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あの猫かぶり男…光臣からおかしな誘いの電話があった翌日、俺は学校と部活を終えて夕食をとった後、走りに行くふりをして駅へと向かった。駅前のよくわからないモニュメントの前に、光臣は前と変わらぬ仏頂面で立っていた。
ここは光ともよく待ち合わせる場所で、俺は変な気分で光臣に歩み寄った。
「ういーす、来たぞ」
「……。」
光臣の目が上から下まで俺を見定める。
「何だよ。」
「これに着替えてくれ。」
「はい?」
「そこのトイレで。ほら、さっさと来い」
光臣は俺に紙袋を突き出して、すたすたと歩き出した。ほんっと…えらそーな奴…。それにしても、光と言いこいつと言い、玉城家の奴らはいつも突拍子のないことを言って周りを振り回すのか?
トイレの個室に入って紙袋を開くと、それは白栄の男子用制服だった。袖のラインは一本。光臣の予備だろうか。ったく、なんで俺がこんな…。
文句を言いたくなりながらシャツにそでを通し、ジャケットを羽織り、ズボンを履き替えて、しばし固まる。…この袖、どうなってんだ?襟も…。あとこの、よくわからない紐……。………。
俺は個室のドアを少し開け、手洗い場で腕組をして立っている光臣を手招きした。
「これどーやって着んの?」
「……。」
光臣は軽蔑するように俺を一瞥し、手際よく袖口と襟を締め、飾り紐を整えた。
「情けない…」
ぼそっと刺された言葉は聞こえなかったフリをした。
***
「ここだ。」
「え………」
光臣は鉄格子の扉に手をかけて開きながら言った。ここが家…って…。俺は巨大な煉瓦の塀を見上げて呆然とする。ここはうちの学校でも一体どんな奴が住んでいるんだろうと噂になっている、『謎の城』だ。そう、城だ。家じゃない。この塀の向こうに見える、広大な庭園のさらにまた向こうに垣間見える、煉瓦造りの巨大な建造物は、決して民家などではなく貴族が住む城だ。
「早く来い。」
ははは…、とよくわからない声を零しながら、俺は光臣に連れられて、花が咲き乱れる庭園を進んだ。光臣は広い道を横目に細い石畳の道を進み、正面の玄関ではなく裏口のようなドアを開けた。さっき入った門も、おそらく正門ではない。こうも敷地が広いと、いちいち正面に回るのも面倒なのかもしれない。
ドアの先は倉庫のような場所で、そこを抜けると厨房だった。ちょうど後片付けをしていた初老の女がちょっと目を丸くして光臣と俺を見た。
「あら?…光臣様、おかえりなさいませ。」
「ああ。」
「今夜は屋敷にお泊りで?ご友人様も?」
「すぐ帰るから構わなくていい。」
光臣を追いかけるような視線を向ける女に、光臣は鬱陶しそうに振り向きもせず答えて、歩みを緩めることなく厨房を通り抜けた。俺はぺこりと会釈をするだけにとどめ、とにかく下手な行動をしないように努めた。
「頭なんか下げるな。使用人に。変だと思われるだろ。」
「……。」
しかしそれもまずかったらしかった。
つーか、こんな大豪邸のお嬢様なのか、光…。時々変わったこと言うけど、なんとなく腑に落ちた。映画館に行ったことがなかったのもそうだし、時折見せる世間知らずな無邪気さも…。
「光臣。」
階段の下に差し掛かった時、その階段を降りてきた男がこちらに目を止めて声をかけてきた。
「珍しいな、友達を連れてくるなんて。」
光臣に似ている…。だが、かなり年上だとわかる。もしかしてコイツが光臣の兄貴…光の婚約者?高価そうなスーツを着こなし、シャープな印象で、光臣より笑顔が皮肉めいている。愛想笑いは光臣の方が上手いらしい、とこの間のテレビを思い出してこっそり笑いそうになった。
「学校の課題でちょっとね…」
「ふっ…学生の本分だな。頑張れよ。」
男は光臣と俺にあまり気分の良く無い笑みを残し、階段を降りて廊下の奥に進んでいった。
「今のが兄貴だよ。」
そして光の婚約者…。素っ気なく言って階段を上がり始める光臣の後を、俺は慌てて追いかけた。
階段を上がって廊下を奥まで進み、光臣はドアを開けて部屋の中に俺を招き入れた。ここは光臣の部屋らしい。…寮の食堂より広い…。しかしここにくるまでの、西洋の貴族の屋敷のような内装とは変わって、この部屋はいくらか現代的でモダンな壁紙や家具で整っていた。光臣の趣味なのだろう。それでも高級感は溢れているけど、あきらかな高級調度品や家具が並んでいたさっきまでよりは落ち着く。
光臣は窓辺に背を持たれて、腕を組んで俺を見た。
「それで…」
聞きたいことがある、って言ってたっけ、とぼんやり思い出しながら、俺は口を開く光臣に向き合って立ったまま言葉のつづきを待った。
