマンションに戻る。まだ緊張してんのか俺。
インターフォンを鳴らすと、ドアの向こうから物音がした。少しの間が空いて、ドアが開いた。
すでに身支度を整えた玉城さんがいた。
「おはようございます。」
「お、おはよう。」
玉城さんが退き、俺は部屋へ上がる。…自分の部屋だというのに緊張する。
「すぐ準備します。」
玉城さんは洗面所へ行って、口紅を塗り始めた。その後姿に、鏡越しに見える彼女の口紅を塗る姿に…色気を感じる。御幸は毎日見ている光景。そう考えると、彼女の姿は一転、見ていると胸の奥がいたくなってくる。
洗面所の前を通り過ぎて部屋へ入る。…玉城さんが一晩過ごした部屋。こころなしか、昨日より綺麗になっている気がする。…何も変わってないから気のせいだけど。
ちらりと見たが、ベッドもソファもきれいに整えられていて、どちらを使ったのかはわからなかった。玉城さんはまだ洗面所にいる。俺はそうっとベッドに近づき、布団に鼻を近づけた――
「お待たせしました。」
突然背後から声がかかり、俺は飛び上がるほど驚く。
「…どうしました?」
ベッドに倒れこんだ俺を不思議そうに見つめる玉城さん。俺は慌てて立ち上がり、取り繕う。
「い、いや、ちょっと疲れたな〜と…」
「……はぁ…」
…絶対変な奴だと思われただろこれ!!最悪だ…
「い、行くか。」
「はい。」
はぐらかすように車のカギを取って、俺たちは部屋を出た。
***
昨日に引き続き玉城さんの付添として一緒に現場入りする。
ビルに入るなり玉城さんはスタッフに取り囲まれ、衣装やメイクの準備をするため連れて行かれる。
「倉持さん。」
「お、おぉ?」
「これ…控室に置いといてもらえますか。すみません。」
「ああ、わかった」
玉城さんの手荷物と上着を受け取る。…玉城さんのいいにおいがする。…って俺、変態かよ。
でもなんかこれ、彼氏…みたいだな。正直悪い気はしねえ…
そんなことが頭をよぎって、自分の呑気さに苛立つ。今日はそれどころじゃねえだろ。しっかりしろ、俺。
控室に荷物を置き、撮影現場に戻ると、蒼井颯斗が撮影を始めていた。小道具を使ってキザにポーズを決める奴を見て、反吐が出そうになる。
「玉城光さん、準備オッケーでーす」
スタッフが声を上げ、玉城さんを連れてきた。黒いワンピース姿で、赤い口紅をして、普段より大人っぽく色気がある。スタッフに誘導され、撮影のセットに入ると、蒼井颯斗と並んで立った。
フラッシュに照らされ続ける玉城さんを、俺はずっと見つめた。…いや、見惚れていた。目が離せなかった。綺麗で、…どこまでも綺麗で。ずっと見ていたい。もっと…近くで。
「はい、オッケーです!」
気付けば撮影は終わっていて、スタッフの声で俺は我に返った。撮影のチェックをし、軽い打ち合わせのあと、玉城さんは俺の方へ歩いてくる。少し微笑んで素の表情に戻っている玉城さんに、また胸が苦しくなる。…何で俺、玉城さんの恋人じゃないんだろう。ここにいるのが俺じゃなく、御幸だったら…彼女はきっともっと、嬉しそうに…
そう考えてこぼれそうになる溜息を堪え、玉城さんを迎えた。
「お疲れ。もう戻っていいのか?」
「はい。控室に戻って、着替えて…」
玉城さんの表情に緊張が戻った。
「…あいつが来るのを待ちます。」
