093
「うわー、御幸一也、ついに戦力外通告の危機だってよ」
「ここのところずっと絶不調だもんなぁ。」
「やっぱあれだろ、玉城光との破局。あの報道からだよな、急に調子崩したの。」
「このまま消えちゃうのかねぇ。」
「…でも玉城光の方は絶好調だよね、映画も大ヒットして主演女優賞ももらって。」
「あのベッドシーン、ほんとはやる予定なかったんでしょ?別れたから解禁になったのかな。」
「案外それが原因の破局だったりしてね〜。だって彼女がベッドシーンやるとか普通に嫌じゃん。」
「でもあの演技、めちゃくちゃ綺麗でドキドキしたぁ。主演女優賞も納得だよ。もう大物女優の仲間入りだよね。」
「御幸一也と玉城光の破局は、玉城光の浮気が原因でしょ?ほら、なんか噂出てたじゃん。」
「野球選手の…倉持洋一だっけ?御幸一也と高校の同級生なんでしょー?すごい三角関係だよね。」
「でも本人たちは否定してるんだよね〜。しかも倉持洋一は『6年間俺の片思いです』って取材に答えたんでしょ?なんかドラマみたーい。」
「でもさ、最近御幸一也と倉持洋一険悪みたいだし、絶対何かあったよね〜。」
…電車内で私はキャップを深くかぶり、俯く。世間はずっと、彼らの噂で持ち切りだ。
駅に着き、電車を降りて、私は白い大きなマンションを目指す。エントランスのモニターで番号を打ち込み、ドアが開錠されると、警備員も控えているロビーへ入っていって、ソファやコーヒーテーブル、毎日変えられる花が活けられた花瓶が並ぶ歓談スペースを横目にエレベーターホールに入る。…いつ来てもすごいマンションだ。まあ、それだけセキュリティのお厳重さを重視する著名人やお金持ちの人が集まっているのだけど。
エレベーターに乗り、またナンバーを押して認証をもらい、エレベーターはやっと上昇していく。滑らかな機械音を聴きながら鏡を眺めていると、チン、と上品な鐘の音が鳴って、目的のフロアに到着した。
ここはワンフロアにつき1部屋しかなく、この階はすべて…契約者である光の部屋だ。
「司、いらっしゃい。」
エレベーターの音を聞きつけたのか、光が猫を抱いてやってきた。
「おはよう光。ミーちゃんもおはよ〜。」
光が抱く長毛種の茶毛の子猫は、私に喉を撫でられて、上品な金色の目を細めてグルグルと鳴く。
「映画、すごいねえ。」
「ありがとう。」
「仕事は順調?」
「うん、今度また映画に出るの。」
光と話をしながら部屋の奥へ進む。リビングのテーブルにはすでにお茶の用意が整っていた。
「さすがだねぇ。もう私なんて足元にも及ばないや」
「…司はアクション女優志望でしょ。全然畑が違うよ」
「いやいやでもさ〜。光をよく知ってる私でも、あの映画の演技は本当にドキドキしたよ…」
まるで光じゃないみたいだった。
この世を嫌うかのような冷たい眼をした美しい女の子。自分の身体…命さえも切り取って、きまぐれに捨ててしまいそうな危うさ。ふと油断を見せたら刺殺されてしまいそうな――はたまた抱かれてしまいそうな、そんな期待と恐怖を抱かせる、身震いするほどの重厚な雰囲気。
きっと、誰もが光に心を捕らわれる。
「ありがとう。」
そう決まりごとのように微笑んだ光は、どこか他人事のようだった。
「…御幸さんとは連絡とってるの?」
思い切って切り出した話題。光は静かにティーポットを傾け、カップに紅茶を注ぐ。
「全然。」
何でもないような顔をして光は言った。
「…じゃあ、倉持さんとは?」
「…全然。もう連絡先も消した。」
「え…」
なんでそこまで…。1年前、私たちはあんなに仲良しで、いつも一緒にいたのに…。
「そうしないと…また頼っちゃうでしょ。」
光はティーポットを置き、紅茶の入ったカップを一客、私の前にすすめる。
「それでも…いいんじゃないの?それが…あのふたりは、嬉しかったんだよ。」