「もうあいつとヤッた?」
そしてその質問を真正面から受けとめ、予想をはるかに超えてきた質問内容に意表をつかれ、頬の筋肉が引きつるのを感じた。
「はっ?」
恐らく変な笑顔になっている俺の顔を、光臣はぴくりとも動揺しない涼しい顔で見ている。
「どうなんだよ。さっさと答えろ」
「…何でお前にそんなこと言わなきゃならないんだよ。」
「……。」
光臣はじっと俺の顔を観察して、呆れたように窓の外に視線を背けてため息を吐いた。
「まだか。半年も付き合ってるのに。童貞。」
「はあ!?お前そろそろいい加減にしろよ…」
「さっさとヤればいいのに。そのつもりで付き合ったんだろ?」
「……」
俺は光臣に一気に歩み寄り、胸ぐらをつかんだ。怒りで頭の中が震え、熱くなる目で光臣の目を睨みつけているのに、光臣は顔色一つ変えずに俺を見つめ返したまま黙っていた。
「盛ってんじゃねーよ…俺らはそんな理由で付き合ってるわけじゃねーんだよ」
「じゃあ何で付き合ってるんだよ。ボランティアのつもりか?自由に恋もできない女に同情して、せめて恋愛気分を味わせてやろうって?見上げた自己犠牲精神だな。」
「お前にはわかんねーよ、一生な」
そのまま胸元をどついて光臣から手を離した。光臣は服のしわを直し、居直った。
「用が終わったなら帰る」
「まあそうキレるなよ…今は部屋から出るな。」
「知るか、もう電話してくんなよ。俺たちに構うな。」
「光が帰ってきた。」
ドアノブに掛けた手を止めて、ぎょっとして光臣を振り返った。
「だから今は部屋から出るな。鉢合わせたいのか?」
「…今日はいないって言っただろ!」
「兄貴が呼んだらしい。よくあるんだよ。」
焦りもにじませずに用意されたいたようなセリフを言う光臣に、俺は疑いの目を向けた。知ってたんじゃないのかと…もしくは、帰ってきたというのが俺を引き留めるための嘘とか?もう光臣への信用は地に落ちている。
「こっちに来い。」
光臣は窓の隣の扉を開けてバルコニーへ出て行った。俺はまだ怒りを振り払いきれていなかったが、当てつけのように鼻を鳴らしてしぶしぶついて行った。
「あそこだ」
光臣が視線で指した先には、確かに光がいた。制服姿で、庭園の外灯の傍のベンチに座っている。そこへ使用人がテーブルやお茶を並べ、あたりを整えると、お辞儀をして屋敷に戻って行った。光は一人残されて、ベンチに座っていた。そこでじっとしていると、光は、お茶のセットやベンチや花々で飾られた場所に一緒に飾られた人形のようだった。
光はお茶を飲むでもなく、花をめでている様子もなく、本当にただじっとくうを見つめて座っている。
「…何してるんだ?」
「すぐわかるよ」
光臣は手すりに頬杖をついて、まるで退屈な映画でも観るように姿勢を崩した。
するとしばらくして、屋敷から一人の男が出てきた。光臣の兄貴だ。着替えたのだろうか、さっきまでのスーツではなく、いくらかリラックスしたシャツにズボン姿で、それでも高級感が漂っている。
彼は光のもとに歩み寄って、その隣に座った。光は少し俯いて、肩を竦めた。
「ほら」
光臣がイヤホンを差し出してきた。独立型のワイヤレスで小型。また高そうな、最新式の…。
これで音楽でも聴こうという事なのか、またよくわからない奴だな…と訝しみながら、俺はイヤホンを受け取る。
「何?なんか聴くの?」
「ああ。盗聴だ。」
「……は?」
「学校はどうだ?楽しいか?」
「はい」
右耳につけたイヤホンから声が聞こえてくる。恐らく光臣の兄貴の声…と、これは間違いなく光の声だ。
信じられない顔で光臣を見ると、光臣はもう片方のイヤホンを左耳に着け、相変わらず涼しい顔で眼下の二人の姿を眺めていた。
「仲のいい友達ができたんだろう?この間言っていたよな。」
「…寮の同室の…桜子と…一緒にクラス委員をしている、司です。」
「そうそう、藤堂家の次女と、鷹野家の一人娘だったな。どちらも由緒ある家系だし、藤堂家はうちとも古い付き合いだ。仲良くしろよ。」
「はい。」
……変な会話…。金持ちはそんなふうに友人まで吟味されなきゃならないのか。
光の浮かない沈んだ声が耳の奥に響き、胸が痛くなった。俺といるときとはまるで別人だ。俺が知っている光は、もっと明るくて、奔放で、我儘で…無邪気な子だ。
「男とは付き合いがあるのか?」
「いいえ、全く…」
「本当に?生徒会ではお前が紅一点だろう?」
「…光臣がいますから。他に話す必要もありません。皆、私が尊光さんの婚約者であることも知っていますし、気を使ってくださいます」
光は説得でもするような、宥めるような物言いで言った。恐れているようにさえ聞こえた。相手は、満足げに微かな笑い声を零した。
