080
「過労でしょう。」
静かな診察室に、初老の医師の掠れた声が響く。
「…過労」
「それと、精神的なストレスも原因かと。まあ、こういった業界の方はこういうことも多いですが――」
よくあること――大したことではないように言う男の声を、俺はどこか信じられない気分で聞いて、最後に頭を下げ、診察室を出た。
「! 御幸…」
診察室の前には、あとから駆け付けたらしい倉持が牧瀬と並んで座っていて、ふたりは俺を見ると弾かれたように立ち上がった。
「医者は、なんて…?」
牧瀬は不安そうに俺を見る。
「過労と…ストレスって」
言いながら、なんだよそれ、と思った。そんな曖昧な言葉。光に何があったのか…一刻も早く知りてえのに。
「それで…光は?」
「一晩入院して…明日また、様子を見る。」
「……。」
黙り込む俺たちのもとに、看護師が来て、病室へどうぞ、と声をかける。
無機質な廊下をぞろぞろと進んで、一般の病棟の上階、一般人は立ち入れないフロアの一人部屋の病室に着いた。看護師に促され、俺たちは部屋へ入る。光は点滴を受け、静かに眠っている。
看護師が出て行くと、牧瀬が口を開いた。
「光…」
泣き出しそうな彼女に、声をかける。
「今日…何があった?」
牧瀬が立ち上がり、口を開こうとしたとき――光が目を開けた。
「光!」
駆け寄ると、光はぼんやりと天井を見渡し、俺を見つけ、微笑む。胸が苦しくなった。
起き上がろうとするのを手伝って、背中に枕を置いてやる。光は俺たちを前に、バツが悪そうに俯いた。
「私…」
「…驚いたよ。倒れたって連絡があって…。」
「……。」
「過労だって。精神的な疲れもあるだろうって。それと、右足首に捻挫。多分、倒れた時に捻ったんだろうって。」
「…そう、ですか」
「…違うよ」
静かに声をこぼした牧瀬。光をじっと見つめている。
「光…本当のこと、言いなよ。」
「…司」
「その足のケガも…ストレスだって…全部あいつが原因じゃん!」
「…あいつ?」
彼女たちを見渡すと、牧瀬が俺を振り返った。
「森田桃ですよ!」
ちらり、と俺と倉持は目を合わせる。
「足の捻挫は…今日あいつに足を引っかけられて、転ばされたから。ストレスだって…ここのところずっと嫌がらせを受けてて、お弁当に変なもの入れられたり、自分がしたことをみんなの前で光のせいにして責めたり…そういうことが続いたから…」
「…私」
ぽつりとつぶやいた光に全員が注目する。
「私…大丈夫」
「……。」
「大丈夫…」
ぽた、ぽた、と真っ白な布団に涙が落ちた。
「…光、とにかく今日はもう、休もう。」
「……。」
「明日のことは明日考えればいいよ。な?」
こくん、と小さく頷く光。それを見て、それまで黙っていた倉持が踵を返し、牧瀬の肩を叩いた。
「御幸。俺らはそろそろ帰るな」
俺にそう声をかけ、最後に光を見る。
「…お大事に。」
それだけ言ってさっさと病室を出て行く倉持。その背中を、牧瀬が涙をぬぐいながら追う。ドアが閉まると、病室に二人きりになった。
「光。」
ベッドに腰掛け、光に寄り添う。肩を抱くと、小さな体が簡単にもたれてきた。そんなことすらも、胸が苦しくなるくらい愛おしいと思う。
「好きだよ。」
涙にぬれた睫を見ていたら、ついそう呟いていた。光は顔を赤くして唇を噛んだ。
「病院から電話が来た時…すげー心配した。こわかった…何があったのかって」
「…ごめんなさい、迷惑…」
「迷惑じゃねーよ。お前がかけたのは、心配。」
「……。」
髪を撫で、こめかみに唇をつける。
「…なあ、でも、迷惑かけても、失敗しても…お前のことを嫌いになんてならないよ。」
「……。」
「牧瀬も、倉持も。」
「……。」
「俺なんてむしろ、迷惑かけられるくらいの方がいいぜ。3日連続卵が破れたオムライスだって。」
「…そ、それは…」
にわかに顔を赤くして焦った光を抱きしめる。