「だめだよ。そうしたら…期待される。」
「期待って…だって、光、御幸さんも倉持さんも好きだったんでしょ。もっとふたりと向き合って…どっちかを選ぶとか…」
「それは…違うよ。」
光は紅茶に砂糖を混ぜ、その渦巻く水面を見つめた。
「私が…一番好きなのは、ずっと…一也さんだけ。それは変わらない。」
「じゃあ、御幸さんを選べばよかったじゃん。なんで別れちゃうの?」
「…失いたくないから。」
「…え?」
光はカップに口をつける。その些細な動作さえ、計算されたような美しさだ。
「初めて別れた時…この世の終わりみたいに感じた。また会えた時は生き返ったみたいだった。同棲して…幸せだった、けど、傍にいると…いつも苦しい」
「……。」
「…いつか離れていくのが怖いの」
「…離れないよ。御幸さんは光のことが大好きだもん…」
光は口元だけに笑みを浮かべた。
「未来のことはわからないでしょ。蒼井や森田みたいな人は他にもたくさんいる。もう、疲れたの」
「…でも…今は辛くないの?御幸さんと別れて、苦しくなくなった?」
「私は…一也さんが追いかけてきて、引き留めてくれた思い出だけで…生きていける」
なんでそんな悲しいことを言うの?せっかく両想いなのに…
「じゃあ…御幸さんはどうなるの?ニュース…見てるでしょ?光と別れて傷ついてるんだよ。あんなに光のこと愛してるのに…それがなくなったときを勝手に想像して離れて…そんなの…酷いじゃん」
「…そうだよね。」
光はあきらめたように言った。
「でも私…自分が生きていくだけで精いっぱいなの」
そんなの…光らしくない。
「それより…話があったんでしょ。」
それまでの話をなかったことにするような、光の笑顔。私は唇を噛んで、バッグから書類を取り出した。
「……これ。」
光は書類を手に取り、視線を落とす。
「今度の最終戦の始球式登板。光にって話が来てる。」
そしてそれは、御幸さんのチームの試合。御幸さんはこの1年の不調で、今回の試合後、引退も囁かれている。
「…断る。」
光が付き返してきた書類に手をついて、無理やり差し出す。
「断らせない。」
光は驚いたように私を見上げた。こんな風に光を責めるのは…昔、喧嘩した時以来、初めてだ。
「光。私は光の親友だよね?」
「…どうしたの、急に…」
「答えて。」
詰め寄ると、光は戸惑いながら頷いた。
「高校時代からずっと一緒にいたし…私は、光のこと、一番わかってるつもりでいるよ。」
「……。」
「私は…光と御幸さんはずっと一緒にいるべきだと思う。本人たちも心の底ではそう望んでるはずって思ってる。だから、ふたりをまた引き合わせたいの」
「…だから始球式に出ろって?」
「そう。」
「…もう別れたの。会わないって決めたの。」
「なんで?」
「だって会ったら…」
光の目に涙がたまる。
「会ったら、気持ちを自覚して辛いからでしょ?」
「……。」
「光…光には御幸さんが、御幸さんには光が必要なんだよ。それがそんなに悪いことなの?」
「…わからないよ、そんなの。でも…正しいことなら、なんでこんなに辛いの?」
「……。」
やっぱり…光は、これ以上ないくらい御幸さんのことを愛してる。
「一緒にいるから辛いんじゃない。きっと…辛いから一緒にいるんだよ。幸せになるために」
「……。」
光は書類を見つめる。
「でも…もう遅いよ。」
「遅くない。」
「遅いよ…私、酷いことしたし…言ったし…嫌われた。嫌われるようなことをしたの。一也さんは優しいから…自分の逃げ道になっちゃうと思ったから。」
「それは…御幸さんと会って、確かめなよ。」
「……やだよ、怖い。」
「怖くても、やるの!始球式の話、受けて。そしたらもう…私も口を出さない。」
「……。」
光は書類に手を添える。白く細い指先が、無機質な活字をなぞった。
