目を閉じると、真っ赤な下着と白い乳房が浮かび上がってくる。

「……っ」

ダセェ。何イラついてんだ、俺。
あんなの…さっさと忘れろ。

ため息を吐いたり舌打ちをして気を紛らわせても、どうしてもいら立ちが収まらない。…また煙草でも吸うか?いや…でも、そんなのダセェだろ。
手持ち無沙汰になって起き上がると、テーブルの上に置かれた写真集が目に入った。俺はそれを裏返す。今は玉城さんを見たくなかった。まして、下着姿なんて。そんなもん見たら…どうしても、重ねてしまう。

俯いて、顔を上げて、部屋の薄暗さに気付く。…もう夕暮れか。空は青く、黒くなっていく。少し寒くなってきた。ヒーターの電源を入れ、台所へ向かう。コーヒーでも飲むか。

ピンポーン、と無機質な音が部屋に響いた。どうせ牧瀬だろうと思って、萎れた顔のまま玄関へ向かう。のぞき穴を確かめもせずに、鍵を開け、ドアを開けた。突然開いたドアに驚いたように、そこにいた人物はビクリと肩を跳ねる。
…牧瀬より低い位置にある頭。夕暮れの薄青い闇の中、ぼんやりと輝きを放つ白い肌。ちらちらと光るふたつの大きな瞳は、濡れていた。

「え……」

その人物を前に、俺は言葉を失う。

「…あの…司、来てませんか…?」

玉城さんは、か細い声で、そう訊いた。

「…来てねーけど…」

そう答えると、瞳が光を失ったように伏せられる。

「電話とか…してくれれば…」

わざわざ来なくたって…。玉城さんは男の部屋を訪ねるだけでも、バレたら大騒ぎになるんだから。
そんなことは本人もわかっているはずなのに、玉城さんはどこか心ここにあらずなまま、呟いた。

「あ……そっか……」
「……。」

そんなことも考えつかないまま、ここまで来たというのか?玉城さんらしくない。

「…何かあったのか?」

ドアを開けたまま寄りかかり、尋ねる。
玉城さんは何か言いかけて、思いつめたように唇を噛んだ。
…何も言わないってことは、何かあったんだろう。彼女はそういう人だ。辛いことは、絶対に言わない。

「暗くなる前に帰れよ。もし牧瀬が来たら連絡するから。」
「……。」
「送ろうか?」
「…いえ…大丈夫です…」

目を伏せたまま頭を横に振って、そのまま頭を下げる。

「お邪魔しました。」

そう呟いて、玉城さんは踵を返した。心細そうな背中に、胸が苦しくなる。
だけど――家に帰れば、御幸がいる。だから大丈夫だ。俺にできることはない。
玉城さんが階段を降り始めて、俺はドアを閉めようと腕を伸ばした。その時――

――ガシャン!!

大きな音が響いて、俺は驚いて外を覗き込む。先ほどまでそこにあったはずの玉城さんの背中が見えない。階段に駆け寄って、愕然とした。数段下の踊り場に――彼女は倒れていた。

「おいっ!!」

慌てて階段を駆け下りて、玉城さんの顔を覗き込む。呼びかけると少し目を開け、起き上がる。頬をすりむき、少し血がにじんでいる。

「あのー…大丈夫ですか?」
「…!」

俺の隣の部屋の住人が、心配そうにドアを開けてこちらを覗く。ヤバイ。こんなところに玉城さんがいると知られたら、騒ぎになる。

「へ、平気っす!ちょっとこけただけで…」
「私、救急車とか――」
「いや、平気です!!」

玉城さんを支え、顔を見せないように俺の部屋へ促す。玄関に押し込んでから、俺はまた外に戻り、隣人に愛想笑いをしてごまかしながら、玉城さんの荷物を拾い上げて部屋に逃げ込んだ。

ドアが閉まると、部屋は静寂に包まれた。

「と…とにかく座って。」

玉城さんをソファへ促す。痛むのだろうか、彼女は頬に手を当て、指についた血を眺めた。
俺はというと、まだ混乱しながらタオルを濡らし、玉城さんへ駆け寄る。冷たいタオルを彼女の頬の傷に当て、冷やしながら、血や汚れを優しく拭った。俯いている玉城さんの顔色は悪い。それに――近い。
にわかに緊張して、唇を舐めた。ただの傷の手当なのに…こんな風に緊張したらおかしいのに。

