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「…光?」
着替えを終えて部屋に戻ると、そこに光の姿はなかった。光は先に脱衣所で着替えて、俺が着替える間、部屋で待っているはずだった。
見るとハンドバッグもない。ただ、さっき本屋で買ったあの分厚い本は、紙袋に入ったままゴミ箱に押し込まれていた。
嫌な胸騒ぎがして、紙袋を引っ張り出し、他に何かないか部屋の中を見渡した。するとベッドの上にぽつんと置かれた小さな紙を見つけた。ちょうど、俺が光に初めて出会った日、渡されたあの手帳の切れ端のような…。
ごめんなさい。
さようなら。
頭が真っ白になった。なんだこれ…?どういう意味?どうして?
なんだよ、ごめんなさいって。さよならって…。どういう意味だよ…!!
電話をかけて、やっぱり出ないかとじれったく舌打ちして、俺は部屋を飛び出した。まだそう遠くには行ってないはずだ。
どうして本を捨てて行ったのか、それを考えると嫌な予感がした。月曜日からの授業で使うからと購入したばかりの本…。それを捨てていくなんて…まるで、もう学校に行く気が無いような…、必要が無くなったとでも言うかのような…。いや、やめろ、考えるな。とにかく今は光を探すんだ。
ホテルの前の通りは人通りが少ない。しかしぱっと見ても、光らしき人物の姿は見つからなかった。どこに行ったんだ、光…。普通に考えると駅?でも…
「さっきの子、泣いてなかった?」
「ね!思った〜。どうしたんだろう」
通りすがりの女子高生たちの会話を漏れ聞いて、まさかと思った。
「てかめっちゃ可愛くてびっくりしたわ〜」
「それね!芸能人かと思った、モデルかな?」
「ありえる〜。でもなんで泣いてたんだろ…」
「あの、すみません!」
もう何も構ってられない。俺は思い切って女子高生たちを呼び止めた。きょとんと振り返った二人組の女子に、俺自身戸惑いながら尋ねた。
「その子、どっちに行きました!?」
「えっ…?」
二人は怪しむように俺を見て、顔を見合わせて、ぎこちない苦笑で道の先を示した。
「あっちですけど…」
「ありがとうございます!」
やだー、ナンパ?いや彼氏じゃない?喧嘩したとか?などと噂する女子高生たちに背を向けて、俺は駆け出した。
彼女たちが言った道に折れると、そこは飲み屋街だった。陽が暮れ始めて、店を開けた居酒屋の店員たちが、大きなメニューボードを携えて客を招こうと歩道に出てきている。
「あの、泣いてる女の子見ませんでしたか?」
いつもなら避けて歩く彼らに、俺は進んで声をかけに行った。カモがねぎしょってやって来た、とでも思っていたらしい店員の若い男は、予想外の質問に、へ?と目を丸くした。
「いや知らないっすね。泣いてるって?」
「…白っぽい服で、金に近い長い髪で…」
もどかしく説明しながら、もう断って走って探したほうが早いかと思い始めた時、傍で聞いていた別の店の呼び込みの男がやって来た。
「俺その子見ましたよ。」
「え…どこに行きました!?」
「つーか、泣いてたんで、声かけたんすよ。可愛かったし…、でもそのまま歩いてあっちの方に行っちゃいました。橋の方。なに、おにーさんの彼女?」
「そうです。」
俺は頷いて、おお、と目を丸くする彼らに頭を下げて、橋に向かって駆け出した。
橋を渡り、自然公園と川沿いの道と商店街の入り口が見えて、そこで公園から出てきた親子や通りかかったサラリーマンに尋ねまわって、途方に暮れた。
ダメもとでもう一度電話をかけたけど、やっぱり出なかった。焦りがどうしようもなく膨れ上がって怒りにすら思えた。なんでこんなこと…。どうしてどこまでも悲観的なんだ!突然俺の世界に入り込んできて、散々引っ掻き回して、それで、こんなに、こんなにかけがえのない存在になって…そして今度は突然いなくなるなんて…。
絶対に嫌だ。許さない。そんなこと。
…サイレンが聞こえる。
「えーマジ?」
