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『先輩?明日のことだけど、11時にいつもの場所でいいよね?』
「……。」

光との約束の日の前日。いつもどおり光から電話が来てそう訊かれて、俺は先週の事を思い出していた。

「ああ…うん」
『どうかした?』
「…いや…。…明日…大丈夫なの?光は」
『え?約束してたじゃん。あー、まさか先輩忘れてた?』
「忘れてねーけど…」

婚約者に言われてたのは…断れたんだろうか。それとも光臣が何かした?

『ほんとに?もー、私なんて明日のためにずっと…』
「…?」
『…勉強とか、ずっと頑張ってたんだからね!』

…先週のことが無ければ…この言葉に、こんなに胸が痛くなる事はなかった。ずっと気付けずに、我儘だなぁと苦笑いして、振り回される自分にあきれながら、それでもまんざらでもなく、はいはい、って笑ってたんだ。

「…会いたかったよ…俺も」

そう呟くと、電話の向こうでちょっと息をのむ気配がした。

『先輩どうしたの?そんな風に言うなんて珍しい…』
「……。…いいジャン別に…」
『あっ照れてる?ふふふふふ、可愛い〜』
「…コラ。」

急に恥ずかしくなって小さく抗議の言葉を零すと、光は更に楽しげに笑った。
当たり前だと思ってた…光がこんなふうに笑うのも、からかうのも。だけど、あの家では光は…ずっと俯いて、我慢して、あの男に…。

『先輩?』
「あっ…、えっと、何?」
『だからぁ、そろそろ点呼だから切るねって。大丈夫?』
「あぁはいはい、だいじょーぶ…」
『なんか疲れてる?忙しい?』
「いや、大丈夫だよ。ごめんごめん。」

光に心配されながら電話を終えた。
…また、どうすればいいかもわからないまま…光のために何ができるか、必死に探してる自分がいる…。



***



「せんぱーい」

翌日、待ち合わせより10分早く駅前に着いたのに、光は既にモニュメントの前に立っていて、俺を見つけると嬉しそうに笑顔で手を振ってきた。俺は駆け足になって彼女に駆け寄り、頭を掻いた。

「ごめん。」
「手つないでくれたら許してあげる。」

はいっ、と差し出された華奢な手を見て、俺は切なさやらもどかしさやらくるしいほどの愛おしさが込み上げて泣きそうになりながら、いつもみたいにはははと笑って見せて、その手を握った。
どんな思いで…光は…我儘な風を装って、無邪気に振る舞って…

「電車電車〜」
「切符買うんだぞ。」
「わかってるよ!いつまでもバカにしてー…」
「はっはっは」

光は最初、電車の乗り方もおぼつかず、券売機にも戸惑っていた。最近はようやく慣れてきたけど…まだ券売機に一人で向かうのは不安らしく、一緒について来てとねだる。
切符を買って二人で電車に乗り込んで、昨日の夕食は何だったとか授業でこんなことがあったとかとりとめのない話をして、すぐに目的の駅に着いた。休日の下り線はそれほど混んでおらず、人もまばらな駅構内を抜けて、俺たちは駅前にあるカフェ併設の大型書店に入った。

「小説ってあまり好きじゃないの」

授業で使う課題図書の一覧を持って、光は文庫小説の棚を見つめながら言った。

「なんで?」

意外だ。読書は好きなんだと思っていた。よく本の話をするから。

「だって、結局作り話だから」

身も蓋もないけど、それは確かにそうだ。そういう理由は俺も何となく理解できる。

「あ、あった。」

光は分厚い本を手に取って、一覧と照らし合わせた。

「それって何の本?」
「スイスの政治観点からの歴史書。」
「…へ、へぇ…読むの大変そうだな」
「もう家で読んだことあるから、軽く見るだけだけど。」
「え?じゃあ2冊目?」
「家にあるのは従弟のだから。授業で使うし、私も自分のを買わないと…」

それって…光臣?それとも…婚約者の方?

