朝の病院は、穏やかな静けさだ。

冷たい空気が満ちるリノリウムの上を歩く。消毒液のにおい。看護士たちが動き回る静かな音。ナースステーションには幸運なことに昨日顔を合わせた看護士がいて、俺を見ると、どうぞと手で促してくれた。
病室の前につくと、そこは更に静かだった。御幸も牧瀬も来ていないのだろうか。ノックをしても返事はない。少しだけドアを開いてみる。病室の中は暖かい。足を踏み入れ、静かにドアを閉める。緊張を抱きながら、ベッドに歩み寄る。

玉城さんは眠っていた。

綺麗な寝顔。ずっと見惚れていられるほど…。昨日よりもよくなった顔色。白い肌に、赤い唇が映える。滑らかな鎖骨の上に、柔らかな髪が流れる。布団の上に仰向けに伸びた白い腕からは、細い点滴の管が伸びている。

…御幸が羨ましい。彼女に愛されていて。何の迷いもなく彼女を愛せて。

静かな寝息。本当に…綺麗だな。
玉城さんの寝顔…御幸は毎日見てる。

キュッ、と靴が床に擦れて音を立てた。ぎくりとしたが、玉城さんが起きていないことを確かめて安堵する。
俺のこと…幻滅したよな。せっかく信頼してくれて…一番じゃなくても、傍にいられたのに。

手を伸ばして――指の背で、そっと頬に触れた。柔らかくて、滑らかで、あたたかい。そのまま指先で、そっと前髪をはらう。愛おしくてたまらない。ずっと見てたんだ。俺は…御幸の隣で笑うこの子を。見向きもされないと思っていたけど、だんだん俺にも笑顔を向けてくれるようになって…嬉しかった。
もし、御幸より先に俺が出会っていたら――と、考えなかったわけじゃない。あの時も――あの時も――ああすればよかったんじゃないかとか、こうしなきゃよかったんじゃないかとか、色々考えて、それでも、そんなこと無意味だと気付く。
どうしようもないことって…あるんだな。俺はこの喪失感をずっと抱えて生きていくのか。
だけど…いま彼女の寝顔を見ていると、苦しいほどに満たされる。

俺はそっと彼女に唇を近づけ――額にキスをした。

そして彼女の寝顔を見つめ、しばらく立っていた。時間が経つのも忘れた。どのくらい経ったか――不意に、声がした。

「倉持。」

顔を上げると、御幸がいた。

「…おう」
「見舞い来てくれたの?」
「…まあな」

御幸は持って来たボストンバッグを椅子に置き、玉城さんの様子を見る。

「今日の午後、退院できるって。」
「…そうか」
「なあ倉持。」
「…?」
「ちょっと、話せねぇ?」

御幸は部屋の外を指して言った。にわかに緊張する。

「…いいけど…」
「じゃあちょっと…行こうぜ」

部屋の外かと思ったら、御幸はそのままエレベーターに乗り、病院を出た。結局俺たちは連れ立って、病院の前の喫茶店へ入った。まだ朝だからか、俺たちの他に客はいない。
無愛想な店員にコーヒーを二つ注文して、俺たちの前に黒々としたコーヒーが並ぶと、御幸はようやく口を開いた。

「…ずっと思ってたんだけど」
「なんだよ」

御幸の声を聞きながら、砂糖とミルクを入れるのも面倒で、真っ黒な液体にそのまま口をつける。

「光のこと好き?」
「んぐっ…!!」

御幸の質問と、図星を突かれた衝撃と、ブラックコーヒーの容赦ない苦さに驚いて、俺は盛大にむせた。御幸はどこか他人事のように、いつもみたいにはっはっはと笑い声を上げる。

「いやー、すげーな。見事に図星を突かれた感じ」
「げほっ…いや…っ俺…、っげほ」
「まぁ落ち着けよ。ほら水」

御幸は俺が落ち着くのを待つ間、涼しい顔をしてブラックコーヒーを飲む。それが何だか悔しくて、俺は半ばやけくそになって言った。

「…そうだよ。ずっと」

しかし御幸はさして顔色も変えず、コーヒーカップをソーサーの上に戻した。

「やっぱりなぁ」
「…やっぱりって何だよ」
「うすうすそんな気はしてたんだよ」

な…なんだよそれ。

「…怒らねぇの?」
「なんで。」
「なんでって…」
「光を好きな奴はいっぱいいるよ。いちいち怒ってたらキリがない」

そりゃ…そうかもしんねえけど…腹もたたねぇのかよ。それはそれで…ムカつく。

「けど…倉持はどうしたい?」
「どうって…」
「光と付き合いたいの?」

付き合いたくない…わけがない。でも、それは無理だってわかってる。

「…どうするつもりもねーよ。俺は今のままの関係でじゅうぶん…」
「今の関係って…寝てる間にこっそり額にキスする関係?」
「はっ…?」

…見られてた?ウソだろ…
焦りと息苦しさ。御幸の目が…じっと俺を捉える。逃がさないとでも言うかのように。

「お前…今のままで耐えられんの?」

泣きたくなった。俺がずっと目を逸らしていた問題。こいつは…御幸は、全部お見通しだ。

「…俺が…どうだろうと、関係ない」
「……。」
「玉城さんは…お前が好きで、お前も…だから、俺には…どうしようもねーだろ。」
「……。」
「だけど…お前が許せねえっつーなら…俺は…お前たちの前から、消える」

二人組の客が入店し、にわかに冷たい空気と喧騒が店の中に流れ込んできた。御幸はふと、窓辺に視線を移して頬杖をついた。

「…それは困る。」
「……は?」
「あいつにとって…今はもう、お前も…支えになってるから」
「……。」
「あいつには、俺も…牧瀬も、お前も…必要だと思う」
「……。」
「蒼井颯人の、あの事件の時…お前がいてくれて、本当によかったと思うし…いなかったらと思うと、今でも怖い。」
「……。」
「だから…お前がよければ…まだ、光の傍にいてやってほしい。」

なんだ…こいつ。奪われる心配とか…心移りする不安とか…全然、ないのかよ。玉城さんの気持ちを…疑いもしねえのかよ。

「まあでも、次またキスしたら殴るけど。」
「……。」

冗談なのか本気なのかわからない調子で言った御幸を睨む。

「…もうしねぇよ。」

改めて思った。こいつに敵う気がしない。…これだけはどうしても。それに…

「俺は…お前といるときの玉城さんが一番…幸せそうで、綺麗だと思うし…多分、だから好きになったんだ」

ひたむきで、一生懸命で、がむしゃらに御幸を信じて、愛して、求めて…そんなに真剣に誰かを想う姿に。そんなに真っ直ぐな人間…俺は、あの子しか知らない。

「マジ?お前…マゾなの?」
「テメェ…人が真面目に話してんのに…」

コーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜ、飲み干した。また客が何人か来店し、店の中はあたたかな喧騒が満ちていた。

 


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