「ほんとだよ。めちゃくちゃ可愛いと思った。」
「……っ」
耳元で息をのむ声が聞こえる。
「でも、頑張りすぎて、我慢してるお前を見ると…苦しくなる。」
「……。」
「牧瀬もそう言ってたよ。」
「……はい」
やっと素直に頷いた光の頬に手を添えて、綺麗な瞳を見つめる。
「なんでもできて…完璧で…そんなお前もスゲーかっこいいけど…いつもの素のお前の方が…ずっと綺麗で可愛い。」
「……あ…あんまり、恥ずかしいこと言わないでください…」
「そういうこと言うなよ。…俺の方が恥ずかしいんだから」
そう言うと、光はまだ涙で濡れた目を細めて、キラキラと笑った。その笑顔をじっと見つめていると、光も俺を見つめ返す。
唇を近づけ、ふっとこぼれた吐息を飲み込むように、キスをした。唇の柔らかな熱。うっとりともれる吐息に胸が熱くなる。指に髪を絡ませ、耳たぶを親指で撫で、うなじに手のひらを這わせる。くすぐったそうに、でも酔いしれるように、光は俺の手に沿うように首を傾ける。あぁ、好きだ。昔からずっと変わらない、たった一人の特別な女の子。
例え何があっても…守りたい。
唇を離し、はにかんだ光につられて俺も笑う。
「…あ〜、帰りたくねえなー」
「え?」
「帰っても光いねーじゃん」
わざと困らせるように言うと、光は顔を赤くして微笑んだ。
「…ゆっくり休めよ。何も心配すんな。俺も…倉持も牧瀬もいるから」
「…はい。」
「よし。」
頭を撫で、立ち上がる。時計を見上げると、もうとっくに面会時間は過ぎていた。
「じゃあな、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
病室を出ると、看護師と出くわした。看護士は俺に笑顔で会釈し、俺と入れ違いに病室へ入って行った。
…いつからいたんだろう。話聞かれてたかなー。恥ずかしい。
一人誰もいない家へ向かう帰り道は、どうしようもなく味気なくて、寂しかった。
静かな診察室に、初老の医師の掠れた声が響く。
「…過労」
「それと、精神的なストレスも原因かと。まあ、こういった業界の方はこういうことも多いですが――」
よくあること――大したことではないように言う男の声を、俺はどこか信じられない気分で聞いて、最後に頭を下げ、診察室を出た。
「! 御幸…」
診察室の前には、あとから駆け付けたらしい倉持が牧瀬と並んで座っていて、ふたりは俺を見ると弾かれたように立ち上がった。
「医者は、なんて…?」
牧瀬は不安そうに俺を見る。
「過労と…ストレスって」
言いながら、なんだよそれ、と思った。そんな曖昧な言葉。光に何があったのか…一刻も早く知りてえのに。
「それで…光は?」
「一晩入院して…明日また、様子を見る。」
「……。」
黙り込む俺たちのもとに、看護師が来て、病室へどうぞ、と声をかける。
無機質な廊下をぞろぞろと進んで、一般の病棟の上階、一般人は立ち入れないフロアの一人部屋の病室に着いた。看護師に促され、俺たちは部屋へ入る。光は点滴を受け、静かに眠っている。
看護師が出て行くと、牧瀬が口を開いた。
「光…」
泣き出しそうな彼女に、声をかける。
「今日…何があった?」
牧瀬が立ち上がり、口を開こうとしたとき――光が目を開けた。
「光!」
駆け寄ると、光はぼんやりと天井を見渡し、俺を見つけ、微笑む。胸が苦しくなった。
起き上がろうとするのを手伝って、背中に枕を置いてやる。光は俺たちを前に、バツが悪そうに俯いた。
「私…」
「…驚いたよ。倒れたって連絡があって…。」
「……。」
「過労だって。精神的な疲れもあるだろうって。それと、右足首に捻挫。多分、倒れた時に捻ったんだろうって。」
「…そう、ですか」
「…違うよ」
静かに声をこぼした牧瀬。光をじっと見つめている。
「光…本当のこと、言いなよ。」
「…司」
「その足のケガも…ストレスだって…全部あいつが原因じゃん!」