「買ってくるね。」

光はいつも通りの笑顔で言って、踵を返してレジカウンターへと向かった。
カバーをかけるか聞かれ、笑顔で首を横に振った光に、今度は紙袋を二重にすることを申し出る店員。この本重たいから、と笑顔で袋を重ねる店員に、光は今度こそありがとうございますと申し出を受け入れた。
それからはにかむような笑顔で俺の所へ戻ってくると、腕を絡ませて嬉しそうに歩き出した。

「ミルクティー飲みたい!」
「1階のカフェ行くか。」

光はいつも通り明るいけど、無理をしてるのか…どう思っているんだろう。あれからまた、家に帰ることはあったんだろうか。あんなふうに、嫌な目に遭う事が…

二人でカフェに入って、カウンターで注文をして奥の席に座り、すぐに飲み物が運ばれてきて、光はミルクティーに砂糖をいれた。俺はアイスレモンティーを無意味にカラカラ混ぜながら、光の細かな動作を眺めて、なぜかまた泣きそうになってきた。

「…そういえば、」

誤魔化すように俺は口を開いた。

「なんだっけ、学校の行事で軽井沢に行ったって」
「あ、うん。修養会。」
「どんなことするの?」
「ふつーのキャンプみたいな感じだよ。テニスしたり、サイクリングしたり、皆で食事したり。」
「楽しそうだな。」
「楽しかったよ。司…友達がね、三日目の演劇発表で王子様の役やったんだけど」

それから光は友達との楽しい話を打ち明け、ころころと無邪気に笑った。俺もつられるように笑って、それからやっぱりどうしようもなく悲しくなった。光が笑えば笑うほど苦しい。俺に隠している姿を知ってしまったから。何とかしたいと思ってしまうほど、彼女のことを好きになっていたことが、今さら押し寄せる波のように何度も何度も自覚するから…

そのとき、俺の携帯電話が鳴った。

「電話?」
「あぁ…」

誰だろう、と呟きながら、倉持か、沢村か、もしかしたら…と考えを巡らせつつ、携帯電話をポケットから取り出す。
『玉城光臣』そこにはそう書かれていた。

「出たら?」

ミルクティーをかき混ぜながら言う光をちらりと見、また携帯に視線を落とす。…光の前で出ない方がいいよな?なんでこんなときにかけてきたんだ、あいつ…。
電話はしつこく鳴っている。そんなに大事な用なのか…?

「…ごめん、ちょっと、そこで話してくる」
「うん」

光にカフェスペースの入り口を指して告げて、俺は席を立った。柱の傍に行って電話を開く。

「もしもし?」
『今、光と一緒にいるか?』

前置きなく用件を伝えてくる光臣。俺は店内の奥の席にいる光の背中を見る。

「いるけど…?」
『…そうか。わかった。じゃあ』
「ちょっと待て!何だよ。理由くらい説明しなさい。」
『…兄貴が光と連絡がつかないと騒ぐから。俺もかけてみたけど、屋敷の電話からかけても出なくて…でも無事ならいいんだ。』
「え?…光、電話なんて鳴ってないけど…」

そう言いながら、そういえば今日、光が携帯電話を出しているところを見てないなと思った。いつもは携帯電話で撮った友達との写真とか、見せてくるのに…。

『……。』

光臣はしばらく考えるように黙って、しかし落ち着いた声で話し始めた。

『…光を頼む。こっちのことは気にしなくていいから』
「え?おい」

プツン、と電話が切れた。気にしなくていいって言われても…。
俺はまた、光の方を見た。光はちょうど俺の方を振り向いて、電話が終わったことを知って、ニコニコと手を振ってきた。
電話の電源を切ってる…のか?わざと?家からの電話に出ないために…?いや、まさか…。
…なんのために?だってそんなことしたら…