「……わかった。」
「ここのところずっと絶不調だもんなぁ。」
「やっぱあれだろ、玉城光との破局。あの報道からだよな、急に調子崩したの。」
「このまま消えちゃうのかねぇ。」
「…でも玉城光の方は絶好調だよね、映画も大ヒットして主演女優賞ももらって。」
「あのベッドシーン、ほんとはやる予定なかったんでしょ?別れたから解禁になったのかな。」
「案外それが原因の破局だったりしてね〜。だって彼女がベッドシーンやるとか普通に嫌じゃん。」
「でもあの演技、めちゃくちゃ綺麗でドキドキしたぁ。主演女優賞も納得だよ。もう大物女優の仲間入りだよね。」
「御幸一也と玉城光の破局は、玉城光の浮気が原因でしょ?ほら、なんか噂出てたじゃん。」
「野球選手の…倉持洋一だっけ?御幸一也と高校の同級生なんでしょー?すごい三角関係だよね。」
「でも本人たちは否定してるんだよね〜。しかも倉持洋一は『6年間俺の片思いです』って取材に答えたんでしょ?なんかドラマみたーい。」
「でもさ、最近御幸一也と倉持洋一険悪みたいだし、絶対何かあったよね〜。」
…電車内で私はキャップを深くかぶり、俯く。世間はずっと、彼らの噂で持ち切りだ。
駅に着き、電車を降りて、私は白い大きなマンションを目指す。エントランスのモニターで番号を打ち込み、ドアが開錠されると、警備員も控えているロビーへ入っていって、ソファやコーヒーテーブル、毎日変えられる花が活けられた花瓶が並ぶ歓談スペースを横目にエレベーターホールに入る。…いつ来てもすごいマンションだ。まあ、それだけセキュリティのお厳重さを重視する著名人やお金持ちの人が集まっているのだけど。
エレベーターに乗り、またナンバーを押して認証をもらい、エレベーターはやっと上昇していく。滑らかな機械音を聴きながら鏡を眺めていると、チン、と上品な鐘の音が鳴って、目的のフロアに到着した。
ここはワンフロアにつき1部屋しかなく、この階はすべて…契約者である光の部屋だ。
「司、いらっしゃい。」
エレベーターの音を聞きつけたのか、光が猫を抱いてやってきた。
「おはよう光。ミーちゃんもおはよ〜。」
光が抱く長毛種の茶毛の子猫は、私に喉を撫でられて、上品な金色の目を細めてグルグルと鳴く。
「映画、すごいねえ。」
「ありがとう。」
「仕事は順調?」
「うん、今度また映画に出るの。」
光と話をしながら部屋の奥へ進む。リビングのテーブルにはすでにお茶の用意が整っていた。
「さすがだねぇ。もう私なんて足元にも及ばないや」
「…司はアクション女優志望でしょ。全然畑が違うよ」
「いやいやでもさ〜。光をよく知ってる私でも、あの映画の演技は本当にドキドキしたよ…」
まるで光じゃないみたいだった。
この世を嫌うかのような冷たい眼をした美しい女の子。自分の身体…命さえも切り取って、きまぐれに捨ててしまいそうな危うさ。ふと油断を見せたら刺殺されてしまいそうな――はたまた抱かれてしまいそうな、そんな期待と恐怖を抱かせる、身震いするほどの重厚な雰囲気。
きっと、誰もが光に心を捕らわれる。
「ありがとう。」
そう決まりごとのように微笑んだ光は、どこか他人事のようだった。
「…御幸さんとは連絡とってるの?」
思い切って切り出した話題。光は静かにティーポットを傾け、カップに紅茶を注ぐ。
「全然。」
何でもないような顔をして光は言った。
「…じゃあ、倉持さんとは?」
「…全然。もう連絡先も消した。」
「え…」
なんでそこまで…。1年前、私たちはあんなに仲良しで、いつも一緒にいたのに…。
「そうしないと…また頼っちゃうでしょ。」
光はティーポットを置き、紅茶の入ったカップを一客、私の前にすすめる。
「それでも…いいんじゃないの?それが…あのふたりは、嬉しかったんだよ。」