「そうか、いい友人たちに囲まれているんだな。」
「……。」
「ということは、しっかり守ってくれているんだね。」
「……。」
「俺の為に、貞操を。」
息をのんで、一瞬頭が真っ白になった。尊光は、腕をベンチの背に伸ばして、光の背の後ろに回した。背中を丸めてじっとしている光は、まるで捕えられた小動物のように見えた。
「女はそうでなくてはな。」
「……。」
「今日は体調は?大丈夫か?」
「…大丈夫です」
「確かに昨日は顔色が悪かったが、今日はよくなったな。安心したよ。」
尊光の手の甲が光の頬を撫で、光は肩を竦めたまま身じろぎ一つせずに黙っていた。震えているように見えた。
「はは。恥ずかしがることはない。俺は嬉しいよ…昨日君がようやく、れっきとした大人の女性になったんだからね」
「……?」
何を気持ち悪い事を言ってるんだ、と訳が分からず光臣を見ると、光臣は俺の視線を感じたのか、ちらりと俺を一瞥し、またベンチに視線を戻して呟いた。
「昨日、光に初潮がきたんだよ」
「…しょ…」
しょちょう…?
「月経と言えばわかるか?」
「……。」
それってつまり……セーリ?
「…はあぁ!?何そんなこと…何で…あいつ気持ちワリィ!!」
「ロリコンにデリカシーなんてあるかよ。」
「な……」
光臣は諦めたような毒舌を吐き、忌々しげに兄貴を睨んでいる。その敵意むき出しの態度に、俺はまたこいつがよくわからなくなった。光に対して攻撃的になったかと思えば、兄貴のことも憎んでいるように見えるし…光臣の思惑がよくわからない。俺を今日ここに呼んで、これを見せている理由も…。
「光。もう子供じゃないんだから、昨日家に泊まるように言った意味は分かっているね?」
尊光は光の手を撫でながら、ぞっとするほどの猫なで声で言った。
「……。」
光の沈黙が流れ、光臣は急に踵を返し、黙って部屋を出て行った。俺はそのまま残って、二人の様子を窺いながらイヤホンの音声に耳を傾けた。
「来週の週末はどうだ?」
「…え…」
来週の週末…。三つ隣の駅のそばの本屋へ、一緒に行く約束をしていた。
「……来週…は…」
光の声が震え、泣いてしまったのかと胸が急いた。今ここで光の名前を呼んだら、一体どんな顔で俺を見上げるだろう。少なくとも一瞬は彼女を守れる。でも、そのあとは?俺は何て言う?付き合ってるって言うのか?婚約者相手に…しかも奴の家に乗り込んだ形で。何も知らない俺が、光の人生をめちゃくちゃにしてしまうかもしれないのに、婚約者から光を奪う?何が彼女を守るだ、本当の意味で守るために、どうすればいいかもわからないのに。
「兄貴。」
そのときイヤホンから、それまでとはちがう第三者の声がしたので驚いて、俺はベンチの方を見た。いつの間にか光臣が屋敷から出て、そこに向かって歩いていた。
「光臣…何だ?」
尊光は食事を邪魔された獣のように不機嫌を露わにし、光臣を振り向いた。
「まずいことになった。ちょっと来てくれないか。」
「……。」
何の話だかわからないが、ともかく光臣の言葉を聞いて、尊光はしぶしぶ光を離して立ち上がった。兄弟は連れ立って屋敷に入って行き、光がベンチに残された。
光はしばらくじっとしていたが、やがて俯いて、自分の手を擦り始めた。小さな手の甲を。尊光が撫でていた場所を…。
ごしごし、ごしごしと、遠目にも痛めつけているのがわかるほど乱暴に、必死に、手の甲を何度もぬぐって、やがて両手で顔を覆って俯いた。肩が少し震え、泣いているんだとわかった。
今すぐ行って、抱きしめたい。そうしたら少しは笑ってくれるだろうか。
知らなかった。光が家でこんな目に遭っていたなんて。婚約者があんな奴だなんて。家に帰りたくないと泣いた理由も…。
俺はしばらく泣いている光を見つめていたが、やがてひとりの中年女性の使用人が駆け付けるようにやってきて、光の肩を慰めるように抱き、屋敷に連れて入って行くのを見送って、部屋の中に戻った。
部屋のソファに勝手ながら座っていると、光臣が部屋に戻ってきた。その顔を見て俺はぎょっとした。
「ど…どうしたんだそれ?」
光臣の左頬は腫れ、しかし本人は涼しい顔で氷嚢を当てて舌打ちした。
「兄貴に殴られた。」
「な、なんで…」
「ヘマをした…ということにした。」
「はあ?」
「わからなくていい。とにかく、邪魔をするにはこうするしかなかったんだ」
邪魔…って…。それってつまり…。
「…光を守るために?」
光臣は答えなかったが、俺を睨んでいた目を憎々しげに逸らしたのが答えだった。
「…お前…どういう…」
一体誰の味方なんだ?何をしようとしてる?何のために俺を呼んだんだ…?
