目が覚めると、そこは薄暗い部屋だった。
天井も壁も床も木でできており、時折きしんで悲鳴を上げる。ベッドと小さな戸棚だけが置かれたこの狭い部屋に、少女は一人ベッドの上で横たわっていた。見覚えのない景色に戸惑いながら身を起こすと、ゆっくりと持ち上げられるような浮遊感を感じ、また天井の柱がギギィと悲鳴を上げる。…ここは船なのだろうか?振り向くと、そこの壁に小さな丸窓があることに気づいて、外を覗いた。
暗い灰色の空と、灰色の波が踊る海。窓には激しく雨が打ちつけていて、触れた指先が冷えた。

…どうして船に乗っているんだろう?昨日は、いつも通り部屋で眠ったはずなのに…。

嫌な予感に胸をさいなまれながら起き上がり、ベッドから降りる。そうして、なんだか体が窮屈だと思い、見ると、まるでゲームに登場する皮鎧とでも言うべきのようなものを身に着けていた。驚いてしばし呆然とする。こんな服…いつ、どうやって着たんだろう。
少女は自分の身なりを確かめて、わき腹を固定しているベルトや重たい鉄轍のブーツなどを触ってみた。…本物だ。だけど、いったい何がどうなっているんだろう。
戸棚の上の鏡を覗き込む。いつも通りの自分の顔と、見慣れない装備。まるで、ゲームの中に入ってしまったかのような…。いや、そんな馬鹿なことがあるわけない。
そう思って、鏡を見ていて、気が付いた。自分の頭の上に浮かんでいる白いもの。…文字だ。『マリー』と書いてある。マリーは、去年までハマっていたソーシャルゲームで使っていたプレイヤーネーム。頭の上に手を伸ばしてみる。…何かがある感触はない。けれど、鏡に映っている自分の手がその名前に触れた直後、ピロン、という電子音が響き、目の前にずらりと文字が浮かび上がった。

NAME:マリー
RANK:1
武器種:片手剣
攻撃:50 防御:50
スキル:無し 耐性:無し 属性:無し

それからよくわからないマークがいくつか並んでいて、緑や赤で染まっている。
これは…自分のステータスだろうか?いよいよゲームみたいになってきたな、と考えて、マリーは心臓が痛いくらいに跳ねはじめた。もし本当に、異世界に来たんだとしたら…こんなにすごいことはない。だけど、元の世界の自分はどうなっているんだろう?家族は心配しているんだろうか…ここで自分は何をすればいいんだろうか…。
考えていると、目の前の文字はふっと消えた。ふと思い立って、部屋のドアを見つめる。まずは、ここがどういう世界なのか確かめなくては。
ドアノブを握って、深呼吸する。もしも危険な世界なら、部屋から出た瞬間に襲われることだってあり得る。マリーはドアノブを捻って、ほんの少しだけ開いた。ギギィ、とドアのネジが軋んで音を立て、薄暗い廊下にこだました。
右を覗き込むと、人影はなかった。少し外に出て、左側を覗き込む。そして…息をのんだ。そこには、自分と同じような皮鎧を来た男が、驚いた顔で立ち尽くしていた。男の頭の上には、アリス、という文字が浮かんでいる。マリーはそれを見て、ふとある人物のことを思い出したけれど、それを振り払った。
それよりも…この人はどういう人物なのだろう。この世界の人なのだろうか?
マリーはアリスと表示されている男を見上げた。襲ってくる様子はなさそうなので、自分も廊下へ出て、男と向き合う。男は中肉中背、顔つきはあっさりとしていてごく普通で、少年のような無邪気さの残る瞳が印象的だった。

「…マリー、さん?」

男はマリーを見つめて遠慮がちに尋ねた。頭の上の名前を見たんだろう。何と言っていいかわからず、マリーは頷いた。

「はい。あなたは…アリス、さんですか?」

男なのにアリスとは変わっている。しかし男は少し戸惑ったものの、はい、と頷いた。

「マリーさん、ここはどこなんですか?」

きっぱりとした質問に、マリーは面食らった。

「…私も知りません。」

戸惑いで愛想笑いの浮かぶ顔で答えると、アリスはちょっとにやりとした。

「もしかしてマリーさんも、気付いたらここに?」
「あ、はい、そうです。」

頷くと、アリスはやっぱり、と人懐こい笑顔で笑った。

「とりあえず、俺以外にも人がいてよかった。」

冗談めかしてそう言うアリスに、マリーはぎこちない笑みを浮かべる。似たような境遇だとしても、マリーにとってアリスは得体の知れない謎の男であることに変わりはなかった。たいしてアリスは、マリーのハッとするほど整った顔立ちとか弱そうな女性らしい容貌、そしてその名前に懐かしさと親近感を覚え、すっかり警戒心が薄れていた。