***
控室に戻り、部屋に異常がないことを確認してから、玉城さんを部屋に一人にし、俺は廊下で待機する。間もなくして、玉城さんはドアを開けた。
「あいつは…」
そう言いかけた時、パシャッ、とシャッターを切る音が響いた。
振り向くと、こちらにスマホを向ける蒼井颯斗の姿。驚いて言葉を失っている俺たちに、蒼井は嫌な笑みを浮かべる。
「昨日は俺で、今日はそいつ?清純派女優が毎日男を部屋に連れ込んでんのかよ。」
「……。」
あきらかに挑発する蒼井を、玉城さんは落ち着いた様子で見つめた。
「蒼井さん。お話したいことがあります。」
「…何?」
予想外だったのだろう、蒼井は少し警戒した様子で立ち尽くす。
「中でお話ししましょう」
玉城さんはドアを大きく開ける。蒼井は俺を一瞥し、部屋に足を踏み入れる。後に俺も続き、部屋のドアを閉めた。
部屋の奥に玉城さん、その向かいに蒼井、俺は入口の近くに立って、話の行方を見守る。
「で…話って?」
「……。」
玉城さんは真剣なまなざしで蒼井を見た。…その姿に見惚れてしまう。彼女の強い意志のようなものが、目の中の光となって見えるような気がした。玉城さんは蒼井を見つめ、そして――深く頭を下げた。
「傷の写真を…消してください。お願いします。」
シンと静まり返った部屋に、ハッ、と蒼井の笑い交じりの吐息が響いた。
「…は?消すわけないだろ?」
「どうすれば消してくれますか?」
「前にも言っただろ、御幸一也と別れて、俺との交際を公表すれば…」
「それはできません。」
玉城さんははっきりと言った。
「それだけは、絶対、できません。」
深く頭を下げているのに――謝罪の言葉を口にしているのに、彼女の姿は強く、威圧感さえ感じるほど、強く見えた。
「…じゃああの写真は公表する。御幸一也一筋で、一人しか男を知らない、一途で清純なイメージのお前が…他の男の前で下着姿を晒すような尻軽で、しかも、あんな汚い傷を隠してたっていう証拠をな。」
「尻軽でも、汚くもねぇよ!!」
思わず拳を握って踏み出した俺を、玉城さんはきつく見つめた。じっと刺すような目で見られて、俺は震える拳を下ろす。
「…なんだよ?殴れば?そうしたらお前は、傷害罪で選手生命も終わりだけどな。」
殴られないと安心したのか、蒼井は調子に乗ってそんなことを言った。しかしそれを遮るように、玉城さんが言った。
「…わかりました。一也さんと別れるしかないなら…」
「…え!?おい、待てよ…」
焦る俺。ニヤける蒼井。
待てよ。御幸と別れるなんて…嘘だろ。だって、俺は、御幸ならしょうがないって…ずっと、そう思ってきて、
「…その写真、公開してください。あなたと付き合うくらいなら、その方がずっとマシです。」
ぽかん、とアホ面で口を開ける蒼井颯斗。いや、俺もだ。けれどだんだん、乾いた笑いがこみあげてきた。
「…ハァ!?おい、…公開するぞ!?マジで…」
「はい。」
「…頭おかしいんじゃないのか!?お前…芸能活動終わるぞ!」
「はい。」
「このっ…この画像だぞ!?芸能活動どころか、顔を出して外を歩くことだって…」
「…いいって言ってるでしょ!!あんたと付き合うより何億倍もマシなの!!もう、あんたの顔を見なくて済むならどうなってもいい!!」
「……っ」
蒼井颯斗は玉城さんの怒鳴り声にビビって肩をすくませ、逃げるように部屋を出て行った。た…玉城さん、つええ…。やっぱ、さすがは…