「人身事故だって…」
遠くに見える赤いランプ。駅の方角だ。俺は呆然としたまま駆けだした。
「いつまで遅延するんだよー」
「飛び込んだ瞬間、見た人がいるんだって」
「うわー、ブルーシートで覆われてる」
「やばくね?電車の中の奴ら見えるじゃん」
「飛び込んだの、女の子らしいよ…」
カシャン、と足元に携帯電話が落ちて、手の力だけでなく、全身の力が抜けたのがわかった。そこにへたり込みそうになるのをすんでのところで堪えて、まだ決まったわけじゃない、と言い聞かせる。まだ、光だと決まったわけじゃない。
「高校生くらいの子…」
「自殺?」
「撮ってる奴ありえねー…モラルなさすぎ」
「女子高生が自殺したって」
「え、死んだの?」
「下がってくださーい!!救助中です!下がって!!」
「そこ撮るな!!いいかげんにしろよ!!」
「車内には現在乗り込めません!!近づかないでください!!」
駆け巡る怒声や囁き声やサイレンや電車のきしむ音、シャッター音やせわしない足音。
そのうちのひとつがすぐ後ろに近づいて来て、止まった。
「…先輩。」
その声に魂を引き戻されたかのように、俺は弾かれるように振り返った。
そこに立っている光を見て、俺は…今度こそ脱力してへたり込んだ。
「…よかった」
俺は呟いて、泣きそうになって、蹲って顔を隠した。
「光かと…思った…。…よかった〜〜…」
あーもう、もう、と情けなくため息を繰り返す俺を、多分光はじっと見つめていた。
「…私の少し前にいたの…あの子」
俺が光を見上げると、光は前方を見上げたところだった。
「制服の子で…ラケットを持ってて…普通の、女子高生だった。部活帰りみたいな」
「……。」
「普通の…。…あの子みたいに、普通の女子高生だったら…」
「……。」
「…普通に、もっと自由に、幸せになれるんだろうなって…だから、あの子…いいなぁって…」
「……。」
「…思ってたの…。」
「……。」
「…そうしたら…あの子が……踏み出した…。電車が来て…」
俺は立ち上がって、光の隣に立って、救助活動を囲っているブルーシートを見つめた。そして手探りでそっと、光の手に指を絡め、繋ぎ止めるように繋いだ。
…光が無事でよかった…。
言葉にはしなかったけど、その思いが胸を占めた。
***
いつもの最寄り駅について、俺たちは待ち合わせたモニュメントの前まで戻ってきた。この駅で降りるという事は、光は今日は寮でなく、あの屋敷に帰るつもりなんだ…。何も知らないことになっている俺は、それを尋ねるべきかどうか迷った。
「…じゃあ」
気を付けて、といつもなら言う。すると光が重たい口を開いた。
「…先輩、」
胸には本屋の紙袋を抱いている。
「…ん?」
「……わ…」
泣き出しそうに震える唇が動いて、いやな予感が過った。
「…別れ、…別れよう、もう」
躊躇いながら、絞り出すように、光が言った。
「…なんで?」
「……明日…」
明日…?
「私…誕生日なの」
「え…。」
やべ、そういえば知らなかった。って、俺の誕生日も過ぎてるけど。
「ごめん、うっかり…」
「…そうじゃなくて…」
「…?」
「…16歳に…なるの」
…あ…、ってことは…。
「…結婚、できるようになる」
一言一言、一音一音、光は重たく苦しそうに言葉を繋いだ。
「明日…、婚姻届を出すって、婚約者が…」
「……。」
「……言ったの」
だから…、と消え入りそうな声で言う光の目元から、ぽたっ、とまた涙がこぼれた。今日は泣かせてばかりだ。笑っててほしいのに…
「…だから、別れてください」
「……。」
「私の…我儘、きいてくれて、ありがとう」
それですべて終わったかのように、光はお辞儀をして、踵を返した。
…今日しかないって…そういう意味…。
歩いていく光のか弱い背中を呆然と立ち尽くしたまま眺めて、俺は、手を伸ばして――躊躇って、下ろした。
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