「他に痛むところは?」

訊くと、玉城さんは首を横に振った。

「本当か?」

眉を寄せて冗談めかして訊くと、玉城さんは少しバツが悪そうに苦笑して、呟いた。

「少し…足首が」
「足首?…見せて」

見せて、と言ってから、玉城さんがタイツを履いていることを思い出して、気まずい沈黙が流れる。

「…いえ、足は…もう前の怪我なので」
「そ…そっか」

また沈黙が流れる。玉城さんは髪を耳にかけ、目を逸らす。

「…顔色悪いけど…体調悪いのか?」

さっき階段で転んだのも、倒れたんじゃ…。

「…少し…疲れてるだけです。」
「……。」

それ以上応えてくれそうもないので、俺は立ち上がった。

「御幸に電話して、迎えに来てもらえよ。」
「……それは…」
「……。」
「……。」
「……じゃあ、話せ。」
「え?」
「何かあったんだろ。」

玉城さんの足元に腰を下ろしてじっと見上げると、玉城さんはようやく、観念したように口を開いた。

「…司と、喧嘩して…」
「牧瀬と?」

珍しいこともあるもんだ。牧瀬なら、たとえ玉城さんに刺されても喜びそうだけど。

「どうしても…早く会って謝りたくて…」
「喧嘩の原因は?」
「…私の自分勝手です」

曖昧な言葉だ。

「じゃあ牧瀬が怒ってんの?」
「……私、」

玉城さんの瞳が、ふっと潤んで、涙が零れ落ちた。

「…嫌われ、ました」

唇を噛み、堪えるように涙を流す。そんな姿を見るのは初めてで、動揺した。

「…牧瀬が玉城さんを嫌うわけないだろ。」
「……。」

玉城さんは唇を噛んだまま首を横に振る。

「大丈夫だよ。」
「……。」
「な?」

落ち着かせようと、しただけだった。
無意識に手を伸ばして、彼女の手に触れた。冷たい、小さな、柔らかい手。掴んでから、自分のしたことに驚いた。小さな手を覆う自分の手の甲に、玉城さんの涙が一滴落ちてきた。つっと肌を伝う暖かいくすぐったさに、指先が震えた。手の中の彼女の手が、ぎゅっと力を込めた。罪悪感が押し寄せて、だけど離すこともできなくて、てのひらがじっとりと汗ばむ。
手を握っている時間は、静寂がうるさいほど耳に響いて、永遠のように感じた。そしてそのうちに、彼女が拒まないのだと…俺はそう錯覚してしまいそうで、気持ちが急いて、目の前がチカチカした。だけど――するりと手の中の熱が逃げて、じっとりと湿った手の中に、ひやりと冷えた空気が入ってきた。手を引いた玉城さんは目を伏せてどこかを見つめたまま、涙をこらえていた。
彼女の膝の上から手を退かす。また…やっちまった。こんなことしたって、迷惑になるだけなのに。
本当は…抱きしめたい。胸の中で思い切り泣いてほしい。キスをして、俺がそばにいるから大丈夫だと、伝えたい。だけど…そんなことはできない。俺は御幸じゃないから。…彼女の恋人じゃないから。

「…帰ります」

玉城さんは立ち上がる。行ってしまう。俺が踏み出したせいで、何も吐き出すことができずに、また胸の奥に傷を隠したまま。

「ま…待てよ」

咄嗟に腕を掴んだ。玉城さんは振り向かないまま、立ち止まる。

「…ごめん。俺の気持ちは…迷惑だと思う。」
「……。」
「でも…俺は何も望まねえから…。好きとか、付き合うとか…そんなのは、俺はどうだっていいから」
「……。」
「だから…何かあったなら、話してほしい。」
「……。」
「何があっても俺は変わらねえから。だから…誰にも言いたくねえことなら、全部俺に言ってくれ。」
「…なんで…?」
「…え?」
「なんで…そこまでしてくれるんですか。」

涙でぬれた顔で玉城さんは振り向いた。綺麗だ、と思った。宝石みたいに輝く瞳に見惚れながら、俺は呟いた。

「…笑っててほしいから。」

何も考えずにつぶやいた言葉は、自分の胸にも納得をもたらした。
そうだ。俺はただ、この子に笑っていてほしいんだ。
あったかくて幸せで、つらいことなんか何もなくて。それが御幸の傍だっていうなら、それでいい。

「……やめて」

玉城さんは苦しそうに、悲しそうに、呟いた。

「優しくしないで…」

目をつぶり、涙をこぼして、震える吐息をこぼした彼女の唇。

「…自分が、嫌になる」

そう呟いたその唇に、一瞬、自分の唇で触れた。
彼女は――呆然と目を開き、ゆっくりと俺を見た。

「……だめ」

そう言いかけた彼女の唇を塞ぐ。今度はもっと、強く。彼女の体を抱きしめ、ゆっくりと、しっかりと、唇を重ね合わせる。涙の味がした。

「……ん…」

彼女の吐息が聞こえる。手が、弱弱しく俺の腕に触れる。
彼女の唇を堪能して、やっと唇を離すと――彼女は少し落ち着いた様子で俺を見つめた。

「…倉持さん…」
「……。」

「……私は…たぶん……倉持さんのことが、好きです。」

その言葉を理解するのには、しばらく時間が必要だった。舞い上がってしまいそうな幸福感がこみあげて、しかしそれを、彼女の悲しみに歪んだ顔が断ち切った。

「でも、一也さんのことを愛してる」

…そんなこと…わかってる。
なのに……どうしてこんなに、傷ついてんだ、俺。

「……ごめんなさい」

玉城さんは俺の腕から離れ、静かに部屋を出て行った。俺はそこにへたり込む。
数分前の自分を殴りたい。何が、好きとか付き合うとかはどうでもいい、だ。無理やりキスまでして…全部失った。
この気持ちを抱いていても、彼女の傍にいることを、一度は許してもらえたのに。もう…言い訳すらなくなった。

玉城さんにも…御幸にも、合わせる顔がない。結局俺…何もできないどころか、最低なことを…

行き場のない怒りを、握りこぶしで握りつぶす。途方もない喪失感に襲われて、俺はもう、立ち上がる気力もなかった。

 


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