思わず笑みを浮かべて彼女を振り返る。じっと蒼井が走り去っていった廊下を睨みつけていた玉城さんは、奴の姿が見えなくなると、ふっと顔を歪めた。大きな瞳が潤み、頬は赤く染まる。小さく鼻をすする音がして、俺はやっと、玉城さんが泣き出しそうなことを自覚した。
彼女を見ると、彼女も俺を見た。…俺を見た。心細そうに、弱弱しい姿で。俺は考えるより前に、駆け寄って――その細い体を抱きしめた。
玉城さんの両手が、躊躇いながら、俺の腕に触れた。
…ど…どうしよう。抱きしめちまった…どうすればいいんだ、これ…
そのとき、玉城さんがゆっくりと、俺を押し返した。涙を浮かべた目は斜め下に伏せられ――逸らされている。
…ああああ!やっちまった!!これで俺への信用は地に落ちた…。
「…倉持さんって、」
「え……え?」
なんだ…?何を言われるんだ?頼むから何か弁解させてくれ…
「……私のこと……、……好き、なんですか?」
「…え……」
その言葉は俺にとって強烈で。
玉城さんの透き通った大きな瞳が、俺の考えを見通すようにまっすぐに、俺を見上げる。
「俺……」
長い沈黙。なんて言えばいいんだ?好きだなんて絶対に言えない。…大切な後輩?いや、そんな濃い付き合いじゃなかっただろ。友達の彼女…そう、御幸の彼女だから…そうだよ、そう言えば良いだけじゃねーか。御幸にもよろしく頼まれたし…だから…だけど…それは、抱きしめたことの説明にはならない。
そこまで考えて、この長い沈黙こそが、問いの答えになってしまっていることに、やっと気が付いた。
にわかに顔が熱くなる。玉城さんの顔が見れない。
言葉に迷っていると、俺の腕に添えられている玉城さんの手に、わずかに力がこもった。
そして気が付くと、彼女は少し背伸びをして、玉城さんの顔が近づいてきて…
右頬に、柔らかな唇が触れた。
言葉も出せずに玉城さんを見る。玉城さんの大きな瞳が俺を見つめ――ふっと逸らして、彼女は部屋を出て行った。
マンションの下で、牧瀬は迎えに来た恋人の車に乗り込む前に、俺に言い聞かせる。
「くれぐれも口説いたりしたらダメですよ。」
「し…しねーよ!馬鹿か」
「ちゃんと無事に家まで送り届けてくださいね?」
「そんなに信用ねーのか俺は」
牧瀬は少し笑い、冗談だと俺を小突いた。
「もちろん信用してますよ。…光も、明日は倉持さんしか味方がいないんですから。しっかり頼みますよ」
「…わかってるよ」
「私も試験が終わったら、すぐ駆けつけますから。じゃ、また明日。」
「おう」
牧瀬は助手席に乗り込み、車は発進する。それを見送って、俺は部屋に戻った。
ドアを開けると、俯いていた玉城さんが驚いたように顔を上げた。その顔は涙で濡れていて、俺は息をのむ。玉城さんは慌てて涙をぬぐいながら顔を背けた。
「…送るよ。」
車の鍵を取って、なんでもないように振る舞って声をかける。
「…帰りたくないです」
……え?
い…今、なんつった?
俺は鍵を取り落としそうになって、爆発しそうなほど強く響く心音で目の前を白黒させながら玉城さんを見る。玉城さんは、呆然と手元を見つめていた。
帰りたくないって…そういう…意味だよな…?
「…今、マネージャーから電話が来て」
「…お、おう」
ここでマネージャーの話?