「…あいつ?」
彼女たちを見渡すと、牧瀬が俺を振り返った。
「森田桃ですよ!」
ちらり、と俺と倉持は目を合わせる。
「足の捻挫は…今日あいつに足を引っかけられて、転ばされたから。ストレスだって…ここのところずっと嫌がらせを受けてて、お弁当に変なもの入れられたり、自分がしたことをみんなの前で光のせいにして責めたり…そういうことが続いたから…」
「…私」
ぽつりとつぶやいた光に全員が注目する。
「私…大丈夫」
「……。」
「大丈夫…」
ぽた、ぽた、と真っ白な布団に涙が落ちた。
「…光、とにかく今日はもう、休もう。」
「……。」
「明日のことは明日考えればいいよ。な?」
こくん、と小さく頷く光。それを見て、それまで黙っていた倉持が踵を返し、牧瀬の肩を叩いた。
「御幸。俺らはそろそろ帰るな」
俺にそう声をかけ、最後に光を見る。
「…お大事に。」
それだけ言ってさっさと病室を出て行く倉持。その背中を、牧瀬が涙をぬぐいながら追う。ドアが閉まると、病室に二人きりになった。
「光。」
ベッドに腰掛け、光に寄り添う。肩を抱くと、小さな体が簡単にもたれてきた。そんなことすらも、胸が苦しくなるくらい愛おしいと思う。
「好きだよ。」
涙にぬれた睫を見ていたら、ついそう呟いていた。光は顔を赤くして唇を噛んだ。
「病院から電話が来た時…すげー心配した。こわかった…何があったのかって」
「…ごめんなさい、迷惑…」
「迷惑じゃねーよ。お前がかけたのは、心配。」
「……。」
髪を撫で、こめかみに唇をつける。
「…なあ、でも、迷惑かけても、失敗しても…お前のことを嫌いになんてならないよ。」
「……。」
「牧瀬も、倉持も。」
「……。」
「俺なんてむしろ、迷惑かけられるくらいの方がいいぜ。3日連続卵が破れたオムライスだって。」
「…そ、それは…」
にわかに顔を赤くして焦った光を抱きしめる。
「ほんとだよ。めちゃくちゃ可愛いと思った。」
「……っ」
耳元で息をのむ声が聞こえる。
「でも、頑張りすぎて、我慢してるお前を見ると…苦しくなる。」
「……。」
「牧瀬もそう言ってたよ。」
「……はい」
やっと素直に頷いた光の頬に手を添えて、綺麗な瞳を見つめる。
「なんでもできて…完璧で…そんなお前もスゲーかっこいいけど…いつもの素のお前の方が…ずっと綺麗で可愛い。」
「……あ…あんまり、恥ずかしいこと言わないでください…」
「そういうこと言うなよ。…俺の方が恥ずかしいんだから」
そう言うと、光はまだ涙で濡れた目を細めて、キラキラと笑った。その笑顔をじっと見つめていると、光も俺を見つめ返す。
唇を近づけ、ふっとこぼれた吐息を飲み込むように、キスをした。唇の柔らかな熱。うっとりともれる吐息に胸が熱くなる。指に髪を絡ませ、耳たぶを親指で撫で、うなじに手のひらを這わせる。くすぐったそうに、でも酔いしれるように、光は俺の手に沿うように首を傾ける。あぁ、好きだ。昔からずっと変わらない、たった一人の特別な女の子。
例え何があっても…守りたい。
唇を離し、はにかんだ光につられて俺も笑う。
「…あ〜、帰りたくねえなー」
「え?」
「帰っても光いねーじゃん」
わざと困らせるように言うと、光は顔を赤くして微笑んだ。
「…ゆっくり休めよ。何も心配すんな。俺も…倉持も牧瀬もいるから」
「…はい。」
「よし。」
頭を撫で、立ち上がる。時計を見上げると、もうとっくに面会時間は過ぎていた。
「じゃあな、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
病室を出ると、看護師と出くわした。看護士は俺に笑顔で会釈し、俺と入れ違いに病室へ入って行った。
…いつからいたんだろう。話聞かれてたかなー。恥ずかしい。
一人誰もいない家へ向かう帰り道は、どうしようもなく味気なくて、寂しかった。