060
土砂降りの雨から紙袋を庇うように抱いて、私はマンションのロビーに入る。はやる気持ちを抑えてエレベーターに飛び乗り、自分の部屋まで早歩きで行って、ドアのかぎを開け、開け放った。
「光、サンプルもらってきたよ。」
部屋の中に声をかける。私がここに越してくるとき二人で選んだ橙色のソファに光はいた。細い手足を曲げて膝を抱え、高めの背もたれに小さな頭を持たれて、少し眠たげな、気だるい瞳で私を見る。…お人形さんみたいで、耽美で愛らしい。昔からずっと願っているのは、そんな光が幸せでいること。だけど、現実はいつも光に苦難を与える。
「見せて。」
光はソファの端に身を寄せて、私の座るスペースを開けた。私はそこに座って、紙袋から一冊の本を出す。
まず表紙を見て、私は息が止まりそうなほど胸が詰まった。まだ名残惜しいうちに、光が表紙をめくる。1ページ1ページ、全てが息をのむほどの、そして目を奪うほどの強烈な美しさに満ちている。
そこには汚れなんてひとかけらもなく、ただただ妖艶で、煽情的で、強く惹かれる――そんな世界があった。
本の最後のページが閉ざされると、私は思わず息を吐いた。それまで息を止めてしまっていたような息苦しさからの解放と、何とも言い難い高揚感が胸をあぶる。
「…すごいよ」
私は呟いた。
「すごくキレイ。これなら絶対うまくいくよ!」
「……だと、いいけど」
光はどこか沈んだ顔で頷く。
「…でも、本当にいいの?」
「…うん。こうするしかないし、それに…」
光の声は震えていた。
「あいつにバラされるくらいなら、自分でやる。」
「光…。」
本当に昔から、気が強くて負けず嫌いで…脆い。
「…御幸さんには話さなくていいの?」
「…話すよ。明日…帰ろうと思う。」
その横顔はあまりに悲し気で、不安に震えていた。
「…大丈夫?」
「……わからない。でも…もし、これで嫌われたら…もう、諦めるしかないよ」
私はたまらず光を抱きしめた。御幸さんがそんなこと、あるわけないって信じたいけど…。
でも…そんな決意をしてまで、捨て身の行動に出るなんて。御幸さんと離れること、今まではすごくすごく、怖がっていたのに。
「光、強くなったよね。前は御幸さんが支えで…御幸さんなしだと、脆いところがあったじゃない?何かあったの?」
「…うん。多分…あった。」
「え?…何があったの?」
光は思い出すように手元を見つめたまま呟いた。
「…倉持さんに、キスした。」
「……。」
「……。」
「……えっ!?」
声を上げた私を、光は上目遣いでちらりと見上げる。
「きっ…キスって、えっ、な、な、なんで!?」
「…ほっぺにね。なんか…したいな、って思って」
「あぁなんだほっぺ……って、えええぇぇぇ!!?」
「……まずいよね?やっぱり」
「いや、なんていうか…詳しく話してくれないと…」
光はまた手元に視線を落とし、淡々と語りだした。
「…思えば、倉持さんって、高校生の頃からいつも私を助けてくれてて…昔は全然そう思わなかったけど、最近…もしかしたら倉持さんって、私のこと、好きなのかもって思って」
「……うん」
「……『うん』?」
大きく頷いた私に、光は眉を寄せて首をかしげる。
「私は高校の時から気づいてたよ。」
「…嘘!?」
「ほんと。っていうか、バレバレだったじゃん。挙動不審だし、いっつも光のこと見てたし」
「…全然気づかなかった」
「光、御幸さんに夢中だったもんねぇ。」
「……。」
にわかに赤くなる光に話の続きを促す。
「…それで、この間…聞いたの。」
「何を?」
「…私のこと、好きなんですかって」
私は息をのんで目を瞬いた。なにそれ。面白すぎる。
「…それで倉持さんは!?」
「…黙ったまま……でも、顔がすっごい真っ赤になって」
「うわー…」
不憫。
「それで…なんか…可愛いなって思って」
「……。」
「……チュッと」
「しちゃったのね?」
「うん…」
ああ…倉持さん。きっと今頃光で頭がいっぱいだろうなあ…可哀そうに。
「なんていうか…感謝の気持ちが溢れたんだよ」
「…意味わかんないんだけど…」
「…あの日は蒼井颯斗から庇ってもらったし、その前も…色々…あったけど…」
…色々?何があったんだろう…?
「いつも誠実で…迷惑ばっかりかけてるのに、優しくて…」
「……。」
「傷を見ても、それは変わらなくて…だから…」
「……。」
「倉持さんのおかげで…ちょっと、自分に自信が持てたの」
これは……倉持さん、結構良い線いってるのでは…。いや、でも、光は御幸さんが一番だろうけど…。
「…キスしたら、倉持さんはなんて?」
「…わかんない。私、キスしてすぐ帰ったから」
「……。」
ってことは生殺しかあ…。光、天然でこういうことするから恐ろしいなあ。しかもずっと好きだった子に、って、倉持さんたまらないだろうなあ。ちょっと同情。
「まあ…いいんじゃない?」
倉持さんだってもういい大人なんだし、ほっぺにチューくらい…。…大丈夫だよね?