「友達?」

席に戻った俺に尋ねる光に、ああ、と曖昧に頷いて、手持ち無沙汰にコーヒーフレッシュの蓋を開けた。

「それ、入れるの?レモンティーに」
「あ……。」

…そうだった。何してんだ、俺…。

「もー、何してるの?」

光は可笑しそうに笑って、窓の外に目をやった。

「このあと、どうしよっか。」
「あぁ…」

いつもなら、あれしたい、とか、ここ行きたい、とか、光がすぐに言うのだけど、今の光は黙ったままだった。だけど考えている風もなく、ただ頬杖をついて外の景色を眺めていた。

「行きたいところ…ある?」

そう尋ねてみると、光はティーカップに手を添えて、うーん、とつぶやいた。

「…わかんない」

ちょっとどうでもよさそうに呟いて、こつ、と指先がテーブルを小突いた。

「…なあ、その、さっき言ってた修養会のさ、写真見せてよ。どんなだったか。」

そうだと思いつき、俺はそう頼んでみた。しかし光はテーブルの上を小突いた指先のあたりを見つめたまま言った。

「…携帯、忘れちゃったの。今日」

嘘だ、と直感で思った。用意していたような答えだとも。だとすれば、やっぱり、光は故意に光臣たちからの連絡を拒絶している。

「そー…なんだ」

訊いてもいいものだろうか。あぁ、なんで俺は光のことになるとこんなに憶病なんだ。こんなの、もし倉持に言われたら、いや嘘だろ、何言ってんだお前、って簡単に言えるのに。嘘ヘタクソすぎるぞ、って。なのに…
…こわいんだ。もし取り返しがつかなくなったら。自分の力ではどうしようもないところに直面したら。…光が泣いてしまったら。

それから俺たちは紅茶を飲み干して、行く当てもなく本屋を出た。
適当に歩こう。
光はそう言ったきり、じっと何かを考えこんでいるように黙ったまま、俺の腕に掴まって歩き続けていた。

「……一也先輩…」

急に、光が立ち止まって、俺も足を止めた。

「ん?」

隣の光を見ると、光はうるんだ目で…消えかかった幻影でも追いかけているような、縋るような目で俺を見上げていて、俺は息を飲んだ。

「お願いがあるの…」
「…お願い?」

きっと並々ならぬことじゃない。光の涙で揺れる目がそれを証明している。

「聞いてくれる?」

光自身、まるで秘密を打ち明けるように、慎重にそう尋ねた。

「…お願いって?」

そう尋ね返しながら、俺は半分くらい、予想がついていた。

「……。」

光は必死に言葉を選んでいるようだった。明言を避けるというよりは、気持ちを上手く言葉にできずに苦戦しているように見えた。

「…今日だけ…私を攫って。」
「…え?」
「どこかに連れて行って。誰もいないところに」
「……。」
「それで…。…貰って。私のこと、全部」
「……どういう…」
「今日しかだめなの…!」

縋るように俺の腕につかまって、光は涙を流すまいと堪えた目で訴えた。

「…意味…わかるよね?」

今日…光は婚約者に、家に呼ばれていたんだ。それをすっぽかして、ここに来たんだ…。
俺はやっと理解して、慌てた。光は今日、自分がどうにかなることを覚悟してここへ来た。俺がちっぽけな覚悟すら迷っている間に…。

「…お願い…」




***




ラブホテルに入るのは抵抗があった。それでも俺たちはうつ向いて、受付の前を通って、不慣れな機械で何とか鍵を買い、気が付けば大きなベッドがある部屋に入っていた。
ラブホに…光と…。何してんだ俺…。大切な光をこんなところで抱くのか?しかも、初めてなのに…いやそれよりも、上手くやれるのか?俺だって初めてで、女の体なんて生で見たこともない。知識はAVだけ。光は処女…だし、女の初めてって痛いらしいって聞いたことあるけど……あぁもうどうすれば…!!

「……。」

光も息を飲んで、緊張したような面持ちでじっと部屋の中を見つめていて、奥に進もうとしない。いつもませたことを言っているくせに、きっと、まだ心の準備なんてできていないんだ。だけど彼女の中では、アイツか、俺か…そのどちらかしかない。

「…大丈夫?」

自分に聞いたのか、光に聞いたのか、自分でもわからなかった。

「…う…うん」

けれど頷いた光と、ぎこちなく視線を交わして、二人でひとまずベッドに座った。
…俺の方からするべき…だよな。まず…何だ、キス?