「私の服を届けに…蒼井颯斗と、私の家に向かってるそうです」
「…え!?」
俺は今度こそ車の鍵を落とした。足の指に直撃した。いてぇ。
帰りたくないって、そう言う意味かよ…あーびっくりした。早まらなくてよかった。
「…じゃーこの部屋使えよ。俺は沢村のとこにでも行くし」
「え?…沢村って…」
「沢村栄純。昔同じクラスだったっけ?あいつんちもこの近くなんだよ。」
「沢村君が…そうなんですか…」
「風呂はここでトイレはここな。タオルとかはこの中のやつ適当に使っていいから。えーとあとは…腹減ったら冷蔵庫の中のもん適当に食えよ。あとベッドも…って、俺のベッドじゃ嫌だよな。たしか毛布があったから――」
「い、嫌じゃないです」
「え…」
咄嗟に言った玉城さんが、徐々に顔を赤くした。…あ、やばい。今絶対俺も顔が赤い。
「…あ、ご、ごめんなさい。そうじゃないですよね、ベッド使われるなんて嫌ですよね…」
「いや、俺は全然嫌とかじゃ…」
…なんて言ったらいいんだ、こういう時。下手にベッドを進めると下心あるっぽいし、かといって使わせないのもただの嫌な奴だ…。
「よ…よかったら、ベッド使って。」
「…いえ…すみません…」
…つ…使うのか!?使わないのか!?どっちなんだ!?
「えっと…じゃあ…まあ……俺、行くわ」
「…あの!」
玄関に向かう俺に、玉城さんは駆け寄ってきた。手を伸ばせはすぐ届く距離で立ち止まる。ふわりといい香りが鼻をかすめる。…恋人だったら、ここでキスのひとつ…いや、恋人だったら、当然…同じ部屋で一晩過ごすんだろうな。
「本当に…ご迷惑をおかけして…すみません」
申し訳なさそうに言って、玉城さんは俺を見上げる。その目に何か、心の底を覗かれてしまうような気がして、俺は咄嗟に目を逸らした。
「き…気にすんなよ!沢村のとこなんてしょっちゅう転がり込んでるし、今は緊急事態なんだからよ」
慌ててスニーカーを履く。とにかく、早くこの狭い二人きりの空間から逃げ出したかった。
「明日の朝また来るから。じゃあな、おやすみ。」
「あ…」
玉城さんが何か言いかけたような気がしたが、それよりも早くドアが閉まった。迷うようにやや間が空いて、鍵の閉まる音がする。それを確認して、俺は階段を下りた。
***
…ただの沢村の家だというのに、一晩中緊張して、全然眠れなかった。
それでも妙に冴えた頭で自分のマンションに戻る。まだ緊張してんのか俺。
インターフォンを鳴らすと、ドアの向こうから物音がした。少しの間が空いて、ドアが開いた。
すでに身支度を整えた玉城さんがいた。
「おはようございます。」
「お、おはよう。」
玉城さんが退き、俺は部屋へ上がる。…自分の部屋だというのに緊張する。
「すぐ準備します。」
玉城さんは洗面所へ行って、口紅を塗り始めた。その後姿に、鏡越しに見える彼女の口紅を塗る姿に…色気を感じる。御幸は毎日見ている光景。そう考えると、彼女の姿は一転、見ていると胸の奥がいたくなってくる。
洗面所の前を通り過ぎて部屋へ入る。…玉城さんが一晩過ごした部屋。こころなしか、昨日より綺麗になっている気がする。…何も変わってないから気のせいだけど。
ちらりと見たが、ベッドもソファもきれいに整えられていて、どちらを使ったのかはわからなかった。玉城さんはまだ洗面所にいる。俺はそうっとベッドに近づき、布団に鼻を近づけた――
「お待たせしました。」
突然背後から声がかかり、俺は飛び上がるほど驚く。
「…どうしました?」
ベッドに倒れこんだ俺を不思議そうに見つめる玉城さん。俺は慌てて立ち上がり、取り繕う。
「い、いや、ちょっと疲れたな〜と…」
「……はぁ…」