「うん…」
光はどこか遠くを見つめたまま、相槌を打った。
「光、サンプルもらってきたよ。」
部屋の中に声をかける。私がここに越してくるとき二人で選んだ橙色のソファに光はいた。細い手足を曲げて膝を抱え、高めの背もたれに小さな頭を持たれて、少し眠たげな、気だるい瞳で私を見る。…お人形さんみたいで、耽美で愛らしい。昔からずっと願っているのは、そんな光が幸せでいること。だけど、現実はいつも光に苦難を与える。
「見せて。」
光はソファの端に身を寄せて、私の座るスペースを開けた。私はそこに座って、紙袋から一冊の本を出す。
まず表紙を見て、私は息が止まりそうなほど胸が詰まった。まだ名残惜しいうちに、光が表紙をめくる。1ページ1ページ、全てが息をのむほどの、そして目を奪うほどの強烈な美しさに満ちている。
そこには汚れなんてひとかけらもなく、ただただ妖艶で、煽情的で、強く惹かれる――そんな世界があった。
本の最後のページが閉ざされると、私は思わず息を吐いた。それまで息を止めてしまっていたような息苦しさからの解放と、何とも言い難い高揚感が胸をあぶる。
「…すごいよ」
私は呟いた。
「すごくキレイ。これなら絶対うまくいくよ!」
「……だと、いいけど」
光はどこか沈んだ顔で頷く。
「…でも、本当にいいの?」
「…うん。こうするしかないし、それに…」
光の声は震えていた。
「あいつにバラされるくらいなら、自分でやる。」
「光…。」
本当に昔から、気が強くて負けず嫌いで…脆い。
「…御幸さんには話さなくていいの?」
「…話すよ。明日…帰ろうと思う。」
その横顔はあまりに悲し気で、不安に震えていた。
「…大丈夫?」
「……わからない。でも…もし、これで嫌われたら…もう、諦めるしかないよ」
私はたまらず光を抱きしめた。御幸さんがそんなこと、あるわけないって信じたいけど…。
でも…そんな決意をしてまで、捨て身の行動に出るなんて。御幸さんと離れること、今まではすごくすごく、怖がっていたのに。
「光、強くなったよね。前は御幸さんが支えで…御幸さんなしだと、脆いところがあったじゃない?何かあったの?」
「…うん。多分…あった。」
「え?…何があったの?」
光は思い出すように手元を見つめたまま呟いた。
「…倉持さんに、キスした。」
「……。」
「……。」
「……えっ!?」
声を上げた私を、光は上目遣いでちらりと見上げる。
「きっ…キスって、えっ、な、な、なんで!?」
「…ほっぺにね。なんか…したいな、って思って」
「あぁなんだほっぺ……って、えええぇぇぇ!!?」
「……まずいよね?やっぱり」
「いや、なんていうか…詳しく話してくれないと…」
光はまた手元に視線を落とし、淡々と語りだした。
「…思えば、倉持さんって、高校生の頃からいつも私を助けてくれてて…昔は全然そう思わなかったけど、最近…もしかしたら倉持さんって、私のこと、好きなのかもって思って」
「……うん」
「……『うん』?」
大きく頷いた私に、光は眉を寄せて首をかしげる。
「私は高校の時から気づいてたよ。」
「…嘘!?」
「ほんと。っていうか、バレバレだったじゃん。挙動不審だし、いっつも光のこと見てたし」
「…全然気づかなかった」
「光、御幸さんに夢中だったもんねぇ。」
「……。」
にわかに赤くなる光に話の続きを促す。
「…それで、この間…聞いたの。」
「何を?」
「…私のこと、好きなんですかって」
私は息をのんで目を瞬いた。なにそれ。面白すぎる。
「…それで倉持さんは!?」
「…黙ったまま……でも、顔がすっごい真っ赤になって」
「うわー…」
不憫。
「それで…なんか…可愛いなって思って」
「……。」
「……チュッと」
「しちゃったのね?」
「うん…」
ああ…倉持さん。きっと今頃光で頭がいっぱいだろうなあ…可哀そうに。
「なんていうか…感謝の気持ちが溢れたんだよ」
「…意味わかんないんだけど…」
「…あの日は蒼井颯斗から庇ってもらったし、その前も…色々…あったけど…」
…色々?何があったんだろう…?
「いつも誠実で…迷惑ばっかりかけてるのに、優しくて…」
「……。」
「傷を見ても、それは変わらなくて…だから…」
「……。」
「倉持さんのおかげで…ちょっと、自分に自信が持てたの」
これは……倉持さん、結構良い線いってるのでは…。いや、でも、光は御幸さんが一番だろうけど…。
「…キスしたら、倉持さんはなんて?」
「…わかんない。私、キスしてすぐ帰ったから」
「……。」
ってことは生殺しかあ…。光、天然でこういうことするから恐ろしいなあ。しかもずっと好きだった子に、って、倉持さんたまらないだろうなあ。ちょっと同情。
「まあ…いいんじゃない?」
倉持さんだってもういい大人なんだし、ほっぺにチューくらい…。…大丈夫だよね?
「うん…」
光はどこか遠くを見つめたまま、相槌を打った。