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「お嬢様、おかえりなさいませ。」
「…ただいま…。」

夕方、日が落ちる頃、屋敷に光が帰ってきた。今日は出かけていたのだが、兄貴が出張を終えて帰ってくることになり、呼び戻されたのだろう。今日は屋敷に兄貴が帰ってくると使用人から聞かされた時、きっと光にも連絡が行っているんだろうと思った。

「お目当ての御本は見つけられましたか?」
「ううん…なかった。」
「お申し付けくだされば手配いたしますのに。」
「いいの。お店に行くのが好きだから」

探している本がある、と言って昼前に出かけて行った光。多分それは嘘だろうな、と思った。
けれどそんなことはどうでもいい。この屋敷に俺と二人でいるのは息が詰まるのだろうし、勝手に言い訳を作って外へ気晴らしに行けばいいと思った。

「……。」

光は窓辺で本を読む俺を見て、緊張した面持ちで俯いて横を通り過ぎる。俺の気に障るのを恐れているのだ。

…あの男とは、続いているんだろうか。あの、明らかに住む世界の違う男。
そのせいで光が、余計に傷つくようなことが無ければ、いいのだが。



***



「光も光臣も、明日から寮に戻ってしまうのか。」

寂しいな、と白々しく言う兄貴を前に、愛想を言う気も起きなかった。

「光は、今日は出かけていたんだって?」
「…はい」

緊張した面持ちで頷く光。

「どこへ行って来たんだ?」
「…本屋に」
「目当てのものは見つかったか?」
「…いえ」
「ふうん」

光の声が微かに聞こえるせいで、兄貴の声が癇に障るほど大きく聴こえて、俺は眉を寄せた。

「しかし一人で出かけるなんて。危ないじゃないか?」
「光お嬢様はお静かに過ごされるのがお好きですから」

ね、と光と特に付き合いの長いメイド長がなだめるように言った。

「俺は美しい婚約者が心配なんだ。」
「……。」
「自分の宝石には誰にも触れてほしくないからな。」

グラスを手に取った光の手がわずかに震えた。

「傷でもつけられたら堪らん。」

青ざめる顔で、グラスに何とか口をつけて、水を飲みこむ光。しかし次の瞬間、口元を抑えて俯いた。

「お嬢様?どうされましたか?」
「光?」

「具合が悪いなら部屋へ行けって。こっちまで気分が悪くなるんだよ」

「…お嬢様、お部屋でお休みになってください。」

不躾に言い放つと、メイド長は俺を恐ろしげに見つめて、光を庇うように連れ出して行った。兄貴はまた俺の我儘かと呆れたようにため息を吐いたが、特に咎めることはしなかった。
メイド長はしばらくすると食堂に戻ってきて、給仕に加わった。

「光はまた体調が優れないのか?まだ寮には戻らずにしばらく学校は休んで、まだ屋敷にいたほうが良いんじゃないのか?」

兄貴が良い事を思いついたような顔で言うと、メイド長はちょっと顔をひきつらせた。

「…お嬢様は…ご学友にお会いになられるのを心待ちにしておりますし…」
「心が弱いせいだよ。どうせ学校に戻って家のあれやこれから解放されればけろっとするだろ。」

俺は彼女を罵る言葉がこうもすらすらと流れるこの口を恐ろしく思った。しかし同時に感謝もした。自分は随分方便が上手くなったものだ。
彼女のグラスに盛った吐き気を催す薬は数時間でほとんど効果が切れる。明日の朝にはピンピンしているはずだ。

「そう単純ならいいけどな。」

兄貴はそう涼しく装いながらも、内心穏やかでないことを俺は知っている。今夜あわよくば光を抱こうとしていたのだ、この男は。しかし光が伏せっていれば、いくら兄貴でも手は出せまい。だいいち、体調の悪い女の部屋に、メイド長が男を入れることを許すわけがない。

「明日、お元気に学校に戻られるよう、今夜はしっかりとお休みいただきます。」
「ああ、そうしてくれ。」

兄貴が頷くと、メイド長は安堵したように深くお辞儀した。



***



「お嬢様のご様子は?」
「落ち着いたわ。でも、旦那様たちには黙っておきましょう。」

そうよね、と囁く声が聞こえる。メイドたちの話し声だ。

「ハーブティーと、少し果物を持って行って差し上げて。夕食はほとんど戻してしまわれたから」
「わかりました。」
「いちじくと…ぶどうがあったかしら。あまり食欲はないみたい。」
「もともと食が細くていらっしゃるから。それに、あんな食卓では食欲も出ないでしょう…」
「本当に…お嬢様がおかわいそうだわ。明日お元気になられて、学校の寮へお戻りになられればいいのだけど」
「お嬢様は早くお戻りになりたいでしょうね。」
「そうよね。」

「…そもそも、あんな器量のいい、優しいお嬢様が、あの旦那様と結婚するだなんて…」
「高校を卒業したらすぐですってね。どこにも逃げ場はないのよ。」
「お嬢様なら素敵な男性との出会いもあるでしょうに。お年頃なのに自由に恋もできないなんて…」
「ご両親はお嬢様に関心がなさそうですものね。旦那様の思うままよ。」
「でも旦那様って、お嬢様より一回りも年上でいらっしゃるのよ。よくも婚約だなんて…」
「しっ。誰かに聞こえたらどうするの…。」
「……。」

「…もし旦那様がいなくなられたら…」
「滅多な事を言うんじゃないわよ。」
「でも、そうでしょう?それしかお嬢様が自由になる術はないのよ。」
「だめよ、どうせ…旦那様がいなくなられても、次の光臣様が婚約者になるだけのことだわ。あんな旦那様だけど、いちおう、お嬢様のことを好いてるだけましよ。あの暴君の光臣様と結婚なんてことになってごらんなさい。お嬢様はもっとご不幸なことになられるわよ…」

「……。」

少し噂話が過ぎるな。兄貴に聞かれたら面倒だ。
俺はグラスを落とし、わざともの音を立てて、メイドたちが駆け付ける足音を背にバルコニーを出た。
今頃、人気のない割れたグラスが散ったバルコニーを見て蒼白しているはずだ。これで、少しは噂話も自重するだろう…。

それに、そうなったとき、俺と光が結婚だなんてことにはならない。
それでは彼女が不幸になるのだから。

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