「とりあえず、一緒に進んでみません?俺、この奥から来たんだけど、こっちには何もなかったから。」

そうはっきりと言われて、マリーは断る理由も思い浮かばず、曖昧に頷いた。
廊下には時々扉があったが、そのどれもがマリーが目覚めたときにいた狭い部屋とそう変わらない何もない部屋で、何の収穫もないまま二人は階段に突き当たった。顔を見合わせ、アリスが先を行く。マリーはその後に続いた。狭い階段をのぼっていくと、ドアがあった。向こう側からは、何やら賑やかな喧騒が聞こえてきて、扉の隙間からは橙の灯りが漏れている。
アリスは躊躇いなくそのドアを開けた。喧騒が大きくなる。そこは広い賑やかな、酒場のような場所だった。テーブル席につきジョッキを傾ける三々五々の人々、酒や食べ物を提供する女たち…。アリスとマリーが戸惑って立ち尽くしていると、酒場の中央庭を造るように集まっていた男女が振り向いて、そのうちのひとりの女が、あっと鼻にかかった声を上げた。

「マリーちゃんとアリスも来たんだぁ〜〜!!」

その女の頭上に浮かんでいる文字は、『ゆみちん』。その隣の男は『おるるん』、その隣は『真』…。マリーもアリスもその名前にはすべて覚えがあった。

「また元ギルメン!?」
「しかも引退済みの二人…なんなんだろうね、ほんと」

おるるんとさくやんが呟く。アリスとマリーはその輪に迎えられると、何となく状況を察した。

「…もしかして空の騎士団メンバーが皆ここに来てるの?」

アリスが言うと、真が口を開く。

「いや、全員じゃないね。多分、解散時の、主力メンバーだけだ。」
「……。」

アリスは考え込むように俯いて、隣のマリーを見つめた。

「…何?」

ずっと見つめられて怪訝そうにアリスを見上げるマリー。アリスは真顔のまま答えた。

「マリーさんが想像以上に美人で驚いてる。」
「……。」

マリーは不愉快そうに眉を顰めて顔を背けた。

「アリスは相変わらずマリーちゃんラブだね〜」
「っていうか、その姿でアリスって名前だと違和感ヤバイよ」

むーがからかうように言って、おるるんが茶化した。

「名前はしょうがないじゃん…」

アリスは不服気に呟き、マリーを気にしたようにちらちらと視線を送る。

「ちょっと、マリーさんってリアルでも愛想無いの?」
「…うざい」

マリーは鬱陶しそうに言って、ゆみちんの隣へ移動した。

「おいおい、仲良くしろよ。」

真は昔の口癖のようなセリフを言って、皆を見渡した。

「まさかこんな形でオフ会をする事になるとは思わなかったけど、俺は皆に会えて嬉しい。」
「オフ会って言うか、オン会じゃないですか?ここ現実じゃないでしょ、多分。」

仕切り直したまことに、おるるんが突っ込みを入れる。

「そういえばここって何なんだろうね?空の騎士団のみんなが集まったけど、青騎士の世界じゃなさそうだし。」

むーが周りを見渡して言うと、ぽつりと静かな声が返ってきた。

「多分、モンハンの世界だと思う。」

そう言ったのはマリーだった。

「それだ!」

おるるんが同意した。

「何か見たことあると思ったんだよなー。ここ、最初のムービーで出てくる船の中でしょ、多分。」
「そうなんだ…。あたし、モンハンしたことないからわかんないなぁ。」

ゆみちんが口元に人差し指をあてて言った。

「怪獣とかと戦うんでしょ?こわい…。」

深く考えずに呟いたのだろうが、その言葉で全員が黙り込んだ。確かに、あのモンスターたちと生身で戦うなんて到底無理だ。想像がつかない。序盤の雑魚的ですら倒せるかどうか…。もし死んだらどうなるんだろうか。死ぬまで行かずとも、怪我を負ったら?どこまでがゲームで、どこからが現実なのか。何もわからなかった。