「……。」

いよいよ実感がわいてきたのか、顔を赤くしたまま俯いてじっとしている光に遠慮がちに手を伸ばし、頬にかかっている髪をそっとどかした。…人形みたいだ。ずっと見ていたくなる横顔も、滑らかな白い肌も、柔らかく俺の手の甲をくすぐる長い髪も。まるで人間に好きなようにいじくりまわされるのを、沈黙して耐えている人形――

「…ま、まって」

光が言って、俺は手を引っ込めた。

「…しゃ…シャワー…シャワー浴びてくる」
「あ…、わ、わかった」

光は逃げるように立ち上がって、バスルームに入って行った。俺は長く長く息を吐きながら、ベッドの上で脱力して寝転がった。
…まさか今日、こんなことになるなんて…。
俺は今頃寮でゲームでもしているんだろう倉持や、その倉持にパシリでもさせられているんだろう沢村や、他にも久々のオフを満喫している部員たちの様子を思いうかべて、そのあまりに自分の状況とかけ離れた平穏な日常に居心地の悪い気分になって、すぐにかき消した。

…あ、そうだ、コンドーム!

急に思いついて、俺はすぐに起き上がった。もちろん俺は持っていない。どうする、今から買ってくるか?ホテルで買えねーのかな、受付とかで…いや明らかに未成年の俺が受付に声かけづらい。あ、いや、こういうホテルは部屋に備えられてるって誰か言ってた…!
俺はすぐにベッドの周りを探して、またすぐにサイドボードに置かれた小さな籠の中に小さな袋を見つけた。…ほ、ほんとにあった…。
こんなの、授業で教えられた時には、周りの男たちとふざけ合っていて真面目に聞いていなかった。どうしよ、今ひとつ開けてみるか?つけ方も慣れてないし、光の前でもたつくのはカッコ悪い…。けど開けたらひとつ減る。当たり前だけど。でもどんなもんか確かめておかないといざというとき…。サイズも心配だし…って今勃起してないから無駄か、あー、どうしよ、うーん…

シャーー…

突然シャワーの音が聞こえてきて、俺は飛び上がった。そうか、光、シャワー浴びてるんだ。そうだ。
……ってことは、今、あのドアの向こうで光は裸…
そんな邪なことを考えながらバスルームの方を見ると、なんと、横の壁に細く切り込まれたすりガラスの窓越しに、ぼんやりと華奢なシルエットが浮かび上がっていることに気付いて、俺はぎょっとした。み…見えてる!見えてないけど!見えてる!ああもう自分が何言ってんのかわかんねー!!

……細い…。白い…。…そしてあの膨らみ…男の自分とは全然違う…全然違う……。

…って、何覗いてんだ俺…!
急に罪悪感に駆られて、俺は目を背けた。だけど…これから、実際に見るんだ。お互いに…。
…俺もシャワー浴びたほうが良いな。

10分ほどシャワーの音に耐えて、しばらくした後、バスルームのドアが開く音に身を竦めた。…何ビビってんだ俺…しっかりしろ!
ゆっくりと振り向くと、光はバスローブ姿で立っていた。目が合うと恥ずかしそうに逸らし、所在なさ気にバスローブの帯を弄りながら唇を舐めた。

「俺も…シャワー浴びてくる」
「あ…、うん…」

そう言って俺が立ち上がると、光はほんの少し安堵したように俺を見上げた。
光と入れ替えにバスルームに入って、洗面台の鏡に向かった。…変な顔…戸惑った顔。困惑した顔。でもまんざらでもない顔…。だって、そうだよ、男なら誰だって…こんな状況、願ったり叶ったり…なのに…。
本当に良いのか…?してしまったら、もう引き返せない気がする…引き返してはいけない。引き返したくもない。
俺は、光を守っていく覚悟があるのか?それができるのか?