…絶対変な奴だと思われただろこれ!!最悪だ…
「い、行くか。」
「はい。」
はぐらかすように車のカギを取って、俺たちは部屋を出た。
***
昨日に引き続き玉城さんの付添として一緒に現場入りする。
ビルに入るなり玉城さんはスタッフに取り囲まれ、衣装やメイクの準備をするため連れて行かれる。
「倉持さん。」
「お、おぉ?」
「これ…控室に置いといてもらえますか。すみません。」
「ああ、わかった」
玉城さんの手荷物と上着を受け取る。…玉城さんのいいにおいがする。…って俺、変態かよ。
でもなんかこれ、彼氏…みたいだな。正直悪い気はしねえ…
そんなことが頭をよぎって、自分の呑気さに苛立つ。今日はそれどころじゃねえだろ。しっかりしろ、俺。
控室に荷物を置き、撮影現場に戻ると、蒼井颯斗が撮影を始めていた。小道具を使ってキザにポーズを決める奴を見て、反吐が出そうになる。
「玉城光さん、準備オッケーでーす」
スタッフが声を上げ、玉城さんを連れてきた。黒いワンピース姿で、赤い口紅をして、普段より大人っぽく色気がある。スタッフに誘導され、撮影のセットに入ると、蒼井颯斗と並んで立った。
フラッシュに照らされ続ける玉城さんを、俺はずっと見つめた。…いや、見惚れていた。目が離せなかった。綺麗で、…どこまでも綺麗で。ずっと見ていたい。もっと…近くで。
「はい、オッケーです!」
気付けば撮影は終わっていて、スタッフの声で俺は我に返った。撮影のチェックをし、軽い打ち合わせのあと、玉城さんは俺の方へ歩いてくる。少し微笑んで素の表情に戻っている玉城さんに、また胸が苦しくなる。…何で俺、玉城さんの恋人じゃないんだろう。ここにいるのが俺じゃなく、御幸だったら…彼女はきっともっと、嬉しそうに…
そう考えてこぼれそうになる溜息を堪え、玉城さんを迎えた。
「お疲れ。もう戻っていいのか?」
「はい。控室に戻って、着替えて…」
玉城さんの表情に緊張が戻った。
「…あいつが来るのを待ちます。」
***
控室に戻り、部屋に異常がないことを確認してから、玉城さんを部屋に一人にし、俺は廊下で待機する。間もなくして、玉城さんはドアを開けた。
「あいつは…」
そう言いかけた時、パシャッ、とシャッターを切る音が響いた。
振り向くと、こちらにスマホを向ける蒼井颯斗の姿。驚いて言葉を失っている俺たちに、蒼井は嫌な笑みを浮かべる。
「昨日は俺で、今日はそいつ?清純派女優が毎日男を部屋に連れ込んでんのかよ。」
「……。」
あきらかに挑発する蒼井を、玉城さんは落ち着いた様子で見つめた。
「蒼井さん。お話したいことがあります。」
「…何?」
予想外だったのだろう、蒼井は少し警戒した様子で立ち尽くす。
「中でお話ししましょう」
玉城さんはドアを大きく開ける。蒼井は俺を一瞥し、部屋に足を踏み入れる。後に俺も続き、部屋のドアを閉めた。
部屋の奥に玉城さん、その向かいに蒼井、俺は入口の近くに立って、話の行方を見守る。
「で…話って?」
「……。」
玉城さんは真剣なまなざしで蒼井を見た。…その姿に見惚れてしまう。彼女の強い意志のようなものが、目の中の光となって見えるような気がした。玉城さんは蒼井を見つめ、そして――深く頭を下げた。
「傷の写真を…消してください。お願いします。」
シンと静まり返った部屋に、ハッ、と蒼井の笑い交じりの吐息が響いた。
「…は?消すわけないだろ?」
「どうすれば消してくれますか?」
「前にも言っただろ、御幸一也と別れて、俺との交際を公表すれば…」
「それはできません。」
玉城さんははっきりと言った。
「それだけは、絶対、できません。」
深く頭を下げているのに――謝罪の言葉を口にしているのに、彼女の姿は強く、威圧感さえ感じるほど、強く見えた。