「ゲームの通りなら、この後モンスターに船を襲われるんだっけ?」
「えっ!?そうなの…?」

むーが口を開くと、ゆみちんは不安げに顔をゆがめる。

「そうそう。なんていったっけ、あれ…。」
「ゾラ・マグダラオス。」

さくやんの呟きに、マリーが小さく答える。

「そうだ、ゾラ・マグダラオス。確かそいつの上を這って進んだ記憶があります。」

おるるんが頷いた。

「え?どういうモンスターなの?」

訊ねたのは真だ。

「火山みたいなやつで…超デカくて、背中の上を歩けるんです。」
「……想像がつかない。」
「とにかく、今船の中にいる以上、私たちは何もできないし…適当に過ごしてるしかないよね?」

あっさりとした態度でむーが言って、傍の椅子に腰を下ろした。

「呑気だな〜」

おるるんはそう言いながらも同じテーブルに着く。

「まあ、そのとおりだよね。」
「うう…こわいよう。」
「とにかくみんなはぐれないようにしよう。みょん、こっち来い。」
「……。」

皆が固まって席に着くと、余ったマリーとアリスは気まずい視線を逸らす。そしてマリーが皆で埋まったテーブルの隣のテーブルにひとりで座ると、アリスはそこに続くべきか迷った。
迷っている矢先、マリーの隣に近づいてきた人物がいた。よく鍛えられ日焼けした躰に白い歯がまぶしい大柄な男だ。頭上には、『力自慢の推薦組』と表示されている。

「こんちは!君も推薦組?」

突然隣に馴れ馴れしく座ってきた男に、マリーはちょっと眉を顰めた。

「こらこら、いきなり馴れ馴れしいぞ。」

その男の向かい側に、もう一人男がやってきて、大柄な男を窘める。その男は眼鏡をかけた、細身だが筋肉質のインテリ系の風貌で、頭上には『知的な推薦組』と表示されている。

「…NPCですかね。」

成り行きを見ていたおるるんが呟く。NPCは個人名でなく、こうした特徴を捉えたネーミングがされるのも、このゲームの特徴の一つだ。

「ははは、ごめんごめん。さっきから君の事見ててさ、ちょっと気になってたんだ。」
「……。」

男の軽口に迷惑そうに顔を顰めるマリー。ナンパだ、とひそひそ盛り上がる隣のテーブル。

「俺たち、推薦組のパートナーなんだ。君のパートナーはどこにいるんだ?」

ガタン、とマリーの向かいの椅子が鳴り、男がどかりと腰を下ろした。憮然とした顔でそこに座ったアリスを、マリーは睨むように見つめた。

「私です。」

アリスが男に応えると、男はちょっと苦笑して、乗り出していた身を起こした。

「そうなんだ。」
「……。」

あくまでマリーは頷かない。そのテーブルに生まれた緊張感を、隣のテーブルの面々は固唾を飲んで見守る。

「そうだ!新大陸に着いたら、一緒に探索に出ませんか?ちょうど4人だし…同じ6期団として、仲良くしましょうよ。」

男が挑戦的な目で申し出ると、アリスは何かを答えようとした。しかしそれより先に、マリーが席を立った。そして無言のまま、船室を出て行ってしまう。

「ダメだって。」

アリスが嘲笑交じりに言いのこし、マリーの後に続いて船室を出て行った。残された二人は顔を見合わせ、ばつが悪そうに沈黙した。

「…あのふたり、喧嘩でもしてるのかな?」

むーが呟くと、テーブルの面々は顔を見合わせる。

「なんか、マリーちゃん、アリスに当たりきつくない?」
「いつもあんな感じじゃなかった?」

おるるんが答えるが、むーは首を傾げる。

「あそこまでじゃなかったよー。」
「そうかなぁ…?わりと毒舌じゃないですか?」
「いつもクールだもんね。」

さくやんが宥めるような相槌を打ち、場を落ち着かせる。

「どうせアリスさんがマリーちゃんにセクハラでもしたんだろ。」

真がわかったように呟いたが、全員異を唱えようとしたのを飲みこんで、しばし黙り込んだ。

「引退した後で、何かあったのかなぁ?」
「確かに、引退するときは仲良かったもんね。」
「ラブラブだったよねぇ。」
「さっきみたいにナンパから庇うくらいだから、アリスは相変わらずみたいだけど…」
「マリーさんがアリスを嫌ってるってこと?」
「……。」
「……。」

一同視線を巡らせて、ちょっと笑みを浮かべる。

「…まさか〜。」
「うん、ツンデレなんだよきっと。」

わははと笑って、全員が呑気にお喋りを始めた。

 


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