水を出して、眼鏡をはずして、一思いに顔を洗った。少し気分がすっきりして頭が冴えた。
大丈夫。俺は光が好きで、光も…。だから、光の為にできる最善のことなんだ。ここで俺が拒否したら、光はあの男に…だから、俺が貰う。彼女の初めてを。せめて彼女にとって不幸な思い出にならないように、優しく…ひとときでも幸せを感じられるように…優しく、優しく、…優しくして…。…それで…。

…とにかくシャワーを浴びよう。

シャツを脱いで置く場所を探して目を巡らせて、ぎくりとした。洗面台の後ろの棚の上に、薄手のニットとスカートが綺麗に畳まれて置いてあった。当たり前だ。さっき、光もシャワーを浴びたのだから。その服が綺麗に畳まれている割に不自然に膨らんでいて、俺はばくばくと脈打つ心音に罪悪感を誤魔化しながら、そっと服を捲った。
…白いレースのブラジャーが、畳まれて服に隠されるように置いてあった。

ブラジャー…。光の…。さっきまで、つけていた…、という事は、今光は、あのバスローブの下に何もつけていないわけで…いや下は履いてるか…ってそうじゃなくて、今目の前にあるこれは…これは…

うわ、最悪だ、勃った…

ズボンと下着を脱いで、光の服の隣にそっと置き、シャワールームに駆け込んだ。すりガラスを避けるように背中を向け、シャワーの音でごまかすように湯を流しながら、俺は熱くなったそれをしごいた。まあ、本番前に一発ヌいといたほうがいいし…さっさと済ませよう。
けれど咄嗟に思い浮かんだおかずが、さっきガラス越しにぼんやりと見えた光の裸のシルエットで、それをかき消すと今度は、今目撃してしまったあの白いブラジャーが浮かんできて…。光をそんな目で見るなんて、と変な背徳感に襲われる。これから本番をしようとしているというのに。それに、俺たちは高校生で、もう半年も付き合っていて、周りにももう経験済みの奴も少なからずいるし、行為に及ぶのは珍しくもなんともないこと…。
なのにこんなに躊躇うのは…俺の中で婚約者の存在が引っ掛かっているから?婚約者がどんな奴なのか、光がどれほど嫌悪感を抱いているのか、今の俺は知っている。光が望むんだから、行為をすればいい…してしまえばいい…そう囁く邪な気持ちもある…。したくないわけがない。でも、どうしても割り切れない思いが残る。
どうしてもこれが最善だとは思えない。光が幸せになるとは…。

熱を吐き出して、虚しい気持ちになって、浴びるようにシャワーで流し、シャワールームを出た。下着だけ履いてバスローブに着替え、眼鏡をかけてこっそりと深呼吸をして、部屋のドアを開けた。

光はベッドの端に座って、膝の上で落ち着かない様子で手を弄んでいた。俺を振り返って、いよいよ追いつめられたような顔で、どうしようと迷うような目を逸らし、俯いた。俺が隣に行って座ると、華奢な肩が丸まった。

「…光、本当にいいのか?」

大丈夫なようには見えなかった。俺に怯えるような態度をとる光に少なからず傷ついたけど、それよりも憐れむような気持ちの方が勝った。どういう提案をすれば光が心から安堵して「そうしたい」と言うのかを、俺は未だに考えていた。