「だめだよ。そうしたら…期待される。」
「期待って…だって、光、御幸さんも倉持さんも好きだったんでしょ。もっとふたりと向き合って…どっちかを選ぶとか…」
「それは…違うよ。」
光は紅茶に砂糖を混ぜ、その渦巻く水面を見つめた。
「私が…一番好きなのは、ずっと…一也さんだけ。それは変わらない。」
「じゃあ、御幸さんを選べばよかったじゃん。なんで別れちゃうの?」
「…失いたくないから。」
「…え?」
光はカップに口をつける。その些細な動作さえ、計算されたような美しさだ。
「初めて別れた時…この世の終わりみたいに感じた。また会えた時は生き返ったみたいだった。同棲して…幸せだった、けど、傍にいると…いつも苦しい」
「……。」
「…いつか離れていくのが怖いの」
「…離れないよ。御幸さんは光のことが大好きだもん…」
光は口元だけに笑みを浮かべた。
「未来のことはわからないでしょ。蒼井や森田みたいな人は他にもたくさんいる。もう、疲れたの」
「…でも…今は辛くないの?御幸さんと別れて、苦しくなくなった?」
「私は…一也さんが追いかけてきて、引き留めてくれた思い出だけで…生きていける」
なんでそんな悲しいことを言うの?せっかく両想いなのに…
「じゃあ…御幸さんはどうなるの?ニュース…見てるでしょ?光と別れて傷ついてるんだよ。あんなに光のこと愛してるのに…それがなくなったときを勝手に想像して離れて…そんなの…酷いじゃん」
「…そうだよね。」
光はあきらめたように言った。
「でも私…自分が生きていくだけで精いっぱいなの」
そんなの…光らしくない。
「それより…話があったんでしょ。」
それまでの話をなかったことにするような、光の笑顔。私は唇を噛んで、バッグから書類を取り出した。
「……これ。」
光は書類を手に取り、視線を落とす。
「今度の最終戦の始球式登板。光にって話が来てる。」
そしてそれは、御幸さんのチームの試合。御幸さんはこの1年の不調で、今回の試合後、引退も囁かれている。
「…断る。」
光が付き返してきた書類に手をついて、無理やり差し出す。
「断らせない。」
光は驚いたように私を見上げた。こんな風に光を責めるのは…昔、喧嘩した時以来、初めてだ。
「光。私は光の親友だよね?」
「…どうしたの、急に…」
「答えて。」
詰め寄ると、光は戸惑いながら頷いた。
「高校時代からずっと一緒にいたし…私は、光のこと、一番わかってるつもりでいるよ。」
「……。」
「私は…光と御幸さんはずっと一緒にいるべきだと思う。本人たちも心の底ではそう望んでるはずって思ってる。だから、ふたりをまた引き合わせたいの」
「…だから始球式に出ろって?」
「そう。」
「…もう別れたの。会わないって決めたの。」
「なんで?」
「だって会ったら…」
光の目に涙がたまる。
「会ったら、気持ちを自覚して辛いからでしょ?」
「……。」
「光…光には御幸さんが、御幸さんには光が必要なんだよ。それがそんなに悪いことなの?」
「…わからないよ、そんなの。でも…正しいことなら、なんでこんなに辛いの?」
「……。」
やっぱり…光は、これ以上ないくらい御幸さんのことを愛してる。
「一緒にいるから辛いんじゃない。きっと…辛いから一緒にいるんだよ。幸せになるために」
「……。」
光は書類を見つめる。
「でも…もう遅いよ。」
「遅くない。」
「遅いよ…私、酷いことしたし…言ったし…嫌われた。嫌われるようなことをしたの。一也さんは優しいから…自分の逃げ道になっちゃうと思ったから。」
「それは…御幸さんと会って、確かめなよ。」
「……やだよ、怖い。」
「怖くても、やるの!始球式の話、受けて。そしたらもう…私も口を出さない。」
「……。」
光は書類に手を添える。白く細い指先が、無機質な活字をなぞった。
「……わかった。」