読み切り短編集

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いる……。

私は崖の岩肌に背をぴったりとつけて、息を殺した。頭上は木で覆われていて薄暗い。
それでも気配だけは感じ取れるものだ。左手の大きく湾曲した木々のあたり、正面の大木の根元あたり、そして背面の崖の上……。ほとんど囲まれてしまった。この森に逃げ込んだのは間違いだったかもしれない。

私は音をたてないように注意深く、腰に提げた矢筒から矢を引き抜き、弓にあてがった。弓を引き、キリキリとうなる矢先を頭上に向ける。ときどき、ひょっこりと覗く黒い人影は、しばらく崖の下に視線を巡らして、また引っ込んでしまう。私はちょうど崖に突き出た雑木に隠れる位置にいて、相手からは見えない。ゆっくりと呼吸して、また人影が崖下を覗くのを待った。

――今だ。

ピッ、と指先から矢が離れる。矢は一直線に雑木を抜け、人影に刺さった――ように見えた。悲鳴は聞こえなかった。ただ、バキバキと木の枝が折れ、ザワザワと葉が落ち、ドサリと鈍い音を腐葉土が飲みこんだ。矢は命中したらしい。私はそっと、落ちた死体がピクリとも動かないのを確かめると、岩場をたどって崖を登り始めた。
辺りの気配が騒がしくなっている。仲間がやられたことに気づくのも時間の問題だ。崖はそう高くなく、私はすぐに登り切って、地べたに寝そべって崖下の者たちから身を隠した。この崖に登ってしまえばあとはこっちのものだ。私はすぐに次の矢をつがえる。
木々の影から、2人、いや3人の人影が現れ、死体に駆け寄っていく。馬鹿な。格好の的だ。
私は息をするように立て続けに矢を放った。2人、脳天に命中しすぐに倒れたが、3人目は高所からの襲撃に感づいて岩陰に逃げようとしたので、咄嗟に足を打った。躓いて転んだその背中に2本、追撃した。

私は他に気配がないことを確かめ、立ち上がった。また岩場をたどって森へ降り、4つの死体に近づく。矢をすべて回収し、彼らをよく見ると、身なりは普通の商人のような格好だった。いつもの変装だ。彼らの荷物をあさると、食料が少々、他には武器に塗るための毒や拷問用のナイフと釘とペンチがあった。どう見ても普通の商人ではない。私は毒瓶を拝借し、他に何かないか探した。するとあっさり、一人の服の中から、怪しい羊皮紙を見つけた。
他にはなにもないことを確認し、彼らの死体を岩場へ運んで、盗賊に襲われて崖から転落したように見せかけた。
それから自分の足跡や痕跡を消し、私はまた崖に登り、歩き出した。ここから西へ2刻ほど歩けば、港町があるはずだ。

「お嬢さん、忘れ物だよ。」

はっとして振り返った。いつの間にか、背後に白いローブを着た男が立っていた。男は食えぬ微笑みを浮かべ、差し出した掌に矢を一本握っている。使った矢はすべて回収したはずだ。それに、男が持っている矢は確かに私の物だが、一つの汚れもなく新しい。おそらく、私の矢筒から抜き取ったものだ。
私が矢を引き抜き、弓につがえて素早く構えると、男は笑みを深くした。

「落ち着け。わたしは敵ではない。」

男は一切怯む様子もなく、私にずかずかと歩み寄る。すぐに矢を男の顔面目掛けて放ったが、地面から氷の壁が伸びてその矢をはじいた。

「敵ではないと言っておるだろう。」

男は呆れた様子で言うと、その弾いた矢も拾って、2本の矢を私に差し出した。私はその矢を素早く奪い取る。

「警戒しておるのう。野良猫のようだ。」

若いのに老人のような話し方をする男だった。私は矢を矢筒に収め、弓も仕舞った。しかし手の中に納まるほどの短刀をこっそりと隠し持ち、決して男に隙は見せなかった。
男は見たところ紋章使いで、老人のように杖をついている。非力だろうし、咄嗟に殺傷力のある術は使えないだろう。接近戦に慣れている私の方に分がある。
男は堂々と歩いて来て、不敵な笑みを浮かべている。もう少し。もう少しで間合いに入る。よし――

――え!?
突き出そうとした手がピクリとも動かない。見ると、地面から突き出た氷柱に手首から先がまるまると飲みこまれている。まずい、どうして、いつの間に。紋章を発動している気配すらなかったのに。私は手を引っ張ったり、氷柱を左手の短刀の柄で叩いたりして、何とか逃れようともがく。しかしあっけなく、男に左腕を掴まれてしまった。

「離せ!」

叫びながら足を蹴り上げ――ようとして、愕然とした。次の瞬間には両足が氷づけにされ、私はすっかり地面に縫い付けられてしまった。男を睨みつけると、男は楽しげに笑っていた。

「話を聞く気になったかのう?」
「……。」
「わたしはシメオン。おぬしは、『鍵の番人』だな?興味深い、生きているうちに会えるとは。わたしと共に来てもらうぞ。」
「どこへ……!」
「ついてからのお楽しみ、だ。」

そう言うと同時に、シメオンはスイッと右手を振り上げた。直後、視界が真っ白に覆われた。

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