「…して、もらうのに…変な言い方だけど…一也先輩のこと、好きだから」
「……。」
「大丈夫…」

自分に言い聞かせるように痛々しく言う光に、俺はもう何が正しいのか、善と悪の境界のようなものがめちゃくちゃになって、わからなくなった。

「そういう言い方、やめろよ。俺だって…」
「……。」
「光のこと、好きだから。してもらうとか…そんな風に言うな」

俺を不安げに見上げた目がうるんで、伏せられた瞬間、きらりと光る粒が落ちて、シーツの上に消えた。

「……っ」

泣き出した光の、涙で濡れている長いまつげを見つめ、背中に腕を回して軽く引き寄せると、光は従うように俺の方へ持たれてきた。
少しの間抱きしめて、肩の震えが落ち着いてきたのを見計らって、ゆっくり顔を近づけた。まだ、キスだって初めてしたばかり…。半年付き合ってそれって、やっぱ遅いのかな。けど、付き合っている期間は長くても、なかなか会う時間はないし…それに、半年なんて驚くほど短い。あっという間だ。…本当にあっという間。
柔らかな唇に一瞬触れた。光の真っ赤な顔が眼前にある。唇に触れる吐息が甘く、俺は誘われるようにまた唇を重ねた。

「……。」

光の微かな吐息の音と、自分の心音と、シーツが擦れる音と、唇が重なるたびに鳴る甘い音。キスを重ねるごとに、次はもう少し先へと、更に深いキスをしながら、俺は焦れてきてひとおもいに光を押し倒した。

「あ…っ」

驚いたように小さく声を上げて仰向けに倒れた光が、目を丸くして俺を見上げて、緊張に身を固めたのがわかった。目の前の俺に戸惑ってか、これから先にされることを警戒してか、いつの間にか掴んでいた細い腕が、一瞬抵抗するようにぐっと力を込めた。そこで俺はやっとしまったと思って、咄嗟に手を離した。
…これじゃ襲ってるじゃん…。落ち着け、俺…。
腕を解放された光は、それでもまだ逃げ損ねた小動物のように組み敷かれた格好のまま、無防備に横たわって目を彷徨わせた。
あんなに積極的な事を言っていたけど、いざとなると光は、これから起こることを恐れるように身構えて、だけどもう失うものなんてないとでも言うかのように、諦めたような表情で沈黙し続けた。

……違う……。

俺といるときの光は…もっと、楽しそうで…幸せそうで…
あれがしたいとか、こうしてほしいとか、素直で我儘で、無邪気で奔放で、真っ直ぐに俺を見つめて、その目は大好きだと全霊で訴えていて、俺はそんな光の表情がたまらなく好きで、胸が苦しくなるほど、光の笑顔は愛おしくて…

だから、違う。こんなふうに俺から目を逸らして、怯えて、恐れながらも覚悟するなんて、そんなこと…。俺は光にそんなことをさせたいわけじゃない。

『光は、あなたの前でしか笑わないから…』

光臣の言葉が脳裏によみがえって、俺は身を起こした。

「…やめよう」

そう呟いた俺を、光はようやく見上げた。

「え…?」

そして青ざめて起き上がり、俺を見つめた。

「無理にする事じゃない。こんなこと…」
「……。」

光の唇が戸惑うように震えた。わかってる。光にとったら、そんな事を言ってる場合じゃない。

「俺はお前に、幸せになってほしい。幸せでいてほしい。だから、嫌なことは嫌って言えよ。結婚だって…」
「……。」
「それで助けが必要になったら、俺を頼れ。何でもするから。光が幸せになるためなら、なんだってするから」
「……。」
「でもこれは違う。こんなことしても幸せになんてなれない。俺はずっとお前と一緒にいたいんだよ。こんなことの為じゃなくて…」
「……。」
「…今日、俺がお前を抱いたら、そのあと、どうするつもりだった?」

ぽろっ、と光の目から涙が一粒零れ落ちた。電話の電源を切っていること。今日しかないと訴えたこと。光が今日、なんらかの覚悟をしてここへ来たことは明らかだ。

「…ごめんなさい…。」

光は涙に声を震わせながら呟いて、蹲った。嗚咽を零す彼女の背中を抱き寄せ、髪を撫でて、甘い香りを嗅いだ。疼く胸に蓋をして、俺は鼻を啜った。

「…着替えて、少し休んで…どこか行こう。別の所に。な?」
「……。」
「映画でも観るか?それか、甘いものでも食べに行くとか…」
「……。」

こくん、と胸元で頭が小さく頷いて、俺は安堵した。

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