「…じゃああの写真は公表する。御幸一也一筋で、一人しか男を知らない、一途で清純なイメージのお前が…他の男の前で下着姿を晒すような尻軽で、しかも、あんな汚い傷を隠してたっていう証拠をな。」
「尻軽でも、汚くもねぇよ!!」
思わず拳を握って踏み出した俺を、玉城さんはきつく見つめた。じっと刺すような目で見られて、俺は震える拳を下ろす。
「…なんだよ?殴れば?そうしたらお前は、傷害罪で選手生命も終わりだけどな。」
殴られないと安心したのか、蒼井は調子に乗ってそんなことを言った。しかしそれを遮るように、玉城さんが言った。
「…わかりました。一也さんと別れるしかないなら…」
「…え!?おい、待てよ…」
焦る俺。ニヤける蒼井。
待てよ。御幸と別れるなんて…嘘だろ。だって、俺は、御幸ならしょうがないって…ずっと、そう思ってきて、
「…その写真、公開してください。あなたと付き合うくらいなら、その方がずっとマシです。」
ぽかん、とアホ面で口を開ける蒼井颯斗。いや、俺もだ。けれどだんだん、乾いた笑いがこみあげてきた。
「…ハァ!?おい、…公開するぞ!?マジで…」
「はい。」
「…頭おかしいんじゃないのか!?お前…芸能活動終わるぞ!」
「はい。」
「このっ…この画像だぞ!?芸能活動どころか、顔を出して外を歩くことだって…」
「…いいって言ってるでしょ!!あんたと付き合うより何億倍もマシなの!!もう、あんたの顔を見なくて済むならどうなってもいい!!」
「……っ」
蒼井颯斗は玉城さんの怒鳴り声にビビって肩をすくませ、逃げるように部屋を出て行った。た…玉城さん、つええ…。やっぱ、さすがは…
思わず笑みを浮かべて彼女を振り返る。じっと蒼井が走り去っていった廊下を睨みつけていた玉城さんは、奴の姿が見えなくなると、ふっと顔を歪めた。大きな瞳が潤み、頬は赤く染まる。小さく鼻をすする音がして、俺はやっと、玉城さんが泣き出しそうなことを自覚した。
彼女を見ると、彼女も俺を見た。…俺を見た。心細そうに、弱弱しい姿で。俺は考えるより前に、駆け寄って――その細い体を抱きしめた。
玉城さんの両手が、躊躇いながら、俺の腕に触れた。
…ど…どうしよう。抱きしめちまった…どうすればいいんだ、これ…
そのとき、玉城さんがゆっくりと、俺を押し返した。涙を浮かべた目は斜め下に伏せられ――逸らされている。
…ああああ!やっちまった!!これで俺への信用は地に落ちた…。
「…倉持さんって、」
「え……え?」
なんだ…?何を言われるんだ?頼むから何か弁解させてくれ…
「……私のこと……、……好き、なんですか?」
「…え……」
その言葉は俺にとって強烈で。
玉城さんの透き通った大きな瞳が、俺の考えを見通すようにまっすぐに、俺を見上げる。
「俺……」
長い沈黙。なんて言えばいいんだ?好きだなんて絶対に言えない。…大切な後輩?いや、そんな濃い付き合いじゃなかっただろ。友達の彼女…そう、御幸の彼女だから…そうだよ、そう言えば良いだけじゃねーか。御幸にもよろしく頼まれたし…だから…だけど…それは、抱きしめたことの説明にはならない。
そこまで考えて、この長い沈黙こそが、問いの答えになってしまっていることに、やっと気が付いた。
にわかに顔が熱くなる。玉城さんの顔が見れない。
言葉に迷っていると、俺の腕に添えられている玉城さんの手に、わずかに力がこもった。
そして気が付くと、彼女は少し背伸びをして、玉城さんの顔が近づいてきて…
右頬に、柔らかな唇が触れた。
言葉も出せずに玉城さんを見る。玉城さんの大きな瞳が俺を見つめ――ふっと逸らして、彼女は部屋を出て行った。