疑問は尽きない。光臣は沈黙を貫く…かと思ったが、急に俺に向き直って、真っ直ぐに俺を見つめてきた。今度は睨んでいない。
「真実を誰かに教えるのは初めてだ」
「え…?」
「だが、お前には小細工は通用しないようだから、正攻法でいく」
「な、何?」
光臣は氷嚢を置き、その場に膝をついた。
「な、何だよ…」
そして戸惑う俺に、深く深く――頭を下げた。
「光を…幸せにしてください」
その言葉に俺は目を丸くするだけでなく、呼吸をする事も忘れた。
「あなたに抱かれたら、光も幸せだと思う」
「……。」
「光は、あなたの前でしか笑わないから…」
光臣の豹変ぶりにやっと頭が追いついてきたとともに、こいつの可哀そうなまでに健気な演技にもやっと気が付いた。わざと…演じていたんだ。光のことも兄貴のことも恨む、生意気で残酷な人間を…。
「光のこと、本当に好きだろ?」
「…それは…そりゃ、そうだけど…」
「そうだよな。光を嫌いになる奴なんていない…」
「……。」
自分も…光臣も、光のことが好きなんじゃないのか?
俺は豹変した光臣を前に、そんな推理をし始めていた。
「光のこと、幸せにしてやって。」
「幸せにって…」
言われても…。
「兄貴のことは俺が何とかする。」
「え?」
「そうなれば、光は俺と婚約することになると思う。」
「…は…?」
「でも、それは心配しないでくれ。俺は拒否する。ずっと光を嫌った態度をとってきたから、自然だと思う。光も、俺に拒まれれば家を出ると思うんだ」
「な…、え…?」
「光は玉城家に固執しなくてもやっていける。家を出るべきだ。こんな家…彼女にふさわしくないんだ」
光臣はそこまで言って、喋りすぎたと後悔するように口を噤んだ。
「……。…だから、そうなったら何も気にしなくていい。あなたと一緒になれる」
「……へ…」
一緒に…って…
「…それって…け、結婚するってこと?俺達まだ高校生だぞ!?」
「別にすぐにじゃなくていい。彼女が望んだときで。それとも、真剣に交際する気はないって言うのか?」
「いや…、そうじゃないけど…」
光臣は急にまた俺を睨みつけた。確信した…こいつ、光に並々ならぬ愛情を抱いている…。
「なら問題ないだろ。」
「問題…っつーかさ…お前、光のこと好き…なんだろ?好きだよな、絶対?」
「だったら何?」
開き直りやがった…。
「じゃあ光に辛く当たらなくていいのに。光の為にお前がしたこと知ったら、あいつ喜ぶと思うけど…」
「俺がしたこと?俺がしたことをお前が知ってるのか?」
「…具体的には知らないけど…光の為にいろいろ立ち回ってたんだろ?」
盗聴とか…。それは言わなくていいな、確かに。
「俺がしたことなんて彼女が知る必要ない。お前もな。」
「……?」
「そんなことより彼女が幸せになる事が一番だ。光が好きなのは、お前だ」
それだって、なりゆきみたいなもんだけど…。
光は、もっとちゃんといろんな人と関わって、広い世界に出れば…それこそ引く手あまただ。俺にこだわらなくても…
「…光も部屋に戻っただろうし、今のうちに帰れ。」
光臣はそう言って、部屋のドアに向かった。それからまた一緒に駅まで行って、着替えて制服を返し、俺は一人悶々としながら